指先

 約束の時間、とぼとぼと一人で廊下を歩いていた。悲しい気持ちは晴れていない。寝て覚めて忘れていられるほど、私は単純に出来てはいなかった。それに、抱えていた期間が長すぎる。捨てるにも同じくらいの期間が掛かる気がしてならない。今日だって、本当は家に閉じ籠っていたかった。でも気の遠くなるような長い時間を鬱々と過ごすより、少しでも明るく過ごせるかもしれないと約束を果たしにきたのだ。

「あ……もう聞こえる……」

今日のメロディはなんだか情熱的、と思いながらそっと教室の中を覗く。ピアノにうつ伏せてしまうんじゃないだろうかと思うくらいに前のめりになって激しくピアノを奏でる後ろ姿は、昨日見た爽やかさを感じさせる柔らかい物腰とは程遠くて。その変化に息を呑んだ。できるだけ音を立てないようにそっと足を踏み入れてドアのすぐ横の壁に凭れて目を閉じる。あんまりにも熱っぽい音色に聞いているこちらまでドキドキしてしまって、少し頬が赤らんだ。まるで恋をしているような、そんなときめきを教えてくれる、とろけるような音色。ほぅ、と息を吐くとアルペジオと共に最後の音色が奏でられた。

「……来てくれたんだね。ありがとう」

ピアノの響きが綺麗に鳴り終わってから、ゆっくりと彼が振り向く。額に浮かぶ汗がキラリと光るその姿は、先程までの情熱的な音楽とはまた違う爽やかさを演出していた。

「……だって、昨日、約束したから」
「うん。でも、約束守ってくれてありがとう。今日も会えて、嬉しいよ」

にこり、と笑うその顔はやっぱり人懐っこくて。柔らかい目元にトクンと心臓が音を立てた。

「……今日は、昨日とは違う曲、なんですね?」
「あぁ……君に会えるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくてね」

熱の籠もった演奏になっちゃった、と笑っている彼にそろりと近付く。すると彼もピアノに背を向けて、身体ごとこちらに向いて椅子に座り直した。ピアノの側に置いていたタオルで汗を拭ってから、ペットボトルのお茶を口に含んだ彼は、はぁ、と一息吐いてからまた笑った。

「君は来ないかもしれない。でも来てくれるかもしれない。どっちだろう。僕は来てくれると嬉しいなってずっと考えてたから。君が来てくれて本当に嬉しいよ」

本当に嬉しそうに笑う彼に、思わず顔が赤くなった。驚くほどに正直で、真っ直ぐで、まるで私とは正反対の位置にいるような人。そんな彼に興味を持ってもらえたことが何だかこそばゆい。

「……名前しか知らないのに、そんなに自分の考えていることを曝け出せるなんて、恥ずかしくないんですか?」

言ってから、失礼な質問だったかもしれないと思い直す。でも純粋に気になったのだ。どうしてそこまで素直に自分を曝け出すことができるのか。それが羨ましいと思うのと同時に、どうしてそんな怖いことができるんだろうと思った。

「あー……ゴメンね。僕、ちょっと人との距離感の掴み方が下手なんだ」

困ったように笑いながら、彼はぽりぽりと頬を掻いている。それから眉を少しだけ寄せてふわりと笑った。

「確かに、僕、三宮さんのこと、名前しか知らないね? 三年生じゃないでしょ? ひょっとして一年生?」
「え……私、二年生です。先輩、だったんですね。すみません。失礼な物言いをしてしまって」
「あ! いいんだ、そういう意味じゃなくて。僕は君と対等でいたいから。畏まらないで」
「でも……そんな、だって深見先輩は上級生なんですし」
「あー、やだな、深見先輩だなんて。悟でいいよ! 僕も、君のこと、親しみを込めた呼び方をさせてくれると、嬉しい……」

あは、と申し訳なさそうに笑う先輩は、スッと立ち上がって私の前に立った。

「紫穂ちゃん、って呼んでもいいかな?」

軽やかな声に呼ばれて、思わずこくりと頷いていた。先輩は嬉しそうに笑って、もう一度紫穂ちゃん、と私の名前を口にして。親しい人以外に呼ばれるその名前がくすぐったくて目を細めた。

「あの、先輩は」
「悟」
「え?」
「悟でいいよ。僕は紫穂ちゃんと親しくなりたいんだ」

くすりと微笑む先輩は、側にあった机に腰掛けながら首を傾げた。裏表のないその表情にどきりとして、真っ直ぐな目に見つめられるのが恥ずかしくなって少しだけ顔を俯けた。

「悟、先輩は、いつも、ここでピアノ弾いてらっしゃるんですか?」
「敬語も要らないよ? 普段通りに喋ってくれると嬉しい」
「で、でも……」
「まぁ、徐々にね。普段の君を見せてくれると嬉しい……えっと、ピアノの話だよね? ここのピアノ、気に入ってるんだ。だから夏休みの間だけ、借りてる」

さりげなく話題を切り替えた悟先輩は、パッと立ち上がってピアノに近付いた。それから愛おしむように指先でピアノを撫でて、ふわりと笑った。

「紫穂ちゃんも弾いてみる? 気持ちいいよ」

ポーン、と悟先輩の指が鍵盤を叩く。弾むような音が聞こえて不思議と気持ちも明るくなった。

「でも……私、ピアノ弾けません」
「大丈夫。僕が教えてあげるよ」

ふふ、と笑いながら、悟先輩は私の後ろに回る。肩に軽く手を添えて、そっと私をピアノの前に導いた。肩に触れた手から透視み取れるのは純粋すぎる私への好意で。邪な感情なんて全く透視み取れないことに驚いた。

「ホラ、手の力を抜いて、優しく鍵盤に指を載せて? そのまま親指で鍵盤を弾いてみて」

本当は弾き方なんて聞かなくてもわかる。透視してしまえばいいだけのこと。でも、なんだかそれをするのは戸惑われて、素直に悟先輩の言う通りに指を動かした。
静かな部屋に、ポーンと私の奏でたピアノの音が響く。目を閉じてじっくりその音を聞いていた悟先輩が、おもむろに口を開いた。

「……何か、辛いことでもあったの?」
「……え?」
「何だか、悲しい音をしているから」

驚いて顔を上げると、フ、と眉を下げて悟先輩は微笑んでいる。

「楽器は素直だからね。触れた人の心を映してくれる」

私が指を置いている鍵盤のすぐ横に手を置いた悟先輩は、アルペジオを奏でてまたゆっくりと目を閉じた。

「このピアノは特に素直だから。奏者の気持ちにすごく寄り添ってくれるんだ」

だから僕はこの子のことがお気に入り、と呟いて、悟先輩は優しい音色のアルペジオを両手で重ねていく。

「悲しいことがあったのなら、今日は紫穂ちゃんの心を癒せるような曲を贈るよ」

そう言って悟先輩はピアノのすぐ側の机から椅子を抜き取って、ピアノ椅子の側に置いた。

「特等席へどうぞ? 紫穂ちゃん」

トン、とその椅子の背凭れを叩いてから、悟先輩はピアノ椅子へと座った。にこにこと柔らかい笑顔を浮かべてこちらを見ている先輩に釣られて、そろりと椅子に腰を下ろす。ここは何があったか聞き出そうとするところじゃないの? と思いながらも悟先輩を見ていると、私が座ったことをしっかり確認してからピアノに向き合って背を正した。閉じられていた目がゆっくりと開かれて、悟先輩の纏う雰囲気が変わる。あ、と思った瞬間、悟先輩は鍵盤に指を広げて、そっと音楽を奏で始めた。
知らない曲。でも優しくて、そっと側に寄り添って慰めてくれるような、柔らかいメロディ。でもどことなく寂しさも含んでいて、悲しい出来事を全て否定するのではなく、優しく包み込んで受け止めるような、そんな側面も持った感情豊かな表現。囚われたように悟先輩に目が釘付けになって、悟先輩が奏でる音楽が耳を撫でていく。何があっても大丈夫、と言われているようで、じわりと目許が熱くなった。捨てられない恋心が、きゅうきゅうと音を立てて涙を溢していく。叶わないとわかっているのに、それでも追いかけたいと望んでいる心が、動けない身体の中で悲鳴を上げているようだ。でも今は、それでいいんだよ、と矛盾している私を音楽が包んでくれる。優しくて、切ない、まるで恋の歌みたいだった。

「……僕、毎日ここに来てるから」

最後の和音までたっぷりと音を響かせた悟先輩は、余韻が全部消え去るまで待ってからゆっくりと口を開いた。

「よかったら、おいで? 僕は、紫穂ちゃんに会えると嬉しい」
「……あの、えっと」
「僕のハンカチでよければ使って? ちゃんと洗濯してるから」

綺麗にアイロンが当てられたさらりとした生地のハンカチ。悟先輩は私の手を取ってそっとそれを載せた。

「悲しいときに泣けるのは良いことだよ。紫穂ちゃんは多分……自分の気持ちを隠しちゃうところがあるでしょう?」

悟先輩の言葉にハッと顔を上げると、眉尻を下げて笑う悟先輩と目が合った。思わずどうして、と呟くと、悟先輩はますます困ったような笑顔を浮かべて口を開いて。

「さっきの音を聞いたときにね、そう感じたんだ」

僕、わかっちゃうんだよね、そういうの。そう言って悟先輩はそっと指先でピアノを撫でた。

「君の指先は面白いね。綺麗に微笑んでいるようで、実はそれが仮面だってピアノが教えてくれる……君の本当の笑顔はどんななの?」

ふわりと微笑んだ悟先輩の目が、まっすぐに私を見つめている。普通人のはずなのになんで。どうしてそこまで私のことがわかるの。まだ二回しか会ってない、しかも深い会話を交わしたわけでもない。ただピアノの演奏を聴いて、ほんの少しピアノを弾いてみただけ。ただ、それだけなのに。どうして、まるで私のことを透視したみたいに私のことを見抜いてしまうの?
怖いような、好奇心を掻き立てられるような、よくわからない高揚感に襲われながら目を見開いて悟先輩をじっと見つめる。冷や汗が背中を伝うようで、でも全身の血液が沸いているような、相反する感覚に支配されて、少し自分が混乱していることがわかる。

「……ゴメンね。僕の悪い癖が出ちゃった。怖がらせたかな?」

少し申し訳なさそうに眉を八の字にした悟先輩は、首を傾げて顔を逸らした。

「僕は正直すぎて嫌われるんだ。黙っていればいいんだけど、感じたこと、全部口にしちゃうから。だから怖がって誰も僕と向き合おうとしない。でもピアノは僕と向き合ってくれるから。僕にとってはピアノの旋律が周囲とのコミュニケーションの架け橋になってる」

ピアノがなくちゃ、僕は独りぼっちだよ、と呟く先輩の姿に、小さい頃の自分の姿が重なって。思わず口を開いていた。

「私……先輩の気持ち、わかります。私も、そこにいるだけで、人を傷つけてしまう、そういうところがあるから」

自分の本当の能力を伝えるのは憚られて当たり障りの無い言葉になってしまったけれど、悟先輩に寄り添う言葉を伝えたくて、必死に言葉を探す。すると悟先輩は驚いたように目を見開いて、私のことを見つめた。

「……紫穂ちゃんが? とてもそんな風には見えないよ?」

本当にびっくりした様子の悟先輩に、ひゅっと息を呑んでからゆっくりと言葉を吐き出した。

「……私、人には言えない能力を持っているんです」

どうして、まだ知り合って二日の悟先輩に、そんなことを告白してしまっているんだろう。でもほろほろと溢れる涙と同じくらい勝手に口が動いて、ハンカチで涙を拭いながら話し続けた。

「触れただけで何でもわかってしまう。そのせいで、私も人に恐れられてきたから。だから、悟先輩の気持ちが、よく、わかるんです」

私も、きっと薫ちゃんに出会わなければ、ずっと独りぼっちだった。自分の力が恐ろしくて、他人を傷付けてしまう自分が嫌いで。今みたいに生きることはできなかった。

「……僕たち似ているんだね」
「え?」
「僕も、ピアノを通せば、その人の人となりとか、いろいろ、何となくわかってしまう。紫穂ちゃんの能力って、それに近いものでしょう? 僕もそれで人に嫌われてきたからね。僕たち似た者同士だ」
「……私のこと、気持ち悪いとか、思わないんですか?」
「どうして? 紫穂ちゃんはほんの少し、人よりよく見えるってだけでしょう?」

ふわりと笑った先輩の顔は、真っ直ぐこちらに向けられている。その目は本当に澄んでいて、自分を見つめるのには勿体無いと感じさせるほど、純粋でキラキラと輝いていた。

「ねぇ紫穂ちゃん。提案があるんだけど」

ゆるりと細められた悟先輩の目が弧を描く。

「僕と、連弾してみない? 君となら、いい音楽が奏でられそうな気がする」
「え……でも私ピアノなんて」
「それ、嘘でしょう? 本当の君は、ある程度のことなら何だってできる」

悟先輩の指摘にドキリと胸が跳ねる。本当に私の全部を見透かされているような気がして、どきどきと胸が弾んだ。

「難易度の高い曲じゃない。グノーのアヴェマリア。紫穂ちゃんはメロディを弾くだけ。難しくないでしょう?」

にこりと笑った先輩は首を傾げてじっとこちらを見てくる。

「とてもいい曲だからよかったら聞いてみて? 僕と紫穂ちゃんで弾いてみたら、どんな風になるのか、今からとても楽しみだ」

とても嬉しそうに目を細めた悟先輩に、トクンと胸が音を立てた。

「明日もここで待ってるから」

とくとくと早鐘を打つ心臓がきゅっと縮むような、そんな胸の苦しさを覚えながらこくりと頷く。今まで経験したことのない感覚に、指先までが痺れるようで自制が効かない。逃げ出してしまいたいと思う一方で、もっと悟先輩とふれあいたいと思う気持ちが勝って、きゅっと手に持ったハンカチを握り締めた。

「……明日、洗濯してお返しします。それと、私に、連弾、教えてください」
「もちろん! 喜んで」

ハンカチは気にしないで、と言う先輩の申し出を固辞して、自分のポケットに仕舞う。帰ってすぐに洗濯をしてアイロンを掛ければ明日には返せる。明日になれば、ピアノを通してもっと先輩との距離が近くなれる。そうすれば、私にも新しい世界が見えるかもしれない。世界は明るいと、思えるかもしれない。

「悟先輩、また明日」
「うん、また明日ね、紫穂ちゃん」

先輩に手を振って部屋を出れば、ここに来た時の鬱々とした空気が少しだけ晴れているような気がした。

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