○○しないと出られない部屋

「……だいぶ理解が深まったんじゃねぇか?」
小さな膝の上に不釣り合いな程分厚い歴史書。
いかにも歴史書らしい重厚で威厳のある装丁を、白くて細い指が支えている。ちょうど解説していた章が終幕を迎えるところで、丁寧に文字を辿っていた指先が止まった。
「えへへ……レオナ先輩のおかげです!」
「……明日からはこの次に進む。しっかり予習しておけよ」
「はい! ありがとうございます! 次も頑張ります!」
この学園では珍しいくらいの素直さで、ユウは元気よく笑う。眩しすぎるその笑顔に目を細めて、そろりとユウの丸く小さな頭を撫でた。
もはや習慣になりつつあると言ってもいいその行為を丁寧に味わって、心地よさそうに目を細めて笑うユウと視線を交わす。
図書館だけでなく、植物園でもユウにこうして知識を分け与えるようになってしばらく経つ。最初は拙かったこうした触れ合いも繰り返すうちに馴染んで、こうして二人で過ごす時間には欠かせないものになりつつあった。
特別二人きりを意識しているわけではないが、二人でいる時間が増えてきている自覚はある。そして、この時間を心地良いと感じているのは自分だけではなく、ユウもそうだという自信があった。
二人で過ごせば過ごすほど、この時間の価値は大きなものとなり、愛しく、そして何物にも代え難いものへとなっていた。
「ねぇ、レオナ先輩」
顔に掛かった髪を指ですくい上げ耳に掛けたユウは、にこりと微笑んで俺を見上げている。
「私、夕焼けの草原の言葉や文化がもっと知りたいです。教えていただけませんか?」
ほんの少しだけ、俺を気遣うような声色でユウは告げる。どうやら俺が難色を示すと予想し、その理由も理解した上で、豪胆にも|ソ《・》|レ《・》を望んでいるらしい。それなのに、どうか断らないでほしいという甘い願いが視線に乗ってこちらを伺っている。その甘やかな目に弱いことを自覚している俺は、何と返せばいいのかと顔を顰めるしかなかった。
「……テメェも暇じゃねぇのに、どうしてそんな悪趣味な学を深めようとする」
ユウのおねだりに易々と是を返すわけにもいかず、眉を寄せたまま難しい顔でユウを見遣る。
あの国のことを知りたい、なんて趣味が悪いとしか言いようがないのだ。あの国の知識を蓄えたってこの世界のことを知りたいと望むコイツにとって、その近道から程遠く、遠回り過ぎて日が暮れるどころか季節がひと巡りしてしまうだろう。
あの国を知ろうだなんてことは、どうしたって悪趣味であることこの上ない。
それは間違いないのだからこの返答は妥当だ。そう自分に言い聞かせてユウの様子を窺うと、ユウは困ったように笑ってから俺と視線を合わせた。
「悪趣味だなんて……ただ、もっと知りたいと思っただけですよ? タマーシュナ・ムイナで初めて夕焼けの草原を訪ねて、今度は自分の足でレオナ先輩の国に立ちたいと思ったんです」
照れたようにはにかんだユウは、それに、と続ける。
「名前の通り、夕焼けがとても素敵でした。太陽が沈んで世界が暗闇に包まれるまで、ずっと見ていたいなって」
すごく綺麗で目に焼き付いてます、と嬉しそうにユウは笑っている。
その笑顔が眩しくて、思わず目を細めながらユウの顔を見つめる。
惹かれるものなど何もない。
そう言っても過言ではないあの国の、世界に誇れる唯一のモノ。
祖国の何もかもを赤く染め上げる美しい夕焼けを、世界で一等美しいのだと花が綻ぶように語るユウに胸が締め付けられる。
あんな国でもお前は光を見い出すのか。
海のような蒼い瞳に、あの夕焼けを映してくれるというのか。
ほとほと、本当にお前は悪趣味だ。
えも言われぬ感情が溢れ返って、堪えきれず表情が崩れてしまう。それでもその顔を素直に露呈してしまうのは気恥ずかしくて、ほんの少しユウから顔を背けた。ただ、このまま顔を背けているだけというのも格好悪い気がして、ユウの方へと恐る恐る手を伸ばす。心地好い距離感を縮めるように身を寄せれば、自然とユウも俺に身体を預けて俺の掌を甘受した。
上質な絹のようなユウの髪に触れ、自分の鬣とは違う感触を手のひら全体で味わう。経糸を整えるように金の髪へ指を通すとユウは心地良さそうに笑って俺を見上げた。
「……君タチが噂のお二人サンだね?」
「?!」
「あァ! そンなに警戒しないデ、僕はただ君タチに会いタかったダケなんだ」
咄嗟にユウを背中に庇いつつ、周囲に警戒を巡らせる。いやに響く小さな声がする方へ耳をピンと立てると、ガサリと茂みを掻き分けてシマリスほどの小さな人型の生物が顔を現した。
「……妖精が俺達に何の用だ」
小さいというだけでない。尖った耳や人間離れした肌の色。人の言葉を真似たおかしな口調が、コイツは妖精だと鬱陶しいくらい俺たちに主張してくる。
そもそも植物園という場所が絡む妖精なんて、こっちにはいい思い出がこれっぽっちもないんだ。過剰に警戒をしておいて損ということはなかった。
「ひドいな〜。そンなに警戒するコとなイじゃないカ」
僕タチ初対面だろウ? と言って妖精は楽しそうにクルリとステップを踏んでいる。
「僕はミンナが噂してるおとぎ話のお二人サンに会ってお喋りしたかったダケ!」
つい先程まで浮かれてクルクルと小躍りをしていたクセに、今度は怒り狂ったように顔を真っ赤にして妖精は小さな足を踏み鳴らしている。感情の振れ幅が大きすぎることに眉を顰めていると、ふん、と妖精は腕を組み小さな身体で威張ってみせた。
「この僕ガわざワざ君タちの元へ出向イたんダよ! もっト歓迎シテくれナくっちゃア!」
妙に耳障りな音でそう叫んだ妖精は、今度は空高く両手を掲げ、まるで浮かれたパーティーでも始まったかのように出鱈目なステップを踏み始める。
「この僕ニ、『真実の愛』ってイうモノを見セておくレよ!」
奇天烈な服の裾をヒラヒラ揺らしてご機嫌にそう告げた妖精は、空に掲げていた両手をくるりと返して俺達を指差した。
「僕はハッピーエンドのそノ先、『幸せに暮らしましたとさ』ノ真実が知リたいダケなンだ!」
急に指差された不快感に眉を寄せ、噛み付くように妖精を睨みつける。こっちの機嫌なんて知りゃしないとでも言うように、妖精は全くこちらを看過せず指揮棒を振るように指先で空を切ってみせた。
「運命デ結ばレたプリンセスとプリンスだけガ使えル取って置きノ魔法! 僕ニ見せテおクれよ!」
アぁ、素敵ダなぁ~、と相変わらず妙な調子をつけて唄うように続けた妖精は、集めた魔力を指先に纏うようにして更に魔力の光を踊らせている。
魔法を使うつもりか?
ピリ、と走る緊張に全身の毛を逆立てて相手に意識を集中させる。
何の魔法だ?
魔法式が読み取れない。
俺の知らない魔法ということは――ユニーク魔法、いや。
「れ、レオナ先輩……あの妖精さんは、一体何を言ってるんですか……?」
全く意味がわかりません、とユウは不安そうに俺だけに聞こえる小声で問い掛けてくる。危機的状況であることを察知しているのか、僅かに震える指先が俺の背中の服を掴んだ。弱々しいその指先を守るように、しっかりと後ろへ腕を伸ばしてユウを庇った。
「奇遇だなァ、生憎俺にもさっぱり意味がわからねぇんだ……だが、妖精の言葉に惑わされるな。油断するとアイツの手のひらの上で踊らされるぞ」
俺の言葉にユウはびくりと身体を震わせて、きゅっと俺に身を寄せてくる。気を引き締めるように細く長い息を吐いたユウに合わせて自らも呼吸を整えると、俺達を見据えていた妖精がニタリと笑った。
「素敵じゃナいカァ!『真実の愛』デ約束されタ永遠! 僕ノ祝福で君タチを運命の道にいざナってアゲル」
キラキラとした魔力の塊が妖精の周りで一際眩しい光を放つ。
尋常ではないその輝きに目を庇って身構えた。
やはりこれはユニーク魔法なんかじゃない。
もっと厄介な――妖精の祝福!
「ふざけんなッ! テメェらの祝福なんざ、俺たちにとっちゃ呪いも同然なんだよッ!」
妖精の魔力が解き放たれる前に自身の魔力を練り上げて防御魔法を発動させた。
詠唱を省いた防御魔法の効力はたかが知れている。だが詠唱を|唱《・》|え《・》|る《・》ための時間稼ぎにはなるはずだ。この一瞬の間に杖を召喚して俺たちの周囲に強力な防御魔法を発動させる。半径一メートルの小さなものだが、力を絞ったからこそ強固な鉄壁を築けた。それこそ、妖精族の祝福すら跳ね返すほどの。
「……?」
しかし、確かに発動したはずの魔法の手応えも、手に馴染んでいるはずの杖の感触もない。どういうことだ、と一瞬気を取られた瞬間、目の前が突然真っ白な空間に塗り変わった。
「は……?」
どこだここは。
先程までは確かに植物園の土を踏んでいた足は今、何故か白く硬い床を踏み締めている。足の裏に感じていた感触が変化したことすら気付かなかった事実に一瞬だけ呆けて、ハッと後ろを振り返った。
「ユウッ!」
自分でも驚くほど緊迫した声で叫ぶと、ただ白いだけの空間にわんわんと自分の声が響く。
「……ユウ?……おい、ユウッ! 何処に行った!?」
確かに自分の背中に縋っていたハズのユウの姿は何処にもなく、どうしようもないほど空虚な白い空間が目の前に広がっていた。沸き上がってくる焦りを隠すこともできずに、僅かな音でも拾うために耳を立て、周囲にくまなく目を凝らし血相を変えてユウの存在を探した。見渡せども見渡せども、ユウの痕跡どころかユウの髪の毛一本すら見つけることができない。俺だけがこの空間に取り込まれたのか、と動揺する頭で思い至ると、クスクスと不快な笑い声が耳に届いた。
「そウ慌テないで。主役はこれカら登場するンだから!」
声だけが聞こえて姿を見せない卑怯な妖精の野郎は、歌い上げるような高らかな声で告げた。この場にいないというのに、妖精がくるくると不愉快な踊りを繰り広げているのが気配だけで伝わってくる。不快感を逆撫でするようなその態度に苛々と舌打ちをして周囲に警戒しながらゆっくりと立ち上がった。
魔力が満ちた独特な気配。
自分以外の存在を感じない白い部屋。
それらが間違いなく自分は厄介な魔法に取り込まれてしまったらしいと告げている。
幻影魔法の一種か、それとも転移魔法か。
俺だけがこの空間に取り込まれたということはあの野郎の狙いは俺か。
いや、ユウ自身も別の空間に取り込まれている可能性もある。
あんな妖精に負けるつもりは一ミリもねぇが、ユウが一人で何処かに囚われているのなら、すぐにでも助け出してやらねばならない。
どうか狙いは俺で、アイツの魔法に囚われたのも俺だけであってくれ。
ただただそれを願って奥歯を噛み締めていると、ただ広いだけだった部屋の中央にキラキラと光が集まりだした。間違いなく新たな魔力の介入に身構えると、ゴゴゴゴゴと重苦しい音と共に真っ白な祭壇のようなものが姿を現した。白いバラで装飾された祭壇らしきソレは、この場に似つかわしくない程厳かな飾り付けでこちらへ妙な威圧感を与えてくる。無駄に存在を主張している異様な祭壇から視線を外すことができない。何だこれは、と眉を寄せて目を凝らすと、無駄に高く積み上げられたバラの隙間から人肌のようなものが見えて、サッと血の気が引くのを感じた。
「ユウッ!!!」
何故それをユウだと思ったのかはわからない。
でも既に身体は飛び出すように祭壇へ駆け寄っていて、バラに埋もれるようにして眠るユウの姿を視認していた。
「テメェッ!!! ユウに何をしたッ!!!」
声を荒げながらバラを掻き分けてユウの手首を取る。いつもと変わらない体温だけでは安心できず、折れそうなほど細く透けるような白さの首筋にも触れ確かな拍動を指先で探った。定期的なとくんとくんという脈を指先に感じて、ほっと胸を撫で下ろす。
眠っているが、確かに生きている。
それだけでこんなにも安心してしまえる自分が情けなくて滑稽だった。
何故眠っているのかはわからないが、状況から見て間違いなく妖精の仕業だろう。
ガルルル、と唸り声を上げながら、一向に姿を現しやがらない妖精を探してその気配を睨みつける。
「チョッとちょっト! そんナニ怒らないデよ、怖いナぁ!」
祭壇の周囲に散らばっていた魔力の残滓がひとつに集まってきらりと光る。そしてそのまま妖精のシルエットを形どった光は、くるりと宙を回転して軽やかにステップを踏んでみせた。
「プリンセスにハ眠ってモらったダけ。僕の魔法デね」
弾むようにそう言った光のシルエットは楽しそうにしていたくせに、急に光を撒き散らしながら憤慨したように暴れ出した。
「僕ノ祝福を呪いダなんテ、君はとてモ酷イ奴ダな! 僕ノ祝福は誰もが幸せニなれるモのなノに!」
ヒドイヒドイ! と喚き散らしてガキみたいに暴れる妖精のシルエットを注意深く観察しつつ、未だ目を醒まさないユウの肩に触れる。
「……妖精はテメェらの勝手なご都合で祝福を授けるんだ。コッチが望んじゃいねぇ事を押し付けるだけでも、充分迷惑だと思うんだがなァ」
ユウに残る魔力を辿れば、妖精の仕掛けた祝福の魔法を読み解けるかもしれない。魔力を持たないユウの身体から魔力の痕跡を探しだすのは、魔力を持ち、ほんの少し魔法を噛った者ならば誰だってできる初歩の初歩。見つけた痕跡から使われた魔法式とそれに対する解術を行うのは、俺ならば何の困難もなく|容《・》|易《・》|い《・》ことであるはずだった。光の塊と化した妖精から視線を逸らさず、落ち着いてユウの身体の中に残る魔力を探る。焦っているんだろうか、なかなか魔法の痕跡を見つけられないことに苛々して顔を顰める。
どうして見つけられない――いや、できない?
「……テメェ……本当に何しやがった。ユウに何の魔法を使った!」
この部屋に閉じ込められたせいで自分の魔力を制御されてしまっているのか、ユウを調べるどころか自らの魔力をコントロールしてユウの身体に流し込むことすらできない。己の力を他人に握られているのではないかという不愉快な事実が頭を過ぎる。他人のコントロール下にある不快感が更に苛々を増幅させてガゥと大きく吼えた。
「ひドいなぁ! 僕ハ君とプリンセスがおとぎ話みたイにズッと幸せでいらレるヨウに祝福を授ケただけ! 元々君たチは運命デ結ばレてるンだカラ! ちょっトその時ガ早くなルくらイいいデしょ!」
「ハァ? さっきから何を言ってやがる? 運命? こっちはテメェの祝福だってお断りなんだよ、巫山戯たコトを言ってねぇで姿くらい見せたらどうなんだ? アァッ?!」
魔法を使えないという焦りが冷静さを奪っていく。普段からは考えられない自分の状態が更に動揺を呼んで、みっともなく指先が震えた。
俺が妖精に呑まれてしまえばユウはどうなる。
しっかりしろ、と己を叱咤して、妖精のシルエットを睨み付けた。
「モーっ! 今、魔法はいくツも要ラないデしょ! 意外とおっかナいんだナぁ!」
俺が魔法を使えないことで苛立っていると妖精は悟ったのか、くるくると光を撒き散らしながら宙を舞ってこちらを嘲ってくる。言っている意味が本当にわからないと顔を顰めて不快感を顕にすると、光のシルエットはひと際きらりと眩しく輝いて、俺に向かって人差し指を突き出した。
「おとぎ話ノ王子様が使エる魔法はひとつダけ!」
そして、眩しい光はパッと弾けて白い空間へと散り散りに散らばっていく。
「眠り姫は王子様カラの真実の愛の祝福ヲ受けテ目を醒ますンだ!」
なんテ素敵ナんだロう! と最後に宣った妖精は、まるで俺達を|祝《・》|福《・》するように煌めきを撒き散らして再びシルエットが霧散した。それきり姿を現すつもりはないのか、クスクスと耳障りの悪い笑い声だけが聞こえる。
使える魔法はひとつきり?
真実の愛の祝福だと?
そんな寓話の世界でしか成り立たない魔法を信じろっていうのか。
頭に過ぎるひとつの可能性を振り払うように顔を顰めて首を振る。噛み締めた奥歯がぎりりと音を立てているが気にしちゃいられない。妖精の魔力が充満した空間を忌々しげに睨みつけて、もう一度ユウを揺り起こそうと肩を揺すった。
「……子ども騙しの|御伽噺《フェアリーテイル》が、現実に在ってたまるかよ」
静かに胸を上下させて呼吸を繰り返すユウはぴくりとも反応を返さない。それこそまるでおとぎ話の眠り姫のように美しい寝姿を晒して昏々と眠り続けている。ただでさえ白く透き通った肌が、蒼白く光っているようにすら見えた。生きているはずなのに、生というものを全く感じさせない清らかなユウの姿に、ゾクリとした悪寒が走る。
まさか。本当に?
時が止まってしまったかのように神秘的なユウの寝姿は、おとぎ話に登場する眠り姫そのもので、俺に信じ難い現実を突き付けてくる。嘘だと否定すればするほど自分の頭が冷静になって目の前の現実を受け入れろと俺に囁きかけた。そんな、馬鹿な、とどんどん狼狽えていく俺を、どこまでも冷静な自分が『みっともねぇ面すんなよ』と不敵に笑って肩を叩いてくる。
その瞬間、にやりと笑う厭な気配がして、バッとそちらへ振り返った。
「そウ! それコそが僕ノ祝福! さぁ、はヤく僕に真実ノその先を見セて!」
空っぽの白い空間中に散らばる光がきらきらと踊り明かして、安っぽいパーティのように俺を照らしている。その光に照らされたユウは本当に透けるように白く、目覚めの魔法を掛けなければ今にも消えてしまうんじゃないかという儚さを醸し出していた。
「さぁサぁ! はやク僕に真実の愛を見セて! 君たちハ選ばれタ二人なんダからさ!」
無駄にきらきらと明るい光が俺を追い立てるように更に輝きを増していく。
「……し……真実の、愛なんて……俺たちの間にあるわけ、ないだろ」
動揺でうまく口が回らない。
心から欲しいものはいつだって手に入ることはない。
俺の人生は、そういうもんなんだ。
「……ナんだ。そんナ風に考エてるの?」
さもその程度の内容はとてもとても些事なことだと言いたげな軽い口調で、妖精は呟いた。
「|君《・》|も《・》、複雑に考えルのは苦手なクセに。『ハクナ・マタタ』……でシょ?」
突然聞こえた祖国の言葉に耳を疑う。
『ハクナ・マタタ』
深く考えることを忌避するクセに、先細りなぞ無縁と信じ切って自然と共存することばかり優先する祖国にとって、あまりにも都合が良すぎる魔法の言葉。
真剣に国のことを考えるならば、そんな巫山戯たことは言っていられない状況であることは目に見えて明らかなのに、愚かにも伝統を重んじ日々『ハクナ・マタタ』と馬鹿の一つ覚えのように気楽に過ごしていらっしゃる自国の重鎮たち。
「……アイツらと俺を一緒にすんじゃねぇ」
そうだ。
俺をあんな奴らと一緒にされちゃあ堪らない。
『ハクナ・マタタ』だなんていう愚かな言葉を俺は唱えるつもりも、これから唱えることもない。
俺は百獣の王の不屈の精神に基づく、サバナクロー寮の寮長だ。
考えることをやめるなどという愚かな行為に身を沈めたりはしない。
手放しで現状を維持すれば何とかなるなんて夢物語みたいに有り得ないことを、俺は信じようとも思えない。
だから、俺は国の奴らと違う。違うんだ。
「同ジじゃないか。答えはもウ出てるのに、ワザワザ遠回りしてル」
俺を馬鹿にするようなニヤリと笑う気配が後ろでして思わず振り返ると、消えたはずの光のシルエットが形を成して俺を指差していた。
「君がそノ心に抱えてルものハ何なノ? 僕ハその名前ヲ知っていルよ?」
「……な、にを、言って」
「それガ真実の愛じゃナいって言ウなら、真実の愛っテ一体何なノさ!」
きらりと光り輝いたシルエットはまた霧散してきらきらと空間を照らし出す。眩すぎる光に腕で顔を庇いながら目を細めた。
「どうシて人は自分ノ気持チに嘘を吐クのサ? 抵抗しタって無駄ナのに!」
愛に生きルっテ素敵じゃなイか! と妖精は鈴が鳴るような不快な音で叫んでいる。踊るように光っていた輝きは落ち着いて、キラキラとユウの周りを照らしていた。白く透けるユウの肌がより一層光り輝いて、もう死んでしまっているんじゃないかとすら思える。震える指先でユウの首に触れて、確かな血流と鼓動、そしてやわらかな体温を指先に感じ取る。自然と止まってしまっていた息をほっと吐いて、ぎゅっと拳を握って自分を戒めるように力を込めた。
「……恋だの愛だの……そんな自由、が……俺に、許されるワケ、ねぇだろ」
きっと手に入らない、異質の存在。
まっすぐな目で、俺の生まれ育った国を知りたいと言う、奇妙な女。
こんなにも特別で、かわいくて仕方がない、大切なモノ。
そんなユウを、あの国の鬱陶しいしがらみに巻き込めるわけがない。
ユウの笑顔を曇らせるなんてことは有り得ない。
俺は王族で、民を守る立場で、ユウのような弱き者を守る存在にならなければならない。
だから、俺は。
「……妖精族のイカれたオツムじゃ、俺たちの営みなんて理解できるわけがねぇ」
俺の内にあるモノに、名前をつけるわけにはいかない。
例え血反吐を吐こうとも、この気持ちに名前を与えてはならない。
手袋をしているというのに、掌に刺さる指先が肉を抉って今にも血が溢れ出しそうだ。
どうせ誰も俺のことを理解しちゃいない。
目の前にいる不愉快な妖精どころか、国にいる口うるさい側近たちですら、俺のことを何一つ理解せず、馬鹿げた夢現を押し付けてきやがった。
「君がとっテも頑ななノはわかっタから! 僕を怒ラせなイうちに早くプリンセスに魔法を施シて!」
僕ハ君とオ話がしたクてここまデ来たんじゃナいんだよ! と妖精は目眩しのような輝きを撒き散らして、苛々とした感情をこちらにぶつけてくる。肌を刺すような眩しさに狼狽えて膝を突くと、祭壇に祀られたユウは完全に見えなくなり、白いバラの茂みと一体化してしまった。
「……ユ、ウ」
眩暈でぐらつく頭を手のひらで何とか支えて、祭壇によじ登るような形で身を寄せる。無理矢理頭を起こせば辛うじて静かに眠るユウの姿が見えてホッと息を吐いた。
妖精が仕出かすことは全く先の予想ができない。俺がこのまま妖精に歯向かい抵抗を続ければ、ユウの身に一体何が起こるのか。想像するだけで恐ろしかった。
王に執着しなくてもいい。
居場所はもう既にある。
欲しいものは王にならなくても手に入れられる。
そう言って俺の琴線に触れ、コイツは勝手に俺の心に居座った。
いや、あのときよりもずっと前から、ユウは俺にその身を持って俺に道を示してくれていた。
誰よりも遠い場所から来て、誰よりも俺から離れていく場所で、ユウは俺に笑いかけてくれる。
手を伸ばして捕まえたくても、俺にそれは許されない。
それは理解していたし、どうせ自らが望むモノは手に入らないのだと諦めていた。
それなのに。
俺は今、ここで、この場でユウを失うかもしれない。
何物にも変え難い笑顔を俺に向けてくれたユウを、俺は失ってしまうのかもしれない。
途端に恐怖が全身を支配してガタガタと手が震え始める。
恐ろしい。
考えるだけで恐ろしかった。
コイツまでもが、俺の前からいなくなる。
俺を残して、俺を独りにする。
わかっていたはずなのに、それがあまりにも恐ろしくて全身の震えが止まらなかった。
嘘だ。
頼むから嘘だと言ってくれ。
俺が妖精の言う『真実の愛の魔法』とやらを使えば、本当にユウの命を救えるのか?
もし、俺がその真実の愛の魔法を使ったとして。
ユウが目覚めなかったらどうする。
俺の手でユウを目覚めさせることが出来なければ、俺たちの間にあるモノは一体何と名付ければいい。
俺に真実の愛の魔法が使えないのなら、一体誰がユウを目覚めさせることができるというんだ。
俺以外の誰が、ユウに触れることを許されている!
「……待てよ……頼む……待ってくれ」
それに、もしユウが俺の魔法で目覚めたとすれば、それこそ俺たちの間にあるモノは一体何になる。
俺とユウの間にあるモノが愛だと言うのなら、手にすることができないソレを俺はどう捉え、どう扱っていけばいい。
お前を目覚めさせることができないかもしれないと震える俺に、真実の愛の魔法なんて使えるのか。
ただでさえお前は俺の手の届かない遠いところにいるというのに、俺の魔法でお前を目覚めさせることができなければ、やはり俺が心から望むものはどんなに願っても手に入らないという現実を目の当たりにすることになるということだ。
「……ユウ」
なぁ、俺はどうすればいい。
「目を覚ませ、ユウ」
震える指先でユウの頬に触れる。やわらかな感触が手袋越しにも伝わって、今にも間抜けな涙を溢してしまいそうだ。
「起きてくれ……頼むから」
首を絞められたように喉が潰れて掠れた声しか出てこない。それでも、情けないくらい願う事しかできなかった。
「お前の蒼い瞳に、俺を映してくれ」
「いイ加減諦めテ! サァ! はやク! プリンセスに愛の口付けヲ!」
目潰しと言ってもいいくらいギラリと強烈な光を放った妖精は、ユウの周りだけを残し空間の足場を崩させ始めた。ガラガラと音を立てて床が不安定になっていく。追い詰められるように祭壇へと身を乗り上げた。ほとんどユウに覆い被さるような形になって、いよいよ八方塞がりになってしまったことを悟った。
「ユウ、頼む」
どうか。
目を閉じて万感の想いを込める。
泣き叫ぶような気持ちで、いつまで経っても起きない眠り姫に真実の愛の魔法を施した。
初めて触れた唇はやわらかく、確かに生命の体温を感じた。
「れ……おな、せんぱ、い……?」
一瞬だけの触れ合いは瞬く間も与えられずに花開く。海のように蒼い瞳がぼやけたままの俺を映して、ふわりと微笑んだ。
「なんだか……夢を見ていた気がします」
焦点も合わないくらいの至近距離で、ユウはくすくすと笑っている。自分の身に起きていたことを自覚していない様子のユウは、本当に自分が昼寝してしまっていたと思っているようで、俺たちの置かれている状況に何ひとつ疑問を抱いていないようだった。
ざらざらと音を立てて崩れていく空間は、まるで夢のなかにいるみたいに眩しくキラキラと光り輝いている。自分たちが元いた植物園の芝生の上に帰されて、ようやく解放されたのだと悟った。フゥン、こンなモんか、という妖精の声が何処か遠くで聞こえた気がする。
こんなモンで済むかよ。
妖精の祝福なんざ、クソッタレ以外の何者でもない。
突きつけられた目の前の在りのままが俺を押し潰して、あまりの胸の苦しさに顔が歪みそうになる。
「……俺を置いて呑気に昼寝とは、お前も偉くなったモンだなァ」
なぁ、ユウ。
俺はどうすればいい。

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