「賢木、入るよ。明日の会議の資料なんだけど……おい、どうしたんだ?」
皆本の声が耳に届いてハッと意識を取り戻す。
「え、あ……あれ、俺……」
気付いて時計を見てみれば、いつの間にかさっきの出来事から三十分ほど時間が経過していることに驚いた。
「ぼーっとしてたみたいだけど。何かあったのか?」
明日の会議用の資料と思われるディスクを俺のデスクに置いた皆本は不思議そうに首を傾げながら俺の顔を覗き込んでくる。その顔をパチパチと瞬きしながら見つめ返して、覚醒した勢いのままガッと皆本の肩を掴んだ。
「し、紫穂ちゃんに!」
「……紫穂に?」
「こっ……告白、された……」
言いながら、かぁぁ、と自分の頬に熱が集中していくのがわかる。少しでもそれを皆本に見られないように顔を俯けつつ皆本の様子を窺うと、皆本は何もおかしいことなどないと言いそうな普段通りの顔をして、あぁ、と呟いた。
「それは、おめでとう。よかったな?」
ちょっと痛いから手を離してくれ、と肩を掴んでいた手を引っ剥がされて、オマケにパッパッと肩を払われてしまう。何ソレひどい。親友がこんなに慌ててんのになんなんだよその対応。
「お、おめでとう? どういう反応なんだよソレ!!!」
「……いや、だって。紫穂、やっと告白したんだなと思って」
ずれた眼鏡を直しながら何でもないことのように言った皆本は、やれやれ、と肩を竦めながら俺を見つめている。
「は? やっと? 何ソレ? お前、紫穂ちゃんが俺のコト好きって知ってたの?」
「知ってたもなにも……普通にそうなのかなって気付く程度にはあからさまだっただろ」
本当に気付いてなかったんだな、と驚いたように皆本は続ける。その皆本の反応があまりにも素直なものだったから、逆に衝撃を受けてしまう。そんなにもあからさまだったらしいのに、俺は全くと言っていいほど紫穂ちゃんの目線に気がつかなかったし、紫穂ちゃんの想いにも勘付かなかった。
「でも、意外だな? 賢木でも女性に告白されて動揺することがあるなんて」
クククとおかしそうに笑っている皆本に、思わず噛み付くように叫ぶ。
「ちっ、ちっげーよ! 紫穂ちゃんに告白されたから動揺してんだよ!!!」
女の子に告白されたからじゃねぇ! と思い切り声を上げれば、そうなのか? と不思議そうに皆本は首を傾げている。己の名誉のためにカッカと肩を怒らせながらキッと皆本を睨みつけた。
「そっ、それに……こ、告白だけじゃ、ねぇし……その……きっ……キス、され……」
そこまで言って、さっき、と言ってももう三十分も前の紫穂ちゃんとのキスを思い出す。自分でもびっくりするくらい顔が熱くて、咄嗟に口元を手で覆った。やわらかかったな、とか、すげーいいにおいしたな、とか、そんなことが頭を蠢くなかで、まるで中坊みたいな自分の反応に戸惑ってしまう。
キスなんて、それこそ数え切れないくらいしてきた。それなのに紫穂ちゃんとのキスはそのどれよりものめり込んでしまいそうな甘さに包まれていて、満たされる心地よさに溢れていた。
初めてなんかじゃないのに、まるで初めてみたいに心を打たれて、きっとこれを超えるものなんてないんじゃないかと感じさせる、でもその先があるならもっと知りたいとも思わせてくれる、そんなキス。自分が今まで経験してきたことは全部嘘だったんじゃないかと思うくらい、世界がひっくり返ってしまった。
「……キス、したんなら、やっぱり、おめでとう、じゃないか。大事にしろよ」
呆れたような、でも少し照れの混じったような複雑な表情で俺を見てくる皆本にハッとしながら眉を寄せる。
「お、おめでとう、じゃ、ねぇんだよ……紫穂ちゃんは……俺に、ゴメンね、って……」
そうだ。治らない恋の病は時間が解決する、俺には迷惑掛けない、と紫穂ちゃんは部屋を出て行ってしまった。
「え……賢木、お前……紫穂のこと、振ったのか?」
心底驚いたように問い返してきた皆本にぷるぷると首を振って否定する。
「振ってない! 振っていないっつーか返事も何もしてない!」
「キスはしたのに?」
「うっ……したんじゃなくて、されたんだよ」
「された? 紫穂にか?」
訝しむように俺をジト目で見つめてくる皆本に、こくりと頷いて返事する。それから、もう一度指先で唇を撫でて、残った感触を確かめた。またじわりと熱くなる顔を冷ますように頬へ手のひらを宛がうと、いよいよ呆れたといった表情で皆本は俺を見つめてきて。
「……お前……まるで初めてキスした女の子みたいな顔してるぞ……正直言って気持ち悪い」
そんなキャラじゃないだろお前、と言いながら皆本は顔を顰めている。そんな指摘にカッとなって眉を吊り上げて叫んだ。
「はぁ!? お前考えてもみろよ紫穂ちゃんにキスされんだぞおかしな反応にもなるわ!!!」
そうだあの子が俺にキスなんて。そんなのびっくりして当然じゃないか。
「だって普通に女の子とキスするわけじゃないんだぞ!? 相手は紫穂ちゃんなんだ! びっくりしすぎて返事どころじゃねぇし何て返事すればいいのかわかんなくて困るに決まってるだろ?!」
「……へぇ。返事に困るのか」
「当たり前だろ!? だって紫穂ちゃんなんだぞ! そんな風になるなんて考えてもみなかった!!!」
そう。本当にそうとしか言えない。
まさか自分が、紫穂ちゃんに告白されて、俺のことを男として見ているなんて言われると思ってもいなかったし、想像だってしたことなかった。
「じゃあ考えてみればいいじゃないか」
「は?」
「考えたことなかったんだろ? 今から考えてみたらどうだ?」
「……考えるって、何を?」
「紫穂と交際するってこと」
紫穂だって真剣なんだからお前も真剣に考えてやれ、と皆本は続ける。え、と思いながらも紫穂ちゃんと所謂そういう交際をする想像をしてみようとモヤモヤする頭の中で何とか架空の映像を思い浮かべた。
紫穂ちゃんと食事して、気分を盛り上げて、お酒はダメだから綺麗な夜景の見えるところへ連れて行ってあげて、イイ雰囲気になったところでホテルへ――ってこれ以上はダメだ!
「なッ、なんて想像をさせるんだよお前は!!! 紫穂ちゃんのハダカ想像しちゃうトコだっただろ!!!」
ワーッと叫びながら頭の中の映像を打ち消すように頭を掻き毟ってブンブンと首を振る。俺の言葉を聞いて顔を赤くした皆本は、わなわなと唇を震わせながら俺に負けじと叫んだ。
「な! なんで裸を想像する必要があるんだよ! お前は本当に下半身でしかものを考えられないのか!? 普通にデートする想像だけでいいじゃないか!!!」
一緒に映画観たりご飯食べたりって想像だけで充分だろ!? と皆本は眉を吊り上げて喚いている。
それを聞いて確かに、と思いながら、ふと、そういうデートってあんまりしたことねぇなということに気付かされる。
取り敢えず、と紫穂ちゃんと食事に行ったり水族館に行ったりというふわっとしたデートシーンを思い描いてみても、普段と何が違うんだろう、と思うくらい違和感がなくて拍子抜けしてしまった。もっとこう、ドキドキしたりするもんだと思っていたけれど、そこにあるのは寧ろもっと穏やかで、ずっと続けばいいのにと思うような愛おしい時間。今まで自分が経験してきた、女の子を楽しませてあげてこちらもイイ思いをさせてもらうような駆け引きではなくて、その笑顔を俺に向けてくれるのであれば何だってできると思えるような、心の底から沸いてくるような幸せ。
「……やっぱり、紫穂ちゃんはそういうんじゃねぇよ。なんかこう、もっと特別な、なんていうか……とにかく、今まで俺がしてきたような男女交際に当て嵌めたくないんだ」
「へぇ?」
「こんな気持ち、今まで感じたことない。あの子は本当に特別なんだよ」
「つまり、どういうことなんだ? 抽象的すぎて結論が見えない」
「えぇ?」
「付き合えるのか付き合えないのかって話だろ? ちゃんと答えてやらないと紫穂が可哀想だ」
「そんなこと急に言われても……わかんねぇよ」
「じゃあ別のアプローチから考えてみたらどうだ? 紫穂が他の誰かと付き合うってなったら君は平気なのか?」
皆本の言葉にハッとして、自分以外の誰かの隣で笑う紫穂ちゃんを想像して寒気が走る。自分と紫穂ちゃんがそうなることを考えたこともなかったけれど、紫穂ちゃんが他の誰かとそうなるなんてもっと考えたことがなかった。でも紫穂ちゃんにだって好きな男ができたっておかしくないし、紫穂ちゃんのことを好きになる誰かが現れてもおかしくない。その誰かと紫穂ちゃんがイイ感じにならないなんて保証はないし、紫穂ちゃんが誰を見てようが俺に止められる権利はなかった。
「そんなんぜってぇ無理じゃん……俺耐えられそうにねぇよ……想像したこともなかったんだからさ……」
「そうみたいだな。想像だけでそんなに青い顔してるんだったら、現実になったら本当に死ぬかもしれないな」
可哀想な人を見る目で俺を見ている皆本に、ハッとして縋り付く。
「え……もしかして、紫穂ちゃん……もう好きな人いるのか!?」
わーやだやだそんなの聞きたくなかった! と半ば涙目で皆本を見つめると、まるで俺をバカだとでも言い出しそうな冷めた目で皆本は溜め息を吐いた。
「いや、だからそれはお前なんだろ?」
「え?」
「さっき紫穂から告白されてキスまでされたんじゃないのか?」
お前時々びっくりするくらい抜けてるよな、と憐れむような目を皆本に向けられて、あああ! と口元を押える。
「……そっ、そうだった! むっ、娘さんを俺にください!!!」
「なッ!? 僕は紫穂の父親じゃない!!!」
「えっ、じゃあお義兄さん!?」
「兄でもないぞ! ……まぁ、でも。保護者代理として言わせてもらえるなら! 付き合うのか付き合わないのか、はっきりしたらどうだ?」
クイ、と眼鏡の位置を直しながら皆本は俺を睨みつけつつ腕を組んだ。それにうーんと首を捻りながらもう一度想像してみる。
紫穂ちゃんと付き合うってどういうことだろう。そもそも付き合うって何。そこの概念から崩されてしまっている気がする。俺は紫穂ちゃんと俺が今まで女の子たちとしてきたアレやソレをしたいわけじゃ……いや、それはちょっと置いておこう。とにかく、休日に二人で公園に出掛けて散歩したり、人気のパン屋さんでお昼を買って公園のベンチでランチしたり、そのまま二人で芝生の上に寝っ転がってゴロゴロしながらウトウトしてみたり。それから日が落ちる前にちょっと良いスーパーで晩ご飯の買い物をして家に帰って一緒に料理して二人でご飯食べて……ってアレ? これってふたりで一緒に住んでるってコト? 同棲? いや寧ろ夫婦じゃん。めちゃくちゃ新婚さんの一日じゃん。
そこまで考えて、かぁぁ、と頬に熱が集中するのを感じて思わず両手を頬に当てる。
何だコレ? 何だコレ!
俺の頭は一体何てモノを想像してやがるんだ!
「……いやだからその女の子みたいな反応本当に気持ち悪いから……結局賢木は紫穂とどうなりたいんだよ」
ウンザリしたような目線を向けてくる皆本の視線に、うぅ、と小さく唸ってキュッと眉を寄せる。
「えっと……その、なんていうか……ずっと、一緒にいたい。紫穂ちゃんには……俺の隣で、笑っててほしい」
もたもたと何とか言葉にしたものの、あまり要領を得た答えとは思えないソレに眉を顰める。
なんだよ、付き合うか付き合わないかって話に何だこの微妙に的を射ない返答は。
イエスかノーかの返事を別の言葉で誤魔化したような俺の返事に、皆本はなぜか眉を下げて笑った。
「……それもうプロポーズだろ。はやく紫穂にそれを伝えてやれ」
「ぷっ、プロッ、ぷろぽーず!?」
「だって……ずっと一緒にいたいって、つまりそういうことだろ?」
「えっ」
「一生涯添い遂げたいってことじゃないのか?」
「あ……う……そう、かも……」
「なら。はやくそれを紫穂に伝えてやれ。きっと今頃紫穂はひとりで泣いてるぞ」
皆本はそう言って俺の肩を叩いてそっと背中を押した。その表情は穏やかに笑っているようで、ほんの少し照れたような居心地の悪いような目元で俺を見つめている。その目が保護者代理としての複雑な心境と、俺を応援してくれている親友の立場を物語っていて、思わず俺も笑みが溢れた。
「あぁ。そうだな。いってくる」
アリガトな、皆本。と皆本の肩を叩いて返事をすると、頬を赤らめながら眉を寄せた皆本に、早く行け! と部屋を追い出されてしまった。
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