そう、これはたとえばの話。 - 20/22

「なぁー、皆本ー? 今日泊まってっていい?」
何度目かの土曜日を経た、ある日のことだった。
「え……泊まり、ですか?」
「そー。今晩雨じゃん。帰るのめんどいなって」
昼間に待ち合わせて、二人でスーパーに買い出しに出掛けて、今日食べるメニューを決めて、僕のアパートに戻って二人で料理をして、二人で食事をして、二人で片付ける。
いつの間にかそんなルーティンが出来上がっていて、僕は毎週毎週土曜日になるのが楽しみで仕方がなかった。和食だけに納まらず、その時その時の食べたいものやスーパーに売っている食材でその日のメニューを賢木さんと相談するのも楽しかったし、調理中や食事中、食べ終わってから片付けの間まで、賢木さんを独り占めして他愛ない会話ができるのが嬉しくて、僕にとっての土曜日は、本当に特別な曜日になっていた。
ちょうど今日の分の食器を二人で片付けながら、いつものように楽しく会話していた中で、ふと賢木さんが今思いついたというように口を開いた。
「そーいやなんで今まで思いつかなかったんだろ。明日は日曜なんだし、別に帰らなくてもいいんじゃん」
その方が合理的じゃね、と独り呟きながら、賢木さんは洗い終わった皿を磨いている。僕は急に湧き起こった賢木さんが僕の家に泊まる、という可能性にドキンと心臓が跳ねて、手に持っていた鍋を取り落としそうになった。何とかそれを持ち堪えて、深呼吸で自分を落ち着かせながら、できるだけ平静を装って賢木さんに答える。
「……泊まるって言っても……賢木さんが寝る場所ないですよ」
「そんなんどうにでもなるって。ほら、楽しくて夜更かししちゃうかもしんねぇだろ?」
賢木さんは僕の方へ振り返って、ニカリと笑う。
「皆本といると楽しいんだよ。なんか、時間が勿体ない感じ」
泊まっちゃえば、もっと一緒にいられるだろ? と、賢木さんはこちらがどきりとするような発言を平気で言ってのける。
その奔放で無邪気な賢木さんの性格に、僕はいつも振り回されっぱなしで、ドキドキして、好きな気持ちが溢れそうになって、その一ミリも上手く伝えられない自分にがっかりして、そのことに少しだけ落ち込むのだ。
「僕だって楽しいですよ? でも、泊まるのは、ちょっと……」
一晩中賢木さんと一緒だなんて、自分が冷静さを保てなくなるのは目に見えてわかることだった。
賢木さんにとっては親しい友人の家に泊まるだけで、何もおかしいことなんてないのだろうけれど、僕にとっては、好きな人と一つ屋根の下で過ごすだなんて、考えるだけでもう、どうにかなりそうだった。
「……ダメ? やっぱ迷惑か?」
僕より背が高いのに、おずおずと上目遣いで聞いてくる賢木さんは絶対に狙っているとしか思えない。
僕より年上だからとお兄さんぶるくせに、妙に甘えるのは上手いのだ。天然なのか計算なのかを見抜けるほど、僕の経験値が高くないのが憎くて仕方がない。
「迷惑とか、そういうんじゃなくて……本当に、寝る場所がないですし、風邪引いちゃいますよ」
「大丈夫大丈夫! 俺ほとんど風邪引いたことないから!」
な、いいだろ? と首を傾げて僕の同意を求めてくる姿は本当に悔しいくらいに可愛くて。
「……仕方ないですね……でもホント寝る場所ないですよ」
年上のお兄さんの我が儘にウンザリしながらも応えてあげる体を取りながら、内心はばくばくと煩い心臓を落ち着かせることに集中する。
「やった! 雨に濡れるの嫌なんだよ、髪の毛超跳ねるしさ」
よかったよかった、と賢木さんは嬉しそうに笑っている。
こっちは全然よくないよ! と心の中で大きく叫びながら、淡々とキッチンの片付けを済ませていった。
「……傘ならお貸ししますよ。濡れたくないなら傘で充分じゃないですか」
「ちっげーの! 皆本はサラサラストレートヘアだからわかんねぇかもしんねぇけど! 俺みたいな癖毛は! 湿気だけで髪が跳ねるの!!!」
これだから癖毛じゃねーヤツはヤなんだよ癖毛の気持ちなんてわかんねぇんだ、と賢木さんはぶつぶつ文句を垂れ流している。猫っ毛は猫っ毛で雨の日は膨らんで大変ですよなんて言った暁には、賢木さんは目を吊り上げて更に文句を言い募ってきそうだ。
ふぅ、と隠れて溜め息を吐いて、使った調理器具を片付けていると、それに、と賢木さんは小さく呟いた。
「それに……雨は、靴が濡れるから、ヤダ」
ぷぅ、と唇を尖らせて賢木さんは告げる。
「……そんな子どもっぽい理由で」
呆れながら口を開くと、キッと目を吊り上げた賢木さんが僕に噛み付いた。
「靴が濡れたら気持ち悪いじゃん! なんか余計なモン透視(よ)んじまいそうだしさ!」
雨水を通して興味ないヤなコトとか不快なコトとか透視(よ)みたくないじゃん、と賢木さんは続ける。そこに滲む賢木さんの苦労が窺えて僕は息を呑んだ。
じゃあ雨の日は長靴を履けばいいとか、濡れない靴を履けばいいとか、言うことは簡単だけれど、そういうことではない、生の人間の生きづらさだとか、自然と望むこうありたいという気持ちに寄り添うと、問題を解決することだけが全てではない気がした。
賢木さんに対して簡単に絆されすぎだという理性の訴えもあったけれど、好きになった相手に甘えられて拒否できるほど、僕は冷酷にはなれなかった。
「……わかりました。いいですよ。明日、太陽が出て地面が乾くまで、家にいてください」
「……サンキューな、皆本」
ふわり、と笑う賢木さんにやっぱり目を奪われてドキドキして。こんなのが一晩中続くのか、とそわそわする。急に狭いキッチンでひしめき合っている自分たちを思い出して、賢木さんのにおいが鼻を擽っていくような、そんな気がしてどきまぎした。
「あっ、あのッ! でも! ホントに寝る場所無いんですよ!」
どうしましょうか! と半ば声を張り上げるような形で何とか自分の気持ちを切り替える。とても冷静にはなりきれないけれど、喋っていれば少しはマシになる気がして、一生懸命賢木さんに話を振った。
「あー、適当でいいよ。最悪床で」
洗い終えて綺麗になった食器を定位置に納めながら、賢木さんは告げる。本当に床で寝ても構わないとでもいうそのノリに思わず突っ込んだ。
「床は寝る場所じゃありません! 身体を痛めたらどうするんです?!」
「でもさー、床ぐらいしか無くね? ソファは二人掛けでちっさいし……」
「……床で寝るより、マシなんじゃないですか」
だから寝る場所なんてないって言ったのに、と心の中で文句を呟いていると、うーん、と小さく唸った賢木さんがパッとこちらを見て笑った。
「確かにそうかも。じゃあ俺ソファで寝るわ」
丸まって寝れば何とかなるだろ、と笑う賢木さんは本当にその気になってしまったようで。最後の食器も仕舞い終えて、狭いキッチンから出て行ってしまった。
「そうと決まれば、いろいろ貸してくれよ。シャワー浴びたい」
慌てて調理器具を片付けて賢木さんを追いかけると、賢木さんはもう自分の根城をリビングのソファと決め込んだのか、クッションの位置を並べ替えたりして居場所を整えている。
「……賢木さんには、僕の服、小さいんじゃないですか」
「まぁ一晩くらい何とかなるだろ。もしあんまりにも寝苦しかったら裸になりゃいいし」
お気楽に構えている賢木さんに対して、うっかり裸で眠る賢木さんを想像してしまった僕はそれどころではなくて。慌てて頭を振って余計な雑念を追い出してから寝室に駆け込んだ。
クローゼットの中から、自分が持っている中で一番大きなTシャツと、腰回りのゆったりしたハーフパンツ、それから買い置きの下着を引っ張り出してリビングへと戻る。
「裸はやめてください! お願いですからちゃんと服を着て寝てくださいね!!!」
顔を真っ赤にしながら賢木さんに持ってきた服を押し付けると、一瞬だけポカンとした賢木さんは、僕をまじまじと見つめ返してから笑った。
「あは、あははッ! ちょ、おま、人を露出狂みたいに言うなよ! マジで面白すぎるわ!」
ひーひーとお腹を抱えながら、賢木さんは僕の背中を叩いている。僕はもう誤魔化せないくらい顔が赤くなっているのを自覚しながら、ぶつぶつと片手で顔を覆いながら呟いた。
「裸で寝るって言ったのは賢木さんでしょう……僕が言い出したワケじゃない……」
カッカッと赤い顔を俯けながら賢木さんを非難すると、そんな照れなくてもいいじゃん、と笑われて。
「そうだな、ゴメンゴメン。じゃあ恥ずかしがりの皆本クンの為に、ちゃんと服を着て寝ることにします」
ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んでくる賢木さんの背中を押し遣って、顔が赤い理由を勘違いしてくれたことにホッとした。
「……シャワーあっちです。タオルは新しいの出しときますから、他は適当に使ってください」
ぐいぐいと賢木さんをバスルームに何とか押し込んで、はぁ、と賢木さんに聞かれないように息を吐く。へーいと軽い返事が聞こえたのを確認して、バスルームから離れた。
本当にあの人は。
いくら友達だからって気を抜きすぎじゃないのか。
それとも、男友達ってこれぐらい気楽な付き合いが普通なんだろうか。
普通を一切経験せずに通り越してきてしまった僕には、一体何が正解なのかなんてわからなかった。
「友達の距離感って、一体……」
再び寝室に戻って、洗い立てのバスタオルを出しながらぽつりと呟く。
僕は、賢木さんしか知らない。
人を好きになる気持ちも、賢木さん相手しか知らない。
「わからないことだらけだ」
それは研究者としては好奇心を駆り立てられるワクワクの状況のはずなのに。その状況を楽しむよりも困惑して右往左往していることしかできないなんて、まるで生まれたての赤ちゃんみたいだ、と思いながらバスルームへ戻った。
賢木さんと入れ替わりで自分も簡単にシャワーを済ませてしまう。髪の毛を軽くドライヤーで乾かしてから、そう言えば賢木さん髪の毛濡れたままだったな、と思い出して、ドライヤーを持ったままリビングへと戻る。すると、賢木さんは膝を抱えて小さく丸まりながらソファに身を預けていて。ころりとしたその姿は、普段の賢木さんからは考えられないくらい可愛らしくて、どきりと心臓が跳ねた。
「なんかさー……」
戻ってきた僕の気配に気付いたのか、賢木さんはこてんと膝の上に頭を乗せて、僕の方へ顔を向けた。
「なんか……急にお泊まりすることになった女の子って、こんな気分なのかな」
そう言って、賢木さんは自分の腕と足を投げ出す。すらりと長い腕と足が僕の目を惹き付けて離さない。僕が着ればぶかぶかになるはずの服はサイズがちょうど良いのか適度なリラックススタイルで賢木さんの身体を覆っている。服を着ていてこれだけ目の毒なのに、本当に裸になんてなられたら堪ったもんじゃなかった。僕より大きめの服でちょうど良いというのは男として何だか悔しいけれど、それでも賢木さんに合うサイズの服があって良かったと今は心からそう思えた。
「……え、っと、どういうこと、ですか」
意識が賢木さんの身体に囚われすぎていて、賢木さんが言い出したことの意味がうまく理解できない。
すると賢木さんは照れたように笑ってから、もう一度膝を抱えて丸まりながら口を開いた。
「だってさー……泊まりの用意なんてしてなくて、石けんからシャンプーから全部借り物でさ、オマケに服まで借りちゃうんだぜ?」
すっげーそわそわする、と嬉しそうに言う賢木さんは、本当に綺麗に笑ってみせて。
そして僕は、それがとんでもなく可愛く見えてしまって、ドキドキと煩い心臓が今にも口から飛び出すんじゃないかとヒヤヒヤした。
「俺、今、皆本仕様じゃん。女の子ってこんな気分なのかな?」
そんなのアンタの方が絶対詳しいだろ! とか、童貞の僕にそんなこと聞かれてもわかるわけがない! だとか。
心の中の自分が大きな声で叫んでいるのが聞こえたけれど、もうどうしたって冷静さを失っていた僕は目の前の魅力的な賢木さんにクラクラと誘惑されてしまって、ふわふわした気分のまま賢木さんに近付いた。
「そ、そんなこと、言ってると……お……」
「お?」
ぽつり、と呟いた僕の声に耳を傾けるように、賢木さんは首を傾げて。
まだしっとりと濡れた癖のある髪が揺れる。僕はそれに触れたくて、でも触れる勇気が出なくて。じっとこちらを見てくる賢木さんの目から顔を背けてから、精一杯の勇気を振り絞って呟いた。
「……おッ……おそっ……襲っちゃいますよ」
言ってから、今更顔が真っ赤になっているのを隠そうと両腕で顔を覆う。シンとした空気が肌に痛くて今にも逃げ出してしまいたい。それでも足が固まってしまったかのように身動きなんて取れなくて、ぎゅっと腕に力を込めた。
すると、プッと吹き出す賢木さんの声が聞こえて、次第にケラケラと笑いながら、賢木さんはバシバシと僕の背中を叩いた。
「童貞クンに襲われるほどお兄サンはヤワじゃねぇよ!」
ヒーヒーとおかしそうに笑う賢木さんに、悔しさを覚えながらも変な空気になってしまわなかったことに安心して。手に持っていたドライヤーを賢木さんに押し付けながら、再び賢木さんをバスルームへと押し込んだ。
「もう! もういいですから!!! ドライヤー! 使ってください!!!」
「あー、サンキュ……やべぇ、めちゃくちゃ笑った……腹いてぇ……」
「使い終わったら洗面台に置いておいてもらって構いませんから。ちゃっちゃと髪を乾かしてください!」
「オッケー。あー、面白かった……」
笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら、賢木さんはバスルームへと戻っていく。僕はそれを見届けてから寝室へ洗い替えのタオルケットを取りに行った。ソファの背凭れにそれを掛けて、賢木さんが戻ってくるのを深呼吸しながら待つ。
自分の精一杯をあんなにも揶揄われてしまうなんて恥ずかしくて、でも、どこかホッとして。こんなんだから童貞なんだろうな、と自分が少し悲しくなった。
「ドライヤーありがとな」
「いえ……乾かさないと、跳ねて大変でしょう?」
そうなんだよ寝癖とか超ヤバイ、と言いながらリビングに戻ってきた賢木さんはソファに腰を下ろした。しっかり乾かされてふわふわといつもの柔らかそうな髪に戻った賢木さんは、急ににまにまとした顔をこちらに向けて口を開いた。
「なぁ皆本……もういっこ、聞いていいか?」
賢木さんの表情に、嫌な予感しかしない。でも、断るという選択肢を選べなくて、心の中で降参のポーズを取りながら、はぁ、と小さく溜め息を吐いて。
「……なんですか?」
「なぁ、キスは? キスはしたことあんの?」
キラキラと、興味津々の目が一心に僕へと向けられている。答えなければきっと解放してくれない。答えたくないなら無理にでも賢木さんを引き剥がして寝室に籠もってしまえばいいのに。どうしてだかそれができなくて、賢木さんの深い色をした目に惹き付けられてしまう。
それでも、何だかこのまま手のひらで踊らされるように素直に答えてしまうのは癪で、じっと賢木さんの目を見つめたまま答える。
「……どう、思います?」
「知りたいから聞いてんじゃん」
教えろよ、と続ける賢木さんに触れてしまいたい。
その滑らかな肌に指を這わせて、綺麗な形をした唇に優しく口付けて、賢木さんの目に映る物を自分だけにして彼を独り占めしてしまいたい。
「……秘密です」
そんなことは到底できない、と僕の頭は冷静に理解していた。そして、僕の頼りない本能を諫(いさ)めながら、顔に笑顔を貼り付けるなんてことは簡単にやってのけた。
「すみません。僕、今日はもう寝ますね。リビング、好きに使ってください」
「え? あ、あぁ、じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
にこりと賢木さんに笑いかけてから、寝室の扉を閉める。ぱたむ、という軽い音と共に、部屋が薄暗くなって、自分の足下へと視線を移した。
静かになった家の中に、ふぅ、とひとつ溜め息を吐いて、リビングから漏れてくる灯りだけを頼りにベッドに潜り込んだ。
眼鏡をベッドサイドの定位置に置いてから、身体を丸くして頭から布団を被る。ごろりと身体を転がして身体の向きを変えると、膝を抱えていた腕が解けて手足が投げ出された。ぼんやりと目に映る天井の模様を見つめながら、ゆっくりと目を閉じる。
僕のキスの経験なんて聞いてどうするつもりだったんだろう。
またおもしろおかしく揶揄うつもりだったんだろうか。
賢木さんにとって、僕は可愛い、おもちゃにできる年下の後輩でしかないのかもしれない。
キスだってしたことない、本当に真っ新な童貞だと知って、それから?
頼めばキスくらいさせてくれるのか?
男友達なのに?
でも僕は賢木さんとキスしたいし、それ以上のことだって。
そこまで考えて、胸の中の物を全て吐き出すみたいに深い溜め息を吐く。
僕はもう、明らかに賢木さんとの友達の距離感を見失いかけていた。

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