「適当に座って。お茶淹れるわ」
紅茶でいいわよね? と聞いてくる紫穂ちゃんに、おう、と返事しつつ、そわそわと落ち着かないまま部屋のなかを見渡す。
女の子の部屋、というにはあまりにも殺風景で物が少ない上、最低限の広さのリビングダイニング。小さなテレビとサイドテーブルにいくつかのクッションが床に散らばっていて、その中央に紫穂ちゃんくらいならすっぽりと収まってしまうだろう大きなビーズクッションが置かれていた。
カーペットも敷かれていないフローリングは埃ひとつなく綺麗だけれど、傷すらもなくてどこまでも生活臭を感じさせないモデルルームのような装いだった。
「座らないの? クッションは適当に使ってくれて構わないわよ」
ティーカップを運んできた紫穂ちゃんは、怪訝な顔をしながらお茶をサイドテーブルに並べている。そしてそのまま床に落ちているクッションの中で一番大きなものを拾ってお尻の下に敷いて座った。あー、うん、と曖昧な相槌を返しつつ、俺の分であろうティーカップを置いてくれた場所へクッションを使わず座り込む。さすがに直のフローリングは痛いな、と足を崩して紫穂ちゃんの様子を窺うと、紫穂ちゃんは何食わぬ顔をして自分の分のハーブティーを飲んでいた。
「……あ、あのさ」
「何?」
「こんなこと言うのも、変だとは思うんだけど……君のお給料なら、もっとイイ部屋住めるだろ?」
単身用の分譲マンションとまでは言わないけれど、女性向けにデザインされたそれなりの部屋に住めるくらいのお給料はバベルから出ているのを知っている。だって俺人事権もある程度持ってるから!
「帰って寝るだけかもしれないけどさ、もっと快適さを追求しても許されると思うぞ」
「余計なお世話。そもそも帰って寝るためだけの部屋にお金掛けようと思わないわ」
「そうかもしんねぇけどさ……休みの日とか、家でのんびりしたいときもあるじゃん?」
「休みの日はここにいないもの。ベッドにはお金掛けてるから充分でしょ」
ぷい、と唇を尖らせて紫穂ちゃんはそっぽを向いてしまう。可愛らしいなと思いつつ、じゃあ休みの日はどこにいるんだ? と気になってしまう自分もいて、俺も大分情緒が乱れているなとバレないように深呼吸を繰り返した。
「話って……休みの日はここにいないってことと関係あるのか?」
「関係ないわよ。休みの日は薫ちゃんと皆本さんの家で二人に癒してもらってるってだけ。話っていうのは私の話だからあの二人は関係ないわ」
「そ、そうか……」
内心ほっとしつつ、どんな内容なのか全く想像がつかないその話にドキドキしながら紫穂ちゃんが淹れてくれた紅茶に口を付ける。
思っていたよりも乾いていた喉と唇を潤して、それ以上何も言えなくなった俺はただひたすら黙って紫穂ちゃんが口を開くのを待ち続けた。
ほんの少し迷ったように目を伏せた紫穂ちゃんは、ふぅ、と息を吐いてカップの持ち手を指で撫でながら口を開いた。
「……私ね……私、男の人が怖いの」
淡々とそう告げた紫穂ちゃんは、磨かれたサイドテーブルに映る自分を見つめたままそっと続けた。
「大学生の頃、何人かとお付き合いしてたんだけど。それでちょっとトラウマっていうか。だから男の人って苦手なのよ」
そこまで話してもう一度ふぅと息を吐いた紫穂ちゃんは、目を閉じたままそれきり黙り込んでしまう。そうか、とも言えずにほんの少し眉を寄せて、恐る恐る口を開いた。
「……それは……もう少し具体的に聞いても?」
俺の言葉にぴくりと肩を震わせた紫穂ちゃんは、ゆっくりと瞼を開いて視線を彷徨わせる。
「……そうね……ちゃんと話す、って覚悟を決めたんだもの。ちゃんと全部話さなきゃ駄目ね」
「いや、全部じゃなくてもいいんだ。一部だけでもいいから。そうしたら俺も気を付けられるし」
「そういう話じゃないのよ。それに全部話さないと話が繋がらないの。だから、時間掛かるかもしれないけれど、全部話すわ」
そこまで言ってふぅーと深く深呼吸をした紫穂ちゃんは、カップを弄っていた手を止めてテーブルの上でそっと自分の手に指を絡めた。勇気を振り絞るように指先へ力を込めた紫穂ちゃんは、ゆっくりと瞼を閉じてから呼吸のスピードに合わせるように目を開いた。
「最初に付き合った彼とセックスした時にね……ちゃんとリミッターも付けていたし、透視もしないようコントロールもしてたのに、触られた瞬間、彼が私をいいようにしたいって想像してるのがみえちゃったの。男の人ってそういう感情を持て余すのも知ってたし、好きな女の子とそういうことになってるんだからそういう想像してるのだって当たり前だってわかってたんだけどね。ちょっと……ビックリしちゃったのよ。あまりにも直接的で、何て言うか……頭を殴られた、みたいな。私にとってそういう邪な感情は事件現場で透視ることが多いものだったから、それが私にも向けられているんだって改めてよくわかった瞬間だった、って言えばいいのかしら。とにかく、こんなこと言うのは変かもしれないけど……自分にそういう感情を向けられるのが、ちょっと怖くて」
俺ではないどこか別の場所を見つめたまま、紫穂ちゃんは静かに続ける。
「それで、最初の彼とは気まずくなっちゃって別れたの。次は気を付けよう、と思って別の人とも付き合ってみたんだけど、うまくいかなくて。リミッターの重ね付けを試してみたり、小型のECMを持ち込んだりして努力はしたんだけど、やっぱり駄目で……男の人に触れられるのが怖くなった」
小さな声でそう告げた紫穂ちゃんは、ふぅ、と息を吐いて瞼を閉じてしまう。それをじっと見つめながら、紫穂ちゃんが再び口を開くのを待ち続けた。
「この見た目だし、何もしてなくても男は寄ってきたわ。でも、そんな風に頑張ってみても、ちゃんとお付き合いできないってバレた途端、みんな手のひらを返してこう言ったわ。『三宮紫穂は高慢で高飛車なつまんない女』。あながち外れてもないから言い返すのも面倒で。まぁあんまり酷い男は全力で社会的に潰してやったけど。でも、そんなことを繰り返したら結局自分で証明することになるのよね。私は高慢で高飛車な上につまんない女だって」
ふふ、と力無く笑った紫穂ちゃんは眉を下げたまま首を傾げて続ける。
「男なんて、って切り捨てるのは簡単だった。でもみんな私の本質を言い当ててるんだもの。開き直るのにも限界があった。それでも感謝してる部分はあるの。賢木先生のことを忘れようと思って男の人と付き合ってみたけれど、そんなことで忘れられるほど賢木先生は私にとって簡単な存在じゃないって気付けたから。その部分は感謝してる」
他の人とお付き合いしてみてやっと気付くなんて馬鹿みたいでしょ、と紫穂ちゃんは笑った。
「先生のことは好きだけど、私はこんなだし、付き合えなくたっていい。私が一方的にずっと好きでいればいいと思ってた。だって先生は身体の関係が結べない女なんて興味ないでしょ? だからずっと私だけの片想いでよかったはずなのに……」
きゅっと苦しそうに眉を寄せた紫穂ちゃんは、潤んだ目を隠すように俯いてしまう。
「先生も私のこと好きでいてくれるってわかって、途端に怖くなった。どうすればいいのかわからなくて、逃げるしかできなかったの。だって私、男の人が怖いのよ? そんな女のことを先生がずっと好きでいてくれるわけがないじゃない」
ごめんなさい、と紫穂ちゃんは力無く呟いた。
紫穂ちゃんは俯いたままで表情が読み取れない。紫穂ちゃんが話してくれたことをひとつひとつ噛み砕きながら、ふぅ、と小さく息を吐いてゆっくりと口を開いた。
「言いたいことはたくさんあるけど……まずはひとつだけ聞いてくれ。俺は君と身体の関係が結べないとしても、紫穂ちゃんのことが好きなのは一生変わらない。俺だって大概拗らせてるんだ。今更この気持ちを捨てられるわけねぇんだよ」
もうすぐ四十歳に届いてしまいそうな自分が恋心を拗らせて紫穂ちゃんに振り回されてばかりの俺の方が相当ヤバイし、かなりイタくて目も当てられないと思う。
まぁ、簡単に諦められるような気持ちでもなかったからここまで拗らせてずっと紫穂ちゃんのことを見守ってきたワケだけれども。
「俺は君とセックスがしたくて君のコトを好きでいるんじゃない。紫穂ちゃんが紫穂ちゃんだから好きなんだ。それだけはまず、わかってほしい」
できるだけ気持ちを波立たせず、静かに落ち着いて丁寧に言葉を告げていく。
「紫穂ちゃんが男の性欲にびっくりしたのはおかしなことじゃないんだ。確かに君は子どもの頃から男のそういう汚い部分に変な意味で慣れすぎてた。それなのに皆本や周りの大人たちに守られて健全に成長できたから、普通の男が抱いてる欲望と犯罪起こす奴らや変質者のそういうのはどこか延長線上にあるってことを忘れてただけなんだと思う。君の周りは、いい意味で、理性的で、ちゃんとした大人ばかりだったから」
紫穂ちゃんと出会ったばかりの頃はそれが羨ましくて仕方がなかったけれど、今となっては俺と違ってそういう健全な環境で紫穂ちゃんは守られてきたからこそ、男の欲望に触れて怖いと感じる当たり前の反応を持てたことに感謝すら感じる。ひとつでも何か欠落していたら、そんな当たり前の感情すら育っていなかったかもしれない。
「一番身近な男の松風やバレット、ティムだってそういうの弁えられる奴らだから、どうしようもない男の欲望なんて知らずに来れたんだよ。そんな君がいきなり彼氏にそういう欲望をぶつけられたらびっくりするし怖いと思っても何もおかしいことじゃない」
本当に紫穂ちゃんも、いや紫穂ちゃんだけじゃない。バベルが関わってやれた子どもたちは、恵まれた健全な環境に身を置けていたのだなとほっとする。
大人の努力だけじゃどうにもならないことだってあるのに、荒波のなか、世界を救って、自分たちの生きる道まで見つけて真っ直ぐに成長した。
普通に生きてたってマトモになれない奴だっているのに、普通じゃないこの子たちはいろんな壁を乗り越えてマトモに生きている。
それだってこの子たちが起こした奇跡のひとつなのかもしれない。
全うに生きて、ぶつかった男が悪かった。
ただ、それだけのことだ。
「……紫穂ちゃんの場合はさ……これは多分、の話で、俺の推測でしかねぇんだけど……男にそういう感情を向けられたことよりも、そいつらに酷いこと言われたことの方が、心の傷になってるんじゃないかと思う。好きな子とうまくいかないからって女の子のせいにして酷いこと言う男は最低だ。もう君は泣かなくていい」
確かに初めて透視た同年代の男の頭の中、しかもあまり直接女の子に見せるべきじゃない部分を見せつけられて驚いただろうし、恐怖を感じたとは思う。
それを否定したいわけじゃない。
ただ、紫穂ちゃんの話を聞いて、その恐怖がトラウマだというより、紫穂ちゃんと付き合った男たちのそのあとの行動のマズさの方が目に付いた。
きっとそれは深く紫穂ちゃんを傷付けたし、紫穂ちゃん自身も気付かないところで癒えない心の傷となってしまったんだと思う。
「君はつまらなくなんかない。高慢で高飛車でもない。好きな子に我が儘言われたら嬉しくて何だって叶えたくなるのが男ってモンだろ。俺は君になら何されたって可愛いと思うし、いつだって紫穂ちゃんのことを甘やかしたい」
紫穂ちゃんの本音を受け止めて、驚きよりも後悔の方がはるかに大きかった。
身動きできずにずっと見ていることしかできなかった自分が恐ろしく情けない。
俺がもっと早く紫穂ちゃんに気持ちを伝えていれば、紫穂ちゃんがこんな風に傷付いて心の傷を抱えることになんてならなかったはずだ。
「話してくれて、ありがとう。俺は、いくらでも待つし、紫穂ちゃんが俺のことも怖いんなら必要以上に近付いたりしない。セックスありきの関係自体がどうかと思うし、君が望まないことはしたくない。できれば、俺は紫穂ちゃんと恋人になりたいと思ってるけど、それだって君が嫌なら今のままでいい。君が俺のこと好きでいてくれるなら、それで充分だ。もちろん、心変わりして、もっとイイ男と出会ってそいつのことが好きになったんなら応援する。心の傷を癒やすことだって協力する。なんてったって一応俺はこの世界じゃ有名なサイコドクターだからな」
ニッと笑顔を浮かべて紫穂ちゃんを安心させるように笑いかける。
心の奥底の本音じゃあ紫穂ちゃんと恋愛関係の恋人同士になりたいと泣き叫んで我が儘言っている自分をよしよしと慰めつつ、ここは俺が大人になったカッコいいだろと言い聞かせた。
「俺を拒絶してるんじゃないってわかって安心した。辛かっただろ? 話してくれて本当にありがとうな。今日はもう疲れただろうから美味しいモンでも食べてゆっくり風呂に入って休みなよ」
そう言って立ち上がろうとした俺を慌てて引き止めるようにおろおろと手を伸ばした紫穂ちゃんは、ぎゅっと目を瞑って震える唇を動かした。
「ま、まって、せんせい」
「ん? どうした?」
怖がらせないように、できるだけ優しく問い掛けると紫穂ちゃんは困ったように眉を下げたまま上目遣いで見つめてくる。
可愛すぎて思わず降参してしまいそうになる自分を戒めて何とか表情を取り繕うと、勇気を振り絞るようにふるりと頭を振った紫穂ちゃんが続ける。
「わ、わたしも……先生と、こ、恋人に……なれるとうれしい」
「え」
「私、こんなだけど……先生の彼女になれるなら、なりたいの。でも、先生は、その……物足りない、でしょ。私、頑張るから。先生の彼女にしてほしい」
きっと先生ならこわくない、と震える声で続けた紫穂ちゃんに、ぎゅうと胸を鷲掴みされたように感じる。とても苦しくて痛いけれど、それを上回る歓喜で思わず叫び出してしまいそうだ。それでも自分を抑えつけて、極めて冷静に、と自分に言い聞かせながら口を開いた。
「……頑張る必要なんてねぇよ。君が大丈夫って思えるまで、俺は待つから。その代わり、俺の彼女になってよ。紫穂ちゃん」
「……代わりも何も、先生の恋人になれてうれしいのは私よ。先生につまらないって思われないよう努力しなきゃいけないのは私なんだから」
「だからそんなことないって……君は充分魅力的で、すごく可愛い」
キッと眉を吊り上げて俺を睨みつけてくる紫穂ちゃんは、頬を真っ赤に染め上げていて可愛い。思わず綻んでしまう顔を隠すこともせず、肩に入って締まっていた力をほっと抜いた。
「なぁ、いきなりこんなこと言うのは卑怯かもしれねぇけどさ。まずは手を繋いでみないか?」
ハッと大きく目を見開いた紫穂ちゃんに、リミッターを付けたままの右手を差し出す。
「それ以上はしないし求めない。恋人になった記念に、手を繋ごうよ。紫穂ちゃん」
お互いまだリミッターを付けたままだし俺たちは同じ能力者で手の内も知っているけれど知っているからこそ防壁だって張りやすい。紫穂ちゃんもそれをわかっているからか恐る恐るではあるけれどそろりと俺の手のひらの上に手を重ねた。きゅっと力が入ったのを確認してから探るようにして指を絡める。これくらいじゃお互い何も透視み取れないから、指先に感じるのはお互いの体温と肌の感触だけ。俺よりもはるかに小さくて細い指の感触を味わいながら、より密着するように力加減や角度を変えると、紫穂ちゃんの顔がみるみるうちに赤くなって、今日はこれくらいにしておかないといろんな意味で限界だなとそっと手を離した。
「ありがとう。うれしい。俺、半分振られるのかもなって思ってたから。紫穂ちゃんの誕生日に、急にキスしようとして悪かった。怖かったろ。ごめんな」
「……う、ううん……だい、じょうぶ」
「じゃあ俺そろそろ帰るよ。今日はありがとうな」
「え……帰っちゃうの……?」
「……え……まぁ、話終わったし……まだ、何か話したいことでもあるのか?」
「え……えっと……そうじゃない、けど……でも……」
「でも?」
「そ、そうよ! ご飯食べていかない? 何も無いしレトルトしかないし、おもてなしも何もできない、けど……」
へにょへにょと弱々しい声で続けた紫穂ちゃんに、おぉ、と内心感嘆の声を上げてしまいそうになりながら、いやいやいくら恋人になったって言っても紫穂ちゃんを怖がらせるのは駄目だと懸命に距離感を探った。
「えっと……いいのか?」
「私がイイって言ってるのよ。手料理じゃなくて申し訳無いけど。先生はレトルトとか食べないの?」
「食べる、けど」
「じゃあイイでしょ。何か問題あるの」
「そ、そうじゃなくて……疲れてるだろうし、悪いな、と思って……」
「もっ、もう少し先生と一緒に居たいって言えば満足ッ!? 男の人は怖いけど先生が怖いなんてひと言も言ってないわ!」
フーフーと毛を逆立ててこちらを威嚇する猫のように眉を吊り上げた紫穂ちゃんは目尻にうっすらと涙を溜めて俺を上目遣いに睨みつけている。ンンッ、と漏れた呻きを何とか誤魔化しつつぐるぐると頭を回転させて目を泳がせたまま紫穂ちゃんに向き直った。
「じゃ、じゃあ……その、甘えよう、かな? 俺も、折角だし、もう少し君と一緒に、いたい」
「さッ、最初から素直にそう言えばいいんでしょ?! ホントにもう!!!」
先生のバカッ! と思い切り叫んで慌ただしくキッチンへと消えていった紫穂ちゃんの後ろ姿を見送りつつ、俺はこんな調子で本当にちゃんと我慢なんてできるのかな、と頼りない理性の糸の強度を心のなかで確かめた。
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内心ヒヤヒヤしながらの食事は何事もなく終わって、二人で片付けも済ませてしまえばあっという間にやることはなくなってしまう。そわそわと落ち着かない感覚を何とか宥めながら、半ば定位置のようになりつつあったサイドテーブルから立ち上がった。
「あー……じゃあ、そろそろ帰るな」
もう流石に、と顔を上げれば目を大きく見開いた紫穂ちゃんが心底驚いたようにぽつりと呟く。
「え……? 帰っちゃうの……?」
見るからに寂しそうな呆然とした表情で俺を見つめてくる紫穂ちゃんに、ぐっと胸を掴まれたような気持ちになるけれどいやいや落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて首を傾げる。
「え……いや、だって……」
このままここに居たらなんかいろいろ自信がないんだよね、とは言えない。
それはあまりにも直接的すぎる。
ただでさえそういうことに恐怖心を抱いている紫穂ちゃん相手にそんなことを告げてしまったら、多分もう手も繋いでもらえないし最悪紫穂ちゃんを傷付けてフラれるかもしれない。
そんなことになったらいろんな意味で俺は死んでしまうともうすでに半分死にそうになりながらどうしたものかと言葉を探していると、ほんのりと目許を赤くした紫穂ちゃんが俺を上目遣いに見つめた。
「……まだ一緒にいたい」
困ったように眉を八の字にしてそう呟く紫穂ちゃんはそりゃもう大層可愛くて思わず手のひらで顔を覆ってしまう。
「そりゃあ……俺も、そうだけどさ……」
まだ一緒にいたいけどこれ以上はヤバいんですよねと世間話のように言えたらよかった。
でもそんなことできないのでぐっと唇を噛んでいると紫穂ちゃんは指先で髪の毛を弄りながらチラリと俺を横目で見遣った。
「明日……先生も休みでしょ。泊まってけばいいじゃない」
「ハ?! おま、何言って!」
「泊まりはダメなの?」
「だ……だめじゃ、ねぇけどぉ……」
駄目だ俺紫穂ちゃんには一生勝てない。
わかりきっていたことを改めて自覚しつつ、恐る恐る紫穂ちゃんに向かって尋ねる。
「……本当に……泊まっていいのか?」
まさかな、と思いつつ紫穂ちゃんの返事を待つと、紫穂ちゃんは頬を赤くしたまま小さくコクリと頷いた。
いやいや意味わかって言ってんの!? と思わず叫びそうになったのを我慢した俺はエライと思う。
そんな風に頬を赤らめちゃってさ、俺に美味しく戴かれたらどうすんの!
まぁ紫穂ちゃんを怖がらせて嫌われるのは不本意なので気合入れて我慢するけどさ!!!
「……じゃ、じゃあ……泊まろう、か、な」
もたもたと心許ない口調でそう答えると、紫穂ちゃんは嬉しそうにはにかんで小さく頷いた。びっくりするくらい可愛いな、と内心悶絶しつつ中途半端に上げていた腰を元の位置に落ち着ける。あーこれはいろんな意味でヤバい夜になりそうだ、とヒヤヒヤしながら、それを誤魔化すようにヘラリと笑った。
「あー、あのさ。コンビニ行ってきていいか? 着替えとか買ってくるわ」
ついでにちょっと外の空気でも吸って冷静になりたい。それが一晩持続してくれるかは別として。一旦小休止を挟まないとただでさえ弱々しい俺の理性の糸が千切れてしまう。
「……それじゃあ、私も行くわ。コンビニ」
「え? いや、女の子が夜に出歩くのは危ないじゃん。俺一人で行ってくるよ?」
「でも……朝御飯になるようなもの、何もないし」
「そんな気を遣わなくて大丈夫だって! 急に俺が泊まることになったんだしさ、朝は二人で食べに行けばいいじゃん?」
「……折角泊まるのに手料理のひとつも出せないなんて私が嫌なの。それとも、食べたくないの? 私の手料理」
「ウッ……そ、それは……食べたい、ですけど」
「じゃあ決まりね」
さぁ行きましょ、と立ち上がった紫穂ちゃんに釣られて玄関へ向かう。さっさと靴を履いて出ていこうとする紫穂ちゃんの背中を追いかけて、こっそり溜め息を吐いた。
紫穂ちゃんと一緒に出歩いて冷静さは取り戻せるんだろうか。
不安しかないけれど少しでも落ち着いて何事もなく一晩を過ごさなければならない。
考えれば考えるほど無理なのでは? と内なる自分が冷静に指摘してくるけれど、そんなの気にしちゃいられない。
たとえ無理でもやらなきゃいけないときが男にはあるんだよ!
「……ねぇ、先生」
気付けば先に歩き出してしまっていた俺を紫穂ちゃんが呼び止める。慌てて振り向けば紫穂ちゃんはキッと眉を吊り上げて俺を睨み付けていた。
「え……なに? どうした?」
「……て!」
「は?」
「……こっ、恋人に! なったんだから……だから! 手!」
「あッ、そ、そうだなッ!」
バッと突き出された紫穂ちゃんの手と赤い顔を見比べて、慌てて紫穂ちゃんの手を掴む。
掴んだものの掴むのが正解だったのかがわからなくて、少々力いっぱい握ってしまった手を離そうと焦りながら力を抜いた。すると手を離す前に紫穂ちゃんが俺の手に指を絡めてきて、カッと頬が熱くなるのを感じる。ヤバイヤバイいろいろ透視されたんじゃねぇか、と冷や汗を流しつつ赤い頬を隠すように空いた手のひらで覆った。
きゅっと目を瞑ったまま俺の手が離れてしまわないようにともたつく指先を絡めてくる紫穂ちゃんは、驚いたり怖がったりしているようには見えない。念のため、と心のなかで言い訳しながらそっと表層だけを透視み取ると、やっぱり恐怖心は感じられなかった。
紫穂ちゃんの細い指が逃げてしまわないよう恐る恐るこちらからも指を絡めながら、静かに深呼吸をして紫穂ちゃんに問いかける。
「……怖く、ないのか……? 俺だって一応、男、だぞ……?」
一応、と前置きしないといけないのが何とも情けないけれど、俺が男の枠組みに入っていない悲しい可能性も捨てきれない。
こうして手を繋げるだけでも充分じゃないか満たされろよと自分を慰めていると、そろりと指先に力を込めた紫穂ちゃんが、上目遣いに俺を見つめて口を開いた。
「……せ、先生は平気……だから……だいじょうぶ……」
だから、このままコンビニまで、と紫穂ちゃんは小さく呟く。いつもの隙があれば俺に反抗してやろうという刺々しい態度はどこを探しても見つけられない。それどころかたまにプライベートで一緒に出かけたときに見せてくれる可愛さをここぞとばかりに凝縮したような態度を見せつけられて思わずぐぅと喉が鳴った。
「そ……そっか……じゃ、じゃあ、行こうか。コンビニ」
まるで人生で初めてのお付き合いみたいに覚束ない動作で紫穂ちゃんの手を握り返す。二人して赤い顔のまま、真っ暗な夜道を歩き出した。
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普段よりもゆっくりとした歩調で、無言のまましっかり時間を掛けて辿り着いたコンビニは、煌々と明るい照明で甘酸っぱい雰囲気に染まっていた俺たちを現実へと引き戻した。
「じゃ、じゃあ! 俺、自分の下着とか見てくるわ!」
「あっ、そ、そうね! じゃあ私は朝ごはん見てるから」
ぎこちない仕草でパッと手を挙げて合図すると、紫穂ちゃんもぎこちなく笑って頷いている。お互い自分のペースを取り戻すかのように目的の場所へ向かってそそくさと散った。
いやマジで中高生のお付き合いじゃあるまいし、なんで手を繋いで歩くだけでこんなドキドキしてんだよ!
すぅはぁと無理矢理深呼吸をしながら下着なんかが陳列されている棚へと向かう。
少しだけ落ち着いた心臓を服の上から撫でつけて自分のサイズに合うボクサーパンツとTシャツを見繕った。流石にパジャマの代わりになりそうなボトムは売っていないので今履いているものを着て寝るしかない。
まぁこれで何とかなるだろ、と棚から離れようとして、ふと足元の棚に視線を移した。
衛生用品の並びにひっそりと並べられたソレ。
いや、要らないだろ、と首を横に振る自分と、備えあれば憂い無しって言うじゃん、と首を縦に振っている自分が、俺の中で殴り合いの喧嘩を始めようとしている。
自分の胸に手を当てて、自分の理性が一番信用ならないと頷いてから棚の前にしゃがみ込んだ。
喧嘩するまでもねぇんだよこういうのはあっても無くても用意しとくもんなんだから。
そう誰向けでもない言い訳をしながら周囲に気を配りつつ品定めをしていく。
コンビニだから品揃えは少ない。
当然自分が愛用しているモノなんてなかった。
どれにしようか、と手を伸ばして、紫穂ちゃん慣れてないんだったらジェル付きとかローションも用意した方がいいのか? と一瞬だけ手を止める。
いやそもそもそんな濡れてない状態で無理に進めることねぇじゃんまずはお互い触れ合うくらいから始めていけばいいんだからさ、と自分を納得させて一番シンプルなスキンを手に取った。サイズに問題ないことを確認しつつ、ま、一応な? ともう自分でも誰に向けて言っているのかわからない言い訳をしてローションにも手を伸ばす。成分を確認して使用中にスキンが破れたりしないものかどうか確かめる。問題なさそうだと判断したところでとっとと会計を済ませようと立ち上がった。
「先生? 朝ごはんなんだけど」
「うひゃあ!」
「……? 今何隠したの?」
「エッ! いや! 何も隠してねぇよ!?」
慌てて自分の背中に隠したモノを紫穂ちゃんに見られないよう目を泳がせながら一生懸命背中に押し当てる。
どうか見つからないでくれと心のなかで祈っていると、怪訝な顔をした紫穂ちゃんが探るように俺を見つめた。
「……まぁいいけど。朝ごはん、ハムエッグがいい? それともベーコンエッグがいい?」
「あー……ベーコン、かな」
「ベーコンね。じゃあレジに行きましょ? 後ろに持ってるものもカゴに入れていいわよ」
「やっ、それはそのッ! これは俺が買うから!」
「……ますます怪しいんだけど? ただの下着でしょ? 今更恥ずかしいも何もないわよ」
さぁホラ出して、とカゴを突き出してくる紫穂ちゃんに、うぅ、と小さく唸りながら取り敢えず下着とTシャツのパックだけを差し出す。これで誤魔化しきれる訳がないとダラダラ冷や汗を掻きながら居心地の悪さを誤魔化すように目を逸らすと、やっぱりジト目の紫穂ちゃんが一歩俺に向かって身を乗り出した。
「反対の手に持ってるモノは何かしら? 私に隠さなきゃいけないようなモノなの?」
「え……っと、それは……いや、その……」
「もー。まどろっこしいわね。お互い隠し事なんてできないのわかってるでしょ? それとも私を相手に隠し事できるとでも思ってるのかしら」
ふん、と鼻を鳴らして手のひらを翳す紫穂ちゃんに、慌てて両手を挙げて降参の意を示す。そうすれば当然隠し持っていたものは紫穂ちゃんの視線に晒されてしまうわけで、本当に自分の馬鹿さ加減に自分を殴りたくなった。
「あー……その、スマン。必要ないよな。棚に戻すわ」
引き攣る顔を何とか笑顔にして場を誤魔化す。そのまま紫穂ちゃんに背を向けて棚の前にしゃがみ込んだ。
気合い入れて我慢するって言ってたのはどこのどいつだよ。
始まる前から何も我慢出来てねぇじゃん。
こんなんで紫穂ちゃんに受け入れてもらえるワケねぇし、大事にしたいんじゃなかったのかよ。
ふぅ、と溜め息を吐いて手に取った商品を棚に戻そうとすると、待って、と紫穂ちゃんが思い詰めたように小さく呟いた。
「待って……戻さないで。カゴに入れて」
「……え? いや、でも必要ないだろ?」
「い、いるわ。必要、かもしれないじゃない。だから入れて」
「いや、でも」
「いいから! はやく!」
「ハ、ハイ!」
紫穂ちゃんの勢いに負けて手に持っていた物をカゴに入れると、紫穂ちゃんはそのままズンズンとレジに向かって歩いていってしまう。慌ててそれを追いかけて紫穂ちゃんからカゴを奪って会計を済ませると、妙な沈黙が俺たちを支配して、ジッと紙袋に入れられるそれらを睨みつける怪しい客になってしまった。
ありがとうございましたー、というやる気無い店員の挨拶に頭を下げつつ、商品を受け取ってスタスタと二人でコンビニの外へ出る。ビニール袋のなかでカサカサと音を立てる紙袋が何だか嫌に存在を主張してきて思わず口を開いた。
「なぁ」
コンビニから少し離れたところでぴたりと足を止めて紫穂ちゃんに向き直る。
紫穂ちゃんは暗がりでもわかるくらい不機嫌そうに眉を寄せていて、でもほんのりと頬が赤らんでいるのがわかった。
「……なによ」
「俺はさ、多分、君が思ってるようなカッコいい男じゃないぞ」
「……ハァ? 先生って本当に自分のコト格好いいって思ってたの?」
「え、ちがうの……じゃなくて! 今はそういうことじゃなくて! 俺だって男だから君にあんなこと言われたら調子に乗るって言ってんの!」
「……あんなことって何よ。私別に何も言ってないわ」
「言っただろ……こ、コレが……必要かもしれない、って」
片手に持っていたビニール袋を持ち上げてガサリと音を立てれば、紫穂ちゃんはますます顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
「俺は……君の周りにいる男のなかで、多分一番下半身が信用できない男だろ。君が嫌だって言ってるのはちゃんと伝わってるから何もしないし我慢もするけど、あんなこと言われたら男は馬鹿だから調子に乗っちまうんだよ。何もしないって決めててもそういう気持ちになっちゃうっていうか!」
自分でもかなり矛盾していることを言っているなと泣きたい気持ちになりながら、でもあんなこと言われてここにこうして用意ができてしまったのに我慢しろって地獄じゃんと情けない言い訳を自分のなかで思い切り叫ぶ。
ふぅぅ、と自分を落ち着けるように息を吐くと、紫穂ちゃんは戸惑うように俺の指先を掴みながら恐る恐る首を傾げた。
「……何もしないの?」
「していいならするけど!!!」
元気よく溢れ出てしまった本音に慌てて口を押さえると、紫穂ちゃんは肩から力が抜けたように笑って俺の腕に抱き着いた。
「先生の下半身が緩いのは知ってるわ。でも、もう私だけでしょ?」
「え」
「……違うの?」
「いや、違わないけど……」
「なら、いいの。男の人は確かに怖いけど、先生なら大丈夫。怖いけど、先生となら、そういうことしたい。ちゃんと私に触れてほしい」
「え、そ、それは」
「えいっ」
「し、紫穂ちゃん!?」
俺の腕に身を寄せていた紫穂ちゃんがぎゅっと俺の胴体に抱き着いてくる。細くて柔らかい感触にどう対応すればいいのか混乱していると、紫穂ちゃんはスリ、と俺の胸板に頬を寄せた。
「ふふ……私ね、ずっとこうして、先生のこと独り占めできたらいいのに、って思ってたのよ」
やっと独り占めできるのね、とうっとり話す紫穂ちゃんに、どうしてここが外なんだろうと全てを呪いたい気持ちになった。
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