そう、これはたとえばの話。 - 4/22

はっと目が覚めて目に入ったのは、見たことのない白い天井。それが薄い膜を通したようにぼんやりしていて、どうやらちゃんと見えていないことに気が付いた。目元に手をやるとそこにあるはずの眼鏡がない。そのままのそりと身体を起こすと、自分が清潔な白いベッドに寝かされていることがわかった。周りは薄いピンクベージュのカーテンで仕切られている。
「……どこだ? ここ」
思わずポツリと呟くと、カーテンの向こう側で何かが動く気配がして。ゆっくりとそちらに顔を向けると、シャッとレールの音を立ててカーテンが開いた。
「目が覚めた? ミナモト」
白衣を纏った女性らしき姿を何とか目を凝らして見つめると、あぁそうね、とベッドサイドに置かれていた眼鏡を手に取って渡してくれた。
「改めて。気分はどう? ミナモト」
「はぁ……悪くは、ないです」
「それは良かった」
にこりと笑う女性の首には、ネームカードがぶら下がっている。それを見て、ここが大学の医務室だということがわかった。
「喧嘩に巻き込まれて、殴られて、運ばれてきたのよ。覚えてる?」
校医の女性が、僕のぼんやりした顔を見て呆れたように告げる。それを聞いて、うすぼんやりとしていた意識が次第にはっきりしてくる。そして、意識を失う前のことをやっと思い出した。
「……そうだ。僕は確か賢木さんに殴られて」
殴られたことを思い出すように指で頬に触れると、少し腫れて熱を持っているようだった。ピリリとした痛みに顔を歪めた瞬間、カラリ、と医務室の扉が開いて。
「よぉ。お目覚めいかが? 俺のストーカーくん」
そこに立っていたのは間違いなく賢木修二その人で。
僕は思わず口を大きく開けて彼を凝視していた。
「……彼がここまであなたを運んできたのよ。あとでお礼を言っておくのね」
じゃあ後はお願いできるかしら、と校医の女性は賢木さんに告げて、自分のデスクへと戻っていった。賢木さんも勝手知ったるという様子で、僕の寝ていたベッドのカーテンを全部勢いよく開いてから、いくぞ、と声を掛けてきて。医務室から出ていこうとする彼を慌てて追いかけると、賢木さんが僕の鞄も持っていることに気付いた。
「なんで! 僕の荷物っ」
ぐんぐんと先を歩いていく賢木修二の背中を追い駆けながら声を掛けると、彼は後ろ手に手のひらを翳してみせて。
「てめぇを運ぶときに透視(よ)んだんだよ」
そう言われて、ああそうか、と素直に納得する。
僕があの場所に現れる前に何をしていたかなんて、彼が知るのは造作のないこと。彼のサイコメトリーなら、僕が読んでいた参考書の内容ですら、簡単に当ててみせるだろう。その超度(レベル)の凄さに、研究者として純粋な興味も引かれたけれど、それよりも何よりも、あんなに興味関心を持っていた賢木修二が目の前にいる、という事実に、じわじわと高揚感が沸いてきていた。その高揚感に任せて、僕の先を歩いていく賢木修二に何の疑いを持つこともなく、ただひたすら僕は彼の後を追っていた。
ふと、彼の足取りが人気の無い方向へと向かっているのに気付く。素直に何処に行くんだろうと疑問に思っていると、校舎の陰になっていて目立たない、テーブル付きのベンチが目に入った。足を止めた彼は黙ったまま、座れ、と顎でベンチを指して。指図されるまま、手前のベンチに腰掛けると、ドカリと僕の真向かいに賢木修二は座った。
改めて、真正面から彼を見てみると、男の僕から見ても、整っていて美しいと思える部類の横顔に、思わず見惚れてしまって。あんだよ、と不機嫌な表情を隠さない賢木さんにぎろりと睨まれて、慌ててじっと見つめていた目を逸らした。ふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ賢木さんは、しばらく考え込むような顔をしてから、バン、とテーブルを叩いた。
「さっきは有り難い説教をどうもありがとうよ、皆本光一クン?」
険しい、でもどこかぎこちなさのある表情でこちらを見てくる彼に、びくり、と肩を揺らす。感情が荒立っていたとはいえ、彼とはもっと良い出会い方をしたかった僕としては、先程の初対面は正直に言うとなかったことにしてしまいたい。そこでふと、彼の話に疑問を感じて首を傾げた。
「……あれ? 何で僕の名前……それに、説教って何のことです?」
あの時、僕は一方的に殴られて意識を失ったはずで、会話らしい会話なんてできていないはずなのに。それに、僕は賢木さんに説教なんてするつもりはなくて、彼の自棄な人付き合いの仕方に、どうしてそんなことをするのかと問いかけてみたかっただけで。
「……お前、俺が殴った時、わざわざ思念を送り込んできたじゃねぇか。そこで説教垂れてたのはお前じゃんかよ」
呆れたように言う賢木さんに、ぎょっと目を見開く。確かに、あの時、僕は凄く感情が波立っていたから、それを表層思念として賢木さんが透視(よ)みとっていてもおかしくはない。本人が意図せず透視(よ)み取ることもあるというけれど、僕は賢木さんに無意識に透視(よ)み取らせてしまうほど怒っていたのか、と頭を抱えていると、賢木さんが訝しげに僕を見遣ってきた。
「お前……まさか、無意識だったのか?」
「えっと、無意識、とは?」
「俺に表層を透視(よ)ませて、説教垂れたのは、全部無意識でやったことなのか?」
賢木さんの問いかけを、ゆっくりと咀嚼するように頭の中で繰り返す。
確かに、僕は賢木さんに説教をした記憶がないし、珍しく感情が爆発してはいたけれど、透視(よ)ませようと思っていたわけではない。勝手に伝わった感情が、彼の中で説教をしたというのなら。なんて僕は失礼なことをしてしまったんだろう、と突っ伏してしまいたい気持ちを何とか抑えながら、賢木さんに問いかける。
「そう、みたい、です……あの……あなたの中で、僕は、その……なんて?」
肩を落として頭を抱えている僕を、憐れむような、呆れるような目で見つめてから、賢木さんは口を開いた。
「……子どもじゃないんだから、自分のことだけじゃなくて、相手のこともわかってやれ……だとよ」
ゆっくりと目を閉じながら、噛み締めるように言葉を告げた賢木さんは、ふぅ、と息を吐いて、テーブルの上に置いていた右手をぎゅっと握り締めた。苦しそうに眉を寄せて、閉じた時と同じ、ゆっくりとしたスピードで目を開いた賢木さんは、ちらりと横目に僕を見遣る。
「……俺より年下のてめぇに言われるなんてな」
フッ、と自嘲気味に笑って僕から目を逸らした賢木さんに、慌てて頭を下げる。
「すみません! あの、そんなつもりはなくて……ただ、その」
「いいって。確かにそうだなって、俺も納得したし」
手をひらひらとさせながら、鬱陶しそうに僕の謝罪を受け流している。そのまま片肘を突いて、僕に向き直った賢木さんは、じとりと僕を睨み付けた。
「で? 皆本クンはどうして俺の周りを嗅ぎ回っていたのかな?」
「え?」
「てめぇだろ? 俺のこと調べてやがった日本人、ってのは」
真相を暴いてやる、とでも言いたげな目をして賢木さんは僕を見ている。まるで蛇に睨まれた蛙状態の僕は、ここ最近の自分の行動を賢木さんに指摘されてどきりとした。
確かに僕の行動は、調べられている本人からすれば不快極まりないものだったと思う。僕は自分の欲求を満たすために、会ったこともない賢木さんのことを、まるで探偵にでもなったかのように調べて回っていた。調査対象の彼に行動がバレてしまっている時点で、僕の探偵としての能力は落第点だけれども。
「……僕のこと、知ってたんですか?」
眼鏡の位置を直しながら恐る恐る聞いてみると、フイ、と顔を逸らして賢木さんは言った。
「知ってた、っつーか……気配には敏感なんだよ、他の奴等と違ってな」
ふ、と一瞬だけ表情を曇らせた賢木さんは、僕の方に向き直る頃にはもう表情を不機嫌なものへと戻していて。
「まぁ、いきなり俺の前に現れて説教かました野郎が、俺のことストーカーしてたヤツだった、ってのは俺も予想外だったけどな」
しかもソイツ、俺に殴られてのびてるし、と少しだけ表情を柔らかくして笑ってみせた賢木さんに、僕は目を奪われた。
ほら、そんな表情だってできるんじゃないか。
あなたは、皆が思うような、悪い人ではきっとない。
僕はそう確信しながら、賢木さんから目を逸らせずに、問いかけた。
「……いつから、僕のこと、知ってたんですか?」
いたたまれないような恥ずかしい気持ちを隠すように眼鏡のブリッジに触れる。そわそわしながら賢木さんからの返事を待っていると、彼は少しだけ考える素振りを見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「お前、ところ構わず俺のこと聞いて回ってたろ。あんなんじゃ俺じゃなくたってバレバレだぜ?」
ふぅ、と溜め息を吐くように告げた賢木さんは、苦笑いしながら僕を見た。困ったように笑うその表情に僕は何故かどきりとして、再び眼鏡のブリッジに触れる。
「じゃあ、殆ど、最初から……」
「まぁ、そういうことになるな」
ニッと笑って賢木さんは首を傾げる。
その仕草は男の僕から見ても何処かセクシーで、魅力的だった。僕はほんの少し頬が熱くなるのを自覚しながら、フイ、と目だけを逸らして賢木さんに文句を言う。
「それなら……あなたから会いに来てくれても、よかったじゃないですか……」
僕の言葉に、賢木さんは豆鉄砲を喰らったように大きく目を見開いた。それから、はぁぁ、とうんざりしたように深く溜め息を吐いて、ゆるゆると首を振りながら答える。
「……何でわざわざ、野郎のところに俺が訪ねていかなきゃなんねぇんだよ」
女の子が俺のこと探してるってんなら別だけど、と付け加えた賢木さんは、また鬱陶しそうに僕を横目で睨み付けて。
「それに、どこのどいつともわかんねぇ野郎が俺のこと嗅ぎ回ってて、その魂胆がわかんねぇのに、おいそれと接触できっかよ」
至極当然だとでも言うように、賢木さんは僕のことを見遣りながら告げる。その発想に、僕は何となく賢木さんに向けられ続けてきた敵意みたいなものの片鱗を見て。
思わず立ち上がって身を乗り出していた。
「僕はッ! あなたと喧嘩がしたかったんじゃない! ……純粋に! あなたに興味があったんだッ!!!」
目の前の賢木さんに向かって大きな声で叫ぶ。賢木さんは僕の勢いに圧されたのか驚いた顔をして身を引いている。
「説教するつもりだって、なかったんだ。僕は、あなたの周りにいる、嫉妬ややっかみなんかであなたのことをちゃんと見ようとしない人たちとは違って、僕は、ただ、君に、純粋に興味を持っただけなんだ」
乗り出した身体を何とか落ち着けながら、ゆっくりとベンチに身体を戻した。たどたどしい自分の言葉に少しだけがっかりしながら、それでも何とか自分の想いを伝えようと真っ直ぐに賢木さんを見つめる。賢木さんは一瞬だけ目を見開いて、でもまた胡散臭そうな目をして僕を見た。じとりとしたその目に怯みながらも、じっと見つめ返す。すると根負けしたのか、賢木さんからふいと目を逸らして、ぼそりと呟いた。
「お前が他の奴等と違うなんて、まだわかんねぇだろ」
手のひら返しなんて真っ平だ、と告げた賢木さんの言葉に、ぎゅっと胸が潰されるような感触がした。
やっぱり、この人は、伸ばした手を振り払われ続けて、傷付き、疲れてしまっただけの、心の優しい、不器用な人。
僕の感じていた賢木修二像が、目の前の彼と重なって、僕の探求心がじわりと満たされていく。満たされた欲求が、ふわりと僕を微笑ませた。
「……僕は、あなたをとても優秀な人だと尊敬しているし、誰も気付かない仔猫を助けるような心の優しい人だと知っています。他の奴等が言うような評価と、本当のあなたはかけ離れてるって思ってたんだ」
僕の言葉に、急におどおどした表情を見せる賢木さんに手を差し伸べて、続ける。
「僕は皆本光一です。賢木さん、僕はあなたと友達になりたいんです」
「はぁ?!」
驚きすぎて言葉も出ない、といった様子の賢木さんの表情にプッと吹き出しながら、無理矢理手を掴んで握手を交わす。
「ちょ、おま! 俺はサイコメトラーだぞッ!」
「それが何だって言うんです? 透視(よ)まれて困ることなんて僕にはありませんから」
繋いだ手をぎゅっと握り締めると、呆れて、降参だとでも言うように賢木さんは片手を挙げた。
「お前に俺の自己紹介は必要ねぇだろうけど。賢木修二だ。取り敢えず、よろしく」
握った手をゆっくりと解きながら、賢木さんは、はぁ、と溜め息を吐いている。しつこいんです、僕、と笑ってみせると、そうみてぇだな、と賢木さんはもう一度溜め息を吐いた。
「降参だよ、皆本」
ニッと柔らかく笑った賢木さんの表情があまりにも綺麗で、とくんと音を立てた心臓を服の上からそっと撫で付けた。

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