いとし いとし と なく こころ - 4/6

「あ、紫穂ちゃん!」
 聞き慣れた声に呼び掛けられて、ゆっくりと振り返ると、こちらに向かって駆けてくる先生と目が合った。うわ、と顔を顰しかめると、苦笑いをした先生が近付いてきて、私の前で足を止めた。
 バベル本部の長い廊下。まるで何かを察知したかのように、広い廊下には私たち二人しか見当たらなくて、少しだけ身構えてから先生へと向き直った。
「今日はこっちなのね。センセ」
「ああ、ちょっと本部に報告があったからさ。紫穂ちゃんは待機か?」
「ええ。そうよ」
「そっか。でも、会えてよかった」
 ふわり、と微笑まれて、とくんと心臓が高鳴る。それを誤魔化すように、フイ、と目を逸らして、ぷぅと頬を膨らませながら先生に向かって言葉を投げつけた。
「……私は別に、先生に会っても嬉しくないわ」
「俺が嬉しいんだよ。紫穂ちゃんに会えて」
 ニッと口元を緩く笑みの形にした先生に、心臓がドキドキとうるさく鳴り響いて堪らない。早くこの場から逃れたくて、イライラした様子を隠さずに先生のことを睨み返した。
「……急に呼び止めて、何の用よ」
 キッと強い目で見つめても、先生は困ったように笑うだけで、怯むことなく私に一歩ずつ近付いてくる。それに合わせて後ろへ身体を引くけれど、もう、すぐそこに壁が迫っていて思うように逃げることができない。じりじりとした空気を和らげるように先生が、ふ、と溜め息を吐いた。そっと私の耳元に顔を近付けて先生が優しく囁く。
「あのさ……今日、良かったら……一緒に食事でも行かねぇか?」
 ふわりと漂った自分のものじゃない香りにどきりとする。それが先生の香りなんだと頭が認識した瞬間、ワッと頭が沸いたようになって、先生の肩を思わず押し退けていた。
「ちょ、ちょっと! 近付きすぎよッ!」
「あぁ、ゴメン。驚かせた?」
 何てことのない顔をして、悪びれもせず顔を上げた先生が、私の顔を覗き込んでくる。
 既に赤くなっているであろう頬が、じっと先生に見つめられて更に赤くなっていくのが自分でもわかった。もうどう頑張ったって隠し様のない顔を何とか見られたくなくて、ぐいぐいと先生の肩を押しながら顔を俯ける。
 先生はそんな私の様子を見ながらクスリと笑って、自分の肩に乗った私の手を掬すくい取った。掴んだ私の指先にきゅっと力を込めて、先生は首を傾げる。
「で、どうなの?」
「……何が?」
「今晩、俺と食事、行ってくれないの?」
 甘えるように見つめてくる先生を見ていられなくて、ぎゅっと目を瞑る。ドキドキしてる心臓が、今にも飛び出してしまいそうだ。そっと優しく掴まれたままの指先にきゅっと力を入れて、何とか返事をする。
「だ、から、なんで、私が、先生と、食事に行かなきゃ、いけないの」
 苦し紛れに答えたその声は、少し震えてしまっていて。先生に掴まれた指先も震えてしまっているんじゃないかしら。ゆるりと開いた瞼もふるふると震えている気がする。
 どんなに強がってみても、この男の前じゃ、どうしようもなくなってしまう。
 どうすれば上手く断れるの?
 くるくると空回りしだした頭を何とか必死になって働かせる。
 ――駄目だ。このままじゃ。
 もう一度きゅっと目を閉じて、この前みたいに皆と食事をするのなら、と何とか伝えようとしたら、先に先生が口を開いた。
「……最近、君となかなか会えないから。紫穂ちゃんと二人で、食事がしたいんだ」
 先に退路を断たれてしまって、くっと唇を噛んで先生を睨みつける。
 どうして私と二人での食事にこだわるの。
 どうして私なの。
 どうして。
 どうして?
 次から次へと湧いてくる疑問を打ち消すように首を振って、先生の視界から逃れるように顔を俯けた。
「……私なんか誘って……何になるのよ」
 ぽつり、と零こぼれ出た本音に、先生はクスリと笑って。
「俺と二人きりになるのは、嫌か?」
 繋いだ手に優しく力が込められて、ふわふわと優しい思念が伝わってくる。まるで私を安心させるようなそれに、カッと頬が熱くなる。
 ――何よ。何なの。
 この男は私をどうしたいの。
 そんな意図は見えてこないのに、ふざけてからかっているとしか思えない。
 それでも繋いだ手を離すことはできなくて、繋がれた指先に力を込めて、先生の指に優しく指を絡めた。
「……調子に、乗らないで」
 どんなに強く睨み返してみても、きっと目尻まで赤い今の顔じゃ、何の説得力もない。
 それでも抵抗せずにはいられなくて、じっとこちらを見てくる先生の顔を見つめ返した。息苦しさを覚えるくらいの真っ直ぐな視線に、手を振り払って逃げ出してしまいたくなってくる。
 でも、先生相手に逃げ出すなんて、負けたみたいで悔しくて、立ち去ることなんてできなかった。絡めた指に力を込めて、キッと眉を寄せる。それに先生は少しだけ表情を緩めて、肩を竦すくめてみせた。
「……紫穂ちゃんは、俺のこと、嫌い?」
 そっと優しく呟かれたそれに、ドキリと心臓が跳ねる。私の答えを急かすでもなく、ゆったりとした態度でこちらを見てくる先生は、優しい顔をして笑っている。ふわふわとした雰囲気に飲まれてしまいそうで、きゅっと目を瞑った。
「……好きとか、嫌いとか、そんなの……考えたこともないわ」
 ぽつり、と何とか先生に答えてみせて、ゆっくりと目蓋を開く。先生は私を観察するように、まだじっと私のことを見つめていた。
「じゃあ、今、考えてみてよ」
 ふわりと笑って、先生が掴んだ指先に力を込める。その優しい感触にどぎまぎして、心臓が破裂してしまいそうだった。
「……先生なんか……大嫌いよ」
 やっとの思いで何とか答える。先生の視線に応えきれなくなって、つい、と目を逸らした。ぎゅっと目を瞑って先生の反応を待つ。
 すると、クスリという先生の笑い声が耳に届いて、絡めていた指先をそろりと解かれた。そしてそのまま、先生の手は頭の形を確かめるように、私を優しく撫でて。
「……ゴメン。今日はこのぐらいにしておくよ」
「え?」
「可愛い紫穂ちゃんは見たいけど、俺は君のことをいじめたいわけじゃないんだ」
 眉を寄せて困ったように笑ってみせた先生は、名残惜しげに私の髪をするりと一筋掬った。それからもう一度だけ私の頭を撫でて、ゆっくりと一歩分の距離を置いた。
「食事はまた今度誘うよ。皆本たちを呼んでもいいから。俺は君と過ごす時間を少しでも増やしたい」
 引き留めてゴメンな、と言いながら、先生は私に笑いかけてから手を振って廊下を歩いていってしまった。ほっと息をつきながら小さくなっていく先生の後ろ姿を見送る。未だドキドキとうるさい心臓を撫で付けて、きゅっと両手を守るように握り締めた。
 ほっとしているはずなのに、どこかもどかしくて、少しだけ寂しい。どうしてこんなにも心を乱されてしまうのか、答えを知りたいと思う。でも、知ってしまったらもう終わりだ、と理性がどこか自分にブレーキを掛けている。どんなに抵抗してみせたって、もうきっとすぐそこまで答えは迫っている気がする。それでも、簡単にその答えに触れることはどうしてもできなかった。
「何なのよ、一体……」
 誰もいなくなった廊下に、私の声がポツリと小さく響いた。その寂しさにぎゅっと自分の身体を抱き締めて深呼吸をする。ふぅ、と息を吐いてから、しゃんと前を向いて歩き出す。
 まだ少しドキドキと鼓動は乱れていたけれど、もう平静を装える程度には冷静さを取り戻していた。
 早く待機室に戻らなくては。薫ちゃんたちがきっと待っている。
「……ふぅーん?」
 タッと駆け足で待機室に向かった私は、ひっそりとそこに存在していた気配に気付くことができなかった。
「何だかとっても面白そうなもの、見つけちゃった」
 蕾見ばーちゃんがゆらりと柱の影から現れて、私の駆けていく姿をニヤリと妖しげに笑って見つめていた。

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