そう、これはたとえばの話。 - 15/22

目が覚めると、部屋の中は薄暗くなっていた。ぼんやりした思考のまま時計に手を伸ばして時間を確認すると、針は三時前を指していて。夜の三時なのか昼過ぎの三時なのかがわからなくて、何とかもそもそと身体を起こして窓際に立つ。そろりとカーテンの隙間から外を覗くと、外はまだ明るくて、昼間の三時なのだと頭が強制的に認識した。寝起き特有の、どろりとした疲労感に似た怠さが身体を襲う。それを振り払うように、んーっと思い切り背伸びをした。
こんなにしっかり眠れたのは久し振りな気がする。そもそも馬鹿みたいな理由で徹夜を続けていたし、それ以前もうなされて眠れなかったり、眠りが浅くてすぐに目を覚ましてしまったりと、あまり良質な睡眠が取れているとは言えない状況だった。でも、眠れたことで得られた爽快感と、眠る前に落ち着いた自分の思考のおかげで、肩に乗っかっていた重たいものを下ろしたような、まるで自分が一皮剥けたような、そんな身軽な気分だった。
人間は本当に単純に出来ているようで、性欲、睡眠欲と二つを満たした身体は次のものを求め始める。そういや昨日から何も食べていないということを思い出して、寝室の窓を開けて空気を入れ換えながらキッチンへと向かう。リビングの酷い惨状を見て、片付けもしなきゃいけないなぁと肩を落とした。そのまま冷蔵庫を開けようとして、あぁ、と思い至る。
ここのところ、人間らしい生活なんて送っていなかったから、冷蔵庫の中に食べられるものなんて何もない。取り敢えず、と牛乳が腐っていないことを確認してコップに注いだ。行儀悪くそれを片手にリビングへと向かって、飲みながらリビングの窓も開けてしまう。
澱んでいた部屋の空気が、少しずつ綺麗なものへと入れ替わっていく。
眠る前はどん底の深い沼の底に沈んでいた自分の気持ち。それが、憑き物が取れたみたいに明るさを取り戻してふわりと軽くなった。すっかり心地よい空気に包まれた部屋の中が、まるで自分の心も洗い流してくれたみたいだ。ごきゅごきゅと牛乳を飲み干して、よしっ、と気合いを入れた。
簡単に部屋を片付けたら、キャンパスへ戻ろう。今から買い物をして料理をするより、キャンパスに戻って食事を摂る方が合理的だ。
それに今なら、賢木さんもキャンパスにいるかもしれない。
もし、会えたなら。
研究は一段落したことを伝えて、会えなかったことを謝って、これからはいつでも時間が取れることを伝えて。それから。
「はやく、会いたいな」
もうきっとバレてしまっているであろう恋心を、少しでもいいから伝えたい。きっと叶わないこの恋に、今度はちゃんと素直になって、賢木さんに向き合いたい。そうすれば、この報われない恋心も、幾らか救われる気がした。
「早くキャンパスへ行こう」
使ったコップを片付けて、床に散らばったものを拾い集めていく。それらを定位置に戻して、クローゼットから新しい服を取り出して着替えを済ませる。それから、ここよりももっと酷い惨状になっているであろうバスルームへ、脱いだものを持って向かった。散らばっている洗濯物を仕分けして、溜まりに溜まった洗濯は帰ってから片付けようと洗面台に向かう。歯磨きと洗顔を済ませて、身支度を調えた。
「……いるかな、賢木さん」
気持ちが切り替わってしまえば、こんなにも会いたくて堪らない。今にも駆け出したい気持ちを抑えて、玄関に散らばった靴を片付ける。
そういえば、賢木さんに出会った頃もこんな風にウキウキしながら毎日賢木さんのところへ通い詰めていた。靴を履きながら、ふと、そんなことを思う。
あぁ。僕は本当に最初から、賢木さんに惹かれていたんだ。
軽い足取りでキャンパスへと向かいながら鞄から携帯を取り出す。賢木さんのアドレスを呼び出して、メール画面を開いた。
「えっと、どういう文章にすれば、違和感ないのかな……?」
歩きながらの携帯操作は良くないと思いながら、早く賢木さんに会いたいという気持ちでいっぱいで、ドキドキする胸を押さえながら文章を打ち込む。
「……えっと……お疲れ様です。今大学にいますか? これで、いいかな?」
高鳴る胸をそっと撫で付けて送信ボタンを押す。
はぁぁ、と一仕事を終えた後みたいな溜め息を吐いてから、よし、と前を向いて駆け出した。返事は何と返ってくるかはわからないけれど、きっと賢木さんなら返信をくれるはず。
あんなにも会うのが怖かったのに、今は会いたくて会いたくて堪らない。あのふわりとした柔らかい笑顔に会える時間が待ち遠しい。
「会えると、いいな」
キャンパスの門を潜って、いつも賢木さんと二人で通っていたカフェテリアへと足を向けた。

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