時間を巻き戻せるのなら。俺は今すぐ三十分前の自分に忠告、いや、頭をぶん殴りに行きたい。お前のその軽率な行動と浅はかな考えのせいで、今の俺がどんなに苦しめられているか、思い知らせてやりたい。まぁその三十分前の俺、というのは今正しくその行為を後悔している俺なのだが。
だがしかし。さみしい。ヒマ。何とかして。そう訴えてくる可愛くて可愛くて堪らない彼女が目の前にいるのに、それを蔑ろにできる男がこの世に存在するだろうか。いや、きっと存在しない。もし、存在したとしたら俺がソイツに思いっきり説教する。お前はこの世に存在してはならないクソ野郎だと。いやマジで。多分ソイツは男じゃない。俺がソイツを男でなくしてやる。
さて、話を戻そう。最近本当に目が回るような忙しさで構ってなかった自覚は充分にあった。だから、研究室で事務処理に追われていた俺のところに訪ねてきた紫穂を追い返すなんて有り得ない話で、部屋に入れたは良いものの、結局構ってやる余裕もなくて、可愛らしい不平不満を連ねられてしまったのは、俺の彼氏力の至らなさに尽きる。でも仕事は待ってくれない。しかしさみしいと言う紫穂を放っておくこともできない。じゃあどうする? と考えた俺の頭が弾き出した答えは、俺の左手の貸し出し、だった。今やっている事務処理は利き手の右手さえあれば事足りる。だから、左手、好きにしていいぞ、と紫穂に差し出した。それが三十分前の話。
そして俺はやはりそんな考えに至った三十分前の俺を殴りたい気持ちでいっぱいだった。片手で仕事? そんなもんできるわけがねぇ。いや、そう言うと語弊がある。右手だけで仕事はできる。ただ、左手に行われている行為に意識が持っていかれすぎて、とても仕事に集中できるわけがない。
最初は良かった。俺の手を撫でてみたり、手を繋いでみたり、手の平をマッサージしてくれたり。可愛すぎてこちらがにやけてしまうくらいの接触だった。ふにふにと俺の手を弄ぶ紫穂に少しだけ意識を取られつつも、仕事に集中出来ていた。そこからホンの少し、接触が濃厚になって、手の平に頬を刷り寄せられたり、手の平に口付けられたりと、正直、俺の左手に嫉妬したくなるくらい俺の意思のない左手に紫穂は甘えてきて。俺だって仕事なんてほっといて紫穂とイチャイチャしてぇ! と心の中で大声で叫んでから、俺も手を動かしゃいいんじゃん! と閃いて、仕事しながら紫穂の頬を指先で撫でてやったり、喉元を指で擽ってやったり、集中力は削がれつつあったけれども紫穂を構いながら仕事は出来ていた。
それが、だ。何がどうなってこうなってしまったのかわからない。耳に届くのはちゅぱちゅぱという職場には似合わない水音。俺の人差し指は紫穂の口の中に大人しく納まって、紫穂の手によって浅い抜き差しが繰り返されている。いやいや、なんで? 手の平にキスしてたのが指先にも移っていって、指の腹で紫穂の唇の感触を感じていたまでは良かった。それがどうして、紫穂の口の中に入っちゃってんの? ていうか、紫穂ちゃんなんで? なんでキスだけじゃ飽き足らず、俺の指しゃぶっちゃってんの? お蔭様でさっきから仕事は一ミリも進んでいない。いや、それこそこの状況で仕事出来るヤツがいたら、俺、ソイツを男の中の男だと崇め奉るわ。
はぁ、とひとつだけ息を吐いて、動きが止まってしまったペンを置いてから紫穂の方に視線を移す。絶対に目の毒だというのはわかっていても、この状況を目に納めずにはにはいられない男心というものはどうかわかってほしい。チラ、と目線だけで紫穂の姿を追えば、一生懸命俺の指をしゃぶっている紫穂が目に入って。あんまりにも扇情的な情景が広がっていて、俺の下半身ドストライクだ。つーかコレはヤバいだろ。どう考えたってヤバい。まるで一生懸命奉仕してくれているようにも見える紫穂が、俺の理性を全力で試しているようで。俺は心の中の皆本主任様に助けを求めた。いや、だってさ、こーんなちっちゃい紫穂の口だぞ? 俺の、入るのか? ……いやいやそうじゃなくて。なに考えてんだ俺の馬鹿野郎。ふざけんじゃねぇぞ。紫穂が卒業するまでは手を出しません、と皆本に誓ったじゃねぇか。いやでも妄想するだけなら、許される、のか? いやお前自分の理性に自信あんのかよ無いくせにナマ言ってんじゃねぇぞコラ。何とか心を落ち着けるように、はぁ、と深く溜め息を吐いて、身体ごと紫穂に向き直った。
「……あの……紫穂サン? ナニやってんの?」
俺に声を掛けられて、んぁ、と色っぽい声を漏らしながら紫穂は俺の指を解放した。俺の指先と紫穂の唇に伝う唾液が何ともいやらしい。紫穂の唾液でテラテラと光る唇に今すぐにでも貪るように口付けを落としたい。うるうると揺れる瞳に俺だけしか写らないようにしてしまいたい。そんな煩悩まみれの頭の中をちゃぶ台返しでどんがらがっちゃんとひっくり返して細く僅かに繋がった理性の糸をピアノ線だと信じて手繰り寄せる。手繰り寄せたピアノ線が間違いなく繋がっていることを確認してから、何でもない振りをして紫穂の答えを待った。
「……ナニって……ナニ?」
「……答えになってませんけど?」
「えーっと、その……いざという時の練習? みたいな?」
目尻まで赤くして首を傾げながらチラリと俺を見る紫穂は、凶悪的な可愛らしさで俺にボディブローを喰らわした。心情的には思い切り血を吐いていてもおかしくないが、ボディブローは物の例えなので血を吐く訳もなく。俺のメンタルに大打撃を与えただけで終わった。
「……いや、多分その、いざという時っていうの? まだ来ねぇから練習しなくてもいいんじゃねぇか?」
「えー……?」
「……ちゃんと、いざという時が来たら、教えてやるから。その時まで、待ってろ」
紫穂が卒業するまであと一ヶ月。俺の理性と本能が、本気で戦争をおっ始めそうだった。
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