僕は第二王子の鬣係

実物は、噂以上に綺麗だな、と思った。
「……お前、名は?」
宝石みたいにきらきらした黄緑色の目が僕を捉えて離さない。探るような視線に慌てて胸の合わせから名札代わりに使っているカードケースを引っ張り出す。首から下げたカードを王子に向かって差し出しながらペコリと頭を下げた。
機嫌を損ねたらすぐに首が飛ぶんだから、お前なんて明日にはもう第二王子の胃の中だな。
同僚達からそう言われて散々脅されてはいたけれど、目の前にいるただただ美しい人が本当に噂通りの人なのか、僕は判断しかねていた。
「……お前……口が利けないのか」
カードを一瞥した王子は、耳は聞こえるんだな、と小さく呟いて、僕の首からカードをそっと外した。まさかカードを手に取ってまで確認されると思っていなかった僕は、微動だにできずに王子の挙動を見守るしかなかった。この王宮で働き始めてから、口を利けないだけで『不敬だ』と叱責されたこともある。何を言われるかとぶるぶる震えながら身構えていると、王子はそろりとカードの紐を僕の首に戻して、ぽん、と僕の肩を軽く叩いた。
「悪いな……世話をかけるが……これからよろしく頼む」
それだけを言って、王子は執務へ戻っていく。つい先程まで座っていた椅子に腰掛け、再び書類に目を通し始めた王子は深々と溜め息を吐きながら書類にペンを走らせている。その様子をじっと観察して、自分の仕事を全うすべきか思い倦ねていると、王子は書類に目を向けたまま淡々と告げた。
「……俺に気を遣う必要は無い。姫サンに恥をかかせねぇようにだけ整えてくれればそれでいい」
式の主役は花嫁だからな。
王子はそう言って、また別の書類に目を通してペンで署名を書き込んでいる。
「……無理言って嫁いできてもらうんだ……せめて苦労のねぇようにしてやらねぇとな」
一旦ペンを置いた王子は、ふ、と顔を上げて窓の向こう、何処か遠くを見つめる。その先にあるのが、東方からやってきた噂のお姫様がいる離宮だと気付いてハッとする。
王子は人目に触れないところへ婚約者を押し込めて自分の利のみ考えている、と使用人たちの間ではもっぱらの噂だったけれど、こんなに穏やかな目をしているこの人が、そのためにお姫様を閉じ込めてしまうなんて思えなかった。
思い出したように纏めていた髪をしゅるりと解いて、王子は黒々とした豊かな鬣を僕が整えられるよう椅子に腰掛け直した。僕は慌てて王子の後ろへ回り、持ってきた道具箱から専用の櫛を取り出した。
まずは目の荒い櫛で丁寧に毛の絡まりを解いていく。櫛で解いても引っ掛からなくなったことをしっかり確認してから、油を染み込ませた目の細かい櫛で慎重に毛並みを整えていく。
たっぷりとした色の濃い鬣は獣人みんなが憧れるある種の象徴。
畏怖の念すら感じる、強さと美しさ。
それを纏う身体は細身であるのに逞しく気高い。
神様からの恵みと言ってもいいような整った顔立ちは、それに仇なす傷痕すらも彼を美しく着飾る装飾のようで、この世のものとは思えない美貌が誰も寄せ付けない雰囲気を纏っている。
全てが計算され尽くした結果の産物のようで、実は僕らから切り離された何かの力によって自然とそう成り立った神秘の形とも取れて、僕はただただ王子のその美しさに溜め息を吐くことしかできなかった。
艶が増した鬣に櫛が通る音だけが静かな空間に響く。
じっと僕に身を任せてくれている王子が、他のみんなが言うような恐ろしいだけの存在には思えなくて、時々王子の手元の様子を窺いながら静かに鬣を整え続ける。
単純に書類へサインをしているだけではないらしく、時々目を通した書類をわざわざ横に除けて新しい束を作っている。どういう基準でサインを入れるものと横に除けるものを分けているのか難しいことは僕にはわからないけれど、横に除ける書類が増えるたび、力が入って王子の肩や首がどんどん凝り固まっていくように思えた。それがどうしてかはわからないけれど、少しでも緊張が緩まればいいと思って鬣に櫛を通しながら指先で頭皮を解すようにマッサージをした。執務の邪魔をしないよう細心の注意を払いつつ硬くなった頭皮を刺激していく。耳の周りも軽くマッサージすると、ライオン特有の耳がピクリと動いた。
「……うまいな」
王子の呟きが聞こえて、ビク、と指先を震わせる。恐る恐る頭から手を離してガタガタ震えていると、悪い、とバツの悪そうな声が更に聞こえてくる。
「……脅かして悪かった。余りに気持ち良かったんでな、つい腑抜けた声が出ちまった。お前さえ良ければ続けてくれ」
わざわざこちらを振り返ってそう告げた王子は、ジェスチャーで怒ってないと示して椅子に座り直している。そして僕がマッサージしやすいよう、背もたれにしっかり身体を預けて頭を差し出した。ちょっとだけ垂れて寝そべった王子の耳は、よく獣人属が揶揄われる『撫でられ待ち』の状態で思わず目を見開いてしまう。ぴるぴると動く耳が何とも愛らしくて、王子のような立場の方でも獣人らしい反応を見せることがあるんだな、と自然と口元が綻んだ。差し出された王子の頭に、丁寧に指の腹を合わせる。グッと力を込めるように頭皮を解すと、とても気持ちよさそうな唸り声が聞こえてグルグルという低めの喉の音が部屋に響いた。頭の位置がさっきまでと違うから、ほんの少しだけ王子の表情を窺うこともできて、本当に僕のマッサージを気持ちいいと感じてくれていることが伝わってくる。この部屋に入ってきたときよりもちょっとだけ解れた眉間の皺にホッとして、鬣の艶が少しでも増すようにと頭皮全体のマッサージを続けた。
王子は黙ってマッサージを受けながら、書類に目を通すことを止めない。せめて今くらい、書類仕事を休んでもいいのに、と王子の忙しさをつい心配してしまう。僕みたいな下働きが心配したってどうにかなるわけないけれど、少しでも疲れが取れるようにと頭皮だけでなく首筋へのマッサージも続けていたら、バサリと書類を投げた王子がハァァァァと深い深い溜め息を吐いた。ひらりと舞った書類の内容がちらりと見えてしまい思わず目を逸らす。
王子と東方のお姫様の結婚式で着用する王子の婚礼衣装や装飾品について。
細かなことはわからないけれど、王子の装飾品は新しく誂えるよりも宝物庫に保管されている歴代王家の物がいいから使用許可と宝物庫の一時的な解放を求める、みたいなことが書いてあった、気がする。
機密に触れる内容ではなかったけれど、僕が見ていい内容だったんだろうか。元々僕はどうしたって情報を漏らす手段は少ないし、それもあって僕がスパイなんて有り得ないという見下した評価ともいえる信頼を勝ち得ているのだけれど。
書類作業の手を止めてしまった王子は重苦しい溜め息を吐いて、大きな身体を更に椅子の背もたれへと投げ出してしまった。マッサージを止められているわけではないのでおどおどしながらもマッサージを続けていると、王子は胸いっぱいに溜まった悪いものを吐き出すように深々と溜め息を吐いて目元を手のひらで覆ってしまった。
「……俺なんかに金を使ってる余裕があるんなら、姫サンの装飾品をひとつでも増やしてやってトコトン着飾らせてやればいいのにな」
ぽつり、と王子の呟きが静かな執務室に響く。誰に向かって言っているのか、それとも独り言なのかは僕にはよくわからなかった。
「役目を終える俺にはもう価値なんてねぇんだ。そんな俺を飾り立てたって大した権威も示せるわけがねぇってわかんねぇんだろうな、この国のクソジジイ共は」
どこか嘆いているようにも聞こえる呟きが更に重なって、ますます誰に向けて言っているのかわからなかった。
「俺はもう……姫サンがこの国で苦労しねぇようにしてやるコト以外、死んだも同然の存在なんだがな」
突然聞こえてきた物騒な言葉に、思わず指が止まってしまう。ふるりと震えた指先の怯えが伝わったのか、王子はフンと鼻で笑って再び書類を手に取った。
「……独り言だ。まぁ……好きに報告してくれていい。今更何を言われたって、俺の評価は変わらねぇ。どうせお前の仕事には|そ《・》|う《・》|い《・》|う《・》|こ《・》|と《・》も含まれてんだろ?」
王子はまるで何もなかったように書類にペンを走らせて書き込みを加えている。難しいことはよくわからないけれど、王子の装飾品について再検討を求める内容のように思う。王子のサインを書くところにも再検討差し戻しと大きく書き込まれている。ついでのように書き加えられたサインはとても美しく、感情に任せてペンを走らせたようには見えなかった。
「……俺なんかより、豊かな国からこんな辺鄙な場所へわざわざ嫁いできてくれた姫サンを優先しろって伝えといてくれ」
その方がよっぽど今後のためになる。
王子はそう言って、何事もなかったかのようにその書類を束の上に乗せてしまった。もう他の書類へ意識を移している王子は、本当に自分の結婚式だというのに興味が無いらしく、次の難しい書類の内容に集中していた。
僕には到底わかりそうもないそれと、何だか王子は戦っているような気がした。
黙々と机に向かう姿は一人きりで何かを背負っているようで、本当にこの人はもうすぐ結婚式を上げるこの国の王子様なのかな、と思った。
結婚式でみんなから祝福を受けるのは東方のお姫様だけじゃないのに。
自分には価値がないなんて言わずに、どうか幸せになってほしい。
少なくとも、この僕よりはこの国で価値があるのだから。
せめて、この美しい人がみんなから注目されるよう、僕は自分の仕事を最後まで全うしようと指先に力を込めた。

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