~アズール・アーシェングロットの場合~

 失礼します、と控えめなノックとともに幾分馴染んだ気配が部屋に入ってくる。

「……どうされました?」

「副支配人からそろそろ休憩をとるようにと伝言を頼まれました。紅茶もお持ちしましたがいかがなさいますか?」

「戴きます。アナタも一緒にいかがですか? ユウさん」

 『休憩』はおそらくジェイドからの暗号。確かにそろそろ丁度いい頃合いかもしれない。機は熟した、とは正にこのこと。

「そろそろ休憩に入る時間では? ジェイドには僕から伝えておきます」

「でも、えっと」

「『二人分』紅茶を淹れていただけますか? 先日お客様にいただいた茶菓子もお付けします」

「……お、お代が払えません」

「今ダイエット中なんです。僕の代わりに消費していただく。それを対価として受け取ります」

 コト、とデスクの上にキラキラと目映い装飾のクッキー缶を置く。女性が好みそうなそのデザインに監督生さんの目がキラリと光ったのを目敏く確認する。

「僕が必要なのはこのクッキー缶そのものなんです。中身に用はない。僕の友人にこういったものを好みそうな人がいまして、この缶をプレゼントしたいんですが、苦労してお客様にご用意頂いたのですが、中身を捨ててしまうのは心苦しいでしょう?」

 蓋を開けて中身を見せると、アイシングで着飾ったクッキーたちが顔を覗かせた。

「す、捨てちゃうんですか……? こんなに」

「ええ。アナタが食べないと仰るなら『こんなに高そうで美味しそうなのに』破棄することになります」

 監督生さんの心の家をピタリと言い当てると、監督生さんは面白いほどに顔を歪めて苦悶している。本当にこの学校でよく生き延びられているよな、と呆れつつ、ニコニコと苦しんでいる顔を堪能する。

「……一枚いただいていいですか」

「一枚と言わず何枚でも」

「じゃあグリムにも持って帰っていいですか?」

 恐る恐る笑ってお伺いを立てる様はまるで母親のようだと思いつつ、にこりと笑い返してソファセットへ座るよう促す。

「あとで中身をジェイドかフロイドに包ませましょう。今は必要な分だけ食べてください。たまにはグリムさんに隠れてこっそり美味しいものを独り占めしても、バチは当たりませんよ」

 こっそり美味しいものを食べる瞬間の背徳と至福のマリアージュは、ストイックな生活に大変刺激的だ。その沼に嵌まる人間は一人でも多い方がいい。特に常日頃我慢を強いられている人間はそのギャップの中毒となりやすく、容易に転がり落ちてくる。そしてこの沼は一度嵌まれば深すぎて簡単には抜け出せない。目の前の少女が沼で溺れる様を想像して心のなかで嘲笑った。

 誰も彼も、甘美な誘惑には耐えられない。

 どんなに修行を積んだ聖職者であっても、歴史を掘り起こせば耐え切れず笑い出したくなる愚かな醜態の記録が山のように出てくる。普段にこやかに過ごすこの少女も、欲に塗れた顔で悪魔の誘いに手を伸ばすんだろう。

「最近悩み事があるんじゃないですか?」

 店の喧騒も届かない静かな部屋に、僕の声が歌声のように響く。一級品のソファでクッキーと紅茶を楽しんでいた少女ははっとしたようにこちらを見た。稚魚を怯えさせないように、自分は敵ではないとゆったり笑顔を浮かべて首を傾げる。

「そう……例えば、恋のお悩みとか」

 舌の上で転がせば強過ぎる刺激に痛みすら感じて、更なる救いを求めてまた刺激に身を堕とす。

 引き際を間違えればこちらも痛手を負う可能性は高い。でもうまく加減すれば確実に我々の上顧客となっていただけるのだから間違えてはいけない。そして今目の前にいる幼さの残る少女はこの世界のことを学び始めたばかりの可愛い雛鳥。僕が籠に囲ってしまえば恐ろしいほど美味しい餌が僕の掌に転がり込んでくる可能性もある。これ程のお客様なのだから、丁寧に扱わなくては。

「僕にお手伝いさせてもらえませんか?」

 魔法の呪文を歌うように口にすれば、監督生さんは怯えた目を僕に向けてきゅっと唇を引き結んだ。

 嗚呼、そんなに怯えないで。

 僕はアナタを助けたいと思っただけなんです。

 誰もが見惚れる笑顔を顔に乗せ、穏やかに目を細めた。

「いつもシフトで無理を聞いてもらってますし……お礼に恋の御呪いでも如何ですか?」

「いえ本当に結構ですので! 要りません!」

 自分以外の全てを拒絶するようにギュッと目を瞑った監督生さんは、顔すらも僕から背けてぶんぶんと身振り手振りで拒否を表現した。バカな稚魚ならここで堕ちてくるというのに、ハッキリと抵抗できるのだからこの少女はおもしろい。

「……勿体無いですねぇ。僕の御呪い、結構効くので人気なんですよ」

「それって絶対タダじゃないですよね!」

 絶対払えません! と叫んで監督生さんは震え上がりました。それはまるで稚魚の群れが追い立てられて天敵から逃げ惑っているようで、思わず笑みが溢れました。

「アナタも少しは成長したようです……ですが、まだまだですね。表情に感情が出過ぎです。もっとうまく笑えるようにならなければ」

「ひぃ……ぜ、善処します〜」

 わかりやすく落ち込んだ表情で肩を落とした監督生さんに追加のクッキーを差し出す。

「甘い物でも食べて元気をお出しなさい。この部屋から出るときにそのような情けない顔を曝されては困りますからね」

「うぅ、すみません……でも急にチェックが始まるとは思ってなくてぇ……」

「そこがまだ甘いんですよ。常に身を引き締めておかなくては、世の中喰うか喰われるか、いつだって命を懸けた遣り取りの連続ですよ」

 淡々と指摘を続けると、それは先輩たちだけなんじゃ、とまた顔に出ているのを見咎める。すぐに顔に出てしまう悪癖だけでも直せばもっとマシになるものを、教育は正式に妃として迎え入れてから施すつもりなんだろうか。なんとまぁ気長なものだ、と思わずにはいられないが、そもそも、婚姻自体がまだ認められていないのかもしれない。本人がどう自身を評価しようと国にとっては外交交渉の良い駒であることは間違いなく、それが何処ぞの馬の骨ともわからない異世界の少女に奪われたなんて面子の問題もあるだろう。価値が伴っていない高過ぎるプライドほど面倒なモノはない。目の前に座る年相応にクッキーを頬張る少女も気高き孤高の獅子もその程度の甲斐無さに振り回されて正しく哀れとしか言い様がない。金にならない権力は持つだけ無駄だというお手本を見せつけられているようだ。

「お話だけでも聞きますよ。恋をすると胸が苦しくなるでしょう? 話をして吐き出せば、少しはマシになります」

 慈悲の精神。この哀れな少女にも施しをと声を掛ければ、監督生さんは何か珍しい生き物でも見るような目をして僕を凝視していた。

「……アズール先輩にも、そういう経験がある……んです、ね?」

「……こう見えて僕も高校生ですから。恋に胸を焦がしたとこくらいありますよ」

 失礼な、と一蹴してしまってもよかったのかもしれない。だがこの少女のバカみたいに真っ直ぐな純真さにあてられて、興を削がれてしまった。エペルさんやデュースさんを相手しているのとはまた違う、独特の空気感に呑まれないよう警戒しつつ、適度に冷めた紅茶を口に含んだ。

「……私の世界に、人魚って叶わぬ恋をすると泡になって消えちゃうっていうお話があるんですけど……こちらの世界はどうなんですか?」

 先程までとは違う、好奇心をちらつかせた目が僕を捉える。知りたい、という探究心丸出しの表情に思わず笑みが溢れた。頭の回転は良いこの少女があまりにも無知というギャップがどこまでも面白い。この世界にとっては無知というだけで、彼女の世界であればそのギャップも存在しないのかもしれない。

「……そういうこともあるかもしれませんね。僕ら人魚はヒト属よりも生存競争が激しいですから」

 泡になる、なんて美しく儚い表現で終わらせるなんて、ヒトの考える物語は実に夢物語で素晴らしい。いや、それとも監督生さんの世界だけが平和ボケしていて、そんな生易しい表現になってしまうのかもしれない。

「結ばれないということは、どなたかに奪われたということでしょうから。ちなみに泡の色を伺っても?」

 光が届かない深く暗い海の底でもその色とわかる鮮やかな赤色を思い浮かべる。想い人と結ばれないというのだから、相応のことが起きているのは容易に想像できる。正直、生臭いあのニオイは好きじゃない。自分の手を汚すのも得にはならない。どうせなら自分に見えないところで全て片付いているのが美しい。そもそもそこら辺の雄に負けること自体、僕には想像できない。

 僕の話が意図するところを察知したのか、監督生さんは顔を青褪めさせていた。どうされました? とにこやかに笑い掛ければ、監督生さんはぶるりと震えて大丈夫です、と自身を抱き締めるように腕を掴んだ。

「こわいこと聞いちゃった……」

「ホラ、また顔に全部出ています。アナタは強かなクセに素直過ぎるのが良くない。いつか足元を掬われてしまいますよ」

「うぅ……顔に出ちゃうのはもう仕方ないです……生まれつきなんです……」

「そんな生まれつきがあって堪りますか。何事も訓練です。ここで働く間はしっかり訓練してもらいますよ!」

「き、厳しい……スパルタだ……」

「リドルさんよりマシでしょう! それにこれはアナタの為でもあるんです。もっと強かに生きなければ、望みを叶えるなら何でもするくらいの気概で頑張りなさい」

 全く、と呆れると、監督生さんはきょとんとして首を傾げている。本当にどこまで能天気なんだ、と呆れを通り越して感心すらしてしまう。どこまで届くかわからないものの、切り捨ててしまうには勿体無い餌に向けて小言を続けた。

「もっと欲深くなられてもいいんじゃないですか? お相手は一国の王子です。欲しいものを強請るでもよし、地位と権力を望むもよし。アナタの恋のお相手はそういう方です」

 ダラダラと怠惰に過ごしているとはいえ、彼が持っているものは他の何者にも代え難い、それこそなかなかお金では買えない代物と言っていい。まぁ、あの国もこれからの外交次第では、彼を『売りに出す』という選択を取るかもしれないが。

 おそらく身の振り方を慎重に見極めているのだろうとは思うけれど、流石のレオナ先輩も一人でどうこうできるものではないのかもしれない。是非とも喜んで協力させていただきたいけれど、僕もどちら側につくのか見極めるための時間が欲しい。どちらにせよ、国を相手取っての取引となれば準備も相応にしなければ。どちら側に立つことになったとしても、おそらく有利な交渉材料となる監督生さんはしっかりと手懐けて僕の領域内に飼っておきたい。この少女の後ろ盾、または隠れ蓑に自分が選ばれれば、これ以上の成果はない。特に、この娘は容易に釣れない。金以外の何かで、動かせるようになっておかねば。

「……まったく考えたことなかったです……だってレオナ先輩はレオナ先輩だし。私、お金や権力が欲しくてレオナ先輩を好きになったんじゃありません」

 きりりと澄んだ目が僕を射抜く。

 何だかんだでこの少女がこの学園でやっていけるのは、この意志の強い目のおかげなんだろう。この目が絶望に曇るのはどんなときなんだろうか、と想像しながら、にこりと笑って頷いた。

「知っていますよ。アナタがそういう愚かな人間じゃないことは。でも……時々わからなくなるんです。アナタは彼に、一体何を求めているのか」

 自分のことを見てほしい。

 自分だけを見てほしい。

 自分だけのものにしたい。

 他の誰にも取られたくない。

 欲に塗れた願いは恋と呼ばれるキラキラしたものとは程遠く、どろどろと粘着性の高い暗いものばかりだ。他の雑魚たちと同じように恋をしているはずのこの少女からは、何故かそのどろりとした不快なものが感じられない。欲もなければ、望みもないと言うのなら、一体何が欲しいと言うのか。

「……何も求めてなんかないですよ」

 困ったように眉を寄せて、監督生さんは聖職者のように笑った。

 何をどう生きれば、これほどまでに達観していられるのか、と呆れつつ、少女の真意を見極めるように目を細める。

「……本当に?」

「……ごめんなさい。嘘です。本当はずっとそばにいられたらいいなって思ってます」

 えへ、と眉を下げて笑った監督生さんはわかりやすく照れてみせる。それが演技なように見えて、実のところ天然でやっているのだからこの娘は本当に計り知れない。

「……アナタ、本当に素直過ぎませんか。どうしてすぐにそうやって本音をこぼしてしまうんです。ドアの向こうで誰かが聞き耳を立てているかもしれないのに」

「えっ!? 誰かドアの外にいるんですか?」

「……いませんよ。ちなみにこの部屋に盗聴器のようなものもありません。何なら魔法も掛かっていません。たった今アナタの本音を聞いたのは僕だけです」

 魔力がなくてすぐに警戒心を解くのに、妙に勘が良くて鋭い。オマケに感情もすぐに読み取れてしまう。なのに心の奥底にある本心は隠していることすら相手に悟らせず、ここぞというときにしか表に出さない。何よりとても頭がいい。この少女は一見御しやすそうでそうでもないのだ。見た目にだまされて考え無しに意気揚々と近付けば思ってもみない返り討ちに遭う。

 あの男、腹の底の知れない敵に回したくないあの獅子は、どうしてこんな癖が強いクセにおぼこい娘が気に入ったのか。いや、驚くほどに純真で素直だから惹かれたのか。王宮の濁った水のなかに身を沈めていれば、さぞこの娘の澄んだ色は目を惹くだろう。こんな世界でこの清らかさを保てている異常さのほうがよほど気が狂っているとも言えるのに。それとも、気が狂うような環境でそれぞれ信念または意思を貫いているからこそ、お互いにどうしても惹かれ合うのかもしれない。

「監督生さん、話を仕切り直しましょう。アナタはレオナさんに恋をしている。なのにどうしてそれを叶えようとしないんです?」

 話を本題に戻して監督生さんの様子を窺う。これぐらいの歳の娘はもっと貪欲に恋に溺れてもいいはずだ。世間知らずで未熟だからこそ、相応に愚かな行為に走るのだから。

「どうしてって言われても……」

 情けない顔をして首を傾げる監督生さんは、本気で何も望んでいないのか僕の求める答えがわからない様子で眉を下げたままうなだれている。ふぅ、と小さく溜め息を吐いて、飲み終えたカップをソーサーに戻した。

「僕の経験では、恋に落ちればどんな手段を使ってでもそれを叶えようとする者ばかりでした。魔法で容姿を変えてまで相手の好みに合わせようとする者、相手を得る為に惚れ薬を望む者、数えればキリがないほど皆さんいろいろなご要望がありました。それなのに……アナタはあまりにも異質だ」

 恋を叶えたいと願うのではなく、ただ、彼のそばで笑っている。

「消極的、と表現するのも違う。恋を大事に抱えているだけというわけでもない。ボールを投げるクセに、ボールが返ってこないことに不満を漏らすこともない。一体何がしたいんです?」

 無償の愛なんて綺麗事でしかない。

 何よりこれは恋なのだから、一方的に注ぎ続ければいずれ枯渇してしまうのは目に見えている。

 だというのに、この目の前の小さな少女はその脅威を愚かにも実践しようとしている。

「あの……何がしたいと言われても、何かしたいわけじゃなくて」

 何かしたいわけではないと言いながら、積極的に彼と関わり彼につきまとい彼の後ろを付いて歩く。彼は彼でそんな彼女を受け入れるわけでなく、邪険に扱っているように見せかけているだけで実際は仔猫にじゃれられているのをそのままにして、本当に二人して何がしたいんだと問い詰めたい。とっとと受け入れてしまえばいいのに、我々が思う以上にそのハードルは高いんだろうか。

 えっと、と明らかに困っている様子で腕を組んで考え込んでいる監督生さんに、まさかとは思いながら声を掛ける。

「ひょっとして……身分の違いを気にしているんですか?」

「えっと、そんな……ことは」

「そうなんですか? 意外と繊細なんですね」

「意外と繊細ってどういうことですか!」

「あれだけ派手に好きだ好きだと騒いでおいて、そこを気にするのかと言っているんですよ」

 身分の違いを気にするというのなら、自分は身を引こうと諦めるのが定石ではないのか。

 経験を埋めるために読み漁った物語は、大体そんな陳腐な結末を迎えている。

 そこは何をしてでも手に入れようとするんじゃないのか、だからみんな僕を訪ねてくるのでは? と不思議で堪らなかったし、何より、自分なら黙って身を引くなんて愚かな選択は絶対しない。

 それに、堂々と人に対して好きだと言えるのは、相手も自分のことを好いていると自信があるからじゃないのか。

 まさかそうじゃないのに日々あれだけのアピールをしていたというのなら、本当に呆れて物が言えなくなってしまう。

「……気にします。気にするでしょう? だからレオナ先輩も私に応えないんだって甘えてます。甘えてるから、一方的なキャッチボールでも満足なんです」

 一瞬、監督生さんの目がゆらりと揺れる。でもそれは本当に一瞬で、もういつも通りまっすぐな目で僕を見ていた。

 どうも彼女なりの理屈は通っているらしい--それを周りが理解するかは別として。

 そして、彼女は彼が自分には振り向かないと思っているようだが、彼はもう振り向いている。ただ彼女に向けて手を伸ばさず、彼女が伸ばしている手も取ろうとしていないだけで。

 はぁ、と思わず出た溜め息を隠すこともなく、足を組んだ上に両手を置いて姿勢を正した。

「既成事実を作られては? 強力な惚れ薬ならすぐにご用意できますよ。それとも獣人向けの媚薬にされますか?」

 にこりと笑って首を傾げれば、監督生さんは一瞬だけ顔を引きつらせて思い切り顔を歪めた。

「やめてください! 必要ありません!」

 ビリビリと水面を揺らすような叫び声が部屋中に響く。

「相手の気持ちを無視してそんなことしたって絶対うまくいきません。それに……そんなもので一時的に手に入れたって、あとになったら虚しいだけじゃないですか」

 監督生さんの声は少しずつボリュームが下がっていき、最後は俯き加減で僕にだけ聞こえるような音量で呟いた。怒りを鎮めるような深呼吸も聞こえてくる。

 そこらの魔法士なら、あとになって虚しい、なんて考えるだろうか。

 常に自分の足下が掬われる可能性を考えてこそ最上級の魔法士だ。
 罠は何重にも仕掛けるもの。策が破られるなら破られる想定をして次の手を用意する。手に入れたあとに後悔するなら、後悔しないよう全力を尽くせばいい。

「ハハ……本当に陸の人間は……いや、アナタは面白い人だ」

 普段自分が関わる存在のなかに、このような発想を持つ誰かはいただろうか。
 そもそも魔法薬を使って相手を手に入れようとしている時点で、失う可能性を徹底的に潰しているはずだ。

「虚しいなんて考える必要ありますか? 抵抗できなかったのはお相手のほうなんです、配慮すべきはお相手のほうではありませんか?」

 どうして手を出された方が配慮しなければならないんだと目で訴えると、監督生さんはふるりと首を振ってそんなことはないと主張する。

「そんなことありません。魔法薬を使った負い目はずっと付きまといます」

「罪悪感がある、と」

「それに、もしそれで本当にそういうことになれたとして、一生そうだなんていう保証はないじゃないですか。魔法は万能じゃありません」

 キッと意思の強いまっすぐな目が僕を見つめ返してくる。

 低レベルな魔法士ですら、自らの魔法に奢り、当然忘れてはいけないそのことを失念し己の愚かさを嘆くことが多いというのに、魔法を扱うどころか魔力すら持たないこのか弱き少女が僕たち魔法士の鉄則を口にする。これこそ、彼の教育の賜物()なんだろう。

「フフ……本当にアナタは面白い人だ」

 こんなに愉快なことがあるだろうか?

 魔法が使えない少女に切々と魔法を説き、この世界の理を示し、自身の国について教え導いている。

 怠惰を徹底している彼が、一切合財無駄になるかもしれないそれらを、週に一度、必ず、忘れずに、彼の貴重な時間を、彼女のために費やしている。

 それがどれだけ異常なことか、この少女はきちんと気付いているんだろうか。

「わかりました。そこまで仰るならもう何も言いません。でも、苦しくなったらいつでも僕に相談してください。特別に無料でお手伝いさせていただきますよ!」

「無料が一番こわいってアズール先輩から習いましたので! 遠慮しときます!」

 監督生さんは怯えながらも元気よく即答した。よく面倒を見ている一年生の顔を浮かべつつ、彼らがここまで至るにはあとどれだけ掛かるやら、と苦笑いした。

「よく勉強なさっていますね。まぁ、別に他のことでもいいんです。これ以外にも、困っていることがあるでしょう?」

 今、現在進行形で。そう付け加えると、監督生さんは大きな目を更に大きくして僕を凝視した。

「シフトの変更ぐらい、そんなに悩まず僕に相談してください」

「えっ」

「アナタ本当に隠し事が下手ですねぇ。最初から素直にシフト変更を申し出てくだされば、こんな風に腹の底を探られなくて済むのに」

「知ってたら最初からそう提案してくれてもいいじゃないですかぁ!!!」

「僕がそう易々とアナタを甘やかすと思いますか?」

 うぅ、思いません……とひどく悔しそうに監督生さんは顔を歪めている。くるくるころころと変わる表情に、やはり一刻も早く表情づくりの矯正をすべきだ、と微笑んだ。

「こちらとしては……アナタは出勤してくださるだけでいいんです。曜日が決まっていると広報がしやすいというだけで。不定期の出勤であれば、それはそれでゲリライベントなど今までできなかった販促が試せる」

「……ゲリライベントってなんですか?」

 ぽかんと口を開けて首を傾げている監督生さんに思わずゴホンと咳で誤魔化し眼鏡の位置を整えた。

「こちらの話です。是非、マジフト部でのマネージャーも頑張ってください。今後のシフトはシフトを組む際に相談して決めましょう。できればマジフト部の皆さんにもご来店いただけるよう宣伝もよろしくお願いしますね」

「ハイ、わかりました……?」

「よろしい。僕は売り上げさえ変わらなければ何でもいいんです。もしマジフト部のマネージャーに就任した際は是非アナタのユニフォームづくりなどもお手伝いさせてください。間違いなく金のなる木ですから」

「かねのなるき……?」

「いえ。マジフト部の皆さんにもサービスさせていただきます。特に部長さんには金づ、皆さんの財ふ……是非レオナさんにご出資いただいて打ち上げなどにお使いいただければ! 最高級の肉を各種取り揃えますよ!」

「……? ラギー先輩に、伝えておきますね……?」

「さすが監督生さん! 話がわかる人だ!」

 ラギーさんに話が通れば今後のマージンや儲けの取り分の相談がしやすい。うまく発展させれば新たな儲け話にできるかもしれない。皮算用している間が一番隙だらけになるのだから、これからしっかり気を引き締めなくては。

 意外とすんなり話が通っちゃった? と首を傾げて不思議がっている監督生さんににこりと微笑みかける。

「アナタには期待していますよ。監督生さん」

「ありがとう、ございます? 何だかすごくこわい」

「ホラ、また心の声が口から出ていますよ! しっかり口を閉じなさい!」

「す、すみませ〜ん!」

 追い立てられた雛鳥のように悲鳴を上げる監督生さんは、そろそろ仕事に戻ります! と僕から逃げるように席を立った。

「あぁ、それと。ひとつだけアナタに助言です」

 慌てて部屋から出て行こうとドアノブを掴んでいた監督生さんが恐る恐るこちらに振り返る。その様子をゆっくりと見定めて、にやりと笑った。

「男というのは、案外単純な生き物なんですよ」

 例に漏れずきっと彼も。

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