ピンクグリーン・シンドローム - 6/10

紫穂ちゃんを迎えに行くために、長く続く廊下を歩く。
皆本にはああ言われたものの、いろいろと自信がなくて、足取りが重い。
流石にドロドロとした重い感情は少し収まってきているものの、まだ完全に怒りが収まった訳でもなく。
紫穂ちゃんの治療は、恐らくかなり神経を使うし、繊細さを問われるものだ。
こんな状態で治療に集中できるのか。
そもそも俺は外科医だし、眼科じゃねぇっつの。
ふぅっ、と息を吐いて、天井を見上げる。
俺がもっと気を張っていれば、今回の事態は防げたんだろうか?少なくとも、紫穂ちゃんに宅配の応対をさせなければ、紫穂ちゃんを事故に合わせることはなかった。
ただ、こんなことが起こるなんて予測はできなかったと言っていい。
だが、紫穂ちゃんが家に居て、完全に気が緩みきって浮かれていたことも事実。
危機回避って意味じゃ、男の俺が宅配の応対をするのが当然だったかもしれない。
でも、宅配の応対を頼めるほどに、近しい関係なれたことが嬉しくて、危機管理なんて頭からすっぽり抜けてしまっていた。
ああ、やめやめ。終わってしまったことを後悔したって、仕方がない。
今は、紫穂ちゃんの治療に専念すべきだ。
しかし、今回のことはほぼ俺のせいに等しい状況で、どんな顔をして紫穂ちゃんの前に立てばいいか、全くわからない。
ごめん、と謝って、それから。
いや、まずは紫穂ちゃんの容態を再確認することが先か。
ぐるぐると悩んでいるうちに、チルドレンの待機室へと着いた。
結局、何の答えも出ないまま、紫穂ちゃんに向き合おうとしている。
身体中の筋肉が緊張で固まってしまっている。
少しでも緊張を解そうと深呼吸をして、インターホンを押した。

「紫穂ちゃん、入るぞ」

先生の声がインターホン越しに聞こえて、扉が開く音がする。
出迎えようにも力を使えず、周りも見えない状態じゃ、扉を開けに行くこともできない。
もどかしいと思いつつも、先生が自分でロックを外して入ってきてくれて、少しだけホッとする。

「先生」

足音で、私のもとへ近付いてくることはわかる。
でも、それ以外は何も見えない。
先生がわからないから、いつもみたいに喋るかなにか、してほしい。
気配が近くなって、私の前に立っていることは感じた。
先生が、何か、大きな、圧力みたいなものに思える。

「紫穂ちゃん、俺の研究室、行こうか」
「…ええ」

先生の平坦な声が、耳に届く。
見えないせいか、とても、冷たく聞こえてしまって、身体が硬直してしまう。
何とかソファから立ち上がって、恐る恐る前に一歩前に踏み出す。

「きゃっ」
「紫穂ちゃん!」

何かに足を引っ掛けて、つんのめったところを先生に抱き止められた。
先生の暖かい腕に触れることができて、やっと少し安心する。
見えるわけじゃないのに、触れているだけで、先生が見える気がして、ずっとこのままで居たくなる。
でも、そんなことは許される訳がなくて。
離れようと、腕にぐっと力を入れると、それに抵抗するように抱き寄せられた。

「ちょっ、センセ」
「ごめん、紫穂ちゃん、少しだけ、このままで」

先程までとは違う、こちらまで切なくなるような声色で、先生が呟く。
先生の声が。吐息が。体温が。においが。鼓動が。
全てが余りに近い距離で、クラクラする。
透視なんかしなくても、先生に触れたところから、今にも感情が伝わってきそうで。
ドキドキが止まらない。
今の無防備な状態じゃ、きっと、先生に、私の感情は伝わってしまっている。
それでも、溢れてくる想いを止めることなんてできない。
ねぇ、どうして私を抱き締めるの?どうしてそんなに切ない声で私を呼ぶの?ねぇ、どうして?弾けてしまいそうな胸をぎゅっと抑えて、先生の身体に体重を預けた。
預けた体重分、先生が私を抱き締める力を強くする。
さらに密着したせいで、先生の厚い胸板を直に感じてしまって。
先生の鼓動が、私の鼓動と重なっていく。
ねぇ、先生もドキドキしているの?先生がぎゅっと抱き締める力を強くして、名残惜しそうにゆっくりと離れた。

「…ごめん、紫穂ちゃん。研究室、行こうか。」

先生の存在が、私の頭を撫でてから、すっと離れていく。
思わず、手を延ばして先生の服の裾を掴む。

「………見えないから、一人じゃ歩けないわ」

いつもみたいに、強がりな言い方が出来ているだろうか。
離れないで、側にいて、という本音を覆い隠せているだろうか。
見えない不安と先生が感じられなくなる不安で、心が潰れてしまいそう。

「…そうだったな。」

ごめん、と先生が一言呟いて、私の手を誘導する。
バベルへ来たときと同じように、先生の腕に掴まる格好でゆっくりと歩き出した。

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