おやすみなさい、よい夢を

「こんにちは? 先生」
「ゲェッ! 紫穂ちゃん!?」

 部屋に入ってくるなり的確に俺へと向けられたワイヤーガンから逃れようと慌てて立ち上がったときにはもう遅い。

「ぎゃっ」

 ぎりりと身体に食い込むナノチューブワイヤーはいっそ潔く俺に絡みついてあっという間に身動きが取れなくなる。鋭い目をしたままツカツカと俺に歩み寄った紫穂ちゃんは、ぐいぐいと無理矢理俺の腕を引っ張って、手首にカシャンとESPロック付きの手錠がはめられた。

「し、紫穂ちゃーん……毎回思うんだけどぉ、これはちょっとやり過ぎじゃありません?」

 眉を下げてできる限り彼女の怒りを宥めるような声を出しながら、無抵抗を表明するべく両手首をぎちぎちのワイヤーから差し出すと、ぎろりと俺を睨み上げた紫穂ちゃんがガチャンと荒っぽくもう片方の手首にも手錠をかけた。

「十四時間前!」
「え」
「前に固形物を口に入れた時間! その前は六時間前だった! さらに言うと睡眠時間はたったの四時間!」

 キッと下から俺のことを睨みつけてくる紫穂ちゃんに身を引きつつ、あまりにも的確な指摘に眉を下げて項垂れる。

「……お、おっしゃる通りで」

 降参を示すように手錠で繋がれた両手を挙げてみせると、紫穂ちゃんは悔しそうに眉を寄せてから、俺の身体に巻きついたナノチューブワイヤーをブチブチと力任せに引きちぎっていく。そして俺の鞄やら上着やら帰り支度と思しき荷物を引っ掴んで、プイッと背を向け俺の腕を掴んだ。

「……帰るわよ」
「え、あ、その、せめて今やってる仕事にケリをつけてから」
「問答無用!!!」

 後ろを向いたままぐいぐいと俺の腕を引っ張って執務室から出ていく紫穂ちゃんの表情は、透視を封じられているので当然のごとくわからない。ずるずると俺を引き摺るように歩いていく紫穂ちゃんの後ろをもたもたとついていきながらこっそりと溜め息を吐いた。廊下を歩いていく道中で出会う部下たちはお疲れ様ですと俺と紫穂ちゃんに向かって声を掛けていくので、慌てて残してきた仕事のことを頼もうとするとギロリと紫穂ちゃんに睨みつけられる。ヒ、と悲鳴をあげているとまるで俺を待ち構えるように玄関のところで立っていた俺の部下が、紫穂ちゃんに向かって頭を下げた。

「毎度毎度申し訳ありません。俺たちじゃこの人言うこと聞いてくれなくて……」
「わかってます。お気になさらないでください。今回はどれくらいの期間ですか?」
「取り急ぎ三日で申請してあります。一週間まで延長可能なように今手配してますので」
「わかりました。では最低でも三日間は休むように言って聞かせますので。こちらこそ毎度毎度ご心配お掛けして申し訳ありません」
「いえ! 三宮さんが対応してくださってこちらとしても本当に助かっていますから! こちらこそお手数をお掛けしてすみません」
「いいんですよ。ペットの躾は飼い主の責任ですから。私の監督不行届が原因です。今度こそしっかり躾けてから現場にお戻しします。本当に申し訳ございません」

 え? あの? と俺が口を挟む間も与えられずに俺の部下と紫穂ちゃんの会話が繰り広げられ、終わる。そしてお互い深々と頭を下げ、部下は仕事へ戻っていき、紫穂ちゃんは俺を引き摺ったまま建物から出て駐車場へと向かった。

「は? え? 紫穂ちゃんなんでアイツとそんな仲良くなってんの? 部署違うのにいつの間に?!」

 紫穂ちゃんの隣に並ぶようにして足を前に繰り出し、紫穂ちゃんの顔を覗き込む。紫穂ちゃんは俺の顔をチラリとだけ見遣ってから、またプイとご機嫌斜めの表情でそっぽを向いてしまった。そのまま俺の上着から車のキーを取り出し後部座席を開け、持っていた荷物を放り込み、ついでと言わんばかりに俺も押し込んだ。うわっ、と声を上げる俺を尻目に見ながらバタンとドアを閉め、紫穂ちゃんは運転席に回り込んでシートに腰掛ける。車のエンジンを起動しながらテキパキと自分の背丈に合わせてシートやらミラーやハンドルの位置まで調節した紫穂ちゃんは、バックミラー越しに俺をチラリと見ながら、はぁ、と溜め息を吐いた。その呆れた表情に身を縮めていると、紫穂ちゃんは何も言わないまま、車を発車させた。
 スイスイと車は進んでいく。進行方向と見慣れた景色から、どう考えても俺の住居に向かっていることはわかる。これでもう何度目だろう、と思いながら、ぼそり、と紫穂ちゃんに向けて口を開いた。

「……ねぇ、俺一体いつから紫穂ちゃんのペットになったの?」

 ちら、と後ろから紫穂ちゃんの様子を窺いながら問い掛けると、紫穂ちゃんはまたミラー越しにチラリと俺を見るだけで無言のまま運転を続けている。肩身の狭い思いをしながら、何とかこの重たい空気だけでも軽くしようとへらりと笑って続けた。

「ちゃんと家に帰って大人しくしてるから、手錠外してくんねぇかな?」

 かちゃ、と音を立てながらミラーに映るよう手錠を掛けられた手首を持ち上げると、紫穂ちゃんは進行方向を見つめたまま無表情で答えた。

「ダメよ。外したら生体制御使って無理矢理疲労を回復させるでしょ? そんなことさせないわ」
「……そんなこと……しねぇ、と、思う……んだけどな?」
「信用できない。せめてもうちょっとマシな嘘吐きなさいよ」
「うっ、嘘じゃねえ、し」
「私を騙せると思って?」
「……スミマセン、大人しくしています」
「そうね。その方がいいと思うわ」

 ミラー越しにニコリと笑った紫穂ちゃんの表情が見えて、ビクリと肩を震わせる。
 ヤバイ、相当怒ってる。
 そりゃ怒られるようなことをしたのは俺だから仕方がないのだけれども。いやでもこれにはワケがあって。いや本当に。抜き差しならない理由があってですね。
 そうこうしているうちに滑るように俺の住むマンションの駐車場へと紫穂ちゃんは車を入庫した。助手席に置いていた自分の鞄を肩に掛けた紫穂ちゃんは、車を降りて、まず後部座席に散らばった俺の荷物を集めてひとつひとつ落とさないように手に持ってから、俺の手を取ってゆっくりと俺を車から引っ張り出した。大人しくされるがままついていくと、エントランスのロックを外す文字盤の前に俺を立たせた。

「開けてくれる? 家に入れないわ」
「え、でもこの前ロックナンバー教えたろ?」
「私は他人なのよ。センセイのマンションのエントランスロックを外していい立場じゃないわ」
「えぇー……」
「はやくして! 後ろがつっかえるわよ!」
「ハイスミマセンッ!」

 紫穂ちゃんにぎろりと睨まれてしまえば俺が逆らうことなんて無謀にも等しいので、繋がれて動かしにくい手首を持ち上げてポチポチと数字を入力しエントランスのドアを開放した。開いた途端、俺を置いてさっさと中へ入っていく紫穂ちゃんを慌てて追いかけながらエレベーターホールへ向かう。先にエレベーターを呼び出して俺が追いつくのを待っていた紫穂ちゃんは、無表情のまま顎先で、乗れ、と無言で指図してきた。大人しくエレベーターに乗り込むと、俺の部屋があるフロアのボタンを押しながら紫穂ちゃんはエレベーターの扉を閉める。俺に背を向けているので表情は見えないし、何も喋ってくれないので俺に対する怒りが落ち着いたのかどうかもわからない。永遠にも感じるような沈黙を耐え忍び、目的の階で降りると紫穂ちゃんはスタスタと歩いて俺の部屋の前で立ち止まる。それから鞄の内ポケットに入れている鍵を取り出して、わざわざ俺に手渡した。

「開けて」
「……ハイ」

 紫穂ちゃんの指示に素直に従ってガチャガチャとドアを開ける。

「……どうぞ」
「お邪魔します」

 紫穂ちゃんは家主である俺の顔を見ることもなくそう告げて、さっさと靴を脱いで部屋へ上がっていった。あーもう! と思いながら自分ももたもたと靴を脱いで紫穂ちゃんのあとを追いかけると、紫穂ちゃんはテーブルに置いた大きな自分の鞄からガサガサとたくさんの保存容器を取り出してテキパキと冷蔵庫に詰めていた。その様子に眉を下げながら両膝をついて冷蔵庫の中を整理している紫穂ちゃんにそっと近付く。

「……あのさー紫穂ちゃん……何度も言ってるけど、付き合ってもない独身の男の家にこんな風に上がり込むのは良くないぞ」

 家に帰り着いたからかドッと押し寄せてくる疲労感にクラクラしながら何とか紫穂ちゃんに訴えると、紫穂ちゃんは綺麗に詰め終えた冷蔵庫をパタンと閉じてクルリと俺に振り返った。

「……そろそろね」

 チラリと時計を確認しながら俺に近付いた紫穂ちゃんは、俺の顔を覗き込むようにして背伸びしながら俺の頬に触れた。

「え……紫穂ちゃ」
「37.5度。予想通りね。時間もぴったり」
「は?」
「ESPロックで強制的に生体制御止めてるの。オーバーワークにオーバーワークを重ねた身体が悲鳴を上げてるのよ」

 やっぱり皆本さんに先生の波長に合わせた手錠を作ってもらって正解だったわ、と紫穂ちゃんは告げながら、ポケットから取り出したオデコに貼る冷たいアレをぺたりと俺の額に貼り付けた。

「もう今日は休むでしょ? 作り置きの惣菜、冷蔵庫に入れておいたから目が覚めたら食べれそうなものから食べて。消化器官に負担が掛かりにくいものを作ってきたから、不健康に不摂生が続いてる空っぽの胃でも受け付けてくれると思うわ」

 そう言いながら、紫穂ちゃんはハイ取り敢えずコレ飲んで、とビタミンのゼリー飲料の封を開けて俺に手渡す。そのままリビングと寝室の窓を開けて軽く換気をし始めた。ぼーっとする頭のまま、フラフラと紫穂ちゃんを追いかけてリビングへ向かう。何とか溢さないようにゼリー飲料を吸い上げて、ゴミになったそれを屑籠に放り込んだ。

「いや、あの、だからさ、紫穂ちゃん? そんな簡単に独身の男の寝室に入っちゃダメだって……」

 熱っぽい身体を無理矢理動かしてテーブルに飲み物やら林檎やらを並べている紫穂ちゃんの後ろに立つと、紫穂ちゃんはキッと目を吊り上げて俺に振り返った。

「なら!!! いい加減私と付き合えばいいでしょう!?」

 下からギロリと俺を睨み上げてくる紫穂ちゃんに怯みながら、へにょりと眉を下げてそれはできないと首を振る。

「……だから……それは、その……俺がもっと、上の立場になって」
「パパ経由で回ってくる私のお見合い相手の釣書に見合うくらい肩書きが立派になってから!? もうそれ何度も聞き飽きた!!!」
「あー……うん……ゴメン……」
「もう何度目だと思ってるの!? ワーカーホリックも大概にして!!! こんだけ部下さんからSOSを貰ってたらそりゃ部下さんとも仲良くなるわよ!!!」
「うっ……スミマセン……」

 じわりと紫穂ちゃんの目尻に浮かぶ涙にオロオロしながら頭を下げると、熱のせいかクラリとして倒れ込みそうになるのを紫穂ちゃんがぎゅっと抱き付いて支えてくれる。

「……付き合う前からこんなに心配させられるんだったら、もう……私、先生と付き合えなくていいよ……先生の身体が壊れちゃう」

 それは困る、と思いながら、そう思われても仕方がないくらい、紫穂ちゃんに心配を掛けている自覚もあるので、うぅ、と小さく呻きながらズルズルとその場にへたり込んだ。
 だって仕方がない。出自がいいわけでもない。後ろ盾があるわけでもない。ただ紫穂ちゃんと同じサイコメトラーってだけでしかない俺は、しゃかりき働いてせめて誰も文句を言わない上の立場に上り詰めなければ、堂々と紫穂ちゃんの交際相手としてお見合い相手どもを蹴散らすことも叶わないのだ。
 紫穂ちゃんが俺のことをちゃんとそういう意味で好きなことは知っている。過去に一度、きちんとした告白をされたからだ。本当は自分から告げるべきなのに、いつまでも曖昧な関係を続けようとしていた俺に焦れた紫穂ちゃんが、好きだから私と付き合ってほしい、とデートの帰り際に真っ赤な顔をして俺に伝えてくれたのは、もう一年も前のことだ。自分の想いを告げて紫穂ちゃんを自分に繋ぎ止めるのはもっと自分の立場を揺るぎないものにしてからだと決めていた自分は、その時も曖昧な返事しかできず、とにかく待ってほしい、必ず君を迎えに行くから、もし許されるのならその時まで俺のことを待っていてほしい、なんて女々しいお願いをして、涙目の紫穂ちゃんを抱き締めることしかできなかった。
 それから、脇目も振らず仕事に打ち込んで、学会に参加し、医者としての実績功績も積み、医療研究棟の実質トップとして舞い込んでくる仕事の山をしっかりこなして励み続けた。ぶっちゃけめちゃくちゃ身体には無理を強いているという自覚はある。そうして元々ワーカーホリック気味だった俺は更に磨きを掛けて明けても暮れても仕事仕事。ぶっ倒れるまで仕事に集中したときに部下が紫穂ちゃんを呼んだときから、過労で倒れてしまう前にこうして紫穂ちゃんに職場から引き摺り出されるという生活を続けている。
 俺の気持ちなんて、きっと紫穂ちゃんが俺に告白することを決める前から、バレていた。それでもこうして足掻いているのは、自分のエゴでしかないのかもしれないけれど、俺のせいで紫穂ちゃんが辛い思いをすることだけは避けたくて、とにかく、皆が認めてくれるような自分になれるよう、努力するしかなかった。

「……パパは先生ならいいって言ってるのに、それでもダメなの? 先生はもう、充分頑張ってるじゃない」
「……それでも、君のパパの後ろ盾がほしいから君と付き合ったんだとか言われて、君が傷付くのは嫌なんだよ」
「そんなの……勝手に言わせておけばいいのよ。そういうこと言う奴らは先生がどんな立場になったってアラを探して何だって言ってくるわ」
「でも」
「もういいわ。今日はとにかくもう休んで。お願い」

 床にへたり込んでいる俺の首にぎゅうと抱き付いて、紫穂ちゃんは泣きそうな声で呟いた。ダルくて思うように回らない頭でそれを聞きながら、紫穂ちゃんの肩に顔を埋める。すると紫穂ちゃんはそっと身体を離して俺の顔を覗き込んだ。

「ゆっくり寝て、それからまたお話ししましょ? まずははやく元気になって」

 さぁほら、ベッドに行きましょ、と紫穂ちゃんは立ち上がって俺の腕を引いた。フラフラする身体を何とか起こして紫穂ちゃんに引かれるまま寝室へ入って、ベッドに腰掛けさせられる。ずしりと重たい身体は熱が籠もっていて熱い。どんどんぼやけてくる頭を無理矢理動かして紫穂ちゃんを見上げると、紫穂ちゃんは優しい顔をして俺の髪に指を通しながら頭を撫でた。

「ひと眠りしたら、ちょっとはスッキリするでしょ? だから、ね? お願いだからしっかり眠って?」
「でも……せっかく、きみといるのに……おれがねたら……かえっちゃうんだろ……?」

 上掛けを捲って俺の身体を横たわらせようとする紫穂ちゃんに子どもがイヤイヤをするみたいに抵抗する。高熱で浮かされた頭で、さみしい、と紫穂ちゃんの目を見つめれば、紫穂ちゃんは呆れたように肩を落としてから、ふわりと微笑んだ。仕方ないなぁ、と俺を甘やかすような声で呟いた紫穂ちゃんは、熱冷ましのシート越しに俺の額に口付けて、ぎゅうと俺の頭を胸に抱き込んでゆっくりとベッドに身体を横たえた。
 鼻を擽る甘くていいにおいと、頬にあたるふわふわでやわらかい感触。もう半分機能を停止し始めていたそれらに包まれてウトウトと紫穂ちゃんに甘えるように身を寄せる。手錠で拘束されてなければ、このまま紫穂ちゃんを抱き締めて眠るのに、なんて許されないことを考えながら、紫穂ちゃんの服をそっと掴む。その手を包み込むように掴んで紫穂ちゃんは俺の背中をよしよしと宥めた。

「先生が寝るまで、ちゃんと一緒にいるから」
「……ねたら……かえるの?」

 熱で弱った思考と身体が、無意識に紫穂ちゃんを求める。起きたときにひとりなんて嫌だなぁ、とやわらかい感触に包まれながらぼんやり考えていると、ふぅ、と紫穂ちゃんの溜め息が頭の上から聞こえて、流石に呆れられたかなと目を閉じた。

「私も明日はお休み取ったから。先生が起きるまで、一緒にいてあげる」

 だから安心して眠っていいよ、と背中をトントンされると、本格的な眠気が襲ってきて、んー、と返事なのか何なのかよくわからない声が出る。

「箱入りでまだ誰とも交際したことない嫁入り前の私にここまでさせてるんだから、早く責任取ってくれなきゃ許さないわよ」

 そろりと俺の頬を撫でる指の優しさを感じながら、紫穂ちゃんの服を掴む手にきゅっと力を込める。髪の生え際に濡れたやわらかい感触が触れて、優しい声が耳に届く。何て言われたんだろう、と朧気な意識で考えながら、俺は意識を手放した。

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