そう、これはたとえばの話。 - 9/22

まさか、賢木さんが自ら僕を訪ねてくるなんて思いもしなかった。とても普段通りの応対ができていたとは思えないけれど、何とか帰ってもらえて本当によかった。
今の僕は、賢木さんを前にして、普通でいられる自信がない。とにかく、最低限の接触で済んで、今日は本当によかった。
今の僕はどこからどう見ても冷静ではなくて、ただひたすら研究に没頭して、ふと湧いたソレから意識を逸らすことに注力している。
突然自覚した、自分の手には余る大きなものへと成長していたソレ。
今の僕は何か他のことに集中していないと、ソレに振り回されてばかりでとてもマトモな人間生活を送れそうになかった。
賢木さんに恋をしている。
ただ、言葉にしてしまえばそれだけのこと。
でも、僕の初恋と言ってもいいソレは、今にも弾けてしまいそうなくらいにパンパンに膨らんでいて。自覚してしまった今ではとても本人を前に普通にしていられる自信がなかった。自覚する前の自分がどう賢木さんと接していたのかすらさっぱり思い出せない。寧ろ、こんな気持ちを抱えていたのに、普通に賢木さんと接していた自分が信じられない気持ちでいっぱいだ。
「……ダメだダメだダメだまた賢木さんのこと考えてる」
はぁ、と重い溜め息を吐いて、右の手のひらで顔を覆う。ぎゅう、と眉を寄せれば眼鏡の位置がずれて、視界がぼやけた。ぎ、と音を立てて椅子の背凭れに身体を預ける。
恋を自覚したあの日から、呆れてしまいたくなるくらい、初めて抱いた恋心に振り回されっぱなしで、自分が自分でなくなってしまったような、それでいて浮き足だってふわふわと覚束ない子どものような、経験したことのない感覚に襲われていた。
よくよく考えてみれば、そもそも、賢木さんのことを知った時から、僕はおかしかったのかもしれない。
いや、間違いなくおかしかった。
こんなにも人に執着するのは初めてだったし、それこそ、賢木さんにストーカーと評されるくらいに、自分はおかしかったんだ。
「……なんだ……最初からじゃないか」
賢木さんへの執着。
それが最初から恋だったと言うのなら。異常なほどの興味関心にも説明がつくし、自分のおそろしい程の行動力にも納得がいく。
「……恋は人を変えるって、本当だったんだなぁ」
恋って、もっと、穏やかなものだと思っていた。
だけれど、この恋はあまりに強烈で。
こうも自分を制御できなくなるなんて、僕は恋に対する認識が甘かったな、と頭を掻いた。
でも、ずっとこのまま、賢木さんのことを避け続けるわけにはいかない。
それに、僕は賢木さんの友達になりたかっただけなんだ。
そもそもの出発点を間違えてしまっている時点で、友達という枠を越えてしまっているのだけれど。
「……友達、にこんな気持ちは要らない、だろ」
苦しくなった胸元を、服の上からぎゅっと掴む。
そう、友達にこんな気持ちは要らない。
友情には、相手を思い遣る気持ちだとか、相手の為になりたい気持ちだとか、相手と笑い合えるような、そんなあたたかなものだけが含まれている。
こっちを見てほしい。僕の事だけを見ていてほしい。そんな我が儘で強欲な感情は要らないはずだ。
はぁ、と胸の内に溜まった重たいものを吐き出すように溜め息を吐いて、天井を見つめる。
ただ、賢木修二という男がどんな男か知りたくて、興味を持っただけだったのに。気が付けば、抜けることのできない沼に嵌まってしまっていた。そもそも、僕も賢木さんも男同士で、好きとかそういう感情を抱く相手ではないはずだ。それなのに僕は彼が向けてくれる笑顔だとか話し声だとか、そんなもの全てを独り占めしたい気持ちでいっぱいで、僕の作ったリミッターのおかげで普通の生活に馴染んでいく彼を見て、とても冷静で居られそうにはなかった。
喜ばしいことのはずなのに。
友達としてなら、真っ先に喜んで彼の幸せを共に分かち合うべきなのに。
僕にはそれができなかった。
ましてや、賢木さん独り占めできなくなったことに嫉妬して、醜い感情に支配されてしまった。これじゃあ友達だなんて胸を張って言えるわけがない。今のままの僕では賢木さんの友達という立場も失ってしまう。
「そんなの、嫌だ」
何とかしてこの気持ちに蓋をして、元通り賢木さんと笑い合える仲の良い友達に戻らないと。賢木さんとの関係が絶たれてしまうことだけは何としても避けたい。
でも、一体どうすれば。
最初から間違えていたこの気持ちは、どうすれば軌道修正できるのかなんて、僕にはわからなかった。

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