「……なぁ、紫穂ちゃん」
「……なぁに? センセ」
「ずーっと気になってたことがあるんだけど……聞いてもいいか?」
恐る恐る紫穂ちゃんの方へ振り返りながら、びくびくして様子を窺うと、紫穂ちゃんはほんの少し眉を吊り上げながら、内容にもよるけど、いいわよ? と腕を組んで首を傾げてみせた。
その様子にごくりと息を呑みつつ、思い切って口を開く。
「……なんで、俺の執務室にいんの?」
これは聞いていい質問だったのか、それとも悪い質問だったのかはわからない。
それでも、ここ最近気付けば俺の執務室に居候のように居座っている紫穂ちゃんの真意がどうしても知りたくて、俺はつい、その質問を口にしてしまった。
俺の問いかけにピクリと片眉を吊り上げた紫穂ちゃんは、ムッとした表情で腕を組んでからじっと俺を見つめている。
「……居ちゃ悪い?」
「あっ、や、居ちゃ悪いってワケじゃねぇんだけどさ? 一応俺の執務室って機密レベル高ぇし、何かあったときにいろいろ言われんの紫穂ちゃんだからさ」
「別に……先生がヘマしなきゃ済む話でしょ。それとも、まだとんでもないヘマやらかす気なワケ?」
「いやそんなことは……」
「じゃあ別に問題ないじゃない」
そう言って再びペラペラと雑誌を読み始めた紫穂ちゃんは、もうこれ以上話すことはない、とでも言いたげなオーラを放っている。
うまいこと論点をずらされた上に、知りたかったことは聞けず仕舞いでがくりと肩を落とした。ハァァ、とあからさまに溜め息を吐いてみても、紫穂ちゃんはどこ吹く風で、もう俺のことなんて全く気にしていないらしい。
彼女には前局長が誂えたチルドレン専用の特別な待機室があるんだからそっちで寛げばいいのに。何故敢えて俺の部屋なんだと首を傾げた。
だからと言って追い出す気もなければ、ここに居てくれること自体を拒否しているわけでもない。答えてくれないからどうにかなるということはないんだけれども。
なんだかなぁ、と思いながらマグカップに口をつけると、コーヒーはすっかり冷めきってしまっている。そういえば紫穂ちゃんのために淹れた紅茶ももう冷めてしまっているかもしれない、と立ち上がった。
電気ケトルを置いている簡易な給湯スペースへ向かおうとすると、バサリと勢いよく雑誌を置いてソファから立った紫穂ちゃんが、慌てた様子で俺を追いかけようとした。
「ど、どこ行くの?!」
「え? 新しいお茶淹れるだけだけど?」
カチリと電気ケトルのスイッチを入れながら紫穂ちゃんの方へ振り向くと、紫穂ちゃんは大袈裟にホッと安堵した表情を浮かべて元いたソファに腰を下ろしている。
「まッ、紛らわしいのやめてよね!」
紫穂ちゃんはプンプンと頬を膨らませながらそのままそっぽを向いてしまった。ワケのわからない紫穂ちゃんの言動に首を傾げながら紫穂ちゃん専用のリーフティを取り出す。
「……うん? えっと、ごめん?」
新しい茶葉をティーストレーナーに詰めながら、自分は何に謝っているんだ? と改めて首を傾げる。それから紫穂ちゃん専用のマグカップを回収しに、ソファに座っている紫穂ちゃんへと近付いた。
「今日も最後まで居るんだろ?」
半分くらい中身が減った白のマグカップは、実は俺のとお揃いだ。俺が予備で置いていた全く同じ新品のマグカップに、紫穂ちゃんが消えないペンで大きく自分の名前を書き込んで、自分の所有物にしてしまった。
まぁいいか、とそのままそれを紫穂ちゃん用に使い始めてもうそれなりの期間が経っただろうか。そのマグカップの存在を皆本に知られたとき、何故か胡乱げな目を向けられたのは今でもちょっとだけ不服に思っている。何かおかしいことでもあるって言いたいのか。
手に馴染む紫穂ちゃん用のマグカップを、紫穂ちゃんの了承を得てから回収し、中身を捨てて簡単に洗い流してしまう。
「……今日も送ってくれるの?」
恐る恐る俺の様子を窺うような口調で問いかけてくる紫穂ちゃんに、もう一度首を傾げて返事した。
「ん? 当たり前だろ、送ってくぞ? 寄りたい場所でもあるのか?」
「ちがうの。聞いてみただけ。気にしないで」
「……ふぅん?」
シューゴボゴボという音を耳に入れながら紫穂ちゃんのマグカップにティーストレーナーを入れて沸き立てのお湯を注ぐ。ふわりと香る紅茶の香りにウンウンと頷いて自分のマグカップにはインスタントコーヒーを淹れた。
紫穂ちゃんの反応に疑問は残るものの、本人が気にするなと言っているのだからあまり気にしないでいい内容なのだろう。きっちり時間を測って茶葉を取り出したマグカップを紫穂ちゃんの元へ運んで、再び仕事に向かうべくデスクに戻る。
椅子に座ってしまえば、執務室には紫穂ちゃんの為に買い換えたアロマ機能付きの加湿器の音だけが響いていて、時折ペラリと雑誌を捲る紫穂ちゃんの息遣いが聞こえてくる。もう当たり前になってしまった環境音をBGMに、残り少ない今日決裁の書類データに目を通した。電子化された決裁印とサインをスタンプしてしまえば今日の仕事も終わりだ。
「よしっ! お待たせ、終わったぞ」
システムからログアウトしてコンピューターをスリープに変更すれば業務の片付けも終わって自由の身だ。ロッカーから鞄とジャケットを取り出せば、帰り支度を整えた紫穂ちゃんは既にドアの横にスタンバイしていた。
「待ってないわ。さぁ、行きましょ」
クイ、と鞄を持っていない手の親指で外を指差した紫穂ちゃんに苦笑いしながら紫穂ちゃんの横に並ぶ。IDカードで執務室をロックして通用門へと向かった。
ここ最近は一緒に帰ることも多くなっているからか、チルドレンの三人セットより俺と紫穂ちゃんのセットで扱われることも多い。それが何だかむず痒いようで、薫ちゃんたちに嫉妬されたりしねぇかな、と小さな不安を抱えているのは俺だけの秘密だ。
車のロックを外して助手席のドアを開けると、紫穂ちゃんはアリガトと小さく返事してするりと助手席に乗り込む。きちんとシートに身体を納めたのを確認してから、ドアを閉めて運転席へ回った。荷物を後部座席に置いてから自分も座席に身体を落ち着けると、シートベルトを締め終えた紫穂ちゃんが早く車出してとせっついてきた。
「へいへいお嬢サマ」
「お嬢様じゃない!」
クワッと噛み付いてくる紫穂ちゃんに眉を下げて笑いながら車を発進させる。フン、と鼻を鳴らして腕を組んだ紫穂ちゃんは可愛らしく頬を膨らませてシートに深く凭れかかった。
「なぁ紫穂ちゃん」
「……ナニよ」
まだ機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せている紫穂ちゃんにへらりと笑いかけてそろりと口を開く。
「さっきの話なんだけど」
無言のまま、視線だけをこちらに寄越した紫穂ちゃんに内心ホッとする。そのままチラチラと紫穂ちゃんの顔色を窺いつつ、前方に注意して会話を続けた。
「……最近、俺の執務室に入り浸りじゃん? チルドレンの待機室にいなくていいのか?」
ハンドルを切りながら静かにそう問いかけると、紫穂ちゃんは再び眉を寄せて窓の外へと視線を移す。
「……居ちゃ悪い?」
それから、紫穂ちゃんはさっきと同じ答えを口にして不満を隠すことなくドアに凭れるように肘を突いた。
「いや……そうじゃなくてだな。なんで、俺の執務室、なのかなって……医局ならわかるんだけど、俺の執務室には特に紫穂ちゃんの興味を惹くようなモンってねぇと思うんだよな……」
勉強のため、というのなら、医局の方にいた方がよっぽど勉強になることが多いだろうし、同時に経験も積めるだろう。まだ医者のタマゴでもない学生だとはいえ、紫穂ちゃんはレベルセブン。そこらの医者より役に立つ機会は多いと思う。なんてったって俺が仕込んでるんだし。
「医局の方に顔が出しづらいってんならさ、俺が口聞いておいてやるから。紫穂ちゃんは気にせず勉強しに行っていいんだぞ」
そもそも紫穂ちゃんはバベル職員には顔が知れてるし、バベルの医療部長である俺の愛弟子という肩書きもあるんだから追い出そうなんてことを考える輩はいないはずだ。
滑るように車を動かしながらそう告げると、紫穂ちゃんは何故か一層表情を険しくして、窓の外を睨みつけながら溜め息を吐いた。
「……別に……勉強のためにあそこにいるんじゃないわよ」
苦々しげにそう呟いた紫穂ちゃんの表情が窓ガラスに写っている。一瞬だけそれを目で確認してから、あと少しとなった帰路をゆっくり走り続けた。
「そうなのか? じゃあ……なんでだ?」
他に思い当たることができない理由を探るように問いかけると、紫穂ちゃんは機嫌が悪そうに唇を尖らせてチラリとこちらに目を向けた。
「……先生の事、監視してるの」
「監視?」
「そう。監視」
紫穂ちゃんはほんの少し、むくれた表情で繰り返す。そんな紫穂ちゃんの横顔を窺い見ながら、がっくりと肩を落として溜め息を吐いた。
「……俺って……そんなにヘマしそうに見える?」
力無く項垂れながら、ハンドルを握ってへにょりと眉尻を下げる。
まぁ今までの実績を考えれば、また何かやらかして周りに迷惑を掛けるかもしれないと心配するのは当然なのかもしれない。だがしかし、これでも一応社会的に立場のある、要職と言ってもいい肩書きを背負って仕事している大人だという自覚はある。ずっと一緒にいる紫穂ちゃんからはそう見えないのかもしれないけれど社会人として責任ある行動を取っているつもりだ。過去のやらかしが大きいのでどうしても自信満々に胸を張ってそうだと言えないのが心苦しいけれども。
「……紫穂ちゃんの前で結構なヘマやらかしてばっかだからさ、心配になるのはわかるんだけど……一応バベルの医療部長としてちゃんと仕事してるつもりなんだけどな」
不足ですかね? と眉を下げながら問いかければ、紫穂ちゃんは慌てたようにわたわたと手を振ってこちらに振り返った。
「そッ、そうじゃなくて! あ、えっと、そうなんだけど! でも、そうじゃなくて、その」
さっきまでの勢いが削がれたようにもじもじしだした紫穂ちゃんは、俺の顔なんて見ていられないとでも言うようにフイと顔を背けてしまう。その横顔はほんのりと朱に染まっていて、赤く色付いた目尻が妙に色っぽく見えて思わず目を背けた。
「ッ……あー……それってどっちなんだよ? ていうかそうじゃないって何」
動揺を言葉で誤魔化しつつ、若干癪に障る紫穂ちゃんの言葉にもにょもにょと唇を尖らせる。
「あ……えっと、その……そうじゃなくて……だから……」
「……珍しく歯切れが悪いな。俺のこと信用できないっていうならはっきりそう言えばいいだろ」
「ち、違うの! そうじゃなくて、だから、えっと、そうなんだけど、そうじゃなくて……」
眉を下げて困った表情を浮かべている紫穂ちゃんにウッと息が詰まるのを感じながら、何とか目的地のそばで車を安全な位置に停車する。サイドブレーキまでしっかり掛けてからそっと息を吐いて、シートに身を預けながら紫穂ちゃんの方へ身体ごと向き直った。
「……なんだよ」
結局俺が信用できないとかそういう話ではないのか。
俯き加減の紫穂ちゃんを見つめながらチクチクと痛む胸をそろりと撫でる。
結構長い間一緒にいるし、ずっと紫穂ちゃんのことを気に掛けてはきたけれど、それは一方的なことだから紫穂ちゃんに届いていなくても仕方がない。
それでも、ちっとも得られていない信頼に、なんだかなぁ、とモヤモヤしたものを抱えつつ、やっぱり俺は皆本には敵わないんだろうと溜め息を吐いた。
自分たちが少しくらい特別な信頼関係にあると思っていたのは俺だけだったのか。
そう思うと何だか悲しいだけじゃなくてざわざわしたよくわからないものが胸の内に巣食って、どこからか湧いてくる悔しさに眉を寄せる。
俺と一緒にいるときに見せてくれる笑顔だとか、俺のそばでは肩の力を抜いて素直な態度で俺に向かってくるところとか、全部俺だけが特別だと勘違いしてたっていうのか。
なんだよ。くそ。
俺めちゃくちゃ馬鹿みてぇじゃん、と舌打ちしたくなる気持ちを押さえながら改めて紫穂ちゃんに目を向けると、紫穂ちゃんは相変わらず頬を染めたまま困った顔で眉を下げている。その頼りなげな表情に湧き上がってくる何かを押し込めながら、ふと頭に浮かんだ一つの可能性に眉を寄せた。
「……ひょっとして……誰かに命令されて俺のこと監視してるのか」
低く響いた俺の声に、ばっと顔を上げた紫穂ちゃんはブンブンと首を振って俺の言葉を否定した。
「ちッ、ちがっ! そんなわけ!」
「まさか相手に脅されてるのか? それなら早く言えよ。俺がなんとかしてやるから紫穂ちゃんは何も心配するな」
「そ、そんなわけないじゃない! 脅されて監視してるわけじゃないわ!」
「……じゃあなんで俺のこと監視してんの」
「……い、言いたくない」
きゅっと唇を引き結んで途端に黙り込んでしまう紫穂ちゃんに、はぁぁぁぁ、と深く溜め息を吐く。
「……俺ってそんなに信用ない? 別に……信用してくれとは言わねぇけど、俺も一応医者としてエスパーとして、信念を持って仕事をやってるわけで」
「そうじゃないの! そうじゃなくて、でも、えっと、その……そうなんだけど、そうじゃなくて……」
「……俺のやってることが信用できないってはっきり言やいいじゃん」
「ちがうの! 仕事のことじゃないの!」
「……え?」
「わ、私が監視してなくちゃ……先生は女の人のところへ行っちゃうでしょ!」
「はぁっ?!」
今度はキッと眉を吊り上げた紫穂ちゃんが上目遣いに俺を睨み付けてドキリと心臓が震える。
真っ直ぐにこちらを見つめてくるキラキラの大きな瞳にどぎまぎしてしまって思わず身を退くと、紫穂ちゃんは力なく眉尻を下げて俯いてしまった。
「……先生が私のことを見てないのはわかってる。先生が私のこと、妹みたいに思ってて、女だと思ってないのも知ってる! でも! それでも私は!」
きゅっと苦しそうに眉を寄せた紫穂ちゃんにもう一度見つめられてドキドキと心臓が早鐘を打ち始める。
なんだコレ。
どういうことだ。
目の前で起きている展開についていけない頭を必死に動かして情報を処理していく。それでもうまく処理しきれない状況がまるまる俺を呑み込んで、思考停止を起こした頭は完全にスパークした。
「見張ってる間は大丈夫とか、甘えだったわ。私がいると、思うように女遊びできないものね」
「え、ちょ、待っ、紫穂ちゃ」
「……ごめんね。もう先生のトコロには行かないわ。今まで邪魔してごめんなさい」
ふ、と最後にやわらかく微笑んだ紫穂ちゃんは、そのまま車のドアを開けて出ていってしまう。硬直してしまった俺は紫穂ちゃんを追いかけることも後ろ姿に手を伸ばすこともできず、ただただ呆然と口を開けて間抜け面を曝していた。
* * *
それから。
本当に紫穂ちゃんは俺の執務室に顔を出さなくなった。
とは言っても本部にはいるわけだから、食堂で薫ちゃんや葵ちゃんと談笑しているのを見かけたりだとか、オープンスペースで皆本と任務の打合せをしている姿だったりとかを遠目に見ることはあって、可愛く微笑む紫穂ちゃんの笑顔を見ることが出来た日は、それはもう天にも昇るような気持ちで胸が疼いて仕方がなかった。
あの日、紫穂ちゃんがあんな意味深なことを言って立ち去るから、全部全部そのせいだと自分に言い聞かせて、何とか鼓動を鎮めようとしてもなかなかうまくいかない。
自分の身体を自分で制御しきれないなんて、こんなこと今までなかったのに一体どうしたっていうんだろう。
それにしても今日の苺パフェを頬張る紫穂ちゃんも可愛かった。あぁ可愛い。あんな天使みたいな子がこの世に存在していいのか。バベルはもっと紫穂ちゃんの身の安全を保護する方向へ動いた方がいいんじゃないか。多分可愛さで世界を平和にできるし無形文化遺産とかに登録してあの可憐さを後世に伝えた方が世の中のため人のためだと思う。
……いやいや無形文化遺産て。
はぁぁ、と深く溜め息を吐きながら口元を両手で覆って自分のイカれた思考を頑張って隅に追いやる。
自分でもどうしたと問い詰めたくなるくらい、あの日から自分の思考回路はどうもおかしい。びっくりするくらい頭のなかは紫穂ちゃん一色で、執務室に置いてある紫穂ちゃん専用のブランケットを見ては胸が高鳴り、マグカップに書かれた紫穂ちゃんの名前を見ては溜め息を吐いて胸がキュンと苦しくなる。
どこかおかしくなってしまったのかと自分を透視してみても至って健康、どこにも不具合を見つけることはできない。
制御だって通常時なら問題はない。ただ、紫穂ちゃんが絡むと途端にコントロールが利かなくなってしまうというだけだ。
今まで本当にこんなことがなかったから対処法がわからない。正直、仕事に支障が出るレベルで物思いに耽っているときもあるので、そろそろ何とかしないと本当にヤバい。
ハァァ、と深く溜め息を吐いて、もやついた思考を振り払うようにバリバリと頭を掻き毟った。
「……そうは言ってもどうすりゃいいんだよ」
うーん、と背凭れに身体を預けながら腕を組んで考え込んでいると、インターホンの軽快な音と共に執務室のドアが開いた。
ひょっとして紫穂ちゃんか! と慌てて振り向くと、そこには呆れた表情を浮かべた皆本が立っていた。
「来たのが僕で悪かったな。そんなガッカリした顔するなよ」
「……え……俺、そんなガッカリした顔、してた?」
「それはもう。紫穂じゃないのか、って顔に思いきり書いてある」
「ウソ」
バッと両手で頬を揉むように顔を隠すと、はぁ、とうんざりしたように肩を落とした皆本が一歩前に進んで執務室のドアをロックした。
「え、何? 機密事項の伝達?」
「……いや、そうじゃない。君に話があって」
顔を顰めたまま俺に身体を向けた皆本は、腕を組んでじろりと俺を睨みつけた。
「……話?」
「そうだ。仕事の話じゃないぞ。君のことだ」
何故か俺を問いつめる気満々の皆本に首を傾げていると、皆本は更にムッとした表情を浮かべて苛立ちを隠さず口を開いた。
「どういうつもりなんだ」
「……は?」
一体何の話だ? と眉を寄せていると、わからないのか? と驚いたように目を見開いた皆本が、深々と溜め息を吐いて眉を吊り上げながら改めて俺を睨み付けた。
「……紫穂のこと、どういうつもりなんだ」
「……え? 紫穂ちゃん?」
「僕は……君と紫穂はそういう関係なんだと思ってたんだけど、違うのか」
キッと鋭い目で俺を射抜いた皆本は、内に燻る怒りを抑えるように顔を顰めている。
なんでそんな怒ってんの? という疑問が頭の中で渦巻いていく。オマケに、皆本から責めるように言われた内容も、全く意味が分からない。
「……違うって何の話だ? そういう関係ってどういう関係だよ?」
睨みつけてくる皆本に逆らうようにこちらも睨み返しながら問い返せば、皆本はカッと怒りで頬を染めて俺に向かって一歩身を乗り出した。
「賢木は紫穂と付き合ってるんだろう!? それとも遊びだって言うつもりなのか!!!」
「えッ?! なっ、ナニ? 一体何の話!?」
「お前ッ! 紫穂の気持ちを弄ぶなんて本当に許されないことだぞ!!!」
「わーッ! ちょっと待ってマジで何言ってるかわかんねぇ!」
怒りに任せて俺の胸ぐらに掴み掛かった皆本に、ぎゃー! と悲鳴を上げながら必死に抵抗する。頭に血が上って冷静さを失っている皆本の手首を掴んで無理矢理引き剥がし、少しでも皆本を落ち着かせるために何とか一定の距離を保った。
「弄ぶってナニ!? 俺、紫穂ちゃんに何もしてねぇケド?! それに付き合ってる事実なんて一ミリも存在しねぇんだけどな!?」
「そんなはずないだろ!? あんなに一緒に居て……賢木だって紫穂の存在を許してるのに、そんな詭弁が通ると思ってるのか!!!」
「詭弁っつったって付き合ってねぇモンは付き合ってねぇし弄んだ覚えもねぇよ!!!」
「じゃあどうして紫穂は落ち込んでるんだ! お前が振ったからじゃないのか!!!」
「ハァァァァ!? 俺が?! 紫穂ちゃんを? 振ったぁ? 初耳なんですケド!?」
「じゃあ何で紫穂はあんなに落ち込んでるんだ! 急に賢木のところへも行かなくなったし! お前が何かしたからじゃないのか!?」
「いやいやいやそれは俺が聞きたい話だし! 俺だって急に紫穂ちゃんが来なくなって寂しい思いしてるんだよ!!!」
自分で叫びながら、はたと口からこぼれ出た言葉にハッとする。
そうか、俺は寂しかったのか。
寂しかったからあんなおかしな思考回路で紫穂ちゃんのことを考えたりしちゃってたのか。
なんだなんだそういうこと。
わかってしまえば急に肩の力が抜けたような気がしてホッと息を吐いた。ふと身体に纏わりついていた重たいものが取れて楽になったような感覚に、自分でも思わず笑ってしまう。
寂しいからってここまでおかしくなるなんてどうした、子どもじゃあるまいし。急に笑顔で抵抗しなくなった俺に、皆本は毒気を抜かれたのか訝しむ目を俺に向けながらゆっくりと身を引いた。
「……どういうことだ? 僕はてっきり、賢木が紫穂の気持ちを弄んで泣かせたんだと思ってたんだけど違うのか? あんなに落ち込んでる紫穂を僕は見たことがない」
ちゃんと事情を説明しろ、とそれでも凄んだ顔で迫ってくる皆本にさりげなく椅子を勧めながら、自分も椅子に腰掛けて首を傾げた。
「……俺が何かしたっていうより、紫穂ちゃんが……もう、俺のところには来ない、って」
俺はただ、どうして俺の執務室に通っているのかが知りたいだけだったのに。
それが何故か監視してるという話になり、俺の女遊びがどうこうという話になり、紫穂ちゃんは話を止めて俺の前から去ってしまった。
「紫穂ちゃんが俺を見張ってたら、俺が女の子と遊べないから、邪魔してゴメンって……俺そもそも最近忙しくて殆ど女の子と遊んでねぇのに、何でそんな心配してたんだろうな? よく考えたらずっと紫穂ちゃんといるんだし、そんな暇も余裕もねぇって紫穂ちゃんが一番よくわかってそうなのに」
流石に一日中ずっと一緒、というわけにはいかないが、時間の許す限り一緒に居たのは間違いない。紫穂ちゃんは大学があるし、俺だって仕事がある。それでも紫穂ちゃんが訪ねてくれば断ることなく受け入れていたし、紫穂ちゃんが勉強で躓いていそうならサポートもしていた。自分の背中を追ってほしいとまでは言わなくても、紫穂ちゃんに恥ずかしい姿は見せられない、と今まで以上に自分の仕事と真剣に向き合っていた。
「俺、ここんとこすげぇ真面目に仕事頑張ってたと思うんだけど……紫穂ちゃんはそれでも不満だったのかな?」
ウーン、と腕を組みながら改めて首を傾げると、皆本は憐れむような目を俺に向けて、俺が用意した椅子にやっと腰を下ろした。
「……お前……それ、本気で言ってるのか?」
「え? どういうこと?」
「……賢木は、紫穂がお前にどういう感情を向けているのか、全く気付いてないってことなのか?」
「……ん? は? 紫穂ちゃんが俺に向ける感情?」
「……おいおい本気で言ってるのか? それとも紫穂が言うように、本当に紫穂のこと女の子として見てないのか?」
「……ちょっと何言ってるかわかんねぇな? 紫穂ちゃんは女の子だろ?」
何でそんなこと聞いてくるんだ? と眉を寄せながら皆本に問い返すと、皆本は俺と同じように眉間に皺を寄せて真っ直ぐ俺を見つめ返した。
「……質問を変えよう。賢木は紫穂のこと、どう思ってるんだ?」
「……紫穂ちゃんのコト?」
至極真面目にそう聞いてくる皆本の言葉を繰り返しながら、顎に手を当てて改めて考えてみる。
「……紫穂ちゃんのこと考えるだけでさ、胸がキュン、ってなってすげぇ苦しい」
「……え……あ、うん」
皆本は俺の返事を聞いて、挙動不審になったみたいに目を泳がせながら頬を染めて頷いている。皆本のその奇妙な様子を訝しみながらも、そろりと胸を撫でてから言葉を続けた。
「ここがさ、キュンってなるのは大脳辺縁系の情動反応とほぼ同時に発生する、情動性自律反応って頭では理解してんだ。ガキの頃はそりゃそんなことわかんなかったし、俺にだって一応初恋の経験くらいありますし? でもさ、そういうトキメキって慣れてくるからある程度コントロールできるようになって身体も反応しなくなるじゃん?」
だろ? と同意を求めるように皆本の表情を窺えば、皆本はまるでこの世のものではない者を見るような目で俺を見つめていた。
「……え、何その顔」
あんまりじゃない? と皆本に向かって眉を下げると、皆本は憐れみの目を俺に向けながら口を開いた。
「……普通は慣れないし、コントロールもできないから恋って言うんだけどな?」
賢木って実はバカだったんだな、とものすごく可哀想な人を見る目で皆本は俺を見ている。
「さっきから流石に酷すぎねぇ? お前が俺に遠慮がねぇのは知ってるけどさ、ちょっと貶しすぎじゃね?」
「……いや、悪い……でも、自分が恋をしていることにここまで無自覚な人間を目の当たりにすると……何というか、本当に呆れるしかないというか……」
皆本は眼鏡のフレームの位置を直しながら、チラチラと俺を憐れむような目を向けて口を噤んでしまう。
悪口と言ってもいいそれらを口にしたのは皆本なのに、なんでお前がそんな顔してんだよ。
それにさっきから訳のわからないことを繰り返している皆本にフンと鼻を鳴らしながら腕を組んでふんぞり返った。
「……は? 恋? 何言ってんの?」
君こそ馬鹿だなぁ皆本クン、と口角を持ち上げ勝ち誇ったように言い返すと、皆本はうんざりしたように深く溜め息を吐いて首を振った。
「……ここまで自分の恋心に無自覚だと、まるで恋は人を狂わせるのお手本を見せられているような気持ちになるな」
「……だからさぁ、ナニ言ってんの? 恋? 確かに女の子は好きだけど、この俺が恋に振り回されるワケないじゃん」
ハハッ、と鼻で笑ってやると、もう堪らないというように顔を顰めて皆本は叫んだ。
「こっちこそ何言ってるんだ? って聞きたいよ! 賢木は紫穂に恋してるんだろ!」
いい加減にしてくれよ! と顰め面で叫んでいる皆本は、もどかしい気持ちを表に出すように地団駄を踏んで腕を振っている。
「はっ、はァッ?! 何言ってんの!? 恋?! 俺が!? 何言ってんのよ皆本!!!」
「僕はマトモだよ! オカシイのはお前だよ賢木!」
ビシィッ! と俺の鼻先を指で差しながら目をひん剥いて皆本は続けた。
「今まで君が女性をここまで懐に入れたことあったか?! あれだけ紫穂を甘やかしておいて好きでも何でもないって酷すぎるだろ!? 散々遊んでるんだから女性との距離の取り方くらい理解してるんじゃないのか?! 紫穂とあんなにベタベタしてるくせに女性として見てないとか本当に最悪だぞ!!!」
紫穂が可哀想すぎる! とボロボロ涙を溢し始めた皆本にこちらはオロオロと慌てるしかない。
「えっ、えぇッ? 俺、紫穂ちゃんとそんなにベタベタしてた?!」
「してたよ! それこそ恋人同士かってくらいに!!!」
「う、ウソ……ちょ、ちょっと待って……」
カァァ、と顔に熱が集中するのを感じながら、必死に頭を動かして考える。
全く自覚なかった、と冷や汗を掻きながら、確かに言われてみれば今まで女の子とここまで一緒に行動したことなんてなかったなと思い至った。
それから、紫穂ちゃんがここへ来なくなってからの自分の行動を思い出して、あまりの恥ずかしさに顔を両手のひらで覆い隠した。
嘘だろ! ここ最近の胸キュンの連続は俺が紫穂ちゃんに恋してたってことなのかよ!
でもそう言われてしまえば苦しすぎた胸の疼きも、何もかも全部説明できてしまう。突きつけられた現実に、思わず悲鳴を上げそうになるのを何とか唇を噛んで必死に堪えた。
あの日、紫穂ちゃんがあんなこと言うから。
俺は恋に落ちてしまったんだろうか。
俺ってこんなに惚れっぽかったっけ。
いやいや女の子との恋愛って相手を落とすゲームみたいなモンだろ俺が惚れてちゃ意味がない。
ほんの少しの紫穂ちゃんの行動でこんなにも劇的に俺に変化をもたらすなんて、紫穂ちゃんは俺にどんな魔法を使ったんだ。
落とし神とさえ自称していたこの俺を、こんな風にしてしまうなんて。
「でも……こんなに胸がキュンキュンするのは、紫穂ちゃんだけなんだ……もう俺のとこには来ないって紫穂ちゃんが言ったあの日から、俺は恋に落ちてたのか……?」
なんだそうか、と一人で納得していると、違う違うと首をぶんぶん振った皆本がガシリと俺の肩を掴んだ。
「いやいやいや! 絶対違うだろ! もっと前! どう考えてももっと前からだろ?!」
眉をピンと吊り上げた皆本が、鬼気迫る勢いで俺に噛み付いてくる。
「賢木はずっと紫穂のことを特別扱いしてたじゃないか! それすら無自覚だったっていうのか?!」
「そ、そんなことねーし! 紫穂ちゃんはなんていうか、俺と同じ能力者だから特別気に掛けてたってだけで……かわいい後輩みたいなモンだろ?!」
「紫穂がかわいい後輩だっていうなら松風だってバレットだってティムだってかわいい後輩だよな?! その中に毎日一緒に過ごして家まで送ったりしてる奴はいるか!? お揃いのマグカップを愛用したりしてる奴がいるのか!!!」
「ま、マグカップはたまたまだし! 紫穂ちゃんが俺のストックを勝手に使ってるだけで!」
「それを許すだけの間柄ってことだろいい加減気付けよ!」
「きっ、気付けって何にだよ!」
「ッ……本気で言ってるのか? もし本当だって言うなら僕よりよっぽど重症だぞ賢木……」
うぅ、と唸りながら米神を押さえた皆本は、頭痛を振り払うようにふるふると首を振っている。それから大きく溜め息を吐いて、眉間に皺を寄せながら俺を見つめた。
「紫穂も大概だったけど、賢木だってわかりやすいくらい行動に出てただろ。君はずっと前から、紫穂のことが好きなんじゃないのか?」
「……え」
「紫穂が何かしたから恋に落ちたんじゃない。君たちは同じ能力者として最初は反発していたけれど、ゆっくり時間を掛けて、お互いを知った上で、それぞれ掛け替えのない存在になったんじゃないのか」
先ほどまでとは違う、至って真剣な視線を皆本は俺に向けてくる。ウッと息を詰まらせつつ定まらない視線を更に泳がせてしどろもどろになりながらも何とか答えた。
「な、ナ、な、何言ってんの……それって、だって、そんなの、まるで……」
「まるで?」
「まるで……う、運命、みたいじゃん」
カァ、とこれ以上ないくらい頬が熱くなっているのがわかる。もごもごと喉の奥に何か詰まったような収まりの悪いその言葉を拾った皆本は、ふぅ、と溜め息を吐いて眼鏡の位置を直した。
「僕と薫も大概だけど、君と紫穂も充分運命的だからな?」
「え」
「同じ能力者。オマケに日本でたった二人っきりの高超度精神感応能力者。十年近く側にいて、お互いの手の内も呼吸も知り尽くしてる。オマケに紫穂は君を追いかけて医学の道に進んだ。それに……他の道だってあったのに、その道を進むように手を差し伸べたのは君じゃないか」
「う」
「僕はもうてっきり賢木はそういうつもりなんだと思ってたよ」
「……そ、そういうつもり、って?」
「紫穂の人生に責任を持つって覚悟、君は決めてるんだと僕は思ってたんだけど」
腕を組んで椅子の背凭れに身体を預けた皆本は、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
「……じ、じんせい」
「紫穂を医学の道に導いたのは、つまりそういうことなんだろ? 違う……のか? 賢木は紫穂のことになると、他の誰かに目を向ける暇なんてないくらい手を掛けて親身になってるじゃないか。それは他の誰かの元へ旅立たせるためだったって言うのか? 紫穂の隣にいる君の存在をあれだけ周囲にアピールしておいて? そんなわけないよな? 紫穂は君の一回りも年下なんだぞ。君があんなに手厚く愛情を注いでおいて、紫穂は他の誰かになんて目を向けられると思ってるのか?」
ギロ、と鋭い目で俺を見つめる皆本の視線に身を縮こまらせる。いたたまれない気持ちを抑えながら、ひくひくと引き攣る口を何とか動かした。
「う……お、俺……紫穂ちゃんに愛情注いでた?」
「それはもう。あれが愛情じゃないって言うなら、何が愛情なのかわからなくなるくらいにな」
ほんの少し照れたように頬を染めて、皆本は眉を寄せている。それに釣られるようにますます赤くなっていく頬を押さえながら、改めて確認するように皆本に目を向けた。
「……紫穂ちゃんの人生に、責任を持つって」
「僕は賢木のことだから……もうプロポーズくらい済ませてるのかと思ってたんだからな!」
まさか付き合ってもいないなんて、と皆本は呆れたように肩を落としている。
俺はというと、皆本が発した言葉に衝撃を受けすぎて、頭が爆発しそうだった。
「ぷ、ぷろぽ……け、けけ、けっこん……する、ってこ、と?」
ヒェ、と悲鳴を上げてしまいそうな自分を必死になって抑えながら皆本に問いかけると、皆本は複雑そうに顔を顰めながらゆっくりと頷いた。
「……賢木はもうとっくにそのつもりなんだと僕は思ってたぞ。紫穂に生涯を捧げるつもりなんだとてっきり」
「……し、しょうがい」
「まぁそれは僕の勘違いだったんだけどな。まさか賢木が自分の気持ちにすら気付いてないなんて思うわけないだろ」
「う」
「大体! 僕に女性とのデートについて講釈垂れてたのは誰なんだ! 女性経験が充分すぎるほどにある君が、自分の気持ちに気付かないまま紫穂と恋人みたいな関係になってるなんて……本当に想定外だったよ!」
あーあ、と徹夜続きの仕事がやっと終わったみたいな溜め息を吐いて、皆本はそっぽを向いてしまった。
いろいろ全く追いついてくれない頭を何とか必死に動かして目をくるくると回しながらガシリと皆本の肩を掴む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺と紫穂ちゃんって、恋人みたいな関係なの!?」
意識がどこか遠くへ行きそうになっていた皆本は、驚いたように目を見開いて俺を見つめてから、ハァァ、ともう一度深く溜め息を吐いた。
「僕は今、正直、君を、詐欺師と呼びたい気持ちでいっぱいだけどな。こういうことに疎い僕から見ても、君たちはお似合いだと思ってたよ」
「さ、詐欺師!」
「君に自覚がないんじゃ、やってることは詐欺師同然だよ。紫穂の気持ちを弄んでるのと同等だ」
フン、と腕を組みながらぶつぶつと不満そうに顔を顰めている皆本に、あわあわと焦りながらもなんとか答える。
「お、おれ……そんなつもりじゃ……紫穂ちゃんのために、一生懸命、いろいろ考えて、それで」
「その紫穂のためにっていう原動力は何だったんだよ。愛情じゃなくて親切だったのか? 君は本当に詐欺師だな」
「さッ、詐欺師じゃねぇーもん! 誠心誠意紫穂ちゃんに尽くしてたもん!」
「じゃあ紫穂のことをどう思ってるのかはっきりさせてもらおうか! このままじゃ! このままじゃ、紫穂が可哀想だ!」
キッと睨み付けてくる皆本の視線にウッとなりながら、改めて自分は紫穂ちゃんのことをどう思ってるんだろうと考え直す。
お恥ずかしいことに、自分が紫穂ちゃんのことを好きなのだということをつい先ほど自覚した。何とも愚かな自分を呪いたい。今までの自分がしてきた行動の全てが、紫穂ちゃんへの好意によるものなのだと改めて考えると、確かにそうだなと納得できてしまうのも穴があったら入りたい気持ちにさせられる。分かり易すぎる自分の行動が、今更ながら恥ずかしくて堪らない。
紫穂ちゃんのことを何よりも優先し、今思えばあれは明らかにデートだったと言えるようなお出掛けをして、二人きりでの食事も数え切れないほどしたし、実は服やアクセサリーを買ってあげたことだってある。アレはどう考えても可愛い後輩というより親しい間柄の気になる、いや、もっと言うと、狙ってる女の子に贈るプレゼントだった。
いやナニ無意識に本気のプレゼントとかしちゃってんの俺!
ていうかそれを素直に受け取っちゃう紫穂ちゃんもナニ! 魔性! 生まれもっての小悪魔なの?! 俺超弄ばれてんじゃん!
恐ろしい事実に震えながら、自分がここまで特別な関係を築いた女の子が過去に存在しないこととか、今まで付き合ってきた女の子でもここまで尽くしたことはなかったとか、改めていろんな事実を認識させられてしまう。
自分が全く無自覚に紫穂ちゃんの手のひらで踊らされていたことに衝撃を受けながらも、それが全く不快でなかったことや、むしろ紫穂ちゃんにならこれから先ずっと振り回されていたいとさえ考えている自分がいて、もう今更俺の生活から紫穂ちゃんを切り離すなんてこと、とてもじゃないけどできないと確信してしまった。
「……み、皆本」
「なんだよ」
少しばかり不機嫌そうに眉を寄せた皆本を真っ直ぐ見つめて、ごくりと喉を鳴らす。
「……い、今、自覚したばっかだけど……俺にとって、紫穂ちゃんは特別で……世界で一番、大事にしたい相手だ」
紫穂ちゃんのことが好きだ、と素直に言葉にするのは気恥ずかしくてできない。それでも自分の想いは形にできた気がする。皆本もそれを悟ったのか、さっきまでとはうってかわって明るい笑顔を浮かべながら頷いた。
「……それが聞けて安心した。じゃあもう次の自分の行動はわかってるな?」
「……へ?」
「紫穂とちゃんと仲直りしろよ。それから賢木の想いをはっきり言葉にしてやれ。君たちは透視に頼りすぎなんだ」
もう安心だ、と言わんばかりに胸を撫で下ろして皆本は立ち上がる。満足そうな皆本に、へ? と首を傾げていると、自分はもうやるべきことはやったからな、とニコニコ笑顔で皆本は俺に背を向けてドアの方へ向かった。
「あ、え、もう行っちゃうの?」
「そうだけど? だってもう僕の出る幕じゃないし。あとはもう賢木次第だろ」
じゃあ僕は仕事に戻るから、と満面の笑みを残して皆本はあっという間にここを立ち去ってしまう。それに向かって力なく腕を伸ばしながらポカンと口を開けたまま皆本の背中を見送った。
唐突に一人取り残されてしまった執務室。紫穂ちゃんの好きな香りが漂う加湿器の音だけが響いていて、とすん、と力なく椅子にへたりこんだ。
ちょっと待って。
何もかも追い付かない。
だってさっき自覚したばっかだぞ、それを伝えろって言うのか。
そんなん絶対恥ずかしくて無理じゃん、と赤くなる頬を抑えながら、どうしたものか、とこれからの自分が取るべき行動をゆっくりと整理し始めた。
* * *
その一。まずはここ最近遠目でしか見ていなかった紫穂ちゃんにそれとなく声を掛けてデートに誘う。
その二。今まで行ったことがないちょっと遠めの、景色が綺麗な海に連れてって、評判のランチを食べながら雰囲気を作る。
その三。日が暮れて夕陽が海に沈む超良い感じのムードの中で、紫穂ちゃんの肩を抱き寄せて耳許にそっと俺の想いを告げる。
その四。驚いた紫穂ちゃんが目を大きく見開き、目尻にきらきら光る涙を浮かべて優しく微笑みながらコクリと頷いて俺の胸に飛び込んでくる。
完璧な演出によって導かれた最高のハッピーエンド。
それともこんなパターンはどうだろう?
その一。紫穂ちゃんに怪しまれないようちょっとしたプレゼントを用意して、メッセージカードにデートのお誘いを添えて喜んでもらう。
その二。夜景の見えるちょっと高めのレストランの窓際の席を予約して、シャンパングラスで乾杯しながら二人でディナー。
その三。とっておきの夜景スポットまで二人で歩いて、それとなく自分の想いを伝える。
その四。驚きで狼狽えている紫穂ちゃんを抱き締めて、改めて自分の気持ちをちゃんと伝える。
夜景の演出がぴったり決まったこれまた最高のハッピーエンド。
ちょっと待てよ、こんなプランもいいかもしれない。
その一。皆本や薫ちゃんたちを誘って別荘付きのプライベートビーチに遊びに行く。
その二。水上バイクとかアクティビティで紫穂ちゃんにカッコいい俺を印象づける。
その三。ケータリングのおもてなしが落ち着いてきたところでそっと紫穂ちゃんの手を引いて別荘を抜け出す。
その四。月と星の光がキラキラ輝く海辺で、紫穂ちゃんの目を見つめながら微笑んで自分の想いを伝える。
これもこれ以上ないムードたっぷりの演出で最高のハッピーエンドだ。
あーもうどうしよう。どれもこれもロマンティックで選べない。
何よりどの紫穂ちゃんも最高に可愛くて、どれかなんてとてもじゃないけど決められない。全ての可愛いをかき集めてひとつにした可愛いの権化と言ってもいい紫穂ちゃんはもう天使どころか女神の域に到達しているのかもしれない。バレットたちがよく言う推しが尊いってこういう感情なんじゃないか。うん、紫穂ちゃんはマジで尊い。尊すぎて心が浄化される。紫穂ちゃんのことを考えてるだけで身も心も綺麗になった気分。
「賢木、入るぞ」
「んー? 皆本? なに、今俺忙しいんだけど」
にへにへと緩む頬に無理矢理力を入れて引き締めながら振り向くと、ドアのところに立っている皆本の影に隠れて、眉を下げた紫穂ちゃんが恐る恐るこちらを覗いていた。
「へ?! し、紫穂ちゃん!?」
慌ててガタリと立ち上がりながらオロオロと視線を彷徨わせていると、皆本が紫穂ちゃんを伴って俺の執務室に入ってきた。
「紫穂が賢木の書いた論文のことで聞きたいことがあるって言うから、一緒に来たんだ。僕も共著の論文だけど、やっぱり書いた本人に直接質問した方がいいだろう?」
論文の著者に直接話を聞ける環境って素晴らしいよな! とにこにこ微笑んでいる皆本を横目に見つつ、ほんの少し眉を寄せて唇を尖らせる。
「……俺の論文の内容を聞きに、まず皆本のトコ行ったワケ?」
「そうだよ? 最初は僕のところに質問に来たんだけどね、折角だし、賢木に話を聞いた方がいいと思って連れてきたんだ」
「ふぅーん……」
ぴくぴくと眉が痙攣するのを感じながら、ムッとした気分のままムスリと膨れて腕を組んだ。
「じゃあ別にそのまま皆本に疑問を解決してもらえばよくね? わざわざ俺のトコまで聞きに来る必要ないじゃん。それに……大学の教授だっているんだから、俺のトコに来なくたって」
もにょもにょと自分でもみみっちいなと思わないでもない言葉をツラツラと並べていると、ぐっと苦しそうに眉を寄せた紫穂ちゃんが、パッと無理矢理表情を明るいものに変えて、俺たちから距離を取った。
「……そうよね! 明日、ちょうど教授の講義があるからそのときにちゃんと確認するわ! お仕事の邪魔してごめんなさい」
じゃあね、と紫穂ちゃんはそのまま背を向けて俺の執務室から飛び出していく。その後ろ姿にぎゅうと胸が締め付けられるのを感じながら堪えるように奥歯を噛んだ。
「……賢木……お前ちょっと今すぐ歯を食い縛れ」
「……へ?」
「痛いと思うが我慢しろよ」
一体ナニ? と問い掛ける前にすごい怖い顔した皆本の平手が俺の頬に綺麗に決まってバチーン! という音と共に俺は椅子から転げ落ちた。
「い、いひゃい!」
「何やってんだよお前ェェェッ!!!」
ジンジンと熱を持っている頬を押さえながら慌てて起き上がろうとすると、相変わらずすごい怖い顔した皆本が、更に恐ろしい剣幕で俺の襟首を掴んだ。
「何なんだよ今の態度は! 一体どういうつもりであんな態度取ったんだ!」
今なら兵部ですら瞬殺できるんじゃないかという目力で射貫かれて、俺は一瞬成仏したんじゃないかと思った。でも、それすらも許さない勢いで痛む頬が俺の意識を呼び覚まして、ギュッと目を瞑って皆本の腕を掴んだ。
「だって! 最初から俺んトコに質問しに来てくれりゃいーのに! 紫穂ちゃんが先にお前んトコ行くから! なんか、なんかちょっとだけムカッとして!」
蛇に食われそうになっている雛鳥がピーピーと決死の抵抗と鳴き声を上げるようにワッと叫ぶ。
だがしかし窮鼠猫を噛むという結果にはならず、閻魔様のような形相の皆本がゴッと俺の額に頭突きをしながら迫ってくる。
「それは! お前が! 全力で紫穂のことを避けてるから! 紫穂が気を遣って賢木に近付かないようにしてるんだろ!!!」
バカヤロウ! と耳にキンキン響く声で叫んだ皆本は、クソッと口汚く舌打ちをして放り投げるように俺の襟首を解放した。バランスを崩した俺はその場に尻餅をついてしょんぼりと項垂れるしかない。
「君が自分の想いをちゃんと伝えて! それで丸く収まる話じゃなかったのか! なんで余計に悪化してるんだよ!!!」
皆本はまるで絵に描いたようにプンプンと怒りを表に出して地団駄を踏んでいる。その姿に身も心も縮む思いをしながら、できるだけ身体を小さくしてクッと下唇を噛んだ。
「……し、仕方ないじゃん……紫穂ちゃんの姿が見えるとなんか身体が勝手に回れ右しちゃって……お、俺もこんな自分に戸惑ってるってゆーか……」
もじもじと指先を絡め合わせて皆本の視界から逃れるようにきゅっと目を瞑る。
「……お、俺なりにどうしたら紫穂ちゃんが喜んでくれるかなとかこれでも真剣に考えてるんだ……でも、実際それをやるってなったら話は別じゃん! そもそも俺、紫穂ちゃんにしょっちゅうキライって言われてるし、これ以上嫌われないようにしなきゃとか思ったらもう何もできねぇっつーか……とにかく変に俺の気持ちがバレて、先生キモい! とか言われたら俺もう死んじゃう自信しかねぇんだよ! こんなんで堂々と紫穂ちゃんの前に立てるワケねぇだろ!!!」
そんなん即死するわ! と泣き叫んで訴えると、皆本はこれ以上ないというくらいに顔をくしゃくしゃにしてダンダンと足を踏み鳴らした。
「そういうのを好き避けって言うんだよこの本命童貞がッ!!!」
うー、と言葉にならない呻きを上げながら、皆本はどうにもならない感情を発散するように髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「す、好き避け……? 本命童貞? 何ソレ?」
「……松風が言ってたんだよ。今の賢木は好き避けをしてるただの本命童貞だって」
ハァァァァ、とうんざりしたように深く深く溜め息を吐いた皆本は、乱れた髪の毛を整えながらチラリと俺を見遣った。
皆本は、好き避けは好きなのに好きな子のことを避けてしまう状態、本命童貞は本命を前にしてどうしたらいいのかわからない童貞みたいな奴のこと、と簡単に説明してから、もう一度呆れたように溜め息を吐いた。
フンフンと話を聞きながら、取り敢えず松風から馬鹿にされていることはよくわかった。
「まっ、松風のクセに! 偉大な先輩のことを貶しやがって!!! 何様だと思ってんだ!」
キャンキャンと吠えている俺の肩を叩いて、皆本は蔑むような目を俺に向けて口元だけで笑ってみせた。
「言っとくけど今のお前は誰よりも格好悪い。世界で一番格好悪い。落とし神だなんて肩書き詐欺だ。今すぐ返上しろ」
ついでに自分のことをイケメンって言うのも止めるんだ、と皆本は続ける。
「えっ」
「好きな子を泣かせてばかりの奴は格好悪い。因みにイケメンでもない。お前はただ顔だけがいい意気地無しだよ」
フン、と失笑した皆本は、お前には心底ガッカリだ、と呟いて更に大きな溜め息を吐いた。
「え……俺って顔だけなの……?」
「今のままだとな。あれだけ紫穂のことが大事だ特別だと言っておいて、泣かせてばかりで何も行動に移してないんだから。お前は最低だよ」
さ、最低、と皆本に言われた言葉を力なく繰り返しながら、恐る恐る皆本に問い返した。
「お、俺……紫穂ちゃんを泣かせてるの?」
「泣かせてばかりだし落ち込みっぱなしだ。もういっそ賢木のことなんて放っておいた方がいいって言いたくなるくらいなんだぞ」
全く、と肩を落とした皆本は、ふるふると首を振ってから、よし、と小さく頷いて俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「お前がそんなだったら、必死に紫穂のことを励ましている皆が報われない。紫穂だって可哀想だ。こうなったらもう強攻手段を取らせてもらう」
腕を組んで眉を吊り上げた皆本は、キッと俺を睨み付けて恭しく口を開いた。
「僕が君と紫穂を二人きりにする機会を作ってやる。だからその場で告白しろ」
わかったな、と厳しい口調で俺を責め立てる皆本に、あわあわと手を振り回して眉を下げる。
「エッ! それは無理だろ! だって紫穂ちゃん俺のこと好きじゃないかもしんないじゃん!」
「まだそんなこと言ってるのか! ここまでお前は一体何を聞いていたんだ! いい加減腹を括って素直になれ!」
「む、無理! 紫穂ちゃんにこれ以上嫌いって言われたら、多分俺の生態制御能力が俺の生命維持活動を止めちゃう!」
「お前のその態度こそが嫌われる原因だ! とにかく賢木は紫穂にちゃんと想いを伝えろ! わかったな!!!」
ギッと眉を吊り上げて俺を睨み付ける皆本はもう、背中に地獄の使者を背負ったえん魔様みたいな顔で俺の鼻に指を突き付けた。びくりと肩を震わせて、ひゃい、と力なく返事した俺を見て、まったく! と皆本は呆れて腕を組んでいる。めそめそと身を小さくして項垂れていると、げしりと背中を軽く蹴られてしまった。
普段ならこんな足癖の悪い皆本なんてじゃれてる時くらいしか見られないのに。ひどいひどすぎる、とべそべそと格好悪く泣き顔を晒しながらうずくまった。
ぷんぷん怒っている皆本から視線を泳がせつつ、さてさてどうしたものか、と頭を抱える。
俺が紫穂ちゃんに告白する。
そんなん即フラれて終わりだろ。
遠退きそうになる意識を何とか呼び戻しながら、それでも何とか紫穂ちゃんに頷いてもらう方法を考えた。
いやいや普通に考えて無理だろ。
俺、一回りも歳上なんだぞ。
こんなオッサンから告白されたら普通退くわ。
むしろ気持ち悪いってゴミを見る目で一蹴されるわ。
相手は紫穂ちゃんなんだぞ。
「……やっぱり無理だって」
「お前が紫穂にちゃんと想いを伝えるまでその日は帰さないからな」
「ひぇ……」
笑顔なのに全然眼が笑ってない皆本に見つめられて、俺は震えながら死刑執行を待つしかないのかと縮み上がった。
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