「……おいちょっと待て。なんで三宮がここにいる?」
会議から戻ってみると、比較的落ち着いた雰囲気の医局で和やかに看護師たちと談笑している紫穂ちゃんの姿を見つけて目をひん剥いた。
「……私が自分の所属の部署にいちゃ悪いんですか? 賢木先生」
会話を止めて紫穂ちゃんがニコリと冷たい微笑みを浮かべてこちらに振り返る。その笑顔の強さにちょっとだけ怯みつつも、何とか眉を寄せて当番表の貼ってあるホワイトボードを指の背でコンコンと叩いた。
「いちゃ悪いなんて言ってない。シフト上はもう上がってるはずだが?」
「……ちょっと人手が足りなさそうなので勤務に変更しただけです」
「嘘言え。今めちゃくちゃ談話中だっただろうが」
「……チッ」
いやいや紫穂ちゃんそれマジで女の子はしない方がイイ顔だよ、と内心眉を下げながら、あからさまに溜め息を吐いて肩を落とした。
「今日君は誕生日だろ? だからシフト外してあったんだけど?」
「別に誕生日休暇なんて必要ありません」
えっ三宮先生お誕生日なんですかおめでとうございます、とさっきまで喋っていた看護師たちが声を上げるのも気にせず、相変わらず女子がしちゃいけないタイプの目付きの悪さで紫穂ちゃんは俺を睨み上げてくる。
「誕生日くらい休めって……君ずっと働き詰めじゃんか」
「お気遣いどうも。でもいいんです、誕生日に一人で過ごすくらいなら仕事してた方がマシなんで」
「はぁっ?! 薫ちゃんと葵ちゃんは!? 誕生日会するんじゃねぇのか?」
「……私たちもいつまでも三人一緒の子どもじゃないってだけです。二人には予定が合う日に誕生日を祝ってもらいました。もういいですか?」
ピンと背筋を伸ばしたままフンと鼻を鳴らした紫穂ちゃんは腕を組んでプイッとそっぽを向いてしまう。
いつも誕生日は薫ちゃんたちと過ごしているから今年もそうなのだと思っていた。それか、知り合いの誰かと過ごす――というか俺の知らない紫穂ちゃんの彼氏なのかまだそういう関係じゃない男なのかは知らないが、とにかくそういう類の誰かと過ごすもんだとてっきり思っていたから、誕生日まで仕事に励もうとする目の前の可愛くて仕方がない後輩の冷めた目が何だか悲しく思えた。
「……わかった。俺とメシ行こう。奢ってやる」
「はぁ?」
「俺が誕生日祝ってやる。俺もちょうど会議終わりで上がりだから。みんな! 三宮先生が速やかに退勤できるよう協力してくれ」
はぁーい、とよく訓練された俺の部下たちがテキパキと段取りを整えて医局から紫穂ちゃんを追い出そうと徒党を組み始める。それを満足げに見つめてから自分もさっさと会議資料を片付けて退勤準備に向かった。
「はっ?! ちょッ! まだ私何もOKしてない!!!」
「準備整えたらエントランス集合な。ちなみにこれは上官命令なので逆らえません。先に行って待ってるぞー」
ロッカー兼更衣室に向かいながらヒラヒラと手を振ってみせると、紫穂ちゃんはぷくりと頬を膨らませながらスタッフたちに見送られている。行ってらっしゃい部長に美味しいもの奢ってもらってくださいね! なんて明るい声を背中越しに聞いて、思わぬ二人きりの誕生日祝いに、ニヤける顔を隠すようにして更衣室へ飛び込んだ。
* * *
「おっ、来た来た。じゃあ行こうか」
「私行くなんて言ってない」
「そんなツレないこと言うなよ。何でも奢ってやるぞ? 誕生日なんだし我が儘言えって」
な、とさりげなく紫穂ちゃんの隣に並んでそっと背中を押して待たせていたタクシーに乗り込む。紫穂ちゃんがシートに身体を納めたのを確認してから運転手に行き先を告げて自分もシートベルトを締めた。ナビを操作し終えた運転手がスムーズに車を滑らせると、不貞腐れた表情で窓の外を見ていた紫穂ちゃんがチラリとこちらに視線を寄越した。
「……なんだよ」
視線だけで何かを訴えてくる紫穂ちゃんに身体ごと向き直って問いかけると、紫穂ちゃんは、フイッとまた窓に視線を移しながらドアに凭れるようにして腕を組んだ。
「……別に? いつもの居酒屋じゃないんだなと思って」
目を閉じてつーんとツレない態度でそう言った紫穂ちゃんは、幼い頃からずっと変わらない高飛車な顔で刺々しく呟く。それに眉を下げて苦笑しながら自分も窓の外の景色を見るように視線を移してタクシーのドアに肘を突いた。
「……誕生日のお祝いなのにあんなガヤガヤしたトコじゃ落ち着かないだろ。そんな高い店じゃないけどちゃんとしたトコだぞ」
「何ソレ。変な気なんて遣ってくれなくてもよかったのに」
「そういうワケにいかないだろ。紫穂ちゃんの誕生日を適当に済ませる発想がねぇよ」
「……意味ワカンナイ」
「まぁまぁ。そう言わずに素直に祝われとけって。酒も料理も俺が保証するぞ?」
ニッと笑って紫穂ちゃんに視線を移すと、紫穂ちゃんはぷくりと頬を膨らませながらほんの少し頬を赤らめて気まずそうに視線を逸らした。
「……じゃあ美味しいお肉奢ってくれなきゃ許さない」
「いーよ。グリルが旨い。牛でも羊でも好きな方頼めよ」
それを聞いて紫穂ちゃんは満足したのか、上機嫌にほんの少し顔を綻ばせている。その横顔はやっぱり可愛くて、キュンと音を立てる胸をひた隠しながら、窓の外の景色を見ているフリに努めた。
「ありがとうございました」
タクシー運賃の支払いを済ませて紫穂ちゃんと一緒にタクシーを降りる。何となく差し出した手はすげなく無視されて宙を舞った。ぺろりと舌を出して戯けながら暗い路地を先導すると、紫穂ちゃんはすぐに訝しむような視線を俺に向けてくる。それに苦笑いを返して路地の先にあるほんのりと明るい一角を指差した。
「あそこだよ。俺の秘密の店。別に変な店じゃないから安心しろよ」
「……隠れ家的名店、ってヤツ?」
「そ。俺が君を怪しい店なんかに連れてくワケねぇだろ?」
二、と口角を上げて店のドアをゆっくりと開けば、すれ違いざまにどうだか? と流し目を寄越してくる。俺にそんな気を許してくれたことなんてないクセに、いつの間にか大人の女の顔で俺をあしらうのだから舌を巻いてしまう。肩を竦めつつ入店して、予約した賢木です、と落ち着いた様子で料理をしているオーナーシェフに声を掛けた。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
店内にはカウンター席しかなく、奥のスツールにカップルが座っている以外客はいなかった。リザーブカードが置いてある手前の席に案内された俺たちは、脱いだコートを紫穂ちゃんから受け取って、ハンガーを使って壁に備え付けられたフックへ掛ける。自分のダウンも手早くハンガーに掛けてスツールに腰掛けると、やけに慣れてるのね、と紫穂ちゃんが胡乱げな目で俺を見つめていた。
「どーせデートで使ってる店なんでしょ」
フン、と眉を寄せて頬を膨らませた紫穂ちゃんはまるで騙されないとでもいうように腕を組んで俺から身を引いている。それにがっくりと肩を落としながら眉を下げてドリンクのメニューを開いた。
「……一応ここは俺が一人でゆっくりしたい時に来る店なんだけどな。デートで使うような店に見えたか?」
「そうね。狙ってる女の人とシケ込むにはちょうどいいお店なんじゃない?」
ツンとした横顔に苦笑してそんなことないと首を振ってみせる。
「ここにはマジで独りでしか来たことねぇよ。ね? オーナー?」
俺の問い掛けににこりと笑って返事をしたオーナーは手際よくキッチンで調理を進めている。
「……予約なんかしちゃってるのがやらしいのよ。信用できない」
胡乱げな目で俺を睨みつけている紫穂ちゃんに肩を竦めて眉を下げた。
「……信用はねぇかもしんねぇけど。俺はここに女の子を連れてきたことはねぇからな。取り敢えずスパークリングワインでいいか?」
過去の行いのせいで俺の信用なんて地ベタを這っているのはわかりきっている。それでも一応の弁明はして、紫穂ちゃんが喜びそうな軽い口当たりのワインを選んで指差した。すると紫穂ちゃんはパッと目を輝かせてコクコク頷きながらさっきの話題なんて忘れたようにメニュー表に意識を移している。その様子にホッとしながらオーナーにドリンクの注文を済ませて、料理のメニューも開いて紫穂ちゃんに見せる。予約で確認した通り、コースのメインが牛か羊のグリルになっていて、ボリューム的にもちょうどいいんじゃないかと思案していると、うずうずしたような表情でコース料理のメニューを視線で追っている紫穂ちゃんの横顔が目に入った。
「どうした? コースがいいんじゃねぇかと思うんだけど……なんか不満か?」
我ながら急拵えの割に紫穂ちゃんの好みドンピシャのチョイスをしたのではないかと思っていたところのこの反応に、そわそわと不安な気持ちが襲ってきて思わず畳み掛けるように声を掛けてしまう。
「遠慮すんなよ? 今日は俺の奢りなんだから」
それともアラカルトにするか? とメニューを見直していると、しれっとした表情で紫穂ちゃんは首を傾げてみせた。
「最初から遠慮なんてするつもりないわよ。先生のお財布の心配なんてするだけ無駄でしょ?」
「おま……言い方……」
「別にお金には困ってないけど高給取りの先生に奢ってもらえるなんて嬉しー」
「棒読みにもほどがありすぎて泣けてくるわ」
「いいわよ? 先生が泣いてても私は別に困らないもの。冗談抜きの話、コースのメイン料理を迷ってるのよ」
むぅ、と眉を寄せている紫穂ちゃんの横顔が可愛くてキュンと音を立てた胸を誤魔化しつつ、一緒になってメニュー表を覗き込む。
「え? どっちも好きだろ?」
「だからよ。どっちも食べたいの!」
どうしよう、と頬に手を当てて悩む様はまだ少女の頃の面影が残っていて、愛しさが込み上げて口許がにやけるのをさりげなく手で隠しながら提案する。
「じゃあ……両方頼んでシェアすればいいんじゃないか?」
紫穂ちゃんが嫌じゃなければだけど、と内心断られたらどうしようとビビりまくっているのを押し殺して問い掛けると、キラキラした紫穂ちゃんの目に見つめられて心臓が跳ね上がる。
「いいの?」
「あぁ。俺は別に構わねぇよ?」
「やった! 先生大好き!」
ほらまたそういう男を喜ばせることを軽々しく言う、と赤くなる頬を見られないように誤魔化しながら、おう、と小さく相槌を打った。
この好きはそういう好きじゃねぇから、とドキドキしている心臓に言い聞かせて運ばれてきたスパークリングワインのグラスに手を伸ばす。取り敢えず乾杯しようぜ、の声が裏返らなかった自分を褒め称えながら、お誕生日おめでとう、とグラスを合わせた。
* * *
「次どうする? 肉だし赤にするか?」
紫穂ちゃんグラスが空になる手前のタイミングで声を掛けると、紫穂ちゃんはほんの少し迷うような顔をしてふるふると首を振った。
「私もうノンアルでいいわ」
「え? 飲まないのか? 奢りだぞ?」
嘘だろ? と思わず目を見開くと、澄ました顔をして紫穂ちゃんが手を差し出した。
「いーの。ドリンクメニュー取って?」
綺麗に手入れされた柔らかそうな指先に目を取られつつもたもたとドリンクメニューを手渡すと、紫穂ちゃんはぱらりとノンアルコールのページを開いて物色し始める。
「え……飲もうぜ、せっかくなんだし」
今日は誕生日じゃん、と決め手としては弱い理由を並べて紫穂ちゃんに酒を勧める。
この店はオーナー一人で店を回してる分、料理が出てくるまでが普通の店よりも長い。つまりその分二人きりの時間が長く楽しめるわけで、お酒の力に頼らなくてはならないのは情けないことこの上ないけれど、ほろ酔いでちょっとだけ距離が近くなる紫穂ちゃんと過ごす時間をできるだけ引き延ばしたい。誕生日という特別な日を俺と一緒に過ごしてくれるんだから、ほんの少しくらい期待させてほしい。お酒の力を借りなきゃいけないのは本当に申し訳ないが。
「このワインとかお薦めだぞ? しっかりした飲みごたえだし、肉との相性もいい」
紫穂ちゃんが好みそうな赤ワインを指差して半ば必死になりながら紫穂ちゃんを誘うと、紫穂ちゃんは不貞腐れたように頬を膨らませてフイとそっぽを向いてしまう。
「下手に酔いたくないの。だから今日はもうおしまい」
ツレなくそう告げた紫穂ちゃんに衝撃を受ける。それと同時にガッカリとした落胆が襲ってきて、本当ならその気持ちを隠さなければいけないところなのにあからさまに肩を落としてしまった。えー、と力無い声が口から漏れて、それでも何とか紫穂ちゃんの決断を揺るがすことはできないかと言葉を探して縋る。
「別に……俺が面倒見るじゃん。甘えろよ」
「……それ、アルハラだしセクハラよ」
「え」
あーヤダヤダこれだから、と紫穂ちゃんは俺をニヤニヤした表情で見つめてくる。その艶っぽい顔にドキンと胸が苦しくなったのと同時に、言われた言葉の重さに身体中の体温がヒュッと下がるのを感じて、別の意味でもドキドキした。
アルハラ。
まさか自分が、と思いながら、確かにもう飲まないと宣言している紫穂ちゃんにお酒を勧めているのだからアルハラだと言われたら否定できない。
そして、もっと酷いのはセクハラ。
何とも思ってない異性に面倒を見るとか甘えろとか言われたら、そりゃあ退く。退くどころか相手が紫穂ちゃんなんだから訴えられても仕方がない。自分の欲望に任せて何てことを口走ってしまったんだとドン底に堕ちていく気分を味わいながら、震える手をギュッと握り締めて口を開いた。
「……ひょっとして……俺と食事とかするのも、セクハラだったりする、のか?」
「は?」
「俺って……ウザ絡みしてくる上司で存在自体が不快な異性、ってヤツ?」
自分で言っておきながら、あまりの悲惨な現状に打ち拉がれそうだ。紫穂ちゃんが俺のコトを何とも思っていないのはわかっているけれど、まさかここまで距離を置かれているとは。嘘だろ、と泣きそうになっている自分と、相手は紫穂ちゃんなんだぞ興味ない男はそれくらいの扱いを受けて当然だ、と納得してしまっている自分の板挟みになって心が揺れる。キライキライと言われ続けてきたけれど、マジのマジで嫌いだったとは思わねぇじゃん。下心全開で今日飲みに誘えたことを喜んでいた自分を殴りたい。最初から報われる可能性なんてなかった俺の恋心は今晩どこかの海にでも捨ててしまおう。フ、と死んだ目をしながら口元だけで笑って耐え難い痛みに何とか耐えていると、訝しむような目で俺を見た紫穂ちゃんが、意味ワカンナイ、と首を傾げた。
「はぁ? そんなわけないでしょ? 先生は先生じゃない」
「……え? ……俺は、俺?」
「先生は先生だし…………皆本さんは皆本さん、っていうか? 異性とかそういう枠じゃないわよね」
さらりとそう言った紫穂ちゃんの言葉にそっかと返事をしつつ、はっきり異性じゃないと言われてしまった現実に再び打ちのめされる。
そりゃ紫穂ちゃんからすれば頼んなくて面倒くさい上司かもしんないけど、まさか男と思われていないとは。
もうホント今日は俺泣いていいと思う。
俺ってそんなに男らしくねぇかな、と溢れそうになる涙を隠すように俯くと、紫穂ちゃんは、もー! と可愛い声を上げて隣に座る俺の腕にそっと触れた。
「ちがうの。そういうんじゃないのよ」
「……え?」
「別に先生と飲むのが嫌なわけじゃないのよ? 本当は今日誘ってくれて嬉しかったし。二人きりで飲みに行ったりご飯行ったりって久し振りだったから、本当は楽しい時間を過ごせたらって思ってるのよ? でも、でもね?」
「……でも?」
「その……だから……先生の前で、酔っ払ったところ見せるなんてみっともなくてイヤなのよ!」
察しなさいよ! と紫穂ちゃんはバシバシ俺の肩を叩いてくる。イタイイタイと受け止めながら、首を傾げて紫穂ちゃんに問い返す。
「みっともないって……そんな気ぃ遣わなくても大丈夫だぞ? 別に言いふらしたりとかしねぇし」
「わかってるわよ。先生はそんなことしないって知ってるもの。だから、そうじゃなくて、その」
「そうじゃなくて?」
「……一応、先生は上司なんだし。上司の前で酔っ払ったりなんてしちゃダメでしょ」
むぅ、と唇を尖らせた紫穂ちゃんは不満そうに頬を膨らませている。それが可愛くて堪らないのに、もうそんな風に思っちゃダメだと心にブレーキを掛ける自分もいて、もうどうすればいいんだよと胸が苦しくて堪らない。ぐっと下唇を噛んで自分の荒れ狂う感情を抑え込みつつ、なんでもない顔をしてへらりと笑ってみせた。
「えー……今はプライベートじゃん? 二人きりのときまで上司だからとか部下だからとか、俺は言うつもりないぞ?」
俺そんな厳しい上司でいたつもりねぇよ? と軽い口調で続ければ、紫穂ちゃんはキュッと眉を寄せて困ったように少しだけ目線を逸らした。
「そうじゃなくて……私、先生みたいに切り替え上手くないし」
「えぇ?」
「だって……先生、職場では絶対に私のこと紫穂ちゃんなんて呼ばないじゃない。私はずっと先生って呼んでるけど、結構複雑なのよ?」
ほんの少し、俯けられた横顔は今にも泣きそうな顔に見えて、思わず紫穂ちゃんの肩に手を伸ばしそうになるのを慌てて堪える。膝の上でぎゅっと握り締めた掌が痛いけれど、ここで肩を抱き寄せるなんてコトしたら本格的にセクハラだと自分を諌めた。
幸い、紫穂ちゃんは俺のそんな様子には気付いていないようで、空になったフルートグラスを指先で弄びながら、ふぅ、と物憂げに溜め息を零した。
「なんか……前はもっと……距離が近かった、って言えばいいのかしら? 今はもう、なんて言うか……ただの上司と部下って感じで」
ちょっとだけ寂しい、と泣きそうな顔で笑った紫穂ちゃんが俺のことを見上げる。うるんだ大きな瞳に見つめられて、まるで吸い寄せられそうだと思いながらゴクリと喉を鳴らす。
寂しい、だなんて。
そんなコト言われたら、やっぱり期待してしまうわけで。
男としては見られていないかもしれないけれど、俺のことを親密には思ってくれていると受け取ってもいいんだろうか?
調子に乗って浮かれてしまっても仕方がないような状況が目の前に転がっている。
勘違いしてしまいたいと本能は叫んでいるが、そこまで無謀にもなりきれなくて、距離感を間違えるなと理性が俺の目を醒まさせた。
ふ、と柔らかく微笑んで、昔よくそうしていたように、ぽんぽんと紫穂ちゃんの頭を撫でた。
「紫穂ちゃんがただの部下なわけねぇだろ……君は俺にとって……特別だ」
ここで君のことがずっと好きだったと言えたなら、紫穂ちゃんだってこれからは俺を男として意識してもらえたのかもしれない。
でもそんな勇気が俺に備わっていたら、もうとっくに紫穂ちゃんに告白して紫穂ちゃんとの関係を変えるべく動けていたと思う。
紫穂ちゃんに対しては本当に情けないくらい意気地無しの俺は皆本に呆れられるくらい女々しい。
もっと言うと、俺が紫穂ちゃんのコト好きなのは局内のほとんどのスタッフにバレていて、俺が必死に公私混同しないようにと紫穂ちゃんとの距離感だとか呼び方だとかにめちゃくちゃ気を配ってかなり苦労しているのも知っている。大体のスタッフはいつも俺の事を生暖かい目で見守ってくれているし、紫穂ちゃんの意中の相手は一体誰なのかと探る俺に、スタッフのほぼ全員が曖昧な笑顔を返してくるので、俺の恋が実らないっていうのも皆知った上で応援してくれているのだろう。
悲しいけれど現実なんてそんなモンだ。
寂しい、と吐露して涙をこぼす紫穂ちゃんの本命は別にいる。
だから、調子に乗ってはいけない。
「それって……今日は、甘えてもいいってコト?」
「え?」
「先生の特別だなんて言われたら、調子に乗っちゃうわよ? それでもいいの?」
ぽそぽそと言いにくそうに呟きながら、ちらりと上目遣いで紫穂ちゃんは俺を見つめてくる。恐る恐るといった様子できゅっと眉を寄せた紫穂ちゃんに完敗した。
「……今日だけなんて言うなよ。俺にはもっと……甘えろよ」
紫穂ちゃんは俺のコトそういう目で見てないとか、そもそも異性とすら思われていないとか、どうでもよかった。
自分が出せる精一杯の低くて甘い声。
それを使って、甘えろ、だなんて今まで女の子相手に言ったことないような台詞を口にする。
女の子と遊ぶのに、甘やかして気分良く過ごしてもらうのは容易いことだったし、自分も楽しんでいた部分があるけれど、遊びの相手から頼られたり甘えられたりするのはどうも苦手だった。それなのに、紫穂ちゃんが相手だとそれは簡単に覆る。俺のコトを何とも思ってなかったとしても甘えられたら嬉しいし、一番に自分を頼ってほしかった。今までの女性たちへの態度が申し訳なかったと思うくらい不誠実で、だからこそ紫穂ちゃんには誠実に、何だってしてやりたいと思う。たとえそれが報われないとしても、そんなことは二の次だと思えるくらい、紫穂ちゃんのことは本気だった。
「……ホントに? ……じゃあ今日は甘えちゃおうかしら?」
ふふ、と嬉しそうに笑う紫穂ちゃんは本当に可愛くて、この笑顔がいつか自分だけに向けられたら、なんて夢のまた夢みたいなことを夢想する。お兄さんには甘えておきなさい、なんて言葉で切なさを誤魔化して紫穂ちゃんにドリンクメニューを改めて手渡した。お兄さんじゃなくてもうそろそろオジサンじゃない、なんて言う紫穂ちゃんに、うっせぇ、と小さく呟いて笑った。
* * *
「ん~! 美味しい! すごく美味しいわ! コレ!」
「……だろ? 他のも旨いけど、マジでここのグリルはオススメだ」
頼んだ赤ワインのボトルを紫穂ちゃんのグラスに注ぎながら羊肉のグリルを頬張る紫穂ちゃんを見つめる。
小さい口を精一杯大きく開けて肉にかぶり付く紫穂ちゃんはお世辞抜きで可愛い。動画撮ったら殺されるんだろうなと思いつつ自分もグラスにワインを注いだ。料理と共に楽しんだワインはもうボトル半分以上減っている。他愛ない会話を続けながらコースもメインまで楽しんだ。ここの予約が取れてよかった。急拵えの誕生日会だったけれど、結果は上々だったと思う。満足そうに牛のグリルも味わっている紫穂ちゃんの横顔がそれを物語ってくれている、と思いたい。
「俺のも食うか?」
まだ手は付けてないから、と紫穂ちゃんに自分の皿を差し出すと、ぷぅと頬を膨らませた紫穂ちゃんが恨めしそうに俺を見つめた。
「……そんなに食べられないわよもう若くないし」
それにそんなに卑しくないわよ! と拗ねている紫穂ちゃんの横顔を見つめながらクスリと笑う。
「いやいや紫穂ちゃんまだ二十代だろ? 本当に肉がクるのは三十越えてからだぜ?」
遠慮すんな、と笑えば、不満そうに唇を尖らせた紫穂ちゃんがおずおずと俺の皿に手を伸ばした。
「……じゃあ……ひとつだけ」
「おう。遠慮せず、食えるうちに食っとけ」
「もー! 子ども扱いしないで!」
「子ども扱いじゃねぇって。若者扱い」
「それが子ども扱いだって言ってるの!」
もう! とぷりぷり怒りながらも肉を頬張る紫穂ちゃんを見つめながら、子ども扱いなんてしたことねぇよ、と心のなかで呟く。
いつだって君は特別で、気にならない日なんてなかった。
一緒に働くようになってからは一層。
ずっと紫穂ちゃんは特別だった。
美味しい、と顔を綻ばせながら肉を楽しんでいる紫穂ちゃんを見つめながらグラスを傾ける。もうあと少しで久々の二人きりの時間も終わるのかと寂しい思いを感じながら口を開いた。
「なぁ紫穂ちゃん。本当に今日、何の予定もなかったのか?」
「……どうして?」
「どうして、って……紫穂ちゃんなら、誕生日でデートしてくれる相手、いっぱいいるだろうと思ってさ」
「……そんなことないわよ」
「んなわけねぇって。捜査課の山田に、予知課の今井。技術開発部の佐藤だって、選り取り見取りじゃんか」
俺の指摘に眉を顰めた紫穂ちゃんはよく知ってるわね、とバツが悪そうに呟いた。
「……私は誰かさんと違って、興味ない男に割いてる時間なんてないの」
紙ナプキンで口許を拭いながら、紫穂ちゃんは綺麗に笑って答える。それにふぅん、と関心のないフリをしながら続ける。
「じゃあ今は気になってる男のことで忙しいってこと?」
「そんな人いないわよ」
ふん、と鼻を鳴らして即答した紫穂ちゃんは冷めた目でまだ中身が残っているワイングラスに手を付けた。
「えー……じゃあ局内の奴か?」
「院内感染はお断り。あとあと面倒だもの」
「あー……まぁな……意外なトコで松風とか?」
「はぁッ? 有り得ないでしょ!」
紫穂ちゃんはキッと眉を吊り上げて俺を睨みつける。有り得ないはちょっとキツいんじゃねぇか、と頬を引き攣らせながら返すと、紫穂ちゃんはふぅと肩の力を抜いてテーブルに肘を突いた。
「松風くんとは本当にそういうんじゃないの。一緒に受験を戦い抜いた戦友っていうか。今でもたまに相談乗ってもらうくらいで。本当に何もないのよ」
まるで言い訳するように言葉を並べる紫穂ちゃんに、どうだかなぁ、とほんの少しだけ眉を寄せて続ける。
「……もったいねぇなぁ。君と付き合いたい男なんて、五万といるだろ」
大学生の頃はそれなりに彼氏いたじゃんか、と強張る顔を見られないように呟くと、紫穂ちゃんはちょっとだけ苦しそうに顔を顰めてからそっぽを向いた。
「もう……もうそういうのは面倒なの。好きじゃない人とお付き合いしても、楽しくないし、嬉しくないのよ」
あーいうのはもう懲り懲り、と小さく呟く紫穂ちゃんの横顔が泣いているように見えてどきりとする。泣いていないのはわかっているのに、その目許を親指で拭ってやりたいのをぐっと手を握りしめて堪えた。
紫穂ちゃんが大学生の時に先輩だとか同級生だとか、稀に後輩だとかとお付き合いしている、っていうのは松風やティムから聞かされていたし、薫ちゃんたちからも詳細を聞かされていたので把握している。皆本までが、いいのか? なんて聞いてくるから、紫穂ちゃんが好きになったんならいいだろ、とその度に誤魔化してきた。本当にいいのか、と真剣に問い質してくる皆本に、俺からアタックなんてしちゃダメだろ、と弱音を吐いたことだってある。そんなことない、と俺を励ます皆本に、俺とお前は違うんだよ、と笑って返すしかなかった。
「……それってやっぱり好きな人がいるってことだろ? アタックしてみたのか?」
ずっと、そうずっと。
君には好きな人がいるって俺は知ってるから。
横恋慕して君を困らせたりなんてしたくなかったし、紫穂ちゃんは紫穂ちゃんが好きな人と幸せになった方がいいって俺は思うから。
自分から好意を打ち明けて俺を見てほしいなんて言えなかった。
紫穂ちゃんは俺の言葉を聞いてハッとしたように目を見開いて、それから寂しそうに眉を寄せて笑って見せた。
「……無理よ。私のこと、何とも思ってないって、嫌っていうくらい知ってるから。知ってて玉砕するくらいなら、最初から何もしないわ」
私、勝てない試合はしない主義なの、と笑う紫穂ちゃんの横顔はやっぱり寂しそうで、叶わぬ恋に胸を痛めているのだろうということは透視まなくたってわかった。
「……そんなことねぇって……君に告白されて、断る男なんていない」
「いるわ。いるから告白なんてしないのよ」
断言するようにそう告げた紫穂ちゃんは、どこか悟ったように冷めた顔をしていて、どうやら本当に脈なしらしいということが窺える。紫穂ちゃんに告白されて断る男がこの世に存在するのかと衝撃を受けながら、自分の記憶のなかにたった一人、ある男の顔が浮かんで思わず口元を押さえた。
「……まさか……皆本?」
ある意味血の気が引いたような気がしてサッと紫穂ちゃんから視線を逸らす。
紫穂ちゃんがベタベタと皆本に甘えていたのは皆本という男を信頼していたのと同時に、皆本と紫穂ちゃんの間には異性という壁を越えた繋がりがあるからだと勝手に思っていた。だから二人のスキンシップを変に勘繰って嫉妬する、なんてことはなかったし、ちょっと羨ましいなと思うことはあってもそれだけだった。それがもし、紫穂ちゃんからのスキンシップに好意がのっていたのだとしたら。あまりにも酷な現実に狼狽えそうになった。まるで自分のことのように絶望しかけていると、ふざけないで、と怒った声で紫穂ちゃんは俺の耳を引っ張った。
「アイテッ! 紫穂ちゃ、痛い!」
「そんな訳ないでしょ! 皆本さんはよくて親戚のお兄ちゃんよ!」
痛い痛いと悲鳴をあげるとようやく紫穂ちゃんは俺の耳から手を離して腕を組んだ。
「薫ちゃんと皆本さんがいつまでもラブラブで幸せに暮らしてくれることに生き甲斐すら感じてるのに、なんで私の好きな人が皆本さんなんて話になるワケ? 意味ワカンナイ」
もう、と憤慨している紫穂ちゃんを見て、そういやそうだったな、とヒリヒリする耳を撫でる。バレットとティムに教わった、何だっけ、えっと、皆薫最推し薫強火担? の紫穂ちゃんが、皆本への秘めた恋にずっと心を痛めている、なんてことは有り得ないか、と思い直した。まぁあの二人には俺も皆薫最推し皆本強火担で紫穂ちゃん単推しの後方彼氏面って言われたが。何だよそれ。俺は紫穂ちゃんの彼氏だったこと一度もねぇし。こっそり彼氏面してたことはあるかもしれないが、いつも紫穂ちゃんにキモいと一蹴されてきた俺に、『後方彼氏面』はあまりにも皮肉が効きすぎていてひどくないか。
「それより先生は? いい加減皆本さんのこと諦めて、ちゃんとした彼女作ればいいじゃない」
先生が一番薫ちゃんと皆本さんの仲を邪魔してるのよ、と言う紫穂ちゃんはジト目で俺を睨みつけている。そんな表情も可愛い上に、俺の耳を引っ張ったせいかちょっとばかり近くなった距離にドギマギしつつ、うぅん、と小さく呻いた。うまく逃げられてしまった気がする、と歯噛みしながらも、何とか表情を取り繕ってわしわしと頭を掻いた。
「……だから皆本とは別にそんなんじゃねぇって。まぁ……今は仕事が恋人かな」
事実、ここ最近は女の子とどうこう、というのはご無沙汰だ。紫穂ちゃんと一緒に働くようになってからは尚更。諦めるはずだった恋心は日々大きくなるばかりで、他の女の子への興味がパッタリと失せてしまった。実際今は仕事が恋人と言っていい状態なのでそれをそのまま伝えると、紫穂ちゃんは驚いたように目を見開いてからふわりと笑った。
「じゃあ、私も。ずーっと仕事が恋人でいいわ」
仕事は浮気もしないし、ずっと私と一緒にいてくれるでしょ、と紫穂ちゃんは吹っ切れたように笑っている。
「……そんな……若いのに、もったいないだろ」
「……うまく誤魔化されてあげたのに蒸し返すつもり? 先生に本命がいるの、私知ってるんだから」
「え!?」
「局内のスタッフもほとんど知ってるんじゃない? それが誰なのか、まで辿り着いた人はいないみたいだけど。最近全然女の人と遊んでないって皆言ってるわよ?」
「……え……あ……うん」
「何。もしかして本命って男なの?」
「ち、ちがうわ! んな訳ねぇよ! 正真正銘女の子だ!!!」
「……ほらね? やっぱりいるんじゃない」
「あッ!」
「まぁ局内で話題になってるのはホントよ? 先生ってプライベートも筒抜けなのね」
「う、うぅ……」
いやそれは俺が公言して回ってるからね、とは当たり前だけど言えない。というより、職場の野郎どもへの牽制も兼ねて公言している部分があるので、筒抜けというよりむしろ公表というのが正しいと思う。
結局、紫穂ちゃんの好きな人って誰なんだろう。話題には上がるのに、ちっともわからないままでモヤモヤする。相手がわかれば、応援してやることだってできるのに思うようにいかない。紫穂ちゃんがうまくいったあとはこの恋に蓋をして、ひっそり、いや多分むちゃくちゃ泣くけど。一人で。
紫穂ちゃんはまだ少し残っているワイングラスを指先で撫でながらじっと揺れる液体を見つめている。
たった二センチ。
狭いカウンターでは俺たちの距離なんてそれくらいしか離れていない。
そっと手を伸ばして紫穂ちゃんの手を包み込めば、きっと全部わかるんだろうということはわかっている。ただ触れるだけでもいい。理由なんて適当に作って紫穂ちゃんに触れてしまえば。そうすればこんな腹の探り合いみたいな言葉の遣り取りよりも楽に、真実に辿り着けるかもしれないのに。たったそれだけのことがどうしてもできない。今までにも機会は何度だってあった。それでもできなかった。ただ、知るのが怖い。それだけの理由で、自分の力を使うことができなかった。
クイ、と残りのワインを煽った紫穂ちゃんは満足したようにふわりと笑ってグラスをテーブルに置く。そのひとつひとつの動作に目が囚われて、息苦しさを覚えながら目を細める。思いを振り切るようにして自分もグラスを煽ってから、無理矢理口を開いた。
「紫穂ちゃんの好きな人ってどんな人なんだ?」
まだこの話題は続くのか、とほんの少し嫌そうな顔をした紫穂ちゃんに気付かないフリをして笑顔を浮かべる。すると紫穂ちゃんは諦めたように溜め息を吐いてから、テーブルに肘を突いてゆっくりと目を閉じた。
「そうね……」
相手の顔を思い浮かべるように静かに呟いた紫穂ちゃんは、ふ、と笑って続ける。
「女好き」
「え」
「それから、頼りないわね。私が見てないとどこかでまたヘマやらかすんじゃないかって心配なの」
ふふ、と笑う紫穂ちゃんの表情は優しくて、とてもダメな男の話をしている顔には見えない。それなのに、表情はじわじわと寂しそうなものに変化して、大きな目が伏せられた。
「でもね……本当はそんなことなかった。私よりずっとずっと大人で、どんなに頑張っても追いつけなくて。いつまで経っても私は子どもなんだなって、思い知らされるの。追いかけても追いかけても届かなくて、やっと隣に並べたと思ったのに、やっぱり遠く及ばなくて、大きな背中は壁みたい」
こんなに頑張ってるのに追いつけないとか酷くない? と笑う紫穂ちゃんは泣いているように見えて、思わず抱き寄せてしまいそうになるのを何とか堪えた。そんなヤツやめて俺にしとけよ、と溢れてしまいそうな唇を噛んでそっと視線を外す。そんな顔してる紫穂ちゃんに軽々しくそんなことは言えないし、紫穂ちゃんがそれだけ真剣に相手のことを想っているのが伝わってくるから、何も答えられなくて、そっか、とだけ短く相槌を打った。
「先生は?」
「は?」
「先生の好きな人はどんな人なの?」
「……あぁー」
私はちゃんと言ったわよ、とニヤリと笑った紫穂ちゃんに肘で脇腹を突かれて、うぅ、と小さく唸る。居心地の悪さみたいなものを誤魔化すように額に手を遣って、はぁ、と肩を落とした。
「……そうだな……あー……すげぇ可愛い。何でもしてあげたくなる。我が儘で、寂しがり屋で、すっげー甘えたなのに、何でも一人で頑張ってて。俺がサポートしてやりたくても、本当に必要なときくらいしか助けを求めてこない。もっと俺を頼ってほしいのに、そんなの必要ないってどんどん前に進んでいっちまう。強いんだけどさ、君のそばには俺もいるって言いたくなる」
君はそういう人だよ、と心の中で付け加えてからそっと話し終える。
どうせバレない。
今までだって気付かれなかった。
紫穂ちゃんの好きな人だって結局わからなかったけれど。
紫穂ちゃんは感情が乗っていない表情のまま、ふぅーん、とだけ呟いた。その横顔は興味がないということなのか、それとも何か思うことがあるのだろうか。どっちなんだろうな、と思いつつ、まぁ前者だろうなと納得する自分がいる。フ、と口元だけで笑って続けた。
「そいつには誕生日おめでとうって言ってもらったのか?」
紫穂ちゃんがそれだけ想ってるんだからおめでとうくらい言われてるだろうと思って言ったのに、紫穂ちゃんはぼんやりとテーブルを見つめて口を開いた。
「……お祝いはしてもらったけど……おめでとうはまだ言われてないわ」
「……お祝いしてもらったのにか?」
「えぇ……お祝いって言ってたけど、本当は違ったのかも。ただ誰かとご飯食べたかっただけなのかもしれないわ」
何だよソレ、と思わず呟いたのを紫穂ちゃんは困った顔で笑う。
「ね? 先生もその人は私に興味ないんだって思うでしょ?」
「そんな……でも……」
「もういいのよ。私はに薫ちゃんと葵ちゃんみたいに、運命の糸で繋がった人なんていなかった。それだけなの」
「それは」
「現実は物語じゃないってこと、先生もよく知ってるでしょ? 三人のお姫様がみんな幸せに暮らしましたとさ、なんて御伽噺の世界でくらいしか有り得ないのよ。薫ちゃんと葵ちゃんが幸せなら私は充分。私は私に用意された現実をちゃんと生きるわ」
「そんな! 君だって!」
「薫ちゃんと葵ちゃんの人生がドラマみたいだったってだけよ。私は平々凡々などこにでもある女の人生ってだけ」
一生を懸けられる仕事に出会えただけ人より幸せなの、と悟ったように笑う紫穂ちゃんの横顔が悔しくて、喉の奥がぐっと痛くなる感覚を抑え込んで無理矢理喋った。
「……なら俺が、俺が祝ってやる。そいつに祝われなかった分、俺が紫穂ちゃんのコト祝ってやる」
ちょうどタイミングを見計らっていたオーナーがデザートプレートを差し出してくれて、誕生日仕様にデコレーションされたそれを紫穂ちゃんの前に差し出した。
「紫穂ちゃん、誕生日おめでとう。そいつが紫穂ちゃんに振り向いてくれるまで、来年も、再来年も、この先ずっと、俺が紫穂ちゃんの誕生日を祝ってやるから。だから、そんなこと言うなよ。君だって、御伽噺のお姫様みたいに、幸せになれる」
半ば必死に、紫穂ちゃんの目を見つめて訴える。自分だけお姫様なんかじゃないなんて言う紫穂ちゃんに、それは違うと言ってやりたい。叶わぬ恋だと笑う紫穂ちゃんに、そんなことないと伝えたかった。
「紫穂ちゃんだけが、お姫様じゃないなんて、そんなことあるわけないだろ」
まるで自分のことのように苦しい。息苦しさと胸の痛みを誤魔化すように細く息を吐く。紫穂ちゃんはきゅっと眉を寄せてデザートプレートを見つめた。
「なに……それ……」
小さく呟かれた紫穂ちゃんの言葉を耳が拾ってピクリと身体が震える。
「あ……えっと……予約……つーか、空席の確認した時に頼んでおいたんだ。こういうのは前もって頼まないと、オーナーの負担になるからさ」
しどろもどろになりながら、うっかり自分が並べてしまった熱のこもった言葉から目を背けるようにデザートプレートの説明を並べ立てていく。自分でもかなり無理があると思いつつ話し終えると、何かを堪えるように唇を噛んでいた紫穂ちゃんがゆっくりと開いた唇を震わせた。
「そうじゃなくて……」
眉を寄せたまま、掠れた声で呟いた紫穂ちゃんは、ますます苦しそうに顔を顰めて続ける。
「こんな……こんな、勘違いしちゃうようなこと、しないでよ」
「……え?」
「こういうのは、先生の本命にしてあげなきゃ、意味ないでしょ」
「え……いや、それは、その」
してるんだよな、これが。と言うこともできず黙り込んでいると、ふぅ、と息を吐いた紫穂ちゃんはカトラリーケースから新しいフォークを取り出しておもむろにガトーショコラへぶすりとフォークを突き立てた。
「そう言えば先生ってここぞってとこでヘマするの、すっかり忘れてたわ。デリカシーなさ過ぎてドン引きだけど、デザートに免じて許してあげる」
フン、と鼻を鳴らしてひとくちサイズに切り分けたケーキをモグモグと食べ始めた紫穂ちゃんに、スミマセンと小さく呻く。何故か肩身の狭い思いをしながら紫穂ちゃんを見守っていると、紫穂ちゃんは林檎のタルトも容赦なく切り崩して食べ進めていく。
「……大体、女相手にこれからもずっと誕生日祝ってやるなんて無礼にも程があるわよね。歳老いていくのを祝われて嬉しい女がいるなら教えてほしいくらいだわ」
「あ、いや、それは、その……そういう意味ではなく」
「いいのよ別に。どうせ先生にとって私なんていつまでも子どもと変わらないんでしょ? 付き合い長いから、女とも思ってないし」
だから自分はもう何も気にしていないとでも言いたげな紫穂ちゃんに、ちがうちがうと首を振って話に割り込む。
「そんなワケねぇだろ。俺は今まで君のコトを子ども扱いしたことなんてないし、女の子扱いしなかったこともない」
「そうかしら? まぁ私も先生のこと大人だと思ったことないし、男だと思ったことないけどね」
あぁそんなのわかってる。
君が俺のコトを何とも思ってないのなんて教えてくれなくてもわかってるし、今日改めて嫌というほど思い知った。
苦味ばかり感じる紫穂ちゃんの言葉にクッと顔を顰めると、紫穂ちゃんはフフンと鼻で笑って緩く首を傾げる。
「私なんて放っておいて、本命の彼女をデートに誘ってあげなさいよ。何なら、誰が好きなのか教えてくれたら、私が先生のコトおすすめしておいてあげるわよ?」
「それを言うなら! 俺だって紫穂ちゃんの好きな奴が誰なのか教えてくれたら、いくらだって協力してやる!」
身を乗り出して訴える俺に、紫穂ちゃんは泣きそうな顔をして笑った。
「……無理よ。私の好きな人に声掛けること自体が無理なのよ。先生にはね」
かちゃり、と力無くプレートにフォークを置いた紫穂ちゃんの手を、思わず掴んで叫んだ。
「紫穂ちゃん! 俺は!」
もう全て打ち明けてもいい。
そう思って叫んだのに、全部声になる前に音が途切れた。
それは別に、自分の想いを吐露することに躊躇ったからでも、こんな状況に来てまで意気地なしが顔を出して怯んだせいでもない。
え、と先にこぼしたのはどちらだろう。
強く想う誰かの顔を浮かべながら話をしていた今。
触れた表層からそれが透視み取れて、その誰かが一体誰なのか、わかってしまった。
きっと、お互いに。
「え、や……ウソ……ちょっと待って」
ダメ、待って、と繰り返して紫穂ちゃんは俺の手を払おうと必死になっている。それを離すもんかとしっかり捕まえて、するりと指を絡めた。やだ、と逃げるように小さく呟いた紫穂ちゃんに、顔をくしゃくしゃにして笑いかける。
「俺が好きなのは」
君だよ、と言い切る前に、紫穂ちゃんは頬を赤くして目を見開いた。
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