付き合い始めの頃はまだ良かった。俺がリードして、手を繋いだり、抱き締めたり。照れたように、でも嬉しそうに笑う紫穂ちゃんが可愛くて、事ある毎に、ちょっかい出してはその初々しい姿を拝んでいた。
それが、どうだ。慣れてきたと言えば簡単に説明がつくが、それにしたってこれはどうなんだ。
「あのー……紫穂サン?」
「なぁに?センセ」
「……ちょっと近すぎないか?」
「え?そうかしら?」
ぴとり、と寄せられた紫穂の身体。ここは俺の家で間違いなく男の部屋。いくら彼氏とはいえ、もうちっと警戒心持ってくれてもいいんじゃねぇの?
きょとん、とした顔で俺を見上げる紫穂は俺の左腕に腕を絡めて、俺に凭れ掛かっている。俺の左腕はしっかりと紫穂の柔らかい身体に包まれて感触を楽しんでやがるが、こっちはそれどころじゃない。荒れ狂う本能が理性と戦争を始めちまってるし、これは積極的と受け取るよりも、甘えたな紫穂の過剰なスキンシップだと頭の中で冷静な俺が叫んでいる。それでも、だ。俺だって男なんだ。もうちょっと警戒してくれ!と心の中で叫んだ。
「……俺も健全な男だからさ。彼氏っつってももうちょっと警戒した方がいいんじゃね?女の子は自分の身体を大切にしねぇと……」
触れたい撫で回したいありとあらゆる場所を暴きたいと叫ぶ本能に打ち勝った理性が、いかにも紳士面をぶら下げて紫穂に告げる。すると紫穂は驚いたように大きな目を更に大きくしてから、じわじわと寂しそうにきゅ、と眉を寄せた。
「……ごめんなさい。これからは気を付けるわ」
ゆるゆるとした動きで俺の腕を開放する紫穂は本当に寂しそうで、俺は一瞬で失敗したことを悟った。
「や、あの、気を付ける気持ちがあれば充分っつーか!くっついてんのは俺も嬉しいっつーか!紫穂が離れたくないならそのままでもいいんだけど!」
必死になって取り繕うと、ぱぁっ、と表情を明るくした紫穂が改めて、ぎゅうっと俺の腕を抱き締めた。
「ホント?嬉しいっ!」
あ、これ、紫穂の可愛さで死ねるヤツ。っていうかもう死んだわ、俺。さようなら俺。こんな可愛い子に想われて成仏できないわけがねぇよ。マジ幸せ。神様ありがとう!
「……皆本さんに甘えてたみたいに、先生にも甘えられたらなって、ずっと思ってたの」
心の中で賛美歌でも歌い出しそうな勢いの俺の耳に、何気ない紫穂の呟きが届いて衝撃が走る。ふふ、と甘えて腕に頬をすりすりしている紫穂に、もう一回死ねるとなっている場合じゃない。
え、君、皆本にこんなコトしていたの?そして皆本はそれを受け入れてたの?君が甘えたがりなのは知ってるが、いくらなんでも大人の男にこれはないんじゃねぇの?っていうかいっぺん皆本殺していい?じゃないとジェラシーで俺の心が焼きつくされそう。
メラメラと別の意味で燃え上がり始めた心を何とか表に出さないように気を付けていると、チラチラと紫穂の上目遣いが俺を覗き込んで。きゅ、と俺の腕を掴む手に力を込めて紫穂は少し目を伏せた。
「あの……あのね?」
「……ん?どした?」
極力平静を装って紫穂に笑いかける。
「実はね……お願いが、あって」
「お願い?」
「……先生の、膝に座りたいな、って」
彼氏だったら、いいでしょ?と可愛らしい顔で俺を見つめてくる紫穂に、もうなんか何もかもが吹き飛んで、白旗を上げるしかなかった。
「いいけど。俺の膝?」
「うん。ちょっとジッとしてて……」
紫穂は俺の腕を解放して俺の前に立つと、そのまま、よいしょ、と俺の膝に座った。そして、自分の身体を包むように俺の両腕を紫穂の身体に絡める。
「このまま、ぎゅっ、ってして?」
もう可愛いとか通り越して天使かと突っ込みたくなるようなお願いに、速攻で紫穂の身体を優しく、潰れないように、後ろからぎゅうと抱き締めた。
「……こうか?」
「……うん。そう。」
えへへ、と甘えたように笑いながら、俺の腕を掴む手に、きゅう、と力を込める紫穂。
何この可愛い生き物。俺、こんな天使と無事に生きていけるのかな。いや、何とか生き延びて紫穂との人生歩んでいかなきゃなんだけど。こんなんじゃ、可愛さだけで俺を殺せる紫穂と一緒にいたら、間違いなく俺は死ぬ。
「どうしたの?センセ、顔真っ赤だよ?」
「あー、うん。俺の彼女、可愛いなって」
「もー、何よそれー」
あはは、と笑う紫穂は純粋に甘える意図しかないんだろう。俺はもう暴走しまくりの本能と可愛さに殺られちまった理性が変に混じり合って、味わったことのない歓びとも哀しみとも言えない感情に襲われている。
「俺、ホント、死ぬかも」
腕のなかにある愛し過ぎる存在をきゅうと抱き締めて、はぁーと深い溜め息を吐くと、馬鹿じゃないの、と紫穂はクスクスと笑った。
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