「というわけで、俺は前々から皆さんにお知らせしている通り、本日六月二十七日の終業後、同じく終業になる紫穂ちゃんを攫って明日六月二十八日は二人で公休を頂きます。みんな忙しいとは思うけど諸々采配ご協力願います。じゃ、そういうことで。解散」
はーい、と訓練されたスタッフたちの返事に、うむ、と頷いてから颯爽とその場を立ち去る。ニコニコと微笑ましい顔をしているスタッフ三割と微妙な笑顔を浮かべているスタッフ五割、残りの二割は無表情。表情は違えど全員共通して俺に無言の圧を掛けてくるのでここはとっとと逃げるに限る。
みんなの言いたいことは言われなくてもわかっている。
というか俺だって紫穂ちゃんに言いたい。
紫穂ちゃんの誕生日。
晴れて想いを通じ合わせた俺たちはそのまま順調へ交際に――は至ってないのだ、実は。
あの日、顔を真っ赤にした紫穂ちゃんに改めて自分の気持ちを伝えて、紫穂ちゃんもちゃんと言葉で俺のことが好きだったと言ってくれて。
普通に考えればそのまま交際がスタートするじゃん?
俺たち普通に大人だし?
その後に「じゃあ付き合っちゃう?」みたいな甘酸っぱい遣り取りを挟むような少年少女ではもうないじゃん!?
とりあえず食事を終えて、会計済ませて店を出て。帰路につくためタクシーを拾う前、気が逸った俺は路地の暗がりなのも後押しして紫穂ちゃんにキスしようとした。
この状況で拒まれるわけないじゃん? っていう甘い考えもあったけれど、ずっと叶わない片想いだと思ってたのがそうじゃなかったと知れて、かなり浮かれてたのもあると思う。
とにかく、そっと手を引いて紫穂ちゃんの小さな身体を抱き竦めそのまま顔を近付けようとしたら、思いっきり顎に手を当てて抵抗されたのだ。
それはもうびっくりするくらい力強く。
首が痛いとかそんなことよりも、拒否された衝撃で面食らってしまった俺は、力無い声で、嫌だったか? みたいなことを聞いたことは覚えている。
そして、心の準備ができてないからまだダメ、と紫穂ちゃんがはっきり答えたのは何故か一語一句漏らさず覚えていて、その後、そっか、みたいな遣り取りをして。手を繋ぐこともなく何だか甘酸っぱい雰囲気を纏いながら大通りでタクシーを拾い、そのまま紫穂ちゃんのマンションまで送って別れた。
その時は、心の準備ができてないとか超可愛いな、なんて、浮かれモードの俺は呑気に考えていたけれど、まさか心の準備に三ヶ月も掛かるなんて聞いてないじゃん?
そりゃ俺だってあの日から待つばかりで何もしなかったってわけじゃない。それとなくアプローチしてみたり仕事の合間を狙ってランチに誘ってみたり、帰り際を捕まえて食事に誘ってみたり。紫穂ちゃんの心の準備が整うようにそりゃもう涙ぐましいくらいの地道な努力を重ねまくった。まぁ全部不発に終わってるんだけれども。
どちらかと言うとあたたかく俺と紫穂ちゃんのことを見守ってくれている女性スタッフがそれとなく紫穂ちゃんの様子を俺に伝えてくれたりはしてくれていて、紫穂ちゃんは俺を嫌って避けているわけではないことは理解している。
ただ、その女性スタッフが、紫穂ちゃんはどうも恋愛に良い思い出がないらしい、という少しばかり気になることを教えてくれたので、ひょっとしたらそれが何かしらの影響を与えている可能性は考えられた。
でも、二人で話がしたくとも紫穂ちゃんは脱兎のごとく俺の前から逃げ出してしまうので、それについて聞くこともできず仕舞いで今日を迎えたというわけだ。
だからと言って、俺だって愚かに無策で今日を迎えたわけじゃない。
たとえ職権乱用と言われようと、今日こそちゃんと紫穂ちゃんと話をして、俺たちの関係を少しでも前に進めるという固い決意を胸に今俺はここにいる。
「……三宮、ちょっといいか?」
「……何か?」
「申し送りの件で確認したいことが。ちょっといいか?」
申し送りの件で確認したいことなんて何もない。紫穂ちゃんの丁寧できめ細やかなカルテは皆に評判で、申し送りに漏れがあったことも伝達のミスが生じたこともない。
つまりは全くの大嘘である。
でも紫穂ちゃんは仕事を表に出されると一応イヤイヤながらも俺の話を聞いてくれるので、俺は何と非難されようと最終手段に出るしかなかった。良心は痛むし公私混同甚だしいとは思うが、今日だけだからと自分を宥めて仕事を終えて帰宅しようとした紫穂ちゃんを引き留める。渋々、といった様子で俺の後ろに着いてくる紫穂ちゃんを誘導して、わざわざこの為に予約しておいた小会議室に入った。
「まぁ、座りなよ」
「いえ。結構です。さっさと要件をどうぞ」
ギロ、と人を殺せそうな目で睨まれて思わず怯みそうになるけれど、ここで負けては一生負けだと何とか自分を鼓舞する。
ねぇそれ本当に好きな人に向ける目で合ってる? と思わず問い掛けてしまいそうな自分を深呼吸で宥めつつ、紫穂ちゃんのアイスピックのような目をじっと見つめて口を開いた。
「あのさ、紫穂ちゃん」
俺が口を開いた途端、あ、今俺一回死んだな、と思いつつ、何とか気を奮い立たせて本題を口にした。
「……俺……いつまで、待てばいい?」
ちゃんとはっきり言うつもりでも、掠れて声が揺れてしまったのが情けない。
それに、一番最初に口にするべきこともこれじゃなかった。
もっと普段通り世間話でもして、警戒されっぱなしの紫穂ちゃんの心を解して。
それからやんわりと本題に入ろうって何度もイメージしていたはずなのに。
自分でもびっくりするくらい上手くいかない紫穂ちゃんとの接触が本当の本当に情けない。
年上らしくリードもできない自分に嫌気が差しながら、そろりと紫穂ちゃんを窺い見ると、紫穂ちゃんは青ざめた顔で大きく開いた目からぽろりと涙をこぼしていた。溢れるようにぽろぽろと大粒の涙を流している紫穂ちゃんの姿におろおろと慌ててポケットのハンカチを差し出した。
「ご、ごめん……泣かせるつもりは、なくて」
そんなにこの話題に触れるのは嫌だったのか。
軽く絶望しながらハンカチを受け取ろうとしない紫穂ちゃんの様子にギシギシと身体が軋んで身動きできなくなっていく。ぎゅっと目を瞑った紫穂ちゃんは更に顔を俯けさせて口を開いた。
「嫌いになっちゃったんでしょ」
「え」
「蓋を開けてみたら……思ってたよりつまんない女でイヤになったんでしょ」
ぐっと握り締めた手がふるふると震えているのを見て、思わずそんなことないと首を振った。
「君のどこがつまらないんだよ……紫穂ちゃんはずっと、俺にとって他にはない特別だ。それより……」
紫穂ちゃんがこぼした涙が床にシミを作っていくのを見つめながら、自分を抑えられずに紫穂ちゃんの頬をそろりとハンカチで拭った。
「……君の方こそ、俺への気持ちは憧れで、そういう好きとは違ったんだろ?」
紫穂ちゃんにずっと避けられ続けて薄々感じていたソレ。
最初は照れてるんだろうなとか変に意識しちゃって可愛いなとか、自分まで若くなったような甘酸っぱさに酔い痴れていたけれど、避けられる期間が長引くにつれ、それは俺の思い上がりなのでは? と考えるようになった。
あの日、キスを避けたのも、実はやっぱり恋愛としてのスキじゃない、俺への憧れとしてのスキだったと気付いたからで、調子に乗って毎日アタックを続ける俺をどう断ればいいのかわからず避けることしかできないんじゃないか。
そう考えれば、俺への当たりのキツさだって納得いくものばかりだった。
「……はっきり言ってくれていいんだぞ。そもそも、一回りも歳の離れてる調子乗ったオッサンに追いかけられて、君も迷惑だったよな。薄々そうなのかもなって感じてたのに諦めきれなかった俺が悪い。やっぱり君はもっと若くてイイ男と一緒になった方がいい」
「ち、ちがうの! そうじゃない! 私はッ」
そろそろとこぼれる涙を拭いていた俺の手を捕まえて、紫穂ちゃんは苦しそうに顔を歪めて叫んだ。
「私、先生がスキ……でも、どうしたらいいか、わからないのよ」
「……え?」
「ちゃんと話さなくちゃ、ってずっと思ってた。でも怖くて、こんな話したら軽蔑されるかもって」
涙声でそう続けた紫穂ちゃんは、俺の手を掴んだまま眉を下げて笑った。
「隠してたって、いつかはバレるもの。ちゃんと話すわ。私のこと、嫌いになってもいいから聞いてほしい」
「……えっと、それは……相談、とか、そういう?」
「場所を変えましょ。先生今日は車でしょ? 乗せてくれる?」
「え、それはいいけどさ。どこ行くの」
「……そうね……先生が嫌じゃなければ、私の部屋」
「えっ」
「あまり誰にも聞かれなくない話なの。薫ちゃんと葵ちゃんは知ってるけどね」
嫌ならどこか二人きりになれる場所、と考え始めた紫穂ちゃんに、君の部屋でいいと小さく返した。まだ涙で濡れている目許を俺の手から奪ったハンカチで拭った紫穂ちゃんは、何か憑き物が取れたようにスッキリした顔をして、行きましょ、と告げる。その様子にほっと息を吐きながら、二人で駐車場へと向かった。
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