端末を取り出して現在時間と通知を確認する。マジカメを立ち上げてルークに寮に戻るのが遅れることをメッセージで伝える。すぐ表示された返信にフッと頬が解けて急ぐ足を更に速めた。
いついかなる時も美しく。
早足だからって乱れた格好は許さない。
たとえ走るような速度でも優雅さは忘れずに。
逸る心を周囲に悟らせないよう表情を創り上げてとにかく購買部へ急いだ。
ずっと心待ちにしていた映画雑誌が今日発売される。通販を利用すると離島だからという理由だけで雑誌たったひとつも発売日に入手することが困難になる。どうしても発売日にその雑誌を入手したいという願望を叶えるにはサムを頼らざるを得なかった。プレゼントだと言ってアタシ用の一部を確保してくれてはいるけれど、それとは別に自分で手に入れることも譲れなかった。
尊敬して止まないダディのロングインタビューが掲載された伝統ある映画雑誌。
記事が早く読みたいというより、はやくダディの顔が見たくて昂揚しているのが自分でもわかった。
「サム! 届いてる?」
気持ちを抑えきれずに勢い良く開けてしまったドアの向こうにサムと小さな人影が見える。しまった、と後悔してももう遅い。せめて今からでもいつも通りの自分を演出しなければと気を引き締めると、その小さな人影が見知ったロングヘアだということに気付いた。
「アラ、ユウじゃない」
サムに向かっていた顔がゆっくりとこちらに振り向くと、パッと一瞬だけ表情が輝いて、そのあとすぐ花が萎んだように表情が萎れてしまった。
「……ちょっと、何よその顔。アタシが来て何か問題あったわけ?」
いつものふやけた笑顔はどうしたのよ、と腕を組むと、いつもより元気がない身振り手振りをしてユウが慌て始める。
「違うんです……ちょっと困ってて……でもこんなことヴィル先輩に相談するのも申し訳ないと思って……」
どうすればいいのかなって、と言いながら、やっぱりいつもよりも元気がないユウは萎れてそのまま落ちる寸前の切花みたいに首を垂れてしまった。
「ふぅん? 迷ってるなら先にレジ使うわよ? サム、お願い」
「オーケー! これが依頼のお品だよ、袋はどうする?」
「入れて頂戴。丁寧にね。できれば指紋も付けないで」
「Alright! もちろんサ!」
テキパキとサムが雑誌を包んでいる間、ワクワクとドキドキを混ぜたような不思議な高揚感が全身を掛け巡っていく。こんなにハッピーな気持ちになれるのは久し振り。これからこの雑誌を楽しめるなんて本当に素敵だわ!でもその前に……今も隣で萎れてる野花を何とかしないとダメみたい。
「……ユウ、ちょっと付いてきて」
「……え? あの」
「いいから」
サムから雑誌の包みを受け取ってドアの前に立つ。ドアを開けてユウを外へ促すと、首を傾げながらもユウは素直に外へ出てアタシを待っていた。本当に疑うってことをしなくて大丈夫なのかしらと心配になりつつも、すぐそばのベンチにユウを誘う。
「座って」
「お隣失礼します?」
「どうぞ」
未だに首を傾げているユウにちょっとだけ溜め息を吐く。それからベンチの背凭れに肘を突いて、ユウの方へ身体を向けた。
「アタシじゃ頼りないって言いたいの? 遠慮せず話しなさいよ」
笑ってそう言うと、ユウはまた慌てて首をふるふると振った。
「あっそうじゃないんです。その……ちょっと誰かに相談しにくい内容で……」
「へぇ? 逆に気になるわね? 私じゃ解決できなかったら解決できそうな人を紹介してあげるわ」
だからさっさと話しなさい、とユウを脅して促す。きゅっと唇を尖らせたユウは、顔のパーツもぎゅうっと中央に寄せて不細工な顔で唸ってから、へなへなと顔を緩めて項垂れた。その表情筋ストレッチは将来確実に皺が増えるわよってあとで忠告しておかないと。
「あの、実は……お買い物、に困ってて」
おどおどと不安そうに、そして少し恥ずかしい気持ちを堪えるようにしてユウは言った。
「……買い物? アンタにお金がないのはいつものコトでしょ?」
何を今更、と言わずにはいられなくて眉を寄せる。するとユウはモジモジと指先を絡めて唇を尖らせた。
「そうじゃなくて……その……女の子のお買い物、と言いますか……自分に合った諸々を探せなくて、困ってるんです……」
「……? 例えば?」
「その……化粧水とか、乳液とか、それだけじゃなくて、保湿クリームとか、あと、髪もちょっとパサパサで……贅沢だし元々お金もないから、あまりお金はかけられないけど、それでももうちょっと選びたくて。でも売ってる店がわからなくて、みんなに聞いてもイマイチで……サムさんに聞いてみてもうまく伝わらないのかコレっていう物が買えなくて……」
みんなメイク用品には詳しいのに基礎化粧品はあんまりで、とユウは身体を小さくして肩を落とした。ユウが言っている『みんな』はおそらく一年の小ジャガたちのこと。おそらくそのなかにはエペルも入っているはず。あの子がユウに合いそうな基礎化粧品を扱う店をユウに教えられないなんて、まだまだ教育が足りなかったみたい。フゥ、と小さく溜め息を吐いて優しくユウに笑いかける。
「……そうね、この学園の男どもは本当に素肌のケアが雑。アンタが苦労するのも当然。小ジャガたちに繊細なオンナの身体はまだ早いのよ」
クルーウェルにも相談しておいた方が良さそうね、とちょっとだけ呆れながら手袋を外す。
「……少し触れてもいいかしら?」
「え?」
「肌と髪の状態が見たいの。悪いようにはしないわ」
ユウの許可を得る前に、金の毛先を少し取って指先で撫でる。パサつきはあるものの少しカットしてちゃんとケアすればすぐに元の美しいブロンドに戻るだろう。少し乱れてしまった毛先を優しく手櫛で整えてやってからそっと顎を持ち上げてじっくり肌の状態を観察する。まだ幼さの残るキメの細かい肌をしていたのに、乾燥によるダメージが目立つ。ニキビがないのは体質だろう、もともと油分が少なめだからこそ、年齢のわりにケア不足のせいで乾燥が目立つのかもしれない。
磨けば光るダイヤモンドの原石だというのに、あの男は何をしているのか。
自分の懐に入れた存在にはトコトン甘くなるのだから、この子のこともウンと甘やかして自分好みにしてしまえばいいのに。
まだ下地しか整っていない、何色のどんな花が咲くかわからない蕾を、自分の手で美しく咲かせるのが『男』の楽しみというものではないのか。
なんて勿体無いコト、と独り言ちてから、ビクビクしながらもじっとアタシを見つめてくるユウを解放した。
「ねぇ、これからウチの寮へ来ない? アタシがアンタに合う化粧品、一式選んであげる」
「え、でも高いの買えないです……前にヴィル先輩からもらった基礎化粧品も、本当にちょっとずつ大事に使っててぇ……」
あの保湿力だけが頼みの綱なんですけど勿体無くってぇ、と眉を下げたユウは今にも泣きそうなへなちょこの声で弱々しく呟く。その姿が何処か補修でスパルタを受けているグリムの姿を思い起こさせて、耐えきれずお腹を抱えた。
「アハハハハ! アンタの懐事情はよくわかってるわよ。アンタが欲しいのは日常使いのプチプラでしょ? アタシを舐めないで」
「……ッ! ヴィル先輩〜ッ! 一生ついて行きます〜!!!」
「ちょっと! 暑苦しいのはヤメテ。そうと決まれば、早速ポムフィオーレへ行きましょ。でもその前に……」
ユウに映画雑誌を預けて立ち上がる。ここで待つように伝えてから、まっすぐ購買部の中へ向かった。蹴破る勢いでドアを開けて店主を睨みつける!
「サム! アンタの趣味をユウに押し付けないで頂戴!!!」
鍛えた肺に思いきり息を吸い込んで喉を痛めないよう気をつけながらありったけの声量で叫ぶ。興奮に身を任せて自分を傷つけるなんて優雅じゃない。俳優としてもモデルとしても、そもそも自分の美学がそんな愚かな行為に身を投じることを許さない。
「Oh……ここでそんなに大きな声を出したら商品たちがビックリして暴れ出しちゃうよ」
「そうならないよう棚に固定する魔法を今掛けたでしょう? ねぇ、どういうつもりでユウにマトモな商品を売らないのかしら。ここはいつの間に品揃え最悪のチープな店に成り下がったの?」
「A-ha…ヒドイことを言うじゃないか、小鬼ちゃん? サムの店はいつだって最高の品揃えをご提供しているだろう?」
「繊細な肌状態を見極めてちゃんと必要なケア商品を提案できるようになってから言ってくれるかしら」
プロとしての矜持を忘れた男を腕を組んで見下す。するとサムは降参したかのように両手のひらを上げてヒラヒラと軽やかに振った。
「オーケーオーケー……確かに僕はあの子に提案する商品を間違えたかもしれない。でも、僕はあの子の『綺麗になりたい』という願いを最大限お手伝いできる商品をご提案しただけサ」
自分なりに自分の仕事を全うしただけ、と主張するサムに、思わずカウンターの天板を叩く。
「それが『アンタの趣味』って言ってるの! アンタが思うイイ女とあの子は系統が違うってわかるでしょう」
「それはそうだけど、彼女たちはみんなコレを使ってたのサ」
「それは彼女たちにコレが合ったってだけ! あの子の面倒は私が見るわ。これからは口を出さないで」
「手厳しいね……ちょっとしたスパイスのつもりだったのサ」
「そのスパイスをあの偏屈な男が好むかどうかまで考えてほしかったわね」
「逆だよ逆。偏屈だからもっと捻じ曲げてやりたくなったのサ! あの小鬼ちゃんは意外と純情ボーイだからね」
「……最後だけは否定しない」
純情な男が他所の男に横槍を入れられて悦ぶワケないじゃない、と呆れると、サムはケラケラ笑って基礎化粧品のサンプルをいくつか袋に詰めた。
「これはあの子へのお詫びだよ。肌に合うものがあるといいけど」
「悪くないけど……他はポムフィオーレで後輩たちに聞いてみるわ。もう少し保湿ケア中心のサンプルも集めておいた方がいいわよ」
「あーい」
サムからサンプルを受け取ってユウの元に急ぐ。のんびり陽射しを浴びていたユウはこちらに気付いたのかブンブンと手を振っている。
「全く、変な教育しないでほしいわ……さ、行きましょ。ユウ」
もっと優雅に手を振りなさい、とユウに忠告して、マジカメのメッセージでルークへ連絡する。軽快な返事を受け取ってから、自寮への道を急いだ。
***
「戻ったわ。ルーク」
「おかえり毒の君。準備は整っているよ」
寮服に身を包んだルークが談話室でアタシを待ち構えていた。
「ありがとう。早速はじめるわ」
「ウィ。いつでもはじめられるよ」
「ユウ、こっちに来て」
「はい」
ルークの指示に従って準備を進めていた寮生たちが、ルークの号令で談話室の中央に椅子とドレッサーを用意する。何が起こっているのかわからないという顔でオロオロしているユウの手を引いて鏡の前に座らせた。
「緊張しなくていいわ。アタシに身を委ねて」
「ひゃい」
「情けない声出さない。みんな、集めてきた物を出して頂戴!」
アタシの掛け声に寮生たちがサッと化粧品サンプルが仕分けられたケースを出してくる。その中にさっきサムからもらったサンプルも分類に合わせて並べてから、ユウに向き直った。
「このなかに、アンタが今まで使った化粧品はある?」
「ほへ? あ、えっと……これは、デュースが使ってて、一度だけ借りました……あ、これはケイト先輩がこのクリームを持ってて、使ったことあります! 他は……あ! コレ! これレオナ先輩の部屋にあったオールインワン!」
手に持っていたサンプルを横に置いて、ユウはパッとあるパッケージに手を伸ばす。うふふ、と嬉しそうに頬を緩めて大切なものを持つように小さな手に包んでいる。まるで美味しいものを口いっぱい頬張ったみたいに幸せそうな頬を指先で突っついて、ユウの手からそのパッケージを取り上げる。
「コレ、アタシがレオナにプレゼントしたオールインワンね。アイツ、ちゃんと使ってるの?」
「……たまに使ってる、って……言ってました、よ?」
「ハァ……使ってないのね。じゃあアンタが使ってるの?」
「使ったコトないです。レオナ先輩のものなので」
「ハ? アイツ使ってないクセに譲ったりもしないの!?」
どうして?! と思わずユウに詰め寄ると、私の勢いに呑まれたのか、へぁ、と変な声を出しつつユウは首を傾げている。
「ら、ラギー先輩が欲しいって言わなかったから、じゃないですか……? 要らないものは積極的に誰かに譲ってます」
ああ見えて結構ミニマリストですよ、レオナ先輩、とユウは不思議そうに眉を寄せている。
「じゃあどうしてアンタに譲ってないのよ。レオナはユウが困ってることを知らないっていうの?」
「え……相談したことないので……知ってるのかな……? でも、コレって男性用ですよね? スースーする成分が入ってると、ヒリヒリしちゃうタイプなのでそういうのはちょっと……」
もらっても困るかなぁ、とユウは呑気に首を傾げている。
「……ッ……アンタたち、本当に一体どういう関係なのよッ」
「ヴィル、落ち着いて。そんなに強く拳を握り締めたら手のひらに傷がついてしまう」
「これが落ち着いていられる状況だって言うの! あのポンコツ本当に生えてるのかしら!」
「ヴィル、彼は僕らが思っている以上に王宮という箱庭のなかで大切に育まれてきたというだけさ。それに生えているのは間違いないよ、この目で見たからね」
「……何処で見たのかは聞かないわ」
「フフ。私がまだサバナクローに居た頃、寮のシャワールームで見かけただけさ」
ヒソヒソと耳元で囁いたルークにため息を吐く。気を取り直してユウに向き直った。
「……これはユニセックスの商品よ。とっても無難な成分で作られた低刺激のオールインワン。よほどのアレルギーがなければ、誰でも使えるんじゃないかしら。このブランドは昔からそういう商品ばかり出してる。知らないの?」
「へぇ、知りませんでした」
覚えておきますね! と明るい顔でユウは笑っている。
よく知られているはずの老舗メーカーの化粧品ブランド。どの商品も家族みんなで使えることを謳っていて、使用感が優しい商品ばかり。よほどの山奥で人里離れしたような生活をしていても、このブランドだけは知っているという人が多いのではないだろうか。そう、この世界の人間であれば。
そんな当たり前のことも知らない。目の前にいるこの小さな少女が、異世界から来たのだという事実を改めてありありと突きつけられる。
「……でも、今のユウは乾燥が進んでてダメージに負けてる。今のオススメはこのブランドじゃなくてこっち」
しっかりとした保湿と軽い使用感を両立している若者向けのブランド。本来は皮脂が多めに分泌されるこの世代にオススメの保湿ケアブランドだ。
「このブランドの使用感が悪くなければこっちもオススメ。普段から乾燥気味なの?」
「えっと、あまり乾燥は気にしたことなかったです。肌トラブルもあんまりなくて」
「羨ましいわね。髪はどうなの? もともとこんなにパサついてなかったわよね」
「……う……し、食費がキツくて……シャンプーを安いブランドに変えたらこうなっちゃって……」
「ハァ……馬鹿ねぇ……本当におバカ」
「うぅ……何にも言い訳できません……」
眉を下げて落ち込むユウは、がっくりと肩を落としている。もともと小さい肩が更に小さくなったように思えて、思わずそっと頭を撫でた。
レオナに強請ればいいのに、という言葉が喉まで出かかったけれど、唇を引き締めて堪える。レオナがこのオールインワンをユウに譲らなかったのは、ユウが欲しいと言わなかったからだ。聡いレオナがユウの肌や髪が荒れていることに気付いていないはずがない。あの男がそれらのケア用品を買い与えることすらできない甲斐性なしとも思えない。
おそらく、自分から何かをするという行為を恐れているのだ。
「欲しいって言わなきゃくれないような男は頼らなくて正解よ」
どれだけ不器用なのよ。
もっと貪欲に、下心に塗れたっていいじゃない。
王族だからって泥臭く足掻くことが許されないなんて馬鹿馬鹿しいわ。
「……ユウ、他にも困ってるコトがあるんじゃないの」
雁字搦めになっているあの男が動けないというのなら、アタシがこの子の面倒を見てあげる。
「わからないことは素直に白状なさい。アタシだけじゃサポートしきれなくても、必ず頼れる相手を連れてくる」
レオナが責任を持てるようになるまで、アタシが代わりを務めるわ。
これは貸しよ。
一生掛けて返してもらう。
ポカンとアタシを見上げているユウに裏側は見えていない。
それでいいの。レオナはそういう男。
あの実は、ともじもじ指を絡めてユウは誰にも聞こえないような音量で呟く。何を言いたいのかわからなくて眉を寄せると、こそこそと耳を近付けるようジェスチャーされた。はっきり言いなさいよ、と言いながらもユウに耳を寄せると、ユウは本当に誰にも聞こえないような音量でひそひそとアタシに囁いた。
「強いて言うと……入学してからずっと下着に困ってます」
言い終えて、ユウは恥ずかしかったのか、収穫どきの林檎みたいな真っ赤な顔をしている。
下着、と言われて思わずカッと目を見開いた。
「〜〜〜ッ! アンタ! 優先順位が逆じゃない!!! 先にそっちを言いなさいよ!!!」
「ごっ、ごめんなさい~~~!」
ぴ~と雛が逃げ惑うみたいな泣き声を上げてユウは眉を下げる。揺らぎやすい肌のための基礎化粧品も知らない男たちが、マトモな女性物下着の売り場なんて詳しいはずがない。全くの盲点だった、と頭を抱えつつ、早急にクルーウェルのサポートを依頼することをこのあとのタスクに捻じ込む。
「ひょっとして……下着どころか服もままならないんじゃないの?」
「な、なんでわかるんですか……」
「下着を買う店もわからないのに女物の服だけは買えるなんておかしいじゃない……」
普段はどうしてるの、と問い正せば、お金もないしみんなのお古で済ませてると言うのだからその場に膝から崩れてしまいそうだった。よろけたところを何とかルークが支えてくれて一命を取り留める。ちょっとしたお洒落も楽しめない生活なんて、本当にどうかしすぎていて気が狂いそう。
「今度アタシがアンタの買い物に付き合ってあげるわ。一応信用できる人にも相談して改めて麓の店も調べておくから」
あと、学園長や教員とも緊急会議。もう少し予算配分が何とかならないのか、寮長全員を巻き込んで今すぐにでもユウのQOLを上げなくちゃ。
***
「テメェ……ユウに何をした」
「ハァ?」
大食堂でのランチ。
減量中ではないけれど最近バタバタしていたからビタミン補給が目的の豆と緑黄色野菜のサラダ、シンプルなサラダチキンとエネルギー補給のための全粒粉パン。
充実した内容のランチに満足していたところなのに、無粋な男の邪魔が入って全部台無しになった。
「今アタシはランチを楽しんでるの。お昼寝が過ぎて遂に目も見えなくなったのかしら」
「……五分だけ待ってやる」
「せっかちな男は嫌われるわよ」
「……チッ」
空いていた隣の席にドカリと座ったレオナはご機嫌ナナメな尻尾を周囲に当たり散らすようにして振り回している。バシンバシンと食堂の喧騒とは違う雑音をバックミュージックに黙々と優雅にランチを堪能する。
今度からは油分の多いドレッシングの代わりに果汁やビネガーを自分で用意してもいいかもしれない。食堂のメニューはどうしても男子高校生の胃袋を満たすために高カロリーで大味なメニューが中心になる。もう少し減量中や食事制限をしている学生のことも配慮したメニューを増やしてほしい。毎日毎日シェフのおすすめサラダで食べたい栄養素を選べないのはもどかしい。せめて摂取したい栄養素の主軸をいくつか選べるようなサラダ、いっそサラダバーでもいいから、似通った食事内容になるのを避けられるようにしてほしい。
「……お待たせ。待てができてエライじゃない」
食べ終えた食器とカトラリーをトレイの上で片付けて立ち上がる。フフ、と見下しながら笑えば、レオナはまたチッと不機嫌そうに舌打ちをした。
「食器を片付けたら時間ができるわ。それまでイイコに待てできるかしら?」
「……ふざけるなよ」
「アラ、お利口じゃない。すぐ戻るわ」
更にイライラと荒れ狂う尻尾に周りの生徒たちが退いている。まるで結界でも張ったのかと笑いたくなるくらいレオナの周囲に円形の空き地ができた。食器を載せたトレイを返却口へ返して穴の中央で不貞腐れている猫チャンの元へ戻る。
「そんなに手当たり次第当たり散らして、小ジャガたちをマッシュポテトにでもしたいのかしら?」
「ウルセェ。勝手に潰れてりゃいいだろ」
「アンタんトコの小ジャガたちも潰れてるけど?」
「……チッ」
面倒臭そうに立ち上がったレオナは目だけで付いてこいとアタシに訴えた。同意を得る前にアタシに背を向けて歩き出したレオナを、全く美しくないわね、と溜め息を吐きつつ着いていく。レオナは校舎の上の階を目指してどんどん先へ歩いていった。
「ねぇ、どこまで行くつもり?」
誰もいない屋上に近いフロアまで来て、ガラスの嵌っていない大きな石枠の窓の前でレオナは振り返った。逆光のなかでギラリと光る緑の目がこちらを睨み付ける。妙に殺気立ってるわね、と肌ざわりの悪い視線を往なしながらレオナの横を通り過ぎて窓枠に手を突いた。
「こんなところから校舎を見下ろすなんて久々だわ」
入学したての頃はひとりになれる場所を探していろんなところをウロウロしてたっけ、と風を感じながら微笑む。
「……俺はテメェの郷愁のためにここに連れてきたんじゃねぇ」
「じゃあ何の用で王子様はこんなところに連れ出してくれたのかしら?」
アタシのすぐ後ろまで来ていたレオナの緑の目の奥で、ジリジリと何かが燃えている。
嗚呼、なんて美しいの。
魅入ってしまいそうなその瞳を見つめていると、レオナはチッと舌打ちをしてアタシから目を逸らした。
「アイツに何をした」
「……アイツって?」
「わかってんだろ」
「わからないわよ。アンタが言う『アイツ』っていっぱいいるでしょ」
「……ユウに……ッ、ユウに手を出したのか」
「……ハァ?」
「ッ……テメェがユウに何かしたんだろ!」
何を言い出すんだこの男は、と呆れて何も言えないままレオナを睨み返していると、レオナはグッと奥歯を噛み締めてから苦しそうに眉を寄せた。
「……ア」
「あ?」
「……アッ……ッ、アイツから! 時々テメェのニオイがプンプンしやがんだよ!」
「……それがナニよ」
「チッ……へ、部屋に連れ込んで……は、破廉恥なことを強要してんじゃねぇだろうなァ!!!」
ふざけんなよ! とまるでママを友だちに取られたと勘違いして怒っているみたいに顔を真っ赤にしたレオナが窓枠を拳を打ち付けて叫ぶ。
「破廉恥ですって?! まぁ、一体どんな想像をしたのかしら!」
本当は声を上げて大笑いしてやりたい。
何ならルークも呼んで一緒にお腹を抱えて笑いたい。
それらの衝動をできる限り懸命に抑えて、わざとらしく大袈裟に演技して女王のように言い返す。こんな返しが来るとは思っていなかったのか、レオナはわなわなと唇を震わせて目を大きく見開いている。それから、じわじわと険しい顔をして、アタシからまた目を背けた。そのまま力無く窓枠に凭れて、だらしなく項垂れている。クソッ、と小さく呟いたのが聞こえてきて、これ以上イジメて可愛がるのも可哀想かとレオナの耳の間の毛を指先で擽った。
「バカねぇ……アタシがユウに手を出したりするワケないじゃない。あの子は私にとって可愛い後輩でしかないわよ」
犬の頭を撫でるようにしてやると、レオナは弱々しい動きで顔を上げてこちらを見てくる。不安そうに揺れる目には先程までの炎が消えていて、怯えた子どものようだった。
「まぁね……アンタも見境なくなるくらいには、あの子に首ったけ、ってコトなのかしら」
ポンポン、と頭を撫でてから自分も窓枠に凭れかかる。
「アタシとユウのニオイが同じなのは、多分使ってるソープが一緒だからじゃない?」
考えればすぐに思い当たることだろう。
というより、本当にアタシとユウの間に肉体関係があるとすれば、獣人相手にニオイどころか諸々を隠し通せるはずがない。彼らの察知能力は断トツだし、何よりアタシのそばにはルークがいる。
「らしくないじゃない……いつもの冷静なアンタなら、ユウから香るのが基礎化粧品だとかソープの香りだってわかったでしょう」
「……クソッ……ウルセェ、放っといてくれ」
「こんなところまでアタシを連れてきたクセに放っておけるわけないじゃない……」
本当にらしくないわね、とレオナを一瞥すると、本人に倣ったのかレオナの耳も落ち込んでしまった。
「男の嫉妬は見苦しいって言うけど……本当に見苦しいわね、レオナ。今のアンタ、顔もダメ」
「ウルセェ」
「そんなにユウに気があるならとっとと自分のモノにすればいいのに」
この前からずっと何やってんだか。
呆れ過ぎて『恋は人を愚かにする』という言葉が頭に浮かんでしまった。そもそもレオナが手を貸してやればユウが困ることもなかったし、こんな風にレオナが嫉妬でおかしくなることもなかった。
レオナが抱えているものに理解は示すけれど、だからと言って納得できるわけじゃない。何も努力しないで指を咥えてるだけなんて赤ん坊でもできる。本当に欲しいなら、それこそ喉から手を出すくらいの努力をする。そこまでして、それでも駄目なら諦められるんじゃないのと思わずにはいられない。
「……それはアイツが望んでねぇだろ」
ただ見ているだけ、じっと待っているだけの目が、諦めたように遠くを見ている。レオナにそんな目をさせる目が悔しくて、キッと眉を寄せて景色を見るしかなかった。
「望めないだけでしょ。アンタがハッキリしないから」
日頃の態度を暗に非難すると、レオナはのっそりと立ち上がって窓の外の景色を見つめた。
「……手を伸ばしてどうなる。アイツを巻き込めってか」
まるで自分の前には見えない壁があって、あの子とレオナの間に立ちはだかっているみたいに、レオナはそこからじっと動かない。
「……それでも好きなんじゃないの?」
勇気を出して一歩を踏み出せば、ユウは間違いなくレオナを受け入れる。
「……わかんねぇよ。お前の言う通り、全然俺らしくねぇんだ」
フッと口角を上げて笑う目の前の男は、どうしても欲しいと願うモノをただ見ているだけで諦められるような男には見えなかった。
いや、アタシがただ、諦めてほしくないだけかもしれない。
「それだけ……あの子が好きってことなんでしょ」
「どうだろうな」
頑なに大切なひと言が言えないこの男は本当に不器用だ。
あの子に伝えてしまえば消えてしまう、そんな幻に見えているんだろうか。
馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい。
何もできないアタシだって、本当にバカみたい。
悔しくて悔しくて堪らない気持ちを誤魔化すように、強く吹く風を胸いっぱいに吸い込んで思いきり吐き出す。
「そんなでも一応王族のアンタが自分から誰かを好きになるなんてそうそう無いことでしょ。だから戸惑うのもわからなくもないけど…そんなアンタも今まで誰も好きになったコトがないなんてことはないでしょう? 流石にもうアンタの歳じゃ婚約者だとかそういう候補が国にいるんじゃないの?」
いくら自分が社交界に顔を出せる立場だとしても、王族や各国外交なんかのその辺りの事情なんて詳しく知らない。所詮アタシは華やかな場の装飾品だ。
「……そういう子たちに普段してることを、ユウにもしてあげればいいのよ」
女性を大切にするお国柄なのだから、たとえ候補だとしてもそれなりの対応はしているはず。ユウはそれを喜ばないかもしれないけれど、このまま何もしないよりきっとずっとマシだ。
「いくらアンタでも、将来パートナーになるかもしれない女性たちをぞんざいに扱ったりはしてないでしょう? その子たちに渡すような……当たり障りのないプレゼントを用意するだけでも違うわよ」
少なくとも今のまま終わる、なんてことはなくなる。たとえレオナがユウを手放さなくてはならなくなったとしても形として残るものは絶対的に強い。何もしないより、爪痕を残せる方がどちらにとっても絶対いいはずだ。レオナがまだ『学生』でいられるうちに、どうかユウに何か残してやってほしい。このままじゃ、アンタばかりが受け取って、あの子は何ももらえないままじゃない。
らしくなく、相手に望むばかりで何も行動できない自分が腹立たしい。でもどうかこのままでいてほしくなくて、レオナに強い眼差しを向けた。レオナは風を浴びて鬣を靡かせながら、ふと、力が抜けたように笑った。
「そんな相手…いるわけねぇだろ。俺は祖国じゃ『嫌われ者の第二王子』なんだからな」
自虐たっぷりに言って、レオナは腕を組んで窓枠に凭れている。
「そうは言っても……気になる相手くらいいたんじゃないの? 山のように紹介されるんでしょう?」
「いねぇよ。国のオンナは俺に紹介されるってだけで泣き暮れるんじゃねぇか」
「アンタねぇ……仮にも王子なのよ、金と権力目当てで言い寄ってくる相手ぐらいいるでしょ?」
「残念ながら権力はねぇからな。金だって好きにできるワケじゃない。俺に気があるなんて嘯くヤツはいねぇよ。少なくとも、草原にはな」
そう言って目を細めたレオナは、遠い空を見つめた。あの子を思い起こさせる蒼色に、思わず目を瞑る。
「だからって、初恋くらい経験あるでしょう? それとも王子様は初恋すら何もできずに眺めてたワケ?」
普段は狩りの腕を自慢するクセにね、と皮肉たっぷりに言うと、レオナは空を見たまま黙り込んでしまった。ちょっと何か言いなさいよ、と視線を送っても反応が帰ってこない。どうしたのよ、と眉を顰めてレオナの返事を待ち続けていると、ピンと考え至りたくもない想像が閃いてしまった。
「まさか……アンタ初恋もまだっていうの? 嘘でしょ?!」
今の時代そんなこと有り得るのか。
いや、王族だからこそ有り得るのかもしれない。
レオナの王族ジョークは飛び抜けている。マレウスはもっとだけど。それでも流石に恋くらい知っていると思っていた。だけど、おかしくなり始めた頃から今までのレオナの行動を見ていれば妙に納得できてしまった。愛も恋も知らぬまま鳥籠のなかで大人になったというのなら、アベコベで挙動不審としか言い様のない今のレオナになってしまうのも仕方がないかもしれない。これはどうしたものかしら、と顔を顰めると、レオナはぴるぴると耳を震わせて眉を寄せてこちらを見た。
「は、初恋みたいなのは……流石に……あるに決まってんだろ。俺を幾つだと思ってんだ」
「20歳児」
「テメェ! チッ……どうせ俺はお前から見たら世間知らずのお坊ちゃんだよ」
フン、と鼻を鳴らして不貞腐れたレオナは、少し赤くなった頬を誤魔化すように尻尾を揺らしている。おそらく照れているんだろうと思うけれど、それはどういった意味での照れなのかが急に気になってしまった。
「ねぇ、聞かせなさいよ」
「ハァ?」
「アンタの初恋。どんなのか知りたいわ」
幼い頃のレオナの話なんてほとんど聞かせてもらったことがない。適当にはぐらかされるか、時々機嫌がいい時だけ、お兄様への愚痴混じりの思い出話が出るくらいだ。
「別に……たいしたコトねぇよ。ガキの頃、婚約者候補がいたってだけだ」
「へぇ? 今は違うってこと?」
「……俺のユニーク魔法が発現してすぐ、アイツは別の男のところへ嫁ぐことになった」
幼馴染だったんだけどな、と続けるレオナは淡々としていて、そこに特別な感情はないとでも言いたげだ。
「……アンタ……本当に苦労してるのね」
自分が想像していた以上に、レオナのいる世界にはドライなものが広がっていて、何と声を掛ければいいのかわからなくなってしまう。精一杯気を遣って何かを言っても、どれも空回りになるようにしか思えなかった。
「……苦労なんかしてねぇよ。持ってる側じゃなかった、それだけだ」
同じように淡々と告げるレオナに思わず拳を握り締める。想像でしか埋めることができないこの溝を、レオナはきっと埋めてこちらへ来てほしいなんて望んでいない。だからこそ、ユウとの付き合い方が歪なんだと思う。
「なら、わからないなりにぶつかればいいじゃない。あの子なら、どんなレオナでも受け入れてくれる」
溝を埋める必要がないなら、溝を飛び越えたっていいし、向こう側から石を投げたっていい。相手に何かを伝える方法なんていくらでもある。
「ぶつかる? 俺が? 草食動物に? ハッ、壊れたらどうすんだよ」
手加減しろってのか? と悪役めいた笑みをこちらに向けてレオナはアタシを睨みつけた。
「恰好悪くたっていいじゃない。たまには泥まみれになってみたら」
「アイツはかっこいい俺が好きらしいぜ?」
「そう言っとけばアンタが気負わないからだってわからないの? あの子なりの気遣いよ」
好きだ好きだと何度も軽々しく言うのは、きっとユウなりに考えての結果、だと自分は感じている。あの子の言葉の軽さの裏に隠れる想いは、きっと誰もが想像している以上に重い気がする。直接聞いたわけじゃないから、これは自分の勘でしかない。だから自分が先走っている自覚もある。でも、レオナも、ユウも、大切だと感じるから、このまま何もせずに見ているなんて、アタシにはできなかった。
「本当に、どうしてもダメなら、アンタからユウに……応えられないって言うべきよ」
王族という事情は、あまりに重すぎる。御伽噺みたいに簡単に乗り越えられるものじゃない。何より、国を大事にするレオナが、国を捨てるなんて選択肢を取るとも思えない。だからって、レオナがどうにもできないところへ、レオナがユウを連れて行くとも思えない。どの選択肢も絶望しかないなんて、本当にこの世界は終わってる。かわいいあの子が、涙を流す未来しかないかもなんて本当にクソ喰らえ。
それなのに。
普段なら有り得ない望みなんて考えるだけ無駄だと思うのに、目の前の男にどうにかしてよと縋りたくて堪らなかった。
「どうして黙るのよ! あの子とちゃんと向き合うこともできないって言うの!?」
本当に勝手な男! と罵りたい気持ちを抑えてレオナを睨みつける。レオナはアタシの視線を受け止めながら、感情のない目でゆったりと空を見上げた。
「……向き合って、どうなる。何かしてやれるわけでもねぇのに」
諦めとも取れる目の色が、一気にアタシの感情を逆撫でする。
「……じゃあ……じゃあ何であんなに世話焼いて……肝心なことは助けてやんなくて、中途半端な構い方してるのよ! せめて、学生の間はそばにいるとか、覚悟を決めて向き合えばいいじゃない! 中途半端なのが一番卑怯よ!」
「卑怯だと?」
「アラ、違うって言いたいの?」
ぎろりと投げつけられた獣の目に負けないよう、足の指に力を込めてレオナに向き合う。
「悔しいなら、ちゃんとあの子に向き合いなさいよ。何もできないなんて決めつけないで、できることを探せばいい。アタシはアンタが指を咥えて見てるだけのお坊ちゃんだなんて思いたくない」
お節介だと一蹴されても仕方がない願いを押し付けて、自分の方がよほど卑怯で自分勝手だと思う。いつものレオナならきっとそう指摘してアタシの言ったことなんて全部反故にしてしまう。それなのにちゃんと最後まで聞いて、何も言い返さないだけ、きっとレオナはレオナなりにユウと向き合おうとしているんだろう。その不器用な優しさを、もっと素直に、ユウだけに向けてほしかった。ユウがいつも言うように、レオナが優しい男だというのをアタシだって知っている。そしてアタシたちの誰より大人で、子どものまま大人になれなかった部分も抱えてる、本当に不器用なオトコだってことも。
「……できること、か」
そんなものがあるのか? と言いたげな目元は、また空を見つめている。その目がどうか、空の色にあの子の面影を探していてほしいと思った。
「……これ以上、生半可な態度を貫くなら、アタシも黙ってないわよ」
「……もう充分他人の事情にクチを挟んでると思うがな」
「アタシはアンタに文句を言っただけ。これからはちゃんとあの子と向き合うって言うならこれ以上何も言わないわ」
「……そうかよ」
アタシにできることなんて、本当に数少ない。
助けを求めたユウを助けてあげる。ただそれだけしかできない。
それでも自分のやっていることが、子ども染みているとレオナに言われようと、精一杯子どもみたいに思いっきり足掻いてままならない現実に抵抗したかった。
「……アンタの好きな香りがするハンドクリーム。プレゼントしてあげたら? 『それくらい』なら、誰だって贈り合う物だし気を遣うギフトでもないでしょ」
あとはレオナが自分から動くだけ。
アタシもう行くわね、とレオナに背を向けて立ち去った。
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