「もう遅いから報告は明日でいいってよ」
端末を操作しながら先生は告げた。何だかんだと時間を取られてしまって、時計の針は十時半過ぎを差していた。
「ほんっと、最悪のクリスマス・イブだったわ」
そう言うと、先生は端末から目を離して、苦笑いしながら私を見た。
「……まぁそう言うなよ。クリスマスはこれからじゃん?」
「……どうせ先生はこれから女の子とデートでもするんでしょ」
フイ、と顔を逸らして言うと、先生はクスリと笑いながら私の隣に並んだ。
「いいや? いつも言ってるだろ? 今は特定の子は居ないって」
どうだか、と思いながら、手持ち無沙汰なのを誤魔化すように床を蹴る。
「紫穂ちゃんこそ……これからデートしてくれるお相手なんて山程いるんじゃねぇの?」
「……いないわよ、そんな相手」
だって、これという人は居なかった。だから、今年のクリスマスも、予定なんてない。
「……じゃあさ、このあと飲みに行こうぜ」
「……先生のオゴリならいいわよ?」
「へいへいお姫サマ」
ニッと笑った先生にドキリとしながら、先生についていく。
「でも、こんな時間に開いてる店なんてあるの?」
タッと駆け足で先生の隣に並ぶと先生は何気ない様子で口を開いた。
「ここのバーなら開いてるだろ。そこ行こうぜ」
そう言って先生はエレベーターに乗り込んで目的階のボタンを押した。
確かに、今日の現場は都内の高級ホテルで、そこのバーなら宿泊客の為に遅い時間まで開いているのはわかる。でも、ホテルのバーで飲む、なんて、そんな。
「どうした? 紫穂ちゃん」
「……何でもないわ。早く行きましょ」
期待しているのが私だけみたいで馬鹿みたい。不思議そうに私の顔を覗き込んでいる先生に笑いかけて、エレベーターが止まるのを待った。
エレベーターが到着のベルを鳴らしてゆっくりとドアが開く。そこはフロアの全てが展望型のレストランのようになっていて、まばらに席を埋めている客たちが静かに夜景を楽しんでいた。
「……綺麗」
「まぁな。夜景で有名だからな、このホテル」
先生に促されるままカウンターの席に着くと、すぐにバーテンダーが注文を聞きにやって来た。
「スコッチをロックで」
「シングルにされますか? ダブルにされますか?」
「取り敢えずシングルで。紫穂ちゃんは?」
「……私はオペレーターで」
「かしこまりました」
先生とこうして二人きりで飲むのはもう何回目になるだろう。今日みたいに先生に誘われて、仕方なくを装ってついていく。内心はドキドキしっぱなしでお酒もすぐに回ってしまいそうだから、いつも飲み過ぎないようにペース配分に気を付けていた。先生に恥ずかしい姿なんて見せられない。それに、折角の二人きり。楽しみたかったし、先生とこうしてお酒を飲めるようになって、しかも誘ってくれるってことは、少しは私のこと大人として見てくれてるのかな、なんて期待がなかったわけじゃない。
「お待たせいたしました」
「どうも」
「ありがとう」
「じゃあ、クリスマスに乾杯?」
「先生と、っていうのが不服だけど」
「そう言うなよ」
チン、とグラスを合わせてグラスを傾ける。一口だけ含んで、ホッと息を吐いた。
本当は思いがけず、先生とクリスマスを過ごせることになって嬉しいのに、それを素直に言えない自分。憎まれ口しか出てこない自分が可愛くないのもわかってる。
そうやっていつも、何も進展させないまま二人きりの時間を終えるのだ。終電がなくなるまで飲む癖に、二人でタクシーに乗り込んで先生に送ってもらってサヨナラする。そこから先には進まない。進める方法は知ってるけれど、実行したら全てが終わってしまう気がして、いつも踏み出す勇気がなくて。
今日だって、たまたま偶然、こんな夜景の綺麗な場所で、私には意味のあるクリスマスになったけれど、先生には数あるクリスマスの内のひとつでしかないのかもしれない。ホテルのバーでクリスマス・イブを過ごす、なんて、私にはもう、それだけで思い上がれるくらいの意味があるのに。先生にとっては、そうじゃないかもしれない。
きゅ、とグラスを掴む指に力を込めて、湧いてきそうになる悲しい気持ちを押し込めた。
「紫穂ちゃんさ」
す、と何気ない動作で先生が身体をこちらに向ける。その拍子に先生の膝が私の膝に触れて、ぴくりと身体が震えた。
「……特定の相手は作らないの?」
先生のグラスがカラン、と音を立てる。先生はカウンターに肘を突いて、グラスを見つめていた。
「……いい人がいないんだもの。なのにお付き合いするなんて無駄じゃない?」
「紫穂ちゃんらしいな」
はは、と笑いながら、先生はウイスキーを口に含んだ。
「先生こそ、いい歳なんだから。そろそろ遊んでないで特定の相手作ればいいのよ」
「……あー……俺は……まぁ、そのうち、な」
いつも通り、答えを濁した先生に、こっそり溜め息を吐いた。
触れたところから伝わってくる、ふわふわして甘ったるい、それでいて切なくなるような熱を伴った想い。酔っ払っているからなのか、それとも他の何かがそうさせているのかはわからない。でも、この心地よい雰囲気はとても離れがたくて、いつも、飲み込まれてしまいそうだった。
先生と二人きりで飲むようになって、こうして無防備に身体が触れ合うようになったのはいつからだろう。膝だったり、肩だったり、肘だったり。必ず何処かが触れて合っていて、お互い無防備で。お互い本気になれば本音なんて筒抜けなのに、どちらも透視ようとはしなかった。――違うわね。ただ、怖くて私は透視れなかった。もし、私のこと、何とも思ってなくて、私だけが期待していたら。ただの、たくさんの女の子と同じ、暇潰しの相手だったとしたら。とてもじゃないけど耐えられない。
「……次、何飲む?」
「……どうしようかな」
これ以上飲んだら、多分、冷静でいられなくなる。でも、帰りたくない。クリスマスの今日くらい、もう少し甘い夢を見ていたい。刻々と迫る時を感じながら、そっとカウンターに手を置いた。すると、先生が小指だけを絡めるように手を重ねてきて。
「紫穂ちゃん」
ドキリとするような甘い声で、先生が囁く。
「いい加減、諦めなよ」
「……なんのこと?」
「……わかってるクセに」
キュ、と絡められた小指から、甘い思念が伝わってくる。
『帰したくない』
思わず顔を上げて先生を見ると、先生は私から顔を背けて夜景を見ていた。
『帰りたくない』
私たちだけにしかできない秘密の会話。お互いの心の鍵を開けて伝える、剥き出しの言葉。先生も私の思念を読み取ったのか、はっとしたように私を見つめて。
「……それホント? 紫穂ちゃん」
「……なんの話? 先生こそ、本当なの?」
この期に及んで素直になれない自分。それでも、それはお互い様で。
「いい加減、素直になろうぜ。俺たち」
「……先生が、素直になればいいじゃない」
「俺のコト、嫌い? 紫穂ちゃん」
「……随分卑怯な聞き方するのね?」
「……大人になると、怖がりになっちまうんだよ」
絡めた小指に、解けないよう力を入れた先生は、ぐいと顔を寄せて耳元で囁いた。
「君が好きだよ、紫穂ちゃん」
「……誰にでも言ってるんでしょ」
「いつも言ってるだろ。今付き合ってる子は居ないって」
「……私だけ、じゃなきゃ、許さない」
「当たり前だろ。それより……君の返事は?」
不安そうに揺れる先生の目が、私の顔を覗き込む。
「……私も……好き、だよ」
初めて口にする、愛の言葉に、先生が嬉しそうに微笑んだ。
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