運命の矢は放たれた

「賢木、シャワー借りるよ」
「……ん……先どーぞ」
「……おい、そのまま寝るなよ? 帰る前に起こすから、ちゃんとシャワー浴びてから寝ろよ」
「……わかってる」

 もう殆ど微睡みに身体も思考も飲み込まれて、頼りない返事しかできない。そんな俺に溜め息をこぼしながら皆本は寝室から出ていった。
 大人の爛れた関係、なんて言い方が正しいのかはわからない。ただ、親友という枠で収まりきれなくなった俺が、酒の勢いで皆本に手を出したことがキッカケだったのは覚えている。
 あぁもう終わった。
 俺が全部壊してしまった。
 身体を繋げたあと、確かにそう思ったはずなのに、何故か俺が想像していたどの結末も訪れず、さすが皆本と言えばいいのか、俺の予想の遥か斜め上のその更に裏側のような展開が俺たちの関係に待ち受けていた。
 今度は僕の番だ。
 皆本は間違いなくそう言って、俺の身体を組み敷いた。そのまま、経験値の少ない皆本はまるで俺の行為をトレースするように俺の身体を暴いて、気がつけば俺は皆本に自分でも触れたことがない場所を晒して処女を散らしていた。受け入れるのは苦しいだけだと思っていたのに存外そんなことはなく、見かけ騙しと言ってもいいくらい雄くさい皆本に翻弄されて、自分の身体が自分のものじゃなくなるみたいに、いいように貪られてしまった。
 もっと驚くべきなのは、一夜限りの過ちとして終わるのだろうと思っていたこの関係が、終わる兆しを見せることなく、今も続いていることだ。身体だけの関係なんて、アイツが一番嫌がりそうなものなのに、何故か途切れることなく続いている。
 いや、お互い多忙の身なので、短期間途切れることはままある。その度にこの奇妙な身体の繋がりは終わるのかなと思っては杞憂に終わるのだ。仕事が落ち着いたから君の家に行っていいか、と声を掛けてくる皆本によって毎度その心配は打ち消され、この関係は終わることなくここまで続いてしまっている。
 男同士で、気心が知れた仲だから気楽。皆本がこの関係を続けているのはそんな理由かもしれない。気を遣わず、金も掛けずに性欲処理ができる上、オマケにどうやら身体の相性もいいらしい。だから皆本はこの関係を続けているのであって、俺が心の内に抱えているような愛だの恋だのというものとは全く別次元の、恐らく皆本にだけ理解できる超理論でこの関係は成り立っているのだ。俺のような下心満載の、それでもいいから身体だけでも繋がっていたい、なんていううす汚れた欲望の渦みたいなものを、皆本が抱えているわけがない。そうだ、そうに決まっている。皆本は清廉潔白を服にして着てるような男なんだ。きっとこの行為に傾ける感情なんて存在しない。

「こら、賢木。寝るな。せめてシャワー浴びてからにしないとベッドが汚れるぞ」
「……んー」

 深い眠りに堕ちる前のうだうだとした思考回路を呼び覚ますようにぺちぺちと剥き出しになっていた俺の肩を叩いてくる皆本に、何とか意識を浮上させる。

「……わりぃ。半分寝てた」
「じゃあ僕帰るから。戸締まりしてシャワー浴びるんだぞ」
「おー……おやすみぃ……」
「おやすみ。賢木」

 ふわりと人好きのする笑顔を残して皆本が玄関から出ていく。無理矢理引き摺り起こした身体を動かしてヒラヒラと手を振れば、ドアが閉まる直前に皆本が隙間から手を振り返してくれて、どきんと心臓が跳ねて寝惚けていた脳が完全に覚醒した。

「……あの笑顔は反則だろ」

 もう考えるな。アイツのやることだから無意識だ。
 そう自分に言い聞かせても、自分に向けられるやわらかい微笑みがどうしても俺の心を掴んで離さない。

「……ちょっと、距離取った方がいいのかも、な」

 最近の俺たちは本当に関係が曖昧すぎる。求められれば応えてしまう俺が悪いのかもしれない。今日だってそんなつもりはなかったのに、一緒に呑みに行ったあと、気が付けば一緒にタクシーに乗り込んだ皆本が俺のマンションへ上がり込んで、流れるように俺の準備を整えあっという間に繋がっていた。
 慣れって怖い。
 皆本にすっかり後ろを開発されてしまっている自覚のある俺は、ここ最近毎度のように皆本に抱かれている。気持ちいいんだから仕方ないだろ、と誰に聞かせるわけでもなく言い訳をして、でもちょっとやっぱり度を超してはいるよな、と溜め息を吐いた。だるい身体を何とか引き摺ってバスルームに向かい、身に纏っていたシーツをばさりと洗濯機に放り込む。めちゃくちゃ嫌だし本心ではないけれど、ほんの少しだけ皆本と距離を置いて親友の距離感を取り戻そう、と項垂れながらシャワーの蛇口を捻った。

 * * *

 皆本のお誘いを断る方法なんてひとつしかない。仕事だ。
 俺はその日から少しだけ業務量を増やし、三回に一回、または二回に一回、怪しまれない程度に皆本からのお誘いを泣く泣く断り始めた。早々俺の魂胆に気付いた紫穂ちゃんにはバカじゃないの? と蔑むような視線を贈られたけれど、俺からすれば決死の覚悟なのでそっと見守っていてほしい。

「無駄だと思うわよ」
「む、無駄じゃねぇよ! 俺は皆本のためを思ってだな!」
「それが無駄でしょ。男ってどうしてこうも鈍感なのかしら?」
「ハァッ!? 俺別に鈍感じゃねぇし!」
「先生だけじゃないわ、皆本さんもよ。何も知らない薫ちゃんがかわいそう……」
「……ッ」

 その名前を出されたら俺はどうしようもない罪悪感に襲われるしかなくて、考えないようにしていたアレやソレに心が苛まれて一刻も早く皆本との関係を清算しなくてはと焦燥に駆られてしまう。それを分かった上で紫穂ちゃんはそんな言い方をしてくるのだから本当にえげつなくて泣けてくる。

「……まぁ、女に現を抜かしているわけじゃないみたいだから? その点は評価してあげてもいいわ」
「は?」
「他所の女にちょっかい掛けてるんだったら私も流石に黙ってないわよ。相手が皆本さんだから許してあげてるだけで、他の女に先生を譲ったつもりはないんだから」
「え……それってどういう」
「私は皆本さん以外の誰かと先生を共有する予定はないの。先生はちゃんと自分が誰のものかよくわかってるのね?」

 フフ、と妖艶に笑って人差し指で俺の顎を辿った紫穂ちゃんは、イイコイイコ、と呟いて目を細めながら俺の頭を撫でている。その仕草にドキンと心臓が跳ねて顔が熱くなるのを感じながら、ソワソワと落ち着かなくさせる紫穂ちゃんの視線から逃れるように顔を背けた。

「自覚があるのはいいことだわ。先生のそういうところ、私は好きよ? でも……皆本さんのことだから、これから大変なことになるんじゃないかしら」

 小首を傾げて頬に指を当てている紫穂ちゃんは可愛くて、ついゴクリと喉を鳴らしてしまう。そんな俺の様子を見て満足そうに微笑んだ紫穂ちゃんは、ンフ、と含みを持たせる口許を惜しげもなく俺に見せつけて続けた。

「私が巻き込まれるのはゴメンだけど、先生が苦しみのなかに放り込まれるのは楽しいから、このまま傍観させてもらうわね?」
「いや、あの、紫穂ちゃん? 君は一体俺の何なの?」

 もうすっかり大人と言っていい紫穂ちゃんの色気にどぎまぎしながら何とか訝しむ目を向けると、これまた艶っぽく微笑んだ紫穂ちゃんが、 そうねぇ、と口を開く。

「将来貴方に首輪を着ける予定の飼い主ってとこかしら?」
「……俺は犬じゃねぇぞ」
「犬なワケないじゃない奴隷よ」
「ヒドイッ!」

 なんでそんな扱いされなきゃいけないんだと嘆きつつもそんな未来が来るのはもうすぐそこのような気もするし、そもそも皆本と共有ってなんだよと複雑な心境を覚えながら、その状況に違和感を感じていない自分の思考に一瞬だけ背筋が震えた。

 * * *

 その後、皆本の誘いを受けたり断ったりを繰り返しはじめて二週間。なんと皆本からのお誘いがパタリと止んでしまった。俺としては二回に一回、三回に一回は断って、ちょっと近付きすぎた距離を元に戻そうとしただけなのに、全くお誘いがなくなってしまう、というのは想定外だった。
 だって俺たち、流されて関係を続けてしまうくらいには相性よかっただろ?
 いつでも都合のいい関係を続けられない俺はもう要らないってこと?
 嘘だろそんな、と思いながら、これこそ自分が望んだ関係だろ、と自らを飲み込もうとする絶望を払いのける。
 自分たちの関係に、身体の繋がりなんて本来必要なかったはずなのに、それを持ち込んだのは俺自身だ。皆本に求められるがままそれに応えて、ずぶずぶと俺たちの仲をただの親友と言えないものに変えてしまったのは間違いなく俺自身。
 自分でやらかしたことの始末をつけたら思った以上の成果が得られた。それだけのことだ。
 そう自分に言い聞かせてみても、恐ろしい喪失感にぽっかりと空いてしまった穴は埋められそうになく、きっと恐らく今後一切皆本は俺を誘わないという事実に震えてしまった。

「落ち込んでるの?」

 皆本との関わりが減ったことで生まれた空き時間を代わりに埋めようとでもしているのか、紫穂ちゃんはしょっちゅう俺のところへ顔を出すようになっていた。

「……落ち込むとか、お門違いだろ。俺は別に」
「素直になればいいのに。俺はお前が好きだー! ってとっとと言っちゃえばいいのよ」
「……なんだよそれ」
「あら、違うの? じゃあ私が先生を独り占めしてもいいのかしら」
「はぁ?」

 眉を寄せて紫穂ちゃんへと視線を移せば、心底不思議そうな顔をして紫穂ちゃんは俺を見ていた。

「先生は皆本さんのことそういう意味で好きなんだと思ってたけど。違うのかしら?」
「や、えーっと……?」
「私のモノになる前に先生と皆本さんがそうなったのは仕方がないと思ってるわ。だって先生と皆本さんだし。引き離せないもの」

 私の一番が薫ちゃん以外有り得ないのと同じ、と言いながら訳知り顔で紫穂ちゃんは微笑んでいる。

「先生にとっても皆本さんは一番でしょ? 私と同じよ」
「え」
「皆本さんのことが好き。でも私のことも好きでしょ?」
「んん?!」
「違うの?」
「違うっつーか……後半が初耳だな?」
「……チッ」

 紫穂ちゃんはあからさまに顔を歪めて目を逸らしている。その様子に思わず肩を落として溜め息を吐いた。

「いや、あの、紫穂ちゃん? 今めちゃくちゃ女の子がしちゃいけない顔してるぞ?」
「……先生が流されてくれないからでしょ? こんなに可愛い私が先生のコト好きよって言ってるのにどうして靡いてくれないの?!」

 キッと眉を吊り上げて腕を組む紫穂ちゃんがギロリと俺を睨み付ける。怒った顔も可愛いんだよなぁ、ともう一度溜め息を吐きながら肩を竦める。

「えーっと……なんて言うか、それも初耳、なんだけど?」

 恐る恐る紫穂ちゃんに向かって問い掛ければ、真ん丸に目を見開いた紫穂ちゃんが頬を赤らめて俺を見つめてくる。えっと、とか、あの、とか、その、とかどもりながらじわじわと俯いてしまった紫穂ちゃんに追い討ちをかけた。

「紫穂ちゃん……俺のこと好きなの?」

 そろそろと紫穂ちゃんの様子を窺うように問い掛ければ、ボン、と湯気でも出てるんじゃないかというくらいに顔を赤くして、紫穂ちゃんは両手で顔を覆ってしまった。

「そッ、そうよ! 悪い?!」

 ぷぅ、と頬を膨らませながら不貞腐れたように不機嫌な目をしてジロリと俺を睨んでくる紫穂ちゃんは可愛いと思う。
 今まで紫穂ちゃんのことをそういう対象として見ていなかったというだけで、紫穂ちゃんは普通に可愛いどころかめちゃくちゃ美少女だ。でも、チルドレンが小さい頃からずっと知っているから、保護者代理の代理、正直親戚のお兄さんくらいの感覚だった。
 それでも、紫穂ちゃんは同じ能力者で特別だったというか、特に気に掛けてはいたし、ライバルというか気になる後輩というか、自分にとってはそういう存在であって決して女の子として見ないようにしていたというか。っていうか見ないようにしてる時点で実は意識してたも同然じゃん。

「なぁ……もっかい……ちゃんと聞かせてくれないか」

 じわじわと赤くなってくる頬を手のひらで押さえながら、じっと真っ直ぐに紫穂ちゃんを見つめる。すると紫穂ちゃんは諦めたように肩を落とし、溜め息を吐いてから俺に向き直った。

「……先生のコトが好き。皆本さんのこと好きでもいいから、先生のコト、好きでいさせてほしい」

 そこまで言って、一旦言葉を切った紫穂ちゃんは、ほんの少し眉を寄せて俺から視線を外した。

「皆本さんには勝てないってわかってるの。でも、私が先生を好きでいるのは勝手でしょ? だから……」

 そのまま更に言葉を続けようとしていた紫穂ちゃんを手のひらで制止する。それから自分を落ち着かせるようにすぅはぁと深呼吸をしてから、ゆっくり口を開いた。

「紫穂ちゃん」

 紫穂ちゃんは眉を寄せたままチラリと俺を見上げて、ナニよ、と不貞腐れた顔で呟いている。気を緩めるとにやけてしまいそうな口元を引き締めながら、俺はもう一度ゆっくりと口を開いた。

「俺と、デートしてくれないか」
「……はぁ?」

 いや、紫穂ちゃん、また女の子がしちゃいけない顔してるよ、と突っ込みそうになりながら、えっと、と何とか言葉を続ける。

「君と、デートがしてみたい。ダメか?」

 はっきり自分の要望を伝えると、紫穂ちゃんは頬を真っ赤にして俯いてしまう。眉を吊り上げながらも耳まで赤くしている紫穂ちゃんはやっぱり可愛いと思えて、自分が想いを寄せていたのは皆本だけれど、意識しないようにしていただけで紫穂ちゃんだって自分にとって充分特別な存在だと改めて気付かされる。

「……君と二人で出掛けるなんて今までなかっただろ? ちゃんとそういう、デートをすれば、俺たちの関係も変わるんじゃないかと、思って」

 ダメか? ともう一度眉を下げて問い掛ければ、紫穂ちゃんはキッと鋭い視線で上目遣いに俺を睨み付けながら唇を尖らせた。

「……私、皆本さんじゃないわよ。そういうこと言う相手、間違ってるんじゃないの」

 低く唸るような声でそう告げた紫穂ちゃんは、俺を殺す勢いで睨み上げている。今にも俺の喉仏に噛み付かんとしているその態度を少しでも宥めようと、紫穂ちゃんの顔の前でひらひら手のひらを振った。

「間違ってねぇよ。何を勘違いしてるのか知んねぇけど、皆本とはデートするような仲じゃねぇし、今俺が誘ってるのは間違いなく君だ」

 膨れ面の紫穂ちゃんに微笑みかけながら頷くと、紫穂ちゃんはまだぷくりと頬を膨らませたまま俺を見つめ返してくる。

「……それとも、俺とデートするのは不満?」

 この不機嫌な顔は多分照れ隠しだ、とわかってしまえば、うっすらと赤い頬だとか耳の先が愛おしくて自然と顔が綻んでしまう。ダメか? とダメ押しのように問い掛ければ、紫穂ちゃんはフイと顔を背けて腕を組んでみせた。

「……私を誘ったんだからそこらの女と同じデートじゃ許さない」
「……畏まりましたお嬢様?」
「……その慣れてる態度がムカツクのよ。私を軽い女扱いしないで」
「わかってる。君のためにとびきりのデートコース用意するよ」

 眉を下げて微笑みかければ、ぷくりと頬を膨らませたまま、眉を吊り上げて紫穂ちゃんは俺を上目遣いに睨み上げた。

「……いいわ。先生とデートしてあげる。その代わりつまらなかったら即帰るわよ」
「そうならないように精一杯努力させていただきますよ」
「当然でしょ? 私とデートできるんだから光栄に思いなさいよ!」

 じゃあね! と叫びながら部屋を飛び出していった紫穂ちゃんは白い首筋まで真っ赤だった。今までそう意識しないようにしていただけで、意識してしまえばそんな仕草も可愛いと感じている自分が自然に思えるのだから、現金な自分が少しだけ恥ずかしい。あんな可愛げのない態度すら愛おしくて堪らないのだから、本当に自分は意識する前からあの子に堕ちていたのかもしれない。

「皆本に捨てられたからそれに気付くって最低すぎんだろ……」

 それでもあの子はきっと責めることもなく俺の手を取るんだろう。むしろ自分にとって好都合だとでも言うように綺麗に笑って俺に首輪を着けるかもしれない。俺が皆本を忘れられなくても、アイツを想う気持ちを捨てられなくても構わないとあの子は平気な顔して言うんだろう。でも、流石にそれは一回りも歳の離れた紫穂ちゃんに対して誠意が無さすぎるんじゃないか。

「……これは相当気合入れたデートにしないと男が廃るぞ」

 もう既にあの子に勝てる見込みなんてないけれど、せめて最初のデートくらい、男らしくリードして自分なりに足掻いてやりたい。じゃないと紫穂ちゃんが好きになった男は最初から最後までダメな男だったと言われてしまう。そんなのはあんまりだ。君が惚れたのは一応格好いい男なんだぞと胸を張っていられるよう、培った経験値と俺が知っている等身大の紫穂ちゃんの姿を思い描きながらとっておきのデートコースを練り始めた。

 * * *

「おはよう、紫穂ちゃん」

 当日は家まで迎えに行く、と伝えていたからか、インターホンを鳴らしてすぐ、紫穂ちゃんは玄関から顔を覗かせた。門扉までの僅かな日射しも嫌うように白い日傘で身を隠している紫穂ちゃんは、助手席のドアを開けて待っていると急ぎ足で車に乗り込んだ。

「アリガト」
「どういたしまして」

 俺も早足で運転席に乗り込みながら紫穂ちゃんに笑顔を向けると、はにかむような笑顔を浮かべて紫穂ちゃんは首を傾げた。

「おはよ。センセ……私ね、今日、すっごく楽しみにしてたの」

 本当に嬉しそうに微笑む紫穂ちゃんがそこにいるだけで、ふわりと空間が明るくなったみたいにキラキラして見えて、思わず俺も表情を綻ばせた。

「……実は俺も結構楽しみにしてた」

 エンジンを起動させながら素直にそう表現すると、紫穂ちゃんは驚いたように目を見開いて俺を見つめた。

「ウソ。まさか、先生が?」

 信じられない、とでも言いたげな紫穂ちゃんの表情に、思わず眉を下げて笑ってしまう。

「そうだぞ? 普通に楽しみにしてた……今日の服可愛いな、すごい似合ってる」

 気合入れてくれたんだな? と素直に褒めれば、紫穂ちゃんはみるみる顔を真っ赤にしてポカポカと俺の肩を殴りながら窓の外へと顔を背けてしまった。

「とッ、当然でしょ! いいから早く車出して!!!」

 車の中で出す音量とは思えない声で思いきり叫んだ紫穂ちゃんは耳の先まで赤くして、ぷくりと頬を膨らませた顔が窓ガラスに映って見える。それすらも可愛く思えて思わず後ろから抱き締めたいという衝動が湧き起こった。
 おいおいまだダメだろ、と思わずぎゅっと手を握り締めて前に向き直った。慌ててハンドルを掴んでエンジンを起動する。整備したての快調なマシンは小気味いいエンジン音を鳴らして軽快に車道を滑り出す。冷静に目的地までの最適化ルートを導き出してハンドルを切った。

「……今日はどこへ連れてってくれるの?」

 フン、と鼻を鳴らしながらシートへ深く腰を落ち着け直した紫穂ちゃんが、腕を組みながら真正面を見据えて俺に問い掛けてくる。頬の赤みは幾分落ち着いたようで、いつもの気の強そうな表情を浮かべて唇を尖らせていた。

「まだ秘密。到着したらわかるよ」
「何よソレ。私相手にサプライズでも演出しようって言うの?」

 ピクリと眉を吊り上げた紫穂ちゃんが俺に向かって手のひらを翳すのを眉を下げて笑う。

「いや? サプライズっていうより、着くまでの間を楽しんでもらえたらと思ってさ。どうせなら思い切り喜んでほしいじゃん?」

 目的地がどこなのかわからない状況ってワクワクしねぇ? と紫穂ちゃんの様子をちらりと窺うと、紫穂ちゃんはうーんとほんの少し眉を寄せながら首を傾げた。

「……変なトコ連れてくつもりじゃないでしょうね?」
「変なトコってどんなトコだよ! まぁ怖いところではねぇから安心しな? ……多分、喜んでもらえるハズだから」
「自信がないなら素直にそう言えばいいじゃない」
「悪かったなぁ! これでも一応君が喜びそうなとこってめちゃくちゃ考えたんだぞ! 俺も初めて行くところだからちょっと緊張してるんだ察しろよ!」

 あーもうこの子相手じゃどうも格好つかない、と内心嘆いていると、紫穂ちゃんは驚いたように目を見開いて俺を見つめた。

「……てっきり使い古された定番デートコースに連れていかれるんだと思ってた」

 ぽつりとそう呟いた紫穂ちゃんは、またほんのりと色付いた頬を隠すように俯いて、きゅっと膝の上で握りこぶしを作った。ぱちぱちと瞬きを繰り返している紫穂ちゃんの睫毛はぱさりと音を立てそうなほどに長い。よく見てみれば普段見ない色合いのまぶたに、デート用の化粧か、とカッと全身が熱くなった。

「……そんなわけないだろ。君との初めてのデートだ。気合い入れるに決まってる」

 低く唸るような声で自分の感情の揺れを誤魔化せば、紫穂ちゃんはびくりと肩を震わせてパッと顔をこちらに向けた。

「あ、違うの! 怒らないで! 本当に、その……私とちゃんと、デートしてくれる、と、思って、なくて」

 本当に違うの、と手を振りながら紫穂ちゃんには珍しくわたわたと慌てた様子で必死に弁明してくる。

「嬉しいって思ってるのも、これはデートだって認識してるのも、私だけで……先生は、知り合いと遊びに行く、くらいの感覚、なんだろうな、って思ってた、から……」

 だからその、ごめんなさい、と眉を下げてしまった紫穂ちゃんは本当に落ち込んでいるようで、力なく肩を落としている。こんな風に感情を露わにしていること自体が珍しい上に、その感情を乱している起因がどうも自分らしいということにドキドキして、思わず紫穂ちゃんに向かって手を伸ばし小さくて丸い頭に手のひらを這わせるように優しく撫でた。

「怒ってねぇよ。ごめん、自分でも思ってるより低い声が出た。俺も、多分、紫穂ちゃんが思ってるよりこれはデートだと思ってるよ」

 さぁホラもう到着だ、と紫穂ちゃんに向かって微笑みかければ、不安そうに眉を寄せていた紫穂ちゃんがハッとしたように窓の外へと視線を移す。スムーズに駐車場へ入庫させた車を停車させてドアのロックを外す。

「ここって……」
「俺は初めて来るんだけど、紫穂ちゃんは来たことある?」
「……ない、ないわ。私もはじめて」
「そっか……じゃあ一緒に楽しもう」

 にこりと笑って車から降りると、紫穂ちゃんも俺に倣って車から降りた。車の施錠を確認してから紫穂ちゃんの隣に並ぶと、紫穂ちゃんは白い日傘の下からきらきらした目を俺に向けた。

「植物園?」
「そ。多分、喜んでもらえると思うんだ」

 行こうか、と紫穂ちゃんを受付へと促す。二人分のチケットを購入して、明るい日射しが差し込むアーチを紫穂ちゃんと一緒にくぐった。

 * * *

 手入れの行き届いた薔薇というのはこんなにも色鮮やかに、そして華やかに咲くものなのか。目の前に広がる薔薇園に純粋に感動していると、紫穂ちゃんが目の前に咲いた赤い薔薇に駆け寄って瑞々しい花弁に顔を近付けた。目を閉じてくんくんと鼻を動かしている紫穂ちゃんの横に並んで豪華な薔薇を覗き込む。

「……見事だな」
「えぇ本当に。香りもとてもいいわ」

 いいにおい、と顔を綻ばせた紫穂ちゃんの柔らかい笑顔につられて自然と自分の表情も和らぐ。自信満々に咲き誇る薔薇に負けないくらい可憐な横顔を見つめながら、鼻をくすぐる甘くて華やかな香りを吸い込む。人工物の香水のような鼻に残る嫌なにおいではなく、まざりけのないごく自然な、それでも自分の存在をしっかりと主張してくる香りに思わず目を閉じて余韻を楽しんでしまう。

「……自然の薔薇ってこんなにいい香りなんだな」
「あら……先生は薔薇の花束なんて慣れっこなんだと思ってたわ」

 しょっちゅう女の人に渡してそう、と心底驚いたような顔で俺の顔を見つめてくる紫穂ちゃんに、そんなことねぇよ、と眉を顰める。

「薔薇の花束なんて贈ったことねぇし、遊びでそんなことしたら重すぎだろ」
「遊びだから軽々しくそんなキザなことができるんじゃなくて?」
「ッ……酷いな。俺だってそういうことをするのは相手を選ぶし、その行動の意味も理解してるから軽々しくそんなことしねぇよ。それに……」
「それに?」
「今、俺は君とデートしてるんだけど? デート相手にそんなこと言うのはいくらなんでも冷たすぎるんじゃないか?」

 やっぱり本当は俺のことなんて嫌いでヤな奴としか思ってねぇんじゃねぇの? と浮かんだ疑問は飲み込んで、不機嫌を表すように膨れ面をしてみせると紫穂ちゃんはカッと頬を朱に染めて慌てたようにオロオロし始めた。

「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ」

 普段見ない動揺した様子に目を見開くと、大きな瞳にじわりと薄い膜を張った紫穂ちゃんが上目遣いに恐る恐る俺の目を見つめ返してくる。おぉ、とその滅多に見れない弱々しい様子に内心の動揺を押し隠しながら、怒っている風を装ってわざとらしく腕を組む。チラチラと紫穂ちゃんの様子を窺いながら、フイ、と顔も背けてしまうと今にも泣き出しそうに不安な顔で眉を下げた紫穂ちゃんがきゅっと胸の前で震える指先を隠すように両手を握り締めた。

「ごめんなさい……今日は、せっかくのデートだから、デートっぽく……優しくしなきゃ、って」

 思ってたのに、と紫穂ちゃんは力なく呟いて、そっとまぶたを閉じてしまう。その拍子に目尻に溜まっていた涙がポロリと溢れて、紫穂ちゃんの足元に染みを作る。泣かせるつもりはなかったと慌てて紫穂ちゃんに向き直って親指でそっと目元を拭った。そろりと触れた頬は思っていたよりも柔らかくてドキリと心臓が跳ねるのを誤魔化しながら、優しく頬を撫でてするりと手を移動してぽんぽんと頭を撫でた。

「泣かせてゴメン。ちょっと俺も意地悪が過ぎた……でも、紫穂ちゃんが言う通り、せっかくのデートなんだし」
「……うん」
「もうこういうのはナシ。それから変に気を遣うのも禁止」
「……ハイ」
「……と、いうことで。仕切り直し、といきませんか?」
「え?」
「本当の目的地はここじゃねぇんだ。もっと奥にあるはず」
「……そうなの?」
「あぁ……んで、まぁ、その……せっかくのデート、だから、さ」

 照れを誤魔化すように視線を彷徨わせながら、恐る恐る紫穂ちゃんの手を取る。紫穂ちゃんはびっくりしたように手を引いて、でもその手を離さないように力を込めれば、困ったように眉を下げる紫穂ちゃんと目が合った。

「手……とか、繋いどく? イヤなら、やめるけど……」

 言いながら、そろそろと紫穂ちゃんの出方を窺うように指を絡めると、紫穂ちゃんは真っ赤に頬を染めながら険しい顔をして俯いてしまう。それでも俺の指に応えるように、きゅっと指先に力を込めて俺の手を握り返してくれる。
 なんだか熱い気がするその指先からは嫌な感情は一切透視み取れなかった。ただ、紫穂ちゃんの超度が高いから透視えないのかもしれないし、お互いそれどころじゃなくて透視み取れないのかもしれない。
 真実は闇の中だけれど、手を振り解かれないということはそういうことだと自分に言い聞かせて紫穂ちゃんの手を引いて歩き出した。紫穂ちゃんの歩幅に合わせているとはいえ抵抗されないことにホッとして、園内地図を確認しながら目的の場所へ向かう。
 しっかり下調べした段階では、ちょうど今が見頃のはずで、写真で見た時に感動した風景がそこには広がっているはずだ。あとはこの角を曲がればというところでほのかに爽やかな香りに包まれる。間違いなくこの先は紫穂ちゃんに似合う美しい光景が広がっていると確信して、紫穂ちゃんに向かってにこりと微笑んだ。

「目、閉じて。多分、絶対、喜んでもらえると思うんだ」

 曲がった先の視界が死角になるよう紫穂ちゃんの前に立って、彼女が目を閉じるのをじっと待つ。少しだけ訝しむような目を向けつつも恐る恐る目を閉じた紫穂ちゃんの肩をそっと掴んで一番見映えがいい場所へ誘導した。

「よし、いいぞ。目を開けて」
「え?」
「いいから。ホラ」
「……う、うん」

 ゆる、と睫毛を震わせながら目を開いた紫穂ちゃんの視界を遮らないようにそっと横に退いて、逸る気持ちを抑えながら紫穂ちゃんの表情を静かに見守る。大きく目を見開いてきらきらと揺れる瞳を覗き込みながら、ホッと肩の力を抜いて表情を綻ばせた。

「どうだ?」
「……すごい……すごく素敵!」
「だろ?」

 見事な藤棚のなかを一歩前に進んだ紫穂ちゃんは、藤棚からこぼれる目映い木漏れ日を浴びながらパタパタと足を進めていった。その後ろ姿に満足しながら、ゆっくりとした歩調で紫穂ちゃんを追いかける。
 わぁ、と年相応の声を上げながら藤棚から垂れる藤の花に手を伸ばしているのが可愛くて、思わずスマホを取り出して写真を撮った。カシャリと響いた音に反応してぷくりと頬を膨らませた紫穂ちゃんが、恥ずかしそうに眉を吊り上げてこちらを見てくる。それに眉を下げて笑いながら紫穂ちゃんの隣に並んで藤の花を眺めた。

「いきなり写真撮って何するつもり? 変なことに使うつもりじゃないでしょうね?」
「変なことってなんだよ。別に写真くらいいいだろ?」
「ふぅーん……?」
「な、なんだよ」

 じっとこちらを見透かすような目で見つめられてどぎまぎしていると、スッと紫穂ちゃんの手が俺のスマホと手に触れてあっという間に情報を透視み取られる。

「あっ!」
「……ふざけないで! 私はいつでも可愛いわ!!!」

 カッと赤くなった頬を隠さずに噛み付いてくる紫穂ちゃんの叫び声に耳を押えながら、あははと眉を下げて誤魔化すように笑った。

「知ってる。君は可愛いよ」
「ッ……誰にだって言うくせに! 私はそんな軽い女じゃない!」
「それも知ってる。紫穂ちゃんが簡単に流されるような女の子じゃないって、俺はよく知ってるよ」
「なら……なんで、こんな」

 赤い頬を隠すように両手で包みながら上目遣いで俺を睨み付けてくる紫穂ちゃんは、どういうつもりだ、と揺れる瞳で訴えてくる。それに、えーっと、と視線を彷徨わせながらどう答えようかと迷っている間に、紫穂ちゃんは頼りなげに眉を下げてチラチラと俺の様子を窺いながら恐る恐る口を開いた。

「本当に……その、本当に綺麗な薔薇だったから……女の子には薔薇でも見せとけば喜ぶだろうって思われたのかなって思ってた」

 デートに薔薇って先生の定番なのかなって、と小さく続けた紫穂ちゃんに、思わず顔を顰めて答える。

「……君にそんな安直なことできるわけないだろ。マジで何度だって言うけど、俺は君とのデートを楽しみにしてたし、紫穂ちゃんに喜んでもらおうと思って、割と必死でデートコース考えたんだぞ」
「……ホントに?」
「当たり前だろ!? ここだって、君と一緒に見れたら思い出になるし、きっと君に似合うと思って……」

 言いながら、恥ずかしさにじわじわと赤くなってくる顔を隠すように口元を手のひらで覆う。
 本当に紫穂ちゃんとのデートはイマイチ他の女の子とのデートとは違って様にならない。紫穂ちゃん相手じゃ見栄もハッタリも通用しないのはわかっているけれど、せめて年上の男らしく、かっこつけてリードしたいのに、どうも上手くいかなくて、ありのままの自分が曝け出される。
 せっかくのデートなのにこれじゃあなぁ、と肩を落としていると、紫穂ちゃんは可愛らしく頬を染めて、今にも泣き出してしまうんじゃないかという顔で首を傾げた。

「……私って、先生のなかで特別なのかな?」

 ゆるりと緩く細められた紫穂ちゃんの瞳が俺を見つめる。潤んだ宝石のような瞳は今にもこぼれ落ちそうで、俺の目を惹き付けて離せない。胸を締め付けられるような愛しさがこぼれて、ぎゅっと息が苦しくなった。

「……紫穂ちゃんは、特別だよ。俺にとって、君は特別だ。それは、君にとってもそうだろ?」

 同じ能力者だからというだけじゃない。お互いを特別だと思えるだけの年月は過ごしてきた。皆本だって俺にとっては唯一の存在だけれど、紫穂ちゃんだって俺には特別だ。

「……そうね、それが先生だっていうのだけが癪だけど、私にとっても、先生は特別だわ」
「……なんだよそれ」

 棘のある言葉とは裏腹に、紫穂ちゃんは穏やかな笑顔を浮かべていて、その優しい表情に胸がきゅっと苦しくなった。
 皆本との関係が変化してどうしようもなくなっていた俺の隣にいてくれたのが紫穂ちゃんで良かったと思う。この子なら、俺の心にぽっかり空いてしまった大きな穴を埋めてくれるかもしれない。

「なぁ、紫穂ちゃん」

 俺の呼び掛けに、紫穂ちゃんは首を傾げながら俺を見つめてくる。ひとつだけ深く深呼吸をしてから、その目をじっと真っ直ぐ見つめ返した。

「……俺と、付き合わないか?」

 こんなにくそ真面目に、この台詞を口にしたことなんて今まであっただろうか。
 自然と緊張してしまっていたのか、ぎゅっと握り締めた拳には汗が滲んで気持ち悪い。ぬるりと滑る手に更に力を込めながら紫穂ちゃんの答えを待っていると、紫穂ちゃんは花が綻ぶように笑って口を開いた。

「……嬉しい」

 静かに、そう呟いた紫穂ちゃんは、何故かすぐに泣きそうな顔をして涙を堪えるように俯いてしまう。嬉しいから泣いているのか、と思いながらもそうは感じられない表情に動揺していると、紫穂ちゃんは吹っ切れたように顔を上げて、もう一度笑顔を浮かべた。

「でも……多分、それは無理だと思うわ」
「……え?」
「皆本さんが先生のことを手放すなんて思えないもの」
「は?」

 想像していた快い返事とはちがう、あまり思わしくない言葉が紫穂ちゃんの口から溢れ出て、ドキリと心臓が跳ねる。

「……何、言って……そもそも、皆本がもう俺に興味ないのは、紫穂ちゃんだって知ってるだろ?」

 皆本の名前が出た上に、アイツが俺を手放さない、なんていう心を引っかき回すような台詞に動じて声が震えたのが恥ずかしい。そんな俺を見て、困ったように笑った紫穂ちゃんが、ふぅ、と小さく息を吐いてくるりと俺に背中を向けた。

「それに……先生、私のこと抱きたいとか、そういうの考えたことないでしょ?」

 そのまま三歩前に進んだ紫穂ちゃんは、俯き加減のままくるりと振り返ってゆっくりと顔を上げる。それから真面目な表情で俺を真っ直ぐに見つめてくるから、思わずゴクリと喉を鳴らした。紫穂ちゃんの指摘に何と答えようか迷っているうちに、紫穂ちゃんはにこりと笑って一歩だけ足を進めて俺に近付いた。

「いいのよ別に。私のコトが女に見えないとかじゃなくて、本当にそういう選択肢につい最近まで入ってなかったから考えたこともなかったって知ってるもの」
「……何でもお見通し、ってことか?」
「まぁね。でもちょっと違うかな」

 もう一歩分距離を詰めて、紫穂ちゃんはじっと俺のことを上目遣いに見つめる。

「言ったでしょ? 私、先生のコト好きなの。私のコトどう思ってるのか好きなんだから気になるし、観察してればわかってくるんだから透視る必要なんてないでしょ?」

 先生だって相手を観察して、オトせる子しかナンパしないでしょ? と笑ってみせた紫穂ちゃんに、思わず納得してしまう。
 確かに紫穂ちゃんの言うとおりだし、紫穂ちゃんのご指摘通り、紫穂ちゃんのことを性の対象として見たことなんてなかった。
 だからと言ってできないかと言われれば話は別で、紫穂ちゃんとそういうことになれば問題無くできると思う。男女交際をする仲になれば自然とそういうタイミングは出てくるだろうし、紫穂ちゃんが今まで関係を持ってきた女性たちに劣るというわけもなく、だからと言って今まで散々遊んできた関係のような、紫穂ちゃんとのそういうことを軽々しく扱うつもりもない。
 むしろ、紫穂ちゃんだからこそ、大切に関係を深めて、大事にしてやりたいと思う。これは間違いなく俺の本心だ。
 何も答えられずに黙り込んだままの俺に、紫穂ちゃんは改めて俺に向かって綺麗に微笑んで首を傾げた。

「それにね? 私もまだそういうのはいいかなって。なんていうか、皆本さんと穴姉妹になるのは……まだちょっと無理かな。だからって穴兄弟になるのももう少し覚悟が必要だし」

 笑いながら眉を下げた紫穂ちゃんは至極真面目にそう告げた。可愛らしい紫穂ちゃんの口から飛び出してきたあられもない言葉に目を白黒させながら、どうにか当たり障りのない返答を口にする。

「……む、ムズカシイ言葉、知ってんね?」
「まぁね。女の子だもの」
「お、女の子、関係あるかなぁ……?」

 しどろもどろになっている俺をクスクスと笑いながら紫穂ちゃんはふわりと表情を綻ばせてゆっくりと目を閉じた。

「でも……私は、皆本さんでも触れない、先生のとっておきの場所に触れるもの。だからいいの」

 そう言って紫穂ちゃんは俺たちの間に開いていた最後の一歩分の距離を詰めて、そっと俺の胸元に触れる。

「先生のココロ。私なら触れられる。先生も、私のココロ、触れられるでしょ?」

 言い終えて、ジ、と俺の目を見つめた紫穂ちゃんの視線に飲み込まれそうになるのを何とか堪えてゴクリと息を呑んだ。頭から食われそうだと胸の奥が熱くなるのを感じながらニッと唇を持ち上げて紫穂ちゃんの手を取った。

「確かに。この世で俺に触れられるのは君だけだ。でも……君は触れさせてくれるのか? 俺は君より超度が低いんだ。君の許しがなけりゃ触れられない」

 触れた指先を愛おしむように親指で撫でて指先を絡めれば、紫穂ちゃんはいつも見せる気の強い笑顔を浮かべた。

「先生ならいいわ。許してあげる。光栄に思いなさい?」
「……ハハ……ありがとうございます女王様」
「何よソレ……まぁいいわ。それにね? 私も、先生も。多分、一人じゃ足りないの」
「……? どういう意味だ?」
「そのままの意味よ? だからまぁ、あの人の出方次第、っていうか。でも、今日は折角だし、この先もエスコートさせてあげるわ」

 ほら、行きましょ? と俺の手を引いて歩いていこうとする紫穂ちゃんの耳が少し赤いのを心のなかでそっと笑いながら、少しだけ足を速めて紫穂ちゃんをリードする。すると紫穂ちゃんはちょっとだけ目を見開いて驚きながらも、素直に絡めた指に力を込めて俺の横に並んだ。ふたりで藤棚から漏れる木漏れ日のなかを抜けていくと、また次のエリアへ向かう遊歩道へと出る。そのまま紫穂ちゃんが行きたい方へ向かおうとすると、ちょっと待って、と紫穂ちゃんが歩みを止めた。

「……どうした? 一旦休むか?」
「ううん。そうじゃなくて……ま、いいわ。今日は私だけの先生だもの」
「え? 何の話?」
「そこで指咥えて見てるといいわ、って話。行きましょ!」
「えっ、ちょ! 紫穂ちゃん!」

 ぐい、と俺を引っ張った紫穂ちゃんはそのまま俺の腕に絡みついて胸を押し付けてくる。まるで恋人同士のスキンシップのような接触に動揺していると、紫穂ちゃんは気にせず歩いて、なんて無謀なことを言いながらしたり顔でズンズンと次のエリアへ向かっていく。いやこれは気にするなって言われても無理だろ、とどうしても腕に纏わり付く柔らかい感触に気を取られつつ、懸命に煩悩を殺しながら前を向いて歩き続けた。
 だから俺たちのデートを尾行している存在だとか、紫穂ちゃんがそいつの存在に気付いていて、これがそいつを意識しての行動だとか、普段なら普通に気付くはずの事柄に一切気付く余裕なんてなく、紫穂ちゃんに翻弄されながらデートに夢中になるしかなかった。

 * * *

 紫穂ちゃんとの初めてのデートは控えめに言って柔らかかった、いや違う。とても楽しかった。最近女の子と遊ぶなんてことしてなかったからというのもあるけれど、それだけじゃない。
 元々会話も要らない、気負わない関係の俺たちがするデート。
 楽しくないわけがなかったし、何より普段より当たりが優しいというか、俺を男として扱ってくれる紫穂ちゃんは可愛くて、自分が思っていた以上にあの子と男女交際をするのは現実的なのかもしれないと思い知らされた。
 紫穂ちゃんとは昨日の時点では交際には至らなかったが、これはもう時間の問題なんじゃないか。皆本がどうこうと紫穂ちゃんは言っていたけれど、元々皆本と俺の間には確固たる何かがあったわけでもないし、きっとアイツは俺の親友として俺と紫穂ちゃんの仲を応援してくれると思う。
 ひょっとしたら最初は猛反対されて殴られるかもしれないけれど。薫ちゃんへの想いを認めて少し柔軟になったアイツなら、意外と素直に受け入れてくれるかもしれない。
 ちょっと寂しくて胸がチリリと痛むけれど、そんなのは恐らく最初だけ。紫穂ちゃんが俺の心を癒やしてくれる。本当はめちゃくちゃ寂しいし悲しいけれど、そんな俺の気持ちも紫穂ちゃんにはバレているだろうから隠さなくていいというのが有り難い。
 そもそもあの子相手に隠し事なんて到底無理だし、昨日はお互い誰にも見せたことがない部分に触れ合う許しと合意を得たのだ。これだってきっと時間が解決してくれる。
 あとは仕事で忙しくしていれば何もかもがうまくいく。そう思っていた俺が甘いだなんて、自分のツメの甘さを今は呪いたい。

「……賢木、今日時間あるかな?」
「あ、あぁ。別に問題ねぇけど。研究の相談か?」
「そうじゃない。ちょっと君に話があるんだ」
「え」
「夜、空けておいてくれ。迎えに来る」
「お、おぅ……」
「じゃあ終業時間に」

 俺の執務室に颯爽と現れ否応なしに約束を取り付けサラリと去っていった皆本の後ろ姿を見送りながら、ギィ、と扉が閉まりきるまで身動きひとつできなかった。
 皆本は笑ってたけど笑ってなかった。長年の付き合いだからわかるとでも言えばいいのか、笑顔の下に静かな怒りや憤りを隠しているのが透視なくてもわかった。そしてその怒りがどうも俺に向けられているらしいというのもわかってしまい、身に覚えはないはずなのに恐怖で自然と身体が震え上がった。
 何した。あんなにも皆本を怒らせるようなこと、俺は一体何をしたんだ。
 そもそも最近皆本とは仕事でしか絡んでいなかったはずなのに、一体俺は何をしてしまったというんだ。
 終業までまだ数時間あるというのにそのことばかりが気になって、とても仕事になんてならない。なのにいつもなら舞い込んでくる面倒事だとか、厄介な患者だとか、そういうイレギュラーが一切なく、もたついた作業効率でもきっちり終業に間に合ってしまうくらい、穏やかに仕事が終わってしまった。
 なんでこんな日に限って残業になったりしないんだと思わず平穏に終えてしまった今日を呪いたくなった。医者としてあってはならないことだけど、今すぐ誰でもいいからヤバイ急患が運び込まれてくれねぇかなと神様に祈ろうとしたとき、死刑宣告にも似たガチャリというドアの開く音が響いて、ゾッと血の気が引いていくのを感じた。

「さぁ、賢木。帰ろうか」

 昼間と同じ、笑顔の下に静かな怒りを隠した皆本がドアのところで立っている。その顔には逃がさないとでも書いているようで、俺はもう多分何をしても逃げられないということを悟った。

「……わかった。今帰る準備するから待っててくれ」
「そうさせてもらうよ」

 にこりと笑った皆本の目はやっぱり笑っていなくて怖い。
 俺マジで何したんだろう、と震えながら何とか片付けを終えて帰り支度を整えた。

「わりぃ、待たせた」
「いいよ。それほど待ってない……じゃあ、行こうか」
「……行くって、何処へ?」
「君の家だよ? 何か僕に見られるとマズいものでもあるのか?」
「そんなモンねぇけど……俺んち行って何すんの」
「言っただろ。僕は君に話があるんだ」

 さぁ、もう行こう、と皆本が俺の手を掴んで無理矢理駐車場へ向かって歩き始める。

「やっ、ちょっ、手! 皆本! 手!!!」

 誰かに見られたらどうすんだと引き剥がそうとしてもぎゅうと痛いくらいに握り込まれてしまって剥がせない。俺の手を引っ張りながらズンズンと歩いていく皆本はこちらに振り向きもせず言い放った。

「今更誰に見られて困るんだ? 君は困るのかもしれないけれど、僕はなにひとつ困りはしないよ」
「は、はぁ!? おま、そんなわけ」
「仲のいい二人が手を繋いで歩いてるくらいで動じるような人いないだろ。僕と君の仲を知らない人間なんてこの組織にはいない」
「そっ、それは……そうかもだけど! そうじゃなくて!」
「何度だって言うよ。僕は困らない。それとも……君が僕と手を繋いでいるところを誰かに見られたら困るのかい?」

 低く、地を這うような響きを持った皆本の声が耳に届いてビクリと身体を震わせる。困るのはお前だろ、と言いたいのに言えなくて、何も返事できないまま皆本のあとをついていくしかなかった。俺の車の前まで来た皆本は、やっとこちらを見て僕が運転しようか? と聞いてくる。それにふるふると首を横に振るだけで答えてドアのロックを外した。俺が運転席に回ったのを確認してから助手席へと乗り込んだ皆本は、俺たちの関係がどうかしてた頃みたいな優しい声で、運転ありがとう、と告げる。なんでそんなとこだけ優しいんだよ、とざわざわする胸を押えながら、黙ってエンジンを起動した。

 * * *

「……座れよ。君の家なのに、どうして僕が家主みたいになってるんだ?」

 ふたりで家に入ってから、リビングのドアの前で動けずに突っ立ったままだった俺に皆本が声を掛ける。皆本は皆本で、勝手知ったると言わんばかりに鞄もジャケットも定位置に置いてお茶の準備まで済ませてダイニングテーブルのところで俺が来るのを待っていた。
 それがあまりにも以前と変わらないものだから、このあと俺は以前のように抱かれるのかと錯覚しそうになって、そんなわけないだろと自分を叱咤しながらテーブルに向かう。
 もう俺たちはそういう関係じゃない。
 そう自分に言い聞かせながら、久々に俺の家に皆本がいることでつい自分にとって嬉しい展開を想像してしまう。そもそも皆本にとって俺は都合のいい相手だったんだろうから、急にその気になって俺の家に来たのかもしれない。
 じゃあ何で怒ってるんだ。
 俺が相手しなくなったから?
 都合が良い存在だったのに俺が断るようになったから怒ってるんだろうか。
 それとも俺が遠慮して皆本の誘いを断ったから怒っているのか?
 それなら別に、腹を立てる必要なんて無い。俺のことなんて切ってしまえばいいのに、どうして。
 考えても埒が明かないことをぐるぐると考えながら、皆本が座っているちょうど対面の椅子に腰掛けた。目の前には二人でよく飲んでいた紅茶が湯気を立てている。自分の家だというのに肩からは力が抜けないまま、じっと俯いて皆本の言葉を待った。

「……昨日はどこへ行ってたんだ?」

 痛いくらいの沈黙が部屋の中を支配していたのに、まるで今日の晩飯は何がいい? みたいな明るい口調で聞いてくるのが逆に怖い。緩く弧を描いているのに笑ってない目に見つめられて、何とか震える身体を叱咤して口を開いた。

「えっ……き、昨日は……別に、どこにも、行ってねぇ、よ」

 どもりながらも懸命に答えて視線を彷徨わせると、一瞬だけ無表情になった皆本がこちらを見て、わざとらしいくらいの笑顔を顔に貼り付けて首を傾げた。

「今ちょうど藤の花が盛りなんだってね。紫穂の髪の色に似て、よく映えるだろうなぁ」

 落ち着いた声でそう告げた皆本は、言い終えてからスッと表情を殺して俺を見つめた。

「行ったよな? 昨日。紫穂とふたりで。植物園に」
「……え……あ、う」
「デートしてたよな? 紫穂と」

 有無を言わせぬ言葉の強さで問いかけてくるこの状況はまるで尋問だ。それか容疑者の事情聴取。なんで俺がそんな目に、とか、何で皆本が昨日のデートを知ってんの、とかいろんなことがぐるぐると頭の中を駆け巡っていく。頷くことも首を横に振ることもできずに固まっていると、皆本は苦しそうに眉を寄せて顔を俯けてしまった。

「……君が、紫穂のことを特別に思っているのはわかってる。でも、僕という存在がありながら、何の相談もなしに紫穂とその……そういう、男女関係になるのは違うんじゃないか」

 はぁぁぁぁ、と深い溜め息を吐いて皆本は、荒ぶる感情を抑えつけるように淡々とそう口にした。険しい表情を隠すように俯いてしまった皆本を凝視しながら皆本の告げた言葉を頭の中で反芻する。
 皆本に相談もせず、紫穂ちゃんと男女関係になるのは違う。
 それが指す意味を図ろうとして失敗する。紫穂ちゃんのことを皆本に相談するってことは、やっぱり保護者代理として、とか、そういう意味なんだろうか。
 チルドレンの保護者として、交際の前にひと言あってもいいんじゃないか、と皆本は苦言を呈したくてこの場を設けた。そういうことであれば納得はいくけれど、そうであるなら俺の家じゃなく局長とか管理官とかも揃うバベル本部で話をすればいいはずで、今目の前の皆本が取っている行動に、どうもいつもの皆本らしさが感じられない。
 ふつふつと沸き上がる疑問に何も答えられずにいると、皆本はもう耐えられないとでも言うようにガバリと顔を上げて俺を見つめた。

「僕は君の恋人だろう?! ひと言くらい相談してくれれば……僕だって……僕だって、潔く身を引けた!」

 悲しみで打ち拉がれたように顔を歪めた皆本が、心の痛みを訴えるように真っ直ぐ俺を射貫く。その目には薄く涙の膜が張っていて、目尻に溜まった涙がこぼれそうになるのを隠すように皆本は顔を俯けた。
 目の前の皆本の様子と、皆本の口から飛び出した恋人という言葉に、俺はあまりの衝撃に何も言えないまま、僅かにぽかんと口を開けたまま固まっていることしかできない。
 俺が、皆本の恋人。
 まさかそんなわけあるはずがない、と思いながら、目の前の皆本はハッタリでも演技でもなく、隠すようにして目元を拭っている。そのことにまた衝撃を受けて、俺は目を見開いて皆本を凝視した。

「……こ、恋人、って」
「違うのか?! 少なくとも僕は別れたつもりはないし、今はまだ君の恋人だ……そうだろ?」

 皆本が縋るような目を俺に向けて、力無く呟く。切実な訴えに何も答えられずにいると、皆本はますます苦しそうに眉を寄せて俺を見つめた。その目はやっぱり涙に濡れていて、さっき見た涙は偽物じゃないと俺に知らせてくれる。動揺が動揺を呼んでごくりと喉を鳴らす。目を見開いたまま何も言えない俺を見て、皆本は悲しそうに目を伏せて再び顔を俯けた。

「……賢木がそういう男だって、僕が一番よくわかっていたはずなのにな。今なら君を振った女性たちの気持ちが痛いほどよくわかるよ」
「……え? ……は? 何、言って」
「自分ならそんなことにはならないって思ってたんだ。それがまさか、よりにもよって紫穂だなんて……君を信じていた僕が馬鹿だった!」

 悲痛な叫びが耳をつん裂いて、訳もわからず罵られたことにカッと血が頭に昇る。わなわなと震える手をぎゅっと握り締めてキッと皆本に向き直った。

「……み、皆本だって薫ちゃんのコトどうなってんだよ! 俺のことはお前に関係ないだろ!」
「関係なくはないだろ! 僕と賢木はそんな都合のいい関係だったって言うのか!」

 俺の言葉に苛立ちを隠せない様子でそう叫んだ皆本に慄いて、思わず口元を両手で覆う。そしてとても信じられない疑問を導き出した自分の脳にそんなわけがないと言い聞かせながら、それでも聞かずにはいられなくて、震える唇を動かしながらその疑問を口にした。

「おまえ……俺のこと、性欲処理で抱いてたんじゃねぇの?」

 俺はお前にとって都合のいい男でしかなかっただろ、とビクビクしながら問い掛ける。
 俺たちの間にそれ以上の何かなんてなかった。そうだろ?
 皆本がくれる快楽と心地よさに酔っていたのは俺だけで、お前はただ吐き出すための、都合のいい関係でしかなかっただろ?
 真実を知るのが怖くて、ずっと透視しないようにと気をつけていた仇がここに来て自分に跳ね返ってくるようだ。それでも皆本が俺のことをどう思っているのか知るために透視を使うのは反則だし、どうしてもそれを知りたいんだったらちゃんと言葉で聞くべきだ。それをせずに敢えて流れに身を任せて関係を続けたのは俺自身だ。求められるがままに応えて、皆本を受け入れたのは俺。皆本の真意を知ろうとせずに、都合のいい関係でいようとしたのは俺なんだ。

「気持ちが伴ってないのにそんなことできるわけないだろ?!」

 痛いくらいに張られた皆本の声が部屋の空気を裂くようにわんわんと反響する。苦しさと恥じらいと切なさが入り交じったような複雑な表情で、皆本はもう涙も赤らんだ頬も隠さずにジロリと俺を睨みつけた。その視線の強さと告げられた言葉に頭を殴られたように眩暈がして、ぶるりと背筋が震える。まさかそんな、と思いつつ、皆本の表情は嘘偽りのない真実を語ってくれているのが長年の付き合いでわかった。
 ぴくりとも動けず固まってしまった俺を見て、皆本は、そうか、そうだな、と小さく呟いて俺の視線から逃れるように顔を俯けて笑う。

「……僕たちの間柄だから何も言わなくてもわかると思ってた僕がいけなかった。コミュニケーションを怠った僕の責任だ」

 皆本は肩を震わせながら前髪に手を遣って、くしゃりと握り込んだ。それから、歪む口元を無理矢理動かして、そうだよな、と震える声で続けた。

「僕だけが思い上がってた。そういうことだろ。もういい。悪かった……紫穂のこと、泣かすなよ」

 そこまで言って、ガタリと勢い良く立ち上がった皆本は、椅子の位置も直さず慌ただしく部屋を飛び出そうとする。ハッとして咄嗟に皆本の手首を捕まえながら自分も立ち上がると、皆本は俺に背を向けたまま俺の手を振り払おうと手に力を込めた。

「離してくれ……悪かった。僕の勘違いだから。今日僕がここに来たことはなかったことにしてくれ」

 それで何もかもうまくいくから、と静かに続けた皆本の手を引いて、そっと皆本との距離を詰める。

「待ってくれ。皆本」

 ゴクリと喉を鳴らして、恐る恐る皆本に向かって問いかけた。

「……皆本は……俺のコト、恋愛感情として好き、なのか?」

 そう問いかけた途端、バッとこちらに振り返って俺の顔を見た皆本は、一瞬で顔を険しく歪めて、フイ、と俺から顔を背ける。悔しそうに唇を噛み締めた皆本は力無くふるふると首を振って俺から逃げるように手を引きながら俯いて口を開いた。

「好きじゃない。何でも無い。たった今この話はなかったことになったんだから。もう僕のことは放っておいてくれ」
「そんなワケにはいかねぇだろ! 俺がお前のこと放っておくなんてできるわけねぇんだから!」

 縋るようにもう片方の手も捕まえると、皆本は苦しそうに眉を寄せて俺を見つめた。

「もう止してくれ……僕はもう大丈夫だから……お願いだから、離してくれ」

 君の気持ちは親友としてちゃんと受け止めるから、とこぼれる涙を隠すように俯いた皆本を堪らず抱き締める。一瞬何が起こったのか把握できていない様子の皆本はすぐに自分の状況を理解してジタバタと俺から逃れようと暴れ始めた。それでもそれを抑え込むように力を込めて、ぎゅうと皆本の背中を抱き寄せて叫んだ。

「無理だろ! 俺だってお前のことそういう意味で好きなんだから!」

 抱き寄せた皆本の顔は見えない。それでも皆本が息を呑んだのは腕を通して伝わって、ぐりぐりと顔を埋めるように皆本の肩に額を寄せた。

「俺は……ずっと、お前が俺のこと、都合いいセフレとして抱いてるんだと思ってた。それでも俺は、お前と繋がっていたくて、求められるまま応えて、都合のいい相手でいられるように、皆本の手を離せなかった」

 ぎゅう、と皆本の身体を力いっぱい抱き締めながら言うと、皆本はそろそろと俺の背中に手を回して、俺に応えるようにぎゅっと俺の服を掴んだ。

「そんなわけ……そんなはずないじゃないか! 僕の誘いを断るようになって、紫穂と過ごす時間が増えて……僕はお前が紫穂とふたりでデートしたのだって知ってるんだぞ!」

 騙されるもんか、と俺の首筋に顔を埋めながら皆本は続ける。俺の首に触れる皆本の頬の熱が直に伝わって身体が熱くなるのを感じながら、そろりと身体を離して皆本の顔を覗き込んだ。

「それは……お前との都合のいい関係は保ちたかったけど、ちょっと距離が近すぎるかもしれないと思って遠慮したからで……紫穂ちゃんは別に関係ないだろ? それに、紫穂ちゃんとはデートしたけど、そもそもなんでそれを皆本が知ってんの?」
「そ、それは……その……別に、その話は今は関係ないだろ」
「関係なくはないだろ? 俺、紫穂ちゃんとデートで植物園に行くこと、誰にも言ってねぇもん」

 そう。誰も知らないはずのその事実を、どうして皆本が知っているんだろうという疑問が浮かぶ。紫穂ちゃん以外知っているはずがないし、紫穂ちゃんから薫ちゃん経由で皆本に伝わったとしても、いくらなんでも情報の伝達スピードが速すぎだ。まさか紫穂ちゃんが直接皆本に言ったんだろうか。でも、昨日の紫穂ちゃんの様子から考えると、紫穂ちゃんがそんなことをするとも思えない。やっぱりなぜそれを皆本が知っているのかの答えはどうしても導き出せなくて、じっと皆本の顔を窺うように見つめ続けると、皆本は俺の視線から逃れるように顔を背けながら目を瞑って、更に腕で口元を覆ってしまった。

「……う、浮気、するのに、隙だらけの賢木が悪いんだ」
「……はぁ?」
「パソコンの履歴も、スマホの履歴も全部残ってたし、紫穂とやり取りしてるのもわかってたから……推測するのは、簡単だったんだ」

 だからだよ、と言われても何が何だかさっぱりわからない。そもそも浮気ってどういうことだ? と首を傾げていると、キッと眉を釣り上げた皆本が、ガバリと顔を上げて俺を睨みつけた。

「随分舐められたもんだなと思ったよ! 楽しそうにしてる君の素行調査なんて簡単だった! 現場を押さえてやろうと思って、僕は、僕は……」

 そこまで言って、またじわりと涙が浮かんできた皆本に慌てて目元を拭ってやると、皆本はぎゅうと縋るように俺に抱きついて、うぅ、と小さく唸るような泣き声を上げた。

「紫穂が特別なのはわかってる。でもまだ僕と賢木は別れてない。なのに君はデートに夢中で、とても楽しそうで……悔しいくらい、君と紫穂はお似合いだった」

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら聞いたことがないくらい情けない声でそう漏らした皆本は、俺に顔を見せまいと俺の肩に顔を埋めてしまって離れない。皆本を宥めるようにそろそろと背中を撫でたり髪を優しく漉いたりして呼吸が整うのを待っていると、漸く皆本は顔を上げて恐る恐る俺の目を見つめた。その目元は泣いたせいか赤くなっていて、きゅんと切なく胸が鳴るのを感じながら努めて冷静に皆本に問い掛ける。

「……えっと……つまり、皆本は昨日の俺と紫穂ちゃんのデートを尾行、してた……ってことで、いいか?」

 確認しながらじわじわと赤くなっていく頬を自覚しつつ、チラチラと皆本へ視線をやると、皆本は涙のせいではない赤みで頬全体を染め上げて気まずそうに目を伏せた。力なく項垂れているその様は今まで俺を追い詰めようとしていたものとは正反対の、逆に追い詰められてしまったような様相で、何とも言えない感情がじわじわと自分の内に広がっていく。

「あとさ……その、何度も皆本の口から出てるのを敢えて確認する形にはなるんだけど……俺たちって、付き合ってた、の?」

 顔が熱くて堪らないと思いながらも何とか一番皆本と認識のすり合わせをしなければならない部分について触れていく。カァァ、と更に頬を赤くした皆本は、苦しそうに眉を寄せて言いづらそうに口を開いた。

「それは……さっきも言ったけど、僕の思い違い……勘違いだったんだ。もう忘れてくれ。賢木と想いが通じたと思い上がってた僕が悪い」
「そうじゃなくてさ……皆本は俺のことが好きで、俺と付き合ってると思ってて、その上で俺のこと抱いてたの?」

 どうしても視線を逸らそうとする皆本の目を覗き込むようにして問い掛けると、皆本は恥ずかしそうに目を伏せてからコクリと頷く。思わぬ展開に嬉しさが湧き起こってぎゅうぎゅうと皆本を抱き締める。皆本は苦しそうに小さく呻き声を上げながらも俺の行動に応えてくれて、ゆるゆると抱きしめ返してくれた。

「……嬉しい……嬉しいよ、皆本。ずっと、俺の片想いだと思ってた。俺たち、両想いだったんだな」

 こつりと額を合わせながら喜びを表現すると、皆本は突然ジタバタと腕の中で暴れ出してぐいぐいと俺の肩を突っぱねた。

「そ、そんな……騙されないぞ! 本当は紫穂のことが好きなんだろ! 昨日のデート、すごく楽しそうだったじゃないか!」

 僕はこの目で見たんだからな! とすごい剣幕で言い募ってくる皆本は無理矢理俺の腕を解いて一歩分の距離を取った。それからキッと俺を睨み付けてもう一度、僕は騙されないからな、と呟いている。その強い視線にウッと顔を顰めながらどう説明したものかと改めて思考を巡らせると、自分のどうしようもない倫理観を目の当たりにしてしまい、うぅ、と低い声で唸った。

「……紫穂ちゃんのことは特別なんだ。でも、皆本だって特別で、どっちか、なんて選べない。俺には二人とも必要だから」

 昨日紫穂ちゃんが言っていた、紫穂ちゃんも、俺も、一人では足りない、という言葉の意味を、今になってひしひしと実感する。
 皆本と両想いになれたからといって皆本の手を取ったとしても、紫穂ちゃんと離れるという選択肢を選ぶことはできない。だからといって紫穂ちゃんを選んで皆本の手を離すこともできなくて、俺は片方ずつの手を紫穂ちゃんと皆本に繋いでいないともう駄目なのだと自覚してしまった。

「皆本のことは好きだ。でも紫穂ちゃんも大事なんだよ……皆本だって、薫ちゃんか俺か、なんて、選べないだろ?」

 そう言うと皆本は傷付いたように眉を寄せて顔を伏せてしまう。そんな皆本をそろりと抱き寄せて、宥めるようにゆっくりと背中を撫でた。

「俺たち最低かもしれないけれど、ちゃんとそれぞれ向き合って手を離さないって覚悟があれば、大丈夫なんじゃねぇかな」

 自分にも言い聞かせるようにそう告げながら、皆本のことを抱き締める。恐る恐る抱き返された手にほっとして、皆本の首筋に顔を埋めた。

「……でも、そんなの、都合が良すぎないか? どっちも、だなんて」
「都合いいかもしんねぇけど。それが俺らなんじゃん? 俺にはお前も紫穂ちゃんも必要。皆本は俺と違って強いから、どちらかを選べるのかもしんねぇけど」

 俺の言葉にぴくりと身体を震わせた皆本は、俺の背中に回した手にきゅっと力を込めて喉を震わせた。

「僕だって……薫の手を取ったとしても、賢木がそばにいないなんて考えられない。そんなの、僕だって無理だ」
「うん……今は、それでいいんじゃねぇの?」
「でも、こんなの、許されるのか? 軽蔑されてもおかしくない」
「当人たちが納得してこうなんだから、いいんじゃねぇの? 他人がどうこう言おうが、俺たちは俺たちだよ」

 少なくとも紫穂ちゃんは受け入れてくれているようだし、薫ちゃんだって俺に何か言ったり皆本に何か求めたりしていないようだから、無意識に俺たちの関係を受け入れてくれているのかもしれない。これこそ都合が良すぎる考えかもしれないけれど、紫穂ちゃんと薫ちゃんの間に強固な絆が存在するように、俺と皆本の間にだって他人には切り離せない絆が存在する。俺たちが彼女たちの邪魔はできないように、彼女たちに俺たちの絆を邪魔することだってできない。他人から見ればあべこべに見えるかもしれない俺たちの事情も、俺たちにとってはパズルのピースが嵌まるようにぴったり綺麗な形なのだからそれでいいんだ。
 甘えるように皆本の首筋に唇を寄せれば、皆本は慌てたように腰を引いて俺から身体を離した。

「……ダメか?」
「いや、ダメ、とかじゃなくて……その……僕は、今日、君を問い詰めるつもりで……だから、そんなつもりじゃ……」

 おろおろと顔を赤くして視線を彷徨わせている皆本の腰を誘うように撫で上げると、皆本は堪えるように眉を寄せてびくびくと面白いくらいに震えている。相変わらず変なところで真面目だなぁと眉を下げて笑いながら皆本の耳に唇を寄せた。

「本気で嫌ならやめるけど。今日は俺がしてもいい?」

 断られないと信じながら甘く囁けば、皆本は俺にぎゅうと抱きついて腰元を俺に押し付けた。

「ぼ、僕だって……ここ最近ずっとしてない! 僕も、君に触れたい」
「……いいぜ。じゃあ二人で風呂入って準備しよう」

 俺が綺麗にしてやるよ、と皆本に口付けながら告げると、皆本はもうこれ以上無理なんじゃないかと思うくらい顔を赤くして、静かにこくりと頷いた。

 * * *

 今までのただされるがまま応えるがままのセックスではなく、所謂仲直りのラブラブセックスに一晩明け暮れて寝不足気味だけれど、それすらも心地よいと感じる幸福感に包まれている。そんなこんなでイチャイチャしながら二人で仲良く出勤したら、おはよう、とバベル庁舎の玄関で紫穂ちゃんが俺たちを待ち構えていた。堂々と腕を組んで仁王立ちしている紫穂ちゃんは、満面の笑みを浮かべて、ちょっといいかしら? と可愛らしく首を傾げて、俺たちを俺の執務室まで連行した。

「ま、いいんじゃない? 収まるべき形に収まったってことでしょ?」

 一通りの話を一部始終隠匿の権利も与えられずに語らされ、全部聞き終えたところで腕を組んだままフーンと小さく相槌を打った紫穂ちゃんは、これまた満面の笑みで首を傾げて俺たちの顔を見比べた。

「これからよろしくね? 皆本さん。これからは正々堂々、邪魔させてもらうし、先生のコト独り占めなんてさせないから」

 ニッコリと微笑みながら紫穂ちゃんは皆本に向かって自信満々に言い放った。それを何とも言えない表情で受け止めながら、うん、と小さく返事した皆本は、若干気まずそうな顔を浮かべて、紫穂、と口を開いた。

「……その……薫、は……僕たちのこと、知ってるのか?」

 恐る恐るといった様子で問いかけた皆本は、紫穂の返事をビクビクしながら待っている。そんな皆本の様子を一瞥してから、フン、と鼻を鳴らして、紫穂ちゃんは皆本のことを鋭い目で睨みつけた。

「……私に聞いてるようじゃ、まだまだダメね。薫ちゃんは渡せないわ」

 口には出していないけれど、皆本のことを情けない男と思っているのが顔と目つきでわかる。ぐ、と押し黙ってしまった皆本をフォローするべく苦笑いをこぼした。

「まぁまぁ……皆本もさ、いろいろ考えることがあるんだよ。だからもうちょっと、待ってやってくれ」

 皆本と薫ちゃんにはもう少し時間が必要なのだと紫穂ちゃんに諭せば、紫穂ちゃんはニヤリと不敵な笑みを浮かべて皆本に言い放った。

「そうね。好きな人とセックスはできてもちゃんとした告白はできないんだもの。そんな人が私の薫ちゃんとお付き合いしようなんて、百億年早いわよね」
「ちょ、紫穂ちゃん! 言い過ぎだ!」
「……いや……紫穂の言う通りだよ。薫とお付き合いするんだったら、ちゃんとしてからじゃないとダメだ」
「え!? 皆本?!」
「……わかってるならいいの。これ以上いい加減なことを続けるようじゃ、本当に許さないから」
「わかってる」

 お互いしっかりと視線を合わせながら会話を続けている二人にヒヤヒヤしていると、ふ、と肩の力を抜いた紫穂ちゃんがふわりと笑って立ち上がった。

「じゃあ私もう行くわね。充分話は聞かせてもらったし」

 じゃあね、とひらひら手を振って部屋から出ていく紫穂ちゃんに手を振って、恐る恐る皆本の様子を窺う。
 ちゃんとしてからじゃないとダメだ、ってどういうことだろう。せっかく昨日想いを通じ合わせることができたのに、やっぱり薫ちゃんのために別れるということだろうか。そわそわしながら沈黙に耐えていると、賢木、と皆本に声を掛けられてビクリと肩が跳ねた。

「エッ! なっ、何!? なんか用?! 皆本ッ!」
「……話があるんだ」

 びくびくしながら皆本に目を向けると、真剣な表情で俺を見つめる皆本と視線がかち合う。あぁ、これはもうダメだな、と血の気が引いていくのを感じていると、皆本はふわりと笑って俺の手を掴んだ。

「好きだよ賢木。僕はいつか薫を選ぶ日が来ると思う。こんなこと言うのは勝手だと思うけど、それでも、ずっと僕のそばにいてほしい。僕らの関係が変わっても、僕の手を離さないでいてほしい」

 我が儘言ってる自覚はあるんだ、許してくれ、と笑いながら、皆本はきゅっと俺の手に指を絡める。その指先が皆本の熱に溶かされて痺れていくのを感じて、僅かに震える指先を応えるようにきゅうと絡め返した。

「……当たり前だろ。俺たちは、ずっと一緒だ」

 そばにいたいと願った存在が自分と同じようにそばにいたいと願ってくれて、手を取り合える。他から見れば歪でも、俺には全部必要で離せない。それが許される環境にいるなんて、実は俺って相当恵まれているんじゃないかと思ってしまう。
 重なり合った運命に感謝しつつ、こぼれそうな涙を誤魔化しながら皆本に誓いのキスを送った。

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