初めての夜は、さすが、というか。
こちらにソレを悟らせず完璧に準備してみせて、最高のパフォーマンスでもって導かれた。それはもう本当に見事というか。
正直、何も身構えていなかった私には抗う術もなく、差し出された先生の手を取るしかなかったし、断るという選択肢も持ち合わせていなかったから、誘われるがまま先生に縋って身を任せるしかなかった。
それが二十歳の誕生日の一週間後の出来事だ。二人で改めて二十歳の誕生日を祝いたいと先生に言われて、ちょっと良いレストランで食事しないか、という誘いを断る理由はなく、何の疑いも持たずにレストランへと連れていってもらった。誕生日を皆で祝ったあとに改めて二人でお祝いするなんて珍しいことでもなかったし、先生が選ぶレストランにハズレなんてなかったし、今回はどんな美味しいお肉が待っているんだろう。お酒も飲めるようになったし、お肉に合うワインも飲んでみたい。そういえば先生とふたりきりでお酒飲むの初めてだ。なんて、ふわふわとまだ慣れないお酒の味と美味しい料理を楽しんでいたら、ふと真剣に私を見つめる先生と目が逢って。どきりと心臓が跳ねるのを顔を背けて誤魔化すと、部屋取ってあるけど、この後どうする? って手を握られて。ドキドキする胸を押さえながらコクリと頷くことしかできなかった。
そうして翻弄されてばかりで縋っていることしかできなかった夜を終えて、初めて二人で朝を迎えた。
今まで、何もないことに不満はなかった。でも、二年付き合って何もないから、そういうことは私たちの間にはないのかもしれないな、となんとなく思っていた。それがこういうことになって、二十歳まで待ってくれていたのかとか、やっぱりそういうところが律儀で真面目だとか、いろいろ考えてしまったけれど、どうしようもなく幸せで、触れ合えることがこんなにも幸福を生むのかと感動してしまった。
それから。
そんな幸せを分かち合った私たちを待っていたのは、年度末の多忙な日々。
嘘でしょ? と思うくらいにお互い予定が合わなくて、これはもう何かの陰謀なんじゃないかと思うくらい忙しい毎日だった。私は大学と特務の両立、先生は本部と医療棟での仕事に追われて、夜に時間を合わせて会うのもままならない。昼間に本部でちょっと顔を合わせられたら良い方。私が無理矢理大学の講義時間を調整して何とか短い時間で先生とランチデートするくらいが精一杯で、何と言えばいいのか、自分たちの関係がもう少し何か変わるんじゃという期待感は忙しさとともに綺麗に霧散してしまった。
あっという間に過ぎていくバタバタとした日常。何も無かったかのように繰り返されていく日々。まるで本当に何も無かったように毎日を過ごしているうち、ふと危機感とも言えるような不安が頭の隅に湧き上がった。
ひょっとして、このままあの夜越えた一線は有耶無耶になって無かったことになってしまうんじゃないの?
だって今まで何も無かったんだから、あの日の方がマチガイで、また何も無い日常に戻ってしまった今が、本当の私たちの在り方なのかもしれない。
忙しいから、ではなくて、何もないのはそれが理由なのかも、と思い至ってしまえば、じゃあ何もなくて当然よね、と妙に納得してしまう。でも、だからって、そうかそうかこれが普通か、と思っても、やっぱりあの夜をなかったことにできるほど、自分も大人になりきれているわけじゃない。あんなにやわらかくて心地の良い、甘い体験をさせておいて、何も知らなかった以前の状態に戻るなんてとてもじゃないけど無理だ。なかったことにするくらいならあんなの教えないでほしかった。こんなのあんまりだ。ひどすぎる。心の中で思い切り先生のことをなじりそうになって、あ、でも、と一歩立ち止まって考え直す。
自分たちの関係はいつも先生が導いてくれて、先生からの誘いに乗るばかりで自分から欲しがったのは付き合うことを決めたときくらいな気がする。
いつだって優しく私を甘やかす人だ、もう一度欲しいと私から強請れば、ひょっとしたらあの夜みたいな時間を先生はくれるかもしれない。自分から動くなんて初めてだし、そもそもそういうことに誘うなんてしたこともないからどうするのが正しいのかなんてわからないけれど、自分なりに考えてやればきっと何とかなるはずだ。
もう年度始めのバタバタも落ち着いてきたし、先生もそろそろ仕事が落ち着くと思うと言っていた。やるなら多分今なんだと思う。拒否されたらその時はその時と諦めるしかない。ていうか拒否されたらどうなるんだろう。考えるのは恐ろしいから精一杯先生を誘ってその気にさせるしかない。なるようにしかならないけれど、何かしら動かなければきっとずっとこのままだ。そんなのは嫌だと首を振って計画を練り始めた。
* * *
「……本当にいいのか?」
「何度も良いって言ってるし、そもそも私からの提案なのよ? それとも私が部屋に上がるの嫌なの?」
「そうじゃない! そうじゃないんだ。そうじゃなくて、折角なんだし……外で飯でも、と思って」
「疲れてるんでしょ? 無理しなくていいよ。ちゃんと美味しいご飯作ってみせるから」
ね? と先生に向かって念を押せば、先生はおずおずといった様子で私に鍵を差し出した。
「いや……紫穂ちゃんの手料理、本当にすげー嬉しいんだぞ? でもさ、紫穂ちゃんも大学のあとで疲れてんじゃん? だから甘えるのは申し訳ないっつーか……」
「気にしないで? 私が勝手に押し掛けたんだもの」
「……そうか? 本当に甘えちまうぞ?」
「いいわよ? 明日やっとお休み取れたんでしょ? だから家でゆっくりしましょ?」
「……そうだな。めちゃくちゃ仕事頑張って絶対定時で終わらせて帰るから。待ってて」
「えぇ。あんまり無理しないでね。ちゃんと待ってるから」
わかった、と微笑む先生に微笑み返して鍵を受け取る。そのままひらひらと手を振って先生と別れた。あとは家に荷物を取りに戻って、買い物をして、先生のマンションに向かうだけ。疲れた身体に優しい、美味しいごはんを作って、仕事で疲れて帰ってくるであろう先生を出迎える。忙しくて溜まってしまっているかもしれない掃除や洗濯なんかの家事をしてあげるのもいいかもしれない。なにせ初めて鍵を預かって先生の部屋に上がるのだ。向けられる信頼にどうしたって浮かれてしまう。もし、うまくいかなくて何もなくても、それだけでも充分嬉しいと思えるくらい、他の誰にも変われない、自分だけの特権を行使できている。浮かれてばかりいられない。荷物の準備はしてあるけれど、取りに戻ったりする時間を考えればもう動き出さないと時間がない。パタパタと早足で廊下を駆けて、自宅への道を急いだ。
* * *
ピンポーン、とインターホンの音がして弾む気持ちを抑えながらパタパタと玄関に向かう。がちゃりと鍵を開けてドアノブを回すと向こうからもドアノブを引く力が働いて勢いよくドアが開いた。
「ただいま!」
ドアに引っ張られて体勢を崩しそうになったのをぎゅうと抱き締められて先生の胸板に顔を埋める形になる。もぞもぞと顔を動かして先生の顔を見上げてから眉を下げて微笑んだ。
「……おかえりなさい」
「ただいま! 帰りました! わぁーもう最高! 帰ってきたら紫穂ちゃんがいる!」
「ちょっと……玄関でやめてよ恥ずかしい」
もー、と頬を膨らませながら身体を引き剥がすと、にまにまと緩んだ表情が完全に崩れてしまうのを何とか堪えるように頬に力を入れている先生と目が合った。
「何その顔……しゃんとしなさいよ、いい大人なんだから!」
「いやー……普通に無理だろ。だって紫穂ちゃんが出迎えてくれんだぞ? 最高じゃん」
「……そんなことないでしょ……ふざけてないではやく手洗ってきて!」
「りょーかい」
にこりと微笑んだ先生はさりげなく私の頬にちゅっと口付けてからにこにこ笑顔で洗面所へ消えていった。僅かに感触が残る頬を指先でなぞる。楽しそうな背中を軽く溜め息を吐きながら見送って、自分はキッチンへと戻った。
作っておいた料理を温め直しながらお皿に盛り付けて、ダイニングテーブルに並べて、炊きたてのご飯もお茶碗に装って汁物も配膳した。我ながら上出来だと満足しながらテーブルを見つめているとそっと後ろから抱き締められた。
「美味しそう……めちゃくちゃ頑張ってくれたんだな?」
「……別に、これくらい普通よ? 美味しいもの食べて、栄養摂ってほしいなと思って」
「そんな可愛いこと言われると食べるの勿体ないなぁ……」
「多めに作って冷蔵庫に入れてあるから。また明日にでも食べて?」
「うわ、マジかー……明日も紫穂ちゃんの手料理食べられるとか、ホントめちゃくちゃ仕事頑張った甲斐がある」
「別にそんな有り難いモノでもないでしょ? さっさと食べましょ!」
プイッとそっぽを向いて先生の腕から抜け出す。もっと可愛くできればいいのに、照れが勝って思うように甘えられない。
「……だな。折角の料理が冷めちまう」
眉を下げた先生はふわりと笑って椅子に座った。それに倣うように自分も椅子に腰掛けて手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
嬉しそうにそう口にした先生はワクワクしながら箸を手に取って野菜をたくさん入れたお味噌汁に口を付けた。
「……この味噌汁が飲める定食屋があったら毎日通うわマジで一体何で出汁取ってんの?」
感動したように目を伏せて先生は恭しく両手でお椀を包んでいる。マジで旨いと繰り返しながら少しずつ味わっている先生からパッと目を背けながら赤い頬を隠した。
「……大袈裟でしょ。普通のお出汁よ? 何も特別なことなんてしてないわ」
初めて手料理を食べてもらうのだからいつもより丁寧に手間を掛けたくらいで何も特別なことはしていない。ただ、葵ちゃんの受け売りで、献立には気を配った。
男の胃袋を掴むにはわかりやすいメニューが一番いい、そういう料理こそ手間と愛情を掛けた分、特別な料理になる。
葵ちゃんはそうしてバレットの胃袋を掴んだと言っていた。今でも葵ちゃんが作るグラタンと豚のしょうが焼きはバレットのお気に入りだそうだ。皆本さんが作ったものよりも美味しいと言って食べてくれる。鼻高々にそう教えてくれたのを今でもよく覚えている。
先生は皆本さんの手料理を多分自分で再現できるくらいに食べているだろうから、皆本さんを越えることは難しいだろうけど、その分彼女らしい気遣いというか、先生のことを思って身体を労るようなメニューにした。
顆粒だしじゃなくてちゃんと出汁を取った野菜たっぷりのお味噌汁。それから季節の野菜の焼き浸し。メインに豆腐と挽き肉が一対一のハンバーグ。大根おろしを添えて出汁をきかせた和風餡をかけて仕上げた。
男の人だから本当はもっとガッツリしたメニューの方がよかったかもしれない。でも最近本当に忙しそうだったし、あまり胃に負担を掛けるような食べ物はどうかと思って避けたけれど、ひょっとしたら物足りなかったりするだろうか。
ドキドキしながら先生の様子を見守る。味噌汁をある程度堪能した先生は、ペロリと舌舐りをしてからハンバーグに箸を入れた。スッと柔らかく箸で半分に割ったハンバーグを更にひと口大に割って、先生はハンバーグにたっぷりと餡を纏わせて口へと運んでいる。思わずその様子をごくりと喉を鳴らしながら見つめてしまって、慌てて顔を俯けて視線を外した。自分も箸を手に取って味噌汁に口を付ける。出汁がよくきいていて味噌の具合も薄味でちょうどいい。ちら、と先生の様子を窺うと口元を押さえて俯いていて、その様子にヒヤリと冷や汗が垂れるのを感じた。
「……ご、ごめんなさい! 口に、合わなかった?」
どうしようと全身から血の気が引いていく気がする。餡の味見はしたけれど、ハンバーグ本体の味見はしていない。ひょっとして塩と砂糖を間違えたりみたいな初歩的すぎるミスをしでかしてしまったんだろうか。子どもなら許されるかもしれないけれど彼女の初めての手料理でソレは相当印象が悪いんじゃないだろうか。しかも自分はサイコメトラーだ。調味料を間違えるなんて適当に作ったと思われても仕方がない。どうしよう、と滲む涙を誤魔化しながら何とかリカバリできないかと思考を巡らせていると、ふるふると首を振った先生がきゅっと眉を寄せてそろそろと口を開いた。
「……びっくりするくらい旨い……俺の好みドンピシャすぎてコワイんだけど」
く、と顔を顰めた先生はすぐに頬を綻ばせて、マジでうまい、ともう一度呟いた。
「……やっ、ややこしい反応しないでッ! 素直に美味しいって言えばいいじゃない!」
「めちゃくちゃ旨いです。ありがとうございます。明日もこれが食べられるなんて俺は本当に幸せ者です」
「おッ、大袈裟! ふざけてないではやく食べて!」
かぁぁ、と赤くなる頬を誤魔化しながら自分もハンバーグをひと口大に割って口に放り込む。じゅわりと溢れる肉汁と和風餡が絡んで口のなかを満たす。肉だねに豆腐を混ぜたけれど適度なあっさり具合とボリュームで、気にしていた物足りなさは感じられない。それでも先生はどう思っているか不安でちらちらと先生の様子を窺いながら食べ進めていく。もぐもぐと静かに咀嚼を続けている先生に耐えられなくなって咄嗟に声を上げた。
「は、初めて皆本さん以外の男の人に手料理振る舞うから! どれくらい作ればいいかわからなくて……いつも一緒にご飯食べるときを思い出して作ったんだけど、どうかしら? 足りなくない?」
そわそわと落ち着きなく問いかけると、眉を下げてにこりと微笑んだ先生がそっと箸を置いて口を開いた。
「ボリュームちょうどいいよ。豆腐ハンバーグなのに物足りない感じもしないし、野菜の焼き浸しも味噌汁も野菜たくさんでめちゃくちゃ愛情感じる」
特にハンバーグに込められた愛情がさ、と更に続けようとした先生をあわあわと手を振りながら慌てて止める。
「も、いーから! 普通に作っただけだから! お願いだから普通に食べて!!!」
こんなの恥ずかしくて耐えられない、と思わず両手で顔を覆うと、愛情たっぷり感じながら普通に食べるな? と先生は嬉しそうにまた箸を取った。これじゃあとても夜までもたない、と赤い頬を押さえてドキドキしている心臓を少しでも落ち着かせる。そこでハッと忘れてしまっていたことを思い出して慌てて立ち上がった。
「あっ、お酒飲むでしょ? 勝手かなと思ったんだけど、ビール、冷やしておいたの」
ガタガタと椅子の音を立てながら慌ただしくキッチンに向かおうと先生に背中を向ける。多少お行儀が悪くなってしまったことには目をつぶって本来の目的を遂行しようとすると、先生は首を振って私の行動を止めた。
「いや、いいよ。折角の紫穂ちゃんの手料理、最後まで味わって食べたいから」
お酒はいいや、と続けて先生は食事を再開した。幸せそうにハンバーグとごはんを口に運んでいる先生に、それ以上無理にお酒を薦めるのは何だか気が引けてしまって、おとなしく椅子に腰を落ち着けた。仕方なく自分も食事を再開しながら、当初の計画が崩れてしまったことに少しだけ焦りを感じてしまう。
先生がお酒に酔ってしまえば、うまく事を運べるんじゃないだろうかという浅はかな計画だったけれど、こんなにも簡単に計画が崩れてしまうとは思わなかった。まぁでもまだ作戦は始まったばかり、と自分を落ち着かせて粛々と食事を続けていった。
* * *
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
ひとつ残さずお皿を綺麗にした先生が両手を合わせて深々と頭を下げる。私もそれに倣って手のひらを合わせた。
「よしっ、俺片付けるから紫穂ちゃんはゆっくりしてて」
「えっ、私も片付けるわ。先生仕事で疲れてるでしょ?」
「それはお互い様だろ? 作ってくれたんだから片付けは俺がやるって。ソファーで休んでな」
「じゃあお茶の準備するわ。それならいいでしょ?」
そう言って自分の食器を持って立ち上がると、敵わねぇなと苦笑を溢した先生が同じように食器を持って立ち上がった。二人並んでキッチンに向かい、それぞれの作業に取り掛かる。先生が食器を食洗機に入れている間に電気ケトルでお湯を沸かす。待っている間に湯呑みを出して緑茶のティーバッグの準備も済ませた。シューシューという音と共にカチリとスイッチが切れる。ケトルのお湯を丁寧に湯呑みに注いでから茶葉を蒸らしてティーバッグを処分すると先生が小さなトレイを差し出した。
「あ、アリガト」
「ん。俺が運ぶよ」
湯呑みをトレイに載せた先生にキッチンを出るように促される。リビングでいいか? という問いかけに小さくこくりと頷いてリビングへ向かう。サイドテーブルに湯呑みを並べる先生の邪魔にならないようソファに座った。離れすぎているわけではない、でも身体を寄せ合うには少し距離がありすぎる微妙な位置に座った先生は、いただきますと言って湯呑みに口を付けた。それに倣って私もまだ少し熱い緑茶を口に含む。夜だからとあまり濃くならないように淹れた緑茶の味はちょうどよかった。
「……もう大学は落ち着いたか?」
「うん。先週履修表提出したし、今年度もしっかり勉学に励みます」
「うむ。卒業してからも勉強することだらけだけどゆっくり集中して勉強できるのなんて今だけだからな。頑張れよ」
そう言って柔らかい笑顔を浮かべながら先生は私の頭を撫でてくれる。大きな手のひらが心地好くて自然と顔も綻ぶのを感じつつ、チラリと先生を見上げると優しく緩められた目と視線が絡んだ。あ、この感じ、とそろりと目を閉じて先を促そうとすると、ぽん、と大きな手が私の頭を撫でた。
「そろそろ帰るか? あんまり遅くなると明日キツいだろ?」
キスが降りてこなかったことにがっかりしつつ、ふるふると首を振って頭に残った感触をなぞるように手で触れる。
「……まだ七時半よ? 大丈夫よ」
「そうか? でも」
「かっ、薫ちゃんにね? 映画、借りてきたの! 一緒に……観ない?」
ダメ? とおずおず問い掛けながらサイドテーブルに準備しておいた映画のディスクを置く。
「皆本さんも一緒に観たらしいんだけど、すっごく良かったって。薫ちゃんがオススメしてくれたの」
「へぇ……皆本が?」
「うん……この前お家デートしたときに一緒に観たんだって」
パッケージの裏を観ている先生の様子をチラチラと窺いながらもじもじと指先を組み合わせた。葵ちゃんもバレットと一緒に観てすごく良かったと言っていた。薫ちゃんも葵ちゃんもとにかく盛り上がって良かったとのお墨付きだ。何が、とは大きな声では言えないけれど、あの皆本さんですらそういう気分にさせたという薫ちゃんの後押しに、やっぱり期待してしまうのは仕方がない。
「紫穂ちゃんは観たことある映画なのか?」
「まだ観たことないの。せっかくだし、一緒に観ようと思って持ってきたんだけど……ダメ?」
薫ちゃんたちからはネタバレになるから、と詳しいあらすじも聞かされていない。私が知っているのは洋画のラブロマンスということと、ちょっとだけ大人向けの内容で、でもあからさまにそういう内容というわけではなく恋人同士がお互いを大事に想っていることがよく伝わってくる映画だということだ。
「大体一時間半くらいか……今から観れないこともないな」
「でしょ? だから一緒に観ましょ?」
「……そうだな。折角だし一緒に観ようか」
そう言って先生はデッキにディスクを入れてリモコンで操作し始めた。電源の入ったテレビの液晶に配給会社の映像が流れて再生メニューが表示される。また微妙に離れた位置に座った先生が再生ボタンを押して映像が流れ始めた。もうちょっとくっついて座ってもいいのに、とほんの少し頬を膨らませながらそろそろと先生ににじり寄る。そのままソファに突いていた先生の腕に甘えるように腕を絡めた。そろりと体重も預けてしまって肩に頭を凭れさせる。抵抗せずに好きにさせてくれているのにホッとしながら手に指を絡めると、同じくらいの力で握り返してくれる。それが自分のこれからの行動を許してくれているようで。少しだけ嬉しく思いながら静かに始まった映画に集中した。
* * *
エンドロールも終わりに近付いている。どきどきと高鳴る胸は触れ合っているところを通して先生にバレてしまっている気がする。それでも良かった。ストーリーはすごく感動したし、映画の登場人物たちのように、大切に想い合って触れ合いたい。愛を確かめ合いたいと思える素敵な映画だった。皆が盛り上がったと言っていた意味が今ならわかる。エンドロールの最後の文字が画面の外に流れていって、パッと再生メニューに表示が切り替わる。先生がリモコンを操作して、プツンとテレビの電源が切れた。
「……映画、終わったな」
「……えぇ。良い映画、だったわ」
「そうだな。とても良い映画だった」
繋いだままの手にきゅっと力がこもる。先生の大きな手は体温が高くて、こうして繋いでいるだけでもあたたかい気持ちになる。きゅうと先生の腕を抱き寄せながらそろりと先生の顔を見上げた。私の視線に気付いた先生はふわりと微笑んで空いた方の手で私の頭を撫でてくれる。甘えるようにそれを受け入れながら、そっと目を閉じてキスをせがんだ。甘いキスを期待して先生の服の裾を緩く掴む。じっと待っていてもなかなか降りてこないキスに焦れていると、そろりと優しく前髪を撫でた先生が、ちゅ、と軽い音を立てて額から離れていく。
「……送るよ。明日も大学なんだろ?」
え、と思わず額を押さえながら先生を見上げると、さっきと変わらず優しい笑顔を浮かべている先生と目が合った。これだけ? と寂しい思いを感じながらあわあわと先生の服の裾を引っ張る。
「あのっ! あのね?! わ、私、明日、午前中の授業、振替になって……えっと、だから……その……」
しどろもどろで目もくるくると回っているような感覚に襲われつつ、それでも必死に自分を叱咤して何とか口を動かした。
「き……今日は……その……帰りたく、ない……な……」
きゅっと目を瞑りながら何とか最後まで言えたとほっと肩の力を抜く。言えたけれどなかなか返事が返ってこない上、微妙な沈黙が部屋の中を支配している。はやく何か言ってほしい。ひと言、いいよ、って言ってくれたらそれで済むはずなのに。なんで黙ってるの、と恐る恐る目を開くと、驚いて目を見開いている先生と目がばちりと合った。
「え」
先生の間抜けな声が耳に届く。今になって自分はとんでもないことをしでかしてしまったのかもしれないと思い至って、かぁぁ、と頬が熱くなってくる。
もうダメだ。
こんなの耐えられない。
自分の紅く染まった頬を隠すように俯きながらそっと先生の身体を押して距離を取った。
「ごっ、ごめんね? 急にそんなこと言われても困るわよね? き、今日はもう……帰る、ね」
自分の動揺を知られたくない。じわりと浮かんでくる涙も見られたくない。何よりこんな恥ずかしい気持ちになっている自分を認めたくなくて、くるりと先生に背を向ける。そのまま自分の鞄を手に取って慌てて立ち上がるとパシリと手首を掴まれた。
「いや! 紫穂ちゃんがいいなら! 泊まっていってくれ!」
掴まれた手首に、きゅう、と力がこもって切羽詰まったような先生の声が部屋に響く。その声の切なさにキュンと胸が疼いて恐る恐る振り向いた。
「……ホントに? いいの?」
「あぁ。紫穂ちゃんが嫌じゃなければ、是非」
縋るような先生の視線にどきりとして、すとんとソファに座り直した。
「……じゃあ、今晩、泊めてくれる?」
「もちろん。いいよ。風呂の準備してくる」
ほっとしたようにふわりと笑った先生は、もう一度だけ愛おしむようにきゅっと手首を掴んでからお風呂場へと向かってしまった。その背中をそろりと見送って、どきどきとうるさい胸を撫でつけた。
* * *
「先生? お風呂ありがとう。湯船のお湯、入れ替えた方がいい?」
「あー、そのままでいいよ。追い焚きして入るから」
ひょこりとバスルームから顔を覗かせると先生が笑って答えてくれる。片付けたお風呂セットを手に持ってお風呂場を出ると、先生がペットボトルのミネラルウォーターを手渡してくれた。
「それ紫穂ちゃんの分だから」
「……アリガト」
「リネン交換しておいたから。先にベッドで寝てていいよ」
おやすみ、と言って先生は入れ替わりでお風呂場へ消えてしまった。冷えたペットボトルを持ったまま、リビングへ移動しぼふんと身体をソファに投げ出す。サイドテーブルの足元にカバンを投げ出して、パキリとペットボトルの封を開ける。コクコクと四分の一くらいを飲み干して、ふぅ、とペットボトルをサイドテーブルに置いた。
なんだろう。初めてのお泊まりなのに、なんだかこう、盛り上がりに欠ける気がする。
雰囲気のいい映画を観て懸命にムードを演出してみたものの、ドキドキする展開は特に何も起きていない。いちゃいちゃできるものだと思っていたから何だか拍子抜けだ。お風呂上がりの姿にもっと何か反応するかと思っていたのもハズレだった。
「……せっかく、新しいパジャマ買ったのに」
ぷぅ、と頬を膨らませながら居たたまれない気持ちを隠すようにパジャマのフードを被る。可愛いと一目惚れして買ったものの、可愛いと感じてほしい人から何も言ってもらえないのではせっかくの可愛さも半減してしまう。むぅ、と口を尖らせながら膝を抱えて顔を埋めた。
先に寝てていい、ってどういうことだろう。言葉通り受け取ればいいんだろうか。初めてのときみたいに、ベッドで待ってて、って言ってくれれば素直に寝室へ向かえたのに、これではどう行動するのが正解なのかさっぱりわからない。
もし、本当に言葉通りの意味で一晩寝る場所を提供してくれるだけだったらどうしよう。一緒に寝ていてもそういう気が起きないとなると、やっぱりあの初めての夜は夢か何かだったのかもしれない。そもそも先生はこういうことに慣れまくっているんだろうし、そういったドキドキなんてもう感じないのかもしれない。
もともと二年も何もなかったんだから、もしかしたら二十歳の記念でたまたま盛り上がってそういうことになっただけで、私とそういうことをしようなんて普段はちっとも思わないのかもしれない。いくら身体は育って女性的な体つきになったとはいっても、子どもの頃からの付き合いだから交際をしていてもそういう気が起きない、とか。
はぁー、と深い溜め息を吐いてうりうりと膝に額を擦り付ける。何だか盛り上がってるのは自分だけみたいだ。気合いを入れて下着にも気を遣ったりしてみた自分が恥ずかしい。
だって初めての日は見られて恥ずかしい下着だったわけじゃないけれど勝負下着とかそういう類いのものじゃない普通の上下セットでもうちょっと私にも準備させてほしかった。やり直しなんてきかないとわかっていても、あれきりだというのならせめて下着だけでもやり直したい。子どもっぽい下着だったとは思わないけれど、もしあの気合いの入ってない下着のせいで次の機会を失ってしまったのだとしたら後悔してもしきれない。もしそうなら今さら大人っぽい気合いの入った下着で迫ったって無駄な気がする。慣れてる大人の男なんだからそういう気遣いをしてくれたってよかったのに。それとも先生とお付き合いしてた女の人たちはいつも気合いの入った下着が当たり前だったんだろうか。
それなら幻滅されてしまっていても仕方がない。
「……私とのお付き合いなんておままごとみたいなものなのかしら」
そうであれば付き合って二年間何もなかったことも頷ける。今日は大人しく寝てしまった方がいいのかもしれない。きゅう、と膝を抱き締めながらぽてりとソファの腕置きに身体を預けると、かちゃりと扉の開く小さな音が耳に届いた。
「……耳ついてる。かわいい」
ふわ、と大きな手に頭を撫でられて身体を起こすと、先生は微笑みながら私の隣に座った。それでもやっぱり微妙な距離は保たれていて。ごくごくとペットボトルの水を飲んでいる先生をきゅっと唇を引き結んで見つめた。ふぅ、とひと息吐いた先生は、私と同じようにペットボトルをサイドテーブルに置いて、もう一度フードについた猫耳を弄ぶように指先でくすぐった。
「パジャマとか風呂の用意とか持ってきてたんだな。服どうするのかと思って心配してたんだ」
にこりと笑う先生に指摘されて、あわあわと頬を染めながら言い訳を考える。
「あ……えっと……お泊まり用の、パジャマ……なの」
今日のために新調した、なんてもう言えない。ふわふわと浮つく頭で選んだ、今日のお泊まりのためのパジャマを買っただなんて重すぎる。どう誤魔化そうと必死に言葉を探していると、フードで隠れた頬を指先で撫でられて、そのまま額にキスされた。
「可愛い。すげー似合ってる」
にこりと笑った先生がくしゃくしゃと頭を撫でてくれて、カッと頬が熱くなる。ずれたフードをもう一度すっぽりかぶり直して、にゃん、と猫の鳴き真似をして誤魔化した。咄嗟の行動とはいえイタくも感じる自分の仕草に余計頬に熱が集中するのを感じながら、先生の唇が触れたところを指先で撫でる。可愛いと言われたからって調子に乗ってはいけないのに、ついうっかり調子に乗ってしまった。何でもない顔をしておかなきゃ、先生を困らせてしまうかもしれない。赤い頬を手で覆って隠しながら先生を見つめると、先生はもう一度フードについた耳の感触を確かめるように私の頭を撫でた。
「いいよなぁ、女の子は」
「え?」
「そういうかわいいのとか思いっきり楽しめるじゃん? かわいいなぁ、って思っても自分が着るとなるとやっぱり周りの目とか気にしちまうし」
いいなぁ、と猫耳を指先で弄っている先生は、やわらかいボア生地の毛並みを整えるように大きな手のひらで撫で回している。ふわふわの感触を楽しみながら柔和な笑顔を浮かべていて、じわりと頬が熱くなった。その笑顔は私に向けられているんじゃなくてパジャマに向けられているのだから、と自分に言い聞かせる。これ以上浮ついちゃダメ、と自分を抑えても、先生の目があまりにも優しくて、つい、調子に乗ってしまった。
「実は、ね? 可愛いな、と思って……先生の分も、買ってある、の」
がさ、と足元に転がった鞄から取り出したそれは、浮ついた頭で、衝動買いに近い形で自分のパジャマと同じ日に手に入れた先生用のパーカー。自分が今身につけているものと全く同じデザインで色も同じ、流石にボトムまでお揃いにはしなかったけど、今思うとだいぶイタイ買い物をしてしまったのではないか。
「お揃い、とか……イヤ?」
パーカーを広げて先生によく見えるよう差し出しながら、眉を下げて首を傾げる。私に嫌かと聞かれて素直に嫌だと言えないような優しい人だと知っているのに、こんな風にしては無理強いもいいとこだ。それでも突き出してしまったパーカーを今更引っ込めることもできなくて、ぎゅうと目を瞑って先生の反応を待った。シンとしてしまった空気にゴクリと喉を鳴らして、恐る恐る薄目を開けて先生の様子を窺うと、ピシリと固まった先生が目を見開いて私を見ていた。
「え」
ぽろ、と口からこぼれるようにそう呟いた先生に、かぁぁぁぁ、と一気に顔が熱くなる。
「ごッ、ごめんなさいッ! ちょっと、一回……そういうこと、したからって……調子に、乗りすぎよね?」
わたわたと広げたパーカーを手早く畳みながら自分の胸に抱え込む。ぎゅうと潰して質量を縮めてしまうように握り締めると、慌てたように身を乗り出した先生にガシリと腕を掴まれた。
「は? いや、浮かれまくって調子に乗ってんのは俺の方だろ?!」
何言ってんだ? と真剣に驚いている表情を浮かべる先生に、へ? と首を傾げて身体に入っていた力を抜く。
「……え?」
「……だ、だって、紫穂ちゃん……その……シた、後も……全然、前と変わんないじゃん……俺ばっか、浮かれてて……どうしようもない……」
かぁ、と赤らんだ頬を俯けながら、先生はポツポツと恥ずかしそうに呟いている。まるで居心地が悪いというように私の顔をちらちらと前髪の合間から私の様子を窺うように見つめて、ハァ、と肩を落としながら先生は深い溜め息を吐いた。
「……俺たち、さ。付き合う前から、なぁなぁでキスしちゃってただろ? だからさ、それ以上のことはちゃんとケジメつけなきゃダメだって、思ってて……」
私の腕を掴んでいた手をするりと滑らせて私の手を取った先生は、恐る恐る私にお伺いを立てるように指を絡めてくる。全ての指が絡み合ったところで、思い切ったように顔を上げた先生は、もう片方の私の手も掴んでぎゅっと握り締めた。手を引っ張られたせいで自然と向き合う形になって、ソファーの下へパーカーが音も無く落ちる。ジッと私を見つめてくる視線に応えていると、先生は自分を落ち着かせるように深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「俺、さ……本当は、結婚するまで、そういう……その、君に手を出すつもりはなかったんだ……でも、ちょっと……何て言うか……君が二十歳になったのが嬉しくて……気がついたらホテル予約しちまってて……断られるだろうと思って、断られたら、ちゃんと、ホント、結婚するまで我慢しようって」
そこまで言って、ハァァァァ、と深く溜め息を吐いた先生は、私の手をそっと離して床に落ちたパーカーを拾った。そしてそのままもそもそとそれを身に着けながら、眉を下げて、ぽつり、ぽつり、と力ない声で続ける。
「君と、そういうことしてから、めちゃくちゃ忙しいのに、紫穂ちゃんも忙しいってわかってるのに、無性に君に会いたくなったりして……深夜に会いに行くとか迷惑だ、って自分に言い聞かせて、会いたいのすげー我慢してたし……こんなに、会いたくて苦しいなら……やっぱり……ずっと、我慢しときゃよかったって……ホントに後悔してたんだ」
びっくりするくらいサイズぴったりだ、と泣きそうな顔で先生は笑った。それから、また深い溜め息を吐いて、手のひらで顔を覆ってしまう。ぐったりと項垂れたように俯いている先生は、顔を覆ったまま、静かな部屋に小さく呟いた。
「俺ばっかり、君のこと……好きなんだなーって……改めて自覚した、っつーか」
いや、ごめん何でもない、と言って、先生はフードを被って顔を隠してしまう。更にフードを引っ張るように摘まんで俯いてしまった。白いふわふわの耳が生えたフードに包まれて先生の顔は見えないけれど、落ち込んでいるのは伝わってきて咄嗟に先生の手を掴んだ。
「先生」
掠れた私の声に、先生はぴくりと肩を震わせたけど、顔を上げてはくれない。きゅっと指先に力を込めたら、そろそろと握り返してくれる。それから、ふるりと頭を振って顔を上げた先生は気持ちを切り替えるように深く息を吐いて唇を引き結んだ。
「……ゴメン。今の、忘れてくれ。不満があるわけじゃないんだ。ホントに。忘れて」
情けなくてゴメンな、と眉を下げて先生は私を見て笑った。それがどうしようもなく悔しくて、先生にそんな顔をさせてしまっている自分が情けなくて、飛び付くように先生の頭を抱き締めていた。
「せんせい」
ぎゅう、と胸に抱え込むようにして抱き寄せながら、震える声で先生に訴える。
「……待たせて、ごめんね。待っててくれて、ありがとう。私も、先生のこと、ちゃんと好きだよ」
好き、大好き、と涙声で何度も繰り返すと、先生はホッと肩の力を抜いて私の背中に手を回した。そのままうりうりと甘えるように額を擦り寄せてからそっと私を引き離した。
「情けないとこ見せてゴメンな。紫穂ちゃんがちゃんと俺のこと好きで付き合ってくれてるのはわかってるから。さっきのは妄言だと思ってホント忘れてくれ」
ホントごめん、といつもの笑顔で笑う先生は、そんなの、と続けようとする私から話題をすり替えるようにソファーに座り直して首を傾げて見せる。
「それより! 急に泊まりたいなんて珍しいな? なんかあったのか?」
誤魔化すようにペットボトルに口をつけて水を飲みながら先生は私から視線を逸らして聞いてくる。また開いてしまった微妙な距離がもどかしくて、にじり寄るようにソファーに身を乗り上げて先生に詰め寄った。
「……彼女が、彼氏の家にお泊まりしちゃ、いけないの?」
「え、いや……そんなことねぇ、けど……でもさ、ホラ。俺たち付き合ってるって言っても紫穂ちゃんはまだ一応嫁入り前の女の子じゃん? あんまり、外泊とかそういうのは」
「さっき私と結婚するとかどうとか言ったくせに?」
「う……えっと、それは……俺は、そのつもりで紫穂ちゃんと付き合ってるってだけで、紫穂ちゃんがどう考えてるかは別の話じゃんか?」
「私まだプロポーズなんてされてないわ」
「そ、そりゃそうだろ? だって君はまだ学生で、この先どうしていくのか、人生これからって時じゃん? それなのに結婚とかプロポーズとか、そういうのは違うだろ?」
「……ナニソレ。私と結婚できないってコト?」
「いや、そうじゃなくて……今はまだ結婚とか考える段階にないだろって話」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして、そう言い切れない自分に気づいてしまう。あれ? と眉を下げて、そんなことないはずなのに、と考え直してみても、やっぱり即答できない自分がいて驚いた。
「俺とは歳も離れてるし、これからの未来で紫穂ちゃんの気持ちが変わって、ってコトいくらでも有り得るじゃん? それなのに結婚の約束だけして君を縛ることはしたくねぇし。君には君の人生があるんだからさ」
「……私が、他の人を好きになるって言いたいの?」
「可能性の話だよ。そうならないよう精一杯努力はしていくつもりだけど、やっぱりさ、人の心はどうにもならないって、お互いよくわかってるじゃん?」
眉を下げながら先生は笑って、自分たちが嫌というほど透視てきた人の裏側や脆くて移ろいやすい心の在り方を、ひらりと手のひらを翳して暗に指摘した。お互い、この手のひらでそういう現実を見てきただろう? と言いたげな先生に、ぶんぶんと首を振って否定する。
「それでも! 私は先生が好きだし、先生のいない未来なんて考えられないし、先生となら結婚するっていう未来も考えられるわ!」
「それは……紫穂ちゃんはまだ、俺しか知らないからかもしれないじゃん。これから先、俺以外の男も知ったら、考え方だって変わるかもしれない」
「何よそれ。私に浮気しろって言うの?」
「いや、浮気とかじゃなくて……俺以上に良い男に会うかもしれないじゃん? そうなったら、俺なんてもうただの紫穂ちゃんにつきまとうオッサンじゃんか」
「そんなことない。そんなことないよ! どうして私のことそんなに好きなのにそんな弱気なのよ! 私のこと好きなら絶対離さないくらい言ってみなさいよ!」
じわじわと滲んでくる涙が視界をぼやけさせて、ついにはポロリと頬を伝う。堪えきれずにしゃくり上げてしまうのを隠そうともしないでポカポカと先生の肩を叩いた。
「そんなに弱気なくせしてどうして私の初めて奪っちゃったのよ! そんなこと言うなら返してよ! そんな酷いコト言うんだったら、先生じゃない、その、先生以上の良い男って人にあげたかった! 私の思い出を取ったくせに今更そんなこと言わないで! 私はあの日のこと忘れられないのに! もう私にそういう興味が持てないならこんなおままごとみたいな恋愛はやめてとっとと昔みたいに他の女のとこへ行けばいいでしょう!? こんなに好きにさせておいて! ひどいよ! ……ひどすぎるよ……私はもう忘れられないのに」
ぼろぼろとこぼれる涙が膝やソファーに落ちて、ところどころ染みになっていく。涙まじりの訴えに、先生が息を呑んだのを感じて、ぎゅっと眉を寄せて先生を睨みつける。
「私は……こんなに好きなのに! やっと、恋人らしいことできるって、嬉しかったのに……そんな風に言うなら、どうしてあの日、私をホテルになんか連れてったのよ!!!」
振り絞るように叫んで訴えれば、苦しそうに眉を寄せた先生が、思い詰めたようにガバリと頭を下げた。
「ゴメン……俺が悪かった。あんな、選択肢を与えないような卑怯なやり方で、君の初めてを奪った。一生掛けて償うし、責任だって取る。事実は消せないけど、紫穂ちゃんが困るようなことにはならないよう、俺が守るから。全部、君の望むようにするし、君が望むなら今すぐ君の前から消える。それでも足りないって言うなら」
「ちがう! 違うわ! そうじゃない、そうじゃないでしょ!?」
下げたままの頭を無理矢理持ち上げて、ぎゅむ、と両側から頬を掴む。うぐ、とうなり声を上げた先生のことを無視してしっかりと目を見つめて叫んだ。
「私のこと好きって言って! 私と絶対結婚するってちゃんと言って!」
先生以外なんて、有り得ないんだから、と震える声で訴えると、先生は辛そうに顔を顰めて恐る恐る私に腕を伸ばした。その胸に飛び込むように抱き付くと、先生は痛いくらいに私を抱き締めて呟いた。
「俺だってもうずっと君だけだ。他なんていらない。堂々と君のものになれるなら何だってする」
私の肩に顔を埋めて、先生は震える声ではっきりと私に言った。
「俺と結婚して。紫穂ちゃん」
「ヤダ。キスしてくれなきゃ許さない」
ぎゅう、と抱き締め返しながら答えると、う、と先生は息を呑んでそろそろと私から離れていく。
「キスしたら止まんなくなる自信しかないからめちゃくちゃ我慢してるんだ、察してくれよ……」
はぁぁぁぁ、と深い溜め息を吐きながら、先生はまた顔を両手で覆ってしまう。
「なんで急に俺んちに泊まりたいとか言い出すの。俺、一応男だよ? わかってんの?」
「……はぁ? 何ソレ? 今更じゃない? 先生が男じゃなかったら何なのよ。私のお兄ちゃん?」
バカなこと言わないで、とぷぅと頬を膨らませれば、ぐ、と言葉に詰まった先生が私から逃げるようにソファーの隅に寄っていく。それを逃がすものかと追いかけるように詰め寄った。
「……がっつくのはかっこ悪いし……初めてのときも雰囲気にのせて選択肢奪ったようなもんだし、結婚とか我慢するとかいろいろ考えてるつもりなのに、俺、ホント、全然紫穂ちゃんのコトを考えられてない……」
うぅ、と身体を縮めて膝まで抱えてしまった先生は、何だかフードの耳も相まって怯えて震えている動物に見えてくる。へなへなと垂れている耳を先生がしてくれたように指先で擽るように頭を撫でた。
「先生がフード被ると……なんだかオオカミみたいね」
弱々しい先生の姿にさっきまでの怒りが吹き飛んでしまう。クスリと笑みをこぼしてうりうりとフードの耳で遊んでいると、ガバリと顔を上げた先生が顔を真っ赤にして私の手を掴んだ。
「君は!!! もっと警戒しろよ! 俺は男なんだぞ!!!」
キッと眉を吊り上げて私を睨んでくる先生は本物の耳まで真っ赤で全然怖くない。
警戒ってナニよ。
ぷくりと頬を膨らませて視線に不満を乗せるようにして先生を睨み返す。
「……警戒って? 結婚しましょうかって人のことどうやって警戒すればいいのよ。普通油断するんじゃないの?」
フン、と鼻を鳴らしながら胸を張ると、今度はへにょりと眉を下げて先生はぎゅっと私の手を掴んだ。
「油断なんかすんなよ! 男は狼って言葉知らないわけじゃないだろ!?」
もっと俺を警戒しろよ! と泣きそうな顔で叫んでいる先生は私の身体を押し返すように腕を突っ張った。それに抵抗するように身を乗り出して無理矢理先生の顔を覗き込む。
「私と結婚するつもりがあるんだったら関係なくない!? 責任とか覚悟とか、そういうの込みで結婚も視野に入れてるんじゃないの?!」
カッとなって叫ぶと、先生はまた苦しそうに顔を歪めて口を開いた。
「それはッ! ……それは、そうだけど! それと、これとは、別の話、だろ」
「……どういうこと?」
「責任とか覚悟とか、俺はそういう義務感だけで君と結婚するつもりなんじゃない。でも、君の人生を背負う覚悟はできてる。だけど、君の人生は君のものだ」
眉を歪めた先生は、そろりと私の手を掴んで項垂れる。そのまま緩く首を振って、そろそろと絡めた指に力を込めた。
「……俺が、君の人生を壊してしまうかもしれないって事実が、怖いんだよ」
「……え?」
「俺のせいで、紫穂ちゃんがやりたいことを諦めなきゃいけないとか、そういうのは、絶対避けなきゃいけない」
顔を上げた先生が、真剣な目をして私を見つめる。
「俺は、やりたいことやらせてもらって、それを仕事にして生活を築けてる。でも、紫穂ちゃんはまだ人生これからで、これからいくらでも世界は広がってる」
「……うん」
「いろんな世界を見て、君の本当にやりたいことを見つけなきゃいけないときに、俺がそれを阻むのは絶対ダメなんだよ」
「……別に、先生と結婚したって私は私の道を進むわよ?」
眉を寄せて首を傾げれば、先生はふるりと頭を振って苦しげに口を開いた。
「それはそうかもしれないけどそうじゃなくて……俺本当に後悔してるんだ自分の行動が無責任だったって」
今にも泣きそうなくしゃくしゃの顔で先生はまっすぐに私を見つめて、怯えるように私の指先を包み込んだ。
「君を妊娠させたらどうしようって考えるだけで、ホント今までの俺はなんて軽率で馬鹿だったんだろうって後悔してもしきれねぇんだよ」
マジで俺は俺をぶん殴りたい、と続ける先生に、カッと頬が熱くなるのを感じながら居心地の悪さを誤魔化すように目を逸らす。
「……そ、そんなの……ちゃんと、避妊、してくれたじゃない」
「それでも完璧じゃない。百パーセントじゃないんだ。俺が避妊したって妊娠する可能性はあるし、俺が生体制御を使ったって自分の本心と反することにそう上手く脳は操られてくれない」
結婚だけじゃなくて、俺は君との子どもだって欲しい、ともにょもにょ顔を赤くして先生はたどたどしく言葉を紡いでいる。
「こ、こども……」
「紫穂ちゃんがまだそんなん全然想像すらしてないってのはわかってるんだ。だから、その、ホント、こんなこと言うのは変だってわかってるけど、あんまり俺のコト信用するなっていうか、俺にも我慢の限界はあるっていうか……」
しどろもどろになりながら、先生は私の手を離して頭を抱えてしまう。そのまままた私から逃げるように離れようとするのを無理矢理捕まえて服の裾を引っ張った。
「でも、避妊をちゃんとすれば……できるでしょ?」
「シたいから薬飲んでくれって言うのはちがうだろ? だから……俺が我慢すれば、いい、話、なわけ、で……」
うぅぅ、と小さく唸っている先生を縋るように見つめながら、我慢ってそんな、と先生の服を引っ張る。
「ホントに? 我慢出来るの? 今日は一緒に寝るだけってコト? キスもできないの?」
捲し立てるように先生に問い掛けると、先生はびくりと肩を震わせてますます身体を縮めてしまった。
「……わたし……今日は、そういうこと、するつもりで……ここに、来た……のよ?」
迷惑、だった? と先生の服から手を離して自分のパーカーの裾を掴む。
「下着だって……あの日は、準備もなにもない、普通の下着だったから……今日は、ちゃんと、そういう下着も用意して……」
自分ばかりが呑気に何も考えず浮わついていたのだと言われているようで、指先が冷たくなってくる。先生との歳の差と、自分の甘さをまざまざと見せつけられてしまって血の気が引いたように落ち込んでしまった。悲しくて涙が出てしまいそうなのを堪えていると、グゥゥゥゥ、と悶絶するような唸り声を上げて先生は自分の膝の上で握り拳を作った。
「……なんでそういう俺が我慢できなくなるようなこと言っちゃうかなぁ!!!」
グッと眉を寄せて目をぎゅっと瞑っている先生は堪えきれないというように叫んだ。その内容にカッと頭に血が上って私も噛み付くように言い返す。
「何よソレ私が悪いみたいな言い方しないで! 元はと言えば二年も何もなかったくせに急に誘ってきた先生が悪いんでしょ?!」
「ハイそうでした全部俺が悪いです申し訳ございません!!!」
先生はソファーの上に乗り上げて土下座するようにガバリと頭を下げている。ソファーの座面に額を押し付けて動かなくなってしまった先生の背中を見つめていると、膨らんだ風船から少しずつ空気が抜けるように怒りが収まっていく。掴んでいたパーカーの裾を引っ張りながら、ふぅと息を吐いた。
「先生が……先生があんな風に優しく私に触れるから……もっと欲しいって思っちゃったんでしょ……全部先生のせいよ……」
震える声で小さく訴えれば、先生はそろそろと顔を上げて力を込めすぎて白くなっていた私の指先に手を伸ばした。それからゆっくりと私の手を解いて、そろりと撫でながら指先にキスを落とす。そっと触れるだけのキスを終えた先生は眉を下げたまま私の目をじっと見つめた。
「ごめん。本当に悪かった。俺が全部悪い。責任取るから。どうすれば許してくれる?」
いや、許してって話がおかしいのはわかってるんだけど、と項垂れる先生の普段見えないつむじを見つめて、唇を尖らせながら眉を吊り上げて口を開く。
「……じゃあ先生がお薬処方して。先生が責任もって私の身体を管理して」
「……え? は?」
「お薬使えば避妊率も上がるんでしょ? 百パーセントじゃないにしても、妊娠する確率はグンと下がる」
「それは、そうだけど」
「先生は私とシたくないの?」
「シたくないわけねぇだろ今だってめちゃくちゃ我慢してるんだぞ!」
「私だって先生とそういうことしたいと思ってる……だから、薬も使いましょ?」
「……いやじゃ、ないのか? そういうことがしたいからって、薬飲むの」
頼りなげに眉を下げて私に問いかけてくる先生にクスリと微笑みながら、そっと先生の手を解いてパーカーのジッパーに手を掛ける。ジー、と音を立てながらジッパーを下ろしていくと、不思議そうに首を傾げていた先生がギョッと目を見開いた。徐々に露わになっていく肌に視線が釘付けになっている先生に笑みを深めながら、最後までジッパーを下ろし切った前合わせを開いて下着に包まれた上半身を先生に向けて曝した。
「イヤじゃないよ。それで先生に触れられるなら安いもんでしょ」
「な……え……」
「確かに我慢するのが一番正しい方法なのかもしれない。でもそんなの苦しいだけでしょ? 私だって先生に触りたい」
ドサリ、と押し倒されて視界が反転する。背中はやわらかいクッションに包まれていて大きな音がした割に衝撃は少なかった。ソファーに押さえつけるように掴まれた手首も痛くない。それなのに覆い被さって影を作っている先生の表情は険しくて、痛みを堪えるような顔だった。
「センセイ?」
自由な首をほんの少し傾げて先生の目を下から見つめ返すと、先生は手首を掴んだ手にきゅうと力を込めて唇を引き結んだ。
「……ゴメン……今、退くから」
「押し倒してるクセに?」
「や……うん、ホントごめん」
「謝らないでよ。私ってやっぱり子どもっぽいのかしら?」
「そんなわけないだろ俺がめちゃくちゃ我慢してるのを紫穂ちゃんが知らないだけだ」
「でも我慢できなくなって押し倒しちゃったんでしょ?」
「ぐ……それは、その」
「優しくして? とびきり甘くしてくれるなら、いいよ?」
「……ッ」
ふわりと先生に微笑みかけると先生はクッと眉を寄せて甘えるように私の肩へ額を擦り付けた。そのまま手首を解放されてそろそろと抱き寄せられる。それに応えるように先生の背中へ腕を回せば、きゅうと胸が切なくなるくらいに優しく抱き締められた。
「優しくなんてできないかも」
「……いいよ。先生なら」
「かっこよくないとこ見せるかも」
「今でも充分かっこいいと思ってるわよ?」
「君の前では一番かっこいい自分でいたいんだ」
「……カッコ悪い姿も見せなさいよ。私の人生背負うつもりなら、それくらいの弱味見せてくれなきゃ困るわ」
クスクスと小さく笑いながら先生の頭を撫でると、うぅ、と弱々しい唸り声を上げて先生は私の肩から顔を上げる。頼りなく下がった眉と皺の寄った眉間を解すように指先を這わせると、何かを決意するようにそっと目を閉じた先生が息を吐いて、瞳を揺らしたままじっと私を見つめた。
「……キス、したい。キスしても、いいか?」
いいよ、と答える代わりに頷いて先生の首に腕を絡めると、先生は泣きそうな顔をして小さく息を吐いた。そろりと近付いてくるのに合わせてゆっくり目を閉じると、ただ触れるだけのキスが降りてくる。もっと、と強請るように絡めた腕に力を込めると、さっきの唇が触れ合うだけのものではなく、食むようなキスが繰り返されて次第に息が上がってくる。とろりと蕩け始めた頭で懸命に先生のくれるキスに応えていると、弛んだ唇から熱い粘膜が侵入してきてあっという間に舌を絡め取られてしまう。ぴりりと走る刺激に声を漏らしながら、置いていかれないように必死に先生に縋ると、背中に這わされていた大きな手がそろりと動いて私の脇腹を撫で上げた。触れた手のひらの熱さに自分の身体の内にも火が点いたようにぞわぞわと肌が戦慄く。そのまま先生の手のひらは私を慰めるように素肌を撫でながら、下着の上からそろりと胸を包み込んだ。やわやわと手のひら全体を使って胸の形を変えながら、先生はどんどんキスを深めていく。翻弄されて縋ることしかできなくて堪らず眉を寄せると、ちゅ、と音を立てて先生が離れていった。はぁはぁと息を整えながらそろりと先生を見つめると、欲を孕んだ深い色の目がじっと私を見つめていて、思わず頬が赤らむ。恥ずかしさを誤魔化すように腕に力を込めて先生を引き寄せるとこつりと額同士がぶつかる。じっと私を見つめるだけで何も言わない先生に焦れてしまって、堪えきれずにぎゅうと先生に抱きついた。
「ベッド、行こ? ここで、は、イヤ」
たどたどしく何とか告げると先生はまた触れるだけのキスをしてそのまま私を抱き上げた。
「そうだな。寝室、行こう」
熱のこもった掠れた声で耳に囁かれて、赤くなった頬を隠すように先生の肩に顔を埋めた。
* * *
「……じゃあコレ。いつ服用してもいいんだけど、毎日決まった時間に服用した方が忘れないから、時間決めたら俺にも教えてくれ。できるだけ俺からもリマインダー代わりに連絡するようにするから」
手術とか入ったらできないときもあるからゴメンな、と言いながら先生はカタカタとカルテを入力していく。受け取ったタブレットシートを確認しながらスマホにリマインダー登録していると、カルテを入力し終わったのか先生が手を止めてこちらを見ていた。
「次の診察、一ヵ月後なんだけどいつが都合いい? この辺りなら大学終わりの時間で予約取れるぞ」
「……そうね……でも先生のシフトがどうなるかわからないじゃない」
「そこはそりゃぁ……使える術全部使って調整するに決まってんだろ? 仕事中でも公然と君に会えるんだから」
「診察を会うための口実にするなんて悪い医者ね?」
「職権乱用とか言うなよ? 他の奴に担当させるなんて嫌だからな」
じゃあこの日のこの時間な、と私の予定を把握している先生はサクサクと次の診察予約を取ってしまった。これで自分の何もかもを先生に把握されてしまうんだなぁ、と諦めのような境地に浸っていると、作業を終えた先生が診察券を差し戻しながらニッと笑った。
「薬代は俺が持つから。診察料だけ払ってくれるか? 受付には言ってあるから」
「え? 別にお金には困ってないわよ?」
「そうじゃなくて……俺が責任持つって決めたので。これは俺が払います」
問答無用、と聞く耳を持ってはくれない先生に溜め息を吐きながら眉を下げる。本当に変なトコ真面目なんだから、と唇を尖らせると、白衣のポケットに手を突っ込んで何やらゴソゴソとしていた先生がクルリと椅子を回転させて私に身体ごと向き直った。
「それよりさ、左手出して」
「え?」
「いいから。早く!」
先生の勢いに圧されて恐る恐る左手を差し出すと、にやける口元を堪えるような微妙な表情で先生は私の手を取って、手の甲が上を向くように持ち変えてから指先に口付けた。
「ちょっと!」
仕事中に何を、と言い募る前に、先生は慎重に私の薬指へ銀色の輪っかを通した。先生とお揃いの指輪が嵌まっている私の指よりも一回り大きいそれは、鍵と紫色のリボン、小さな黄緑色のガラスビーズが繋がっていた。
「……これって」
「今度休み合わせてちゃんとした指環買いに行こう。そろそろこのデザインリングは卒業して正式なものを贈らせてくれ」
「そ、そうじゃなくて! コレ! この鍵! 何よコレ!」
「あぁ……いつか渡そうって前から準備してたんだ。自由に使っていいぞ」
「はぁ!? そうじゃないでしょ?! コレって、一体、どこの……」
「俺のマンションの鍵だぞ? 他に思い当たる場所あるのか?」
「そうじゃなくて……だって……こんなの、急じゃない」
「そうか? 付き合い出してすぐくらいに準備はしてたんだけど、何て言うか渡すタイミング掴めなくてさ。今がちょうどいいんじゃないかと思って」
手の中で、ちゃり、と音を立てる鍵を見つめながら、動揺して震える手にぎゅっと力を込めて鍵を握り締めた。自分の体温で温くなった金属の感触を感じながら恐る恐る先生の表情を窺った。すると先生は全く表情を変えないまま、私のことを見つめていた。
「……いいの?」
「いいも何も……紫穂ちゃんだから信頼して渡すんだろ?」
アハ、と表情を崩した先生は大切なものを包むように私の手を両手で撫でて、ふわりと笑ってみせた。
「正式なプロポーズもちゃんとするから。楽しみにしてて」
「……ッ……バカッ」
「馬鹿で結構。君のものになれるなら何だってするさ」
そういうことだからよろしく、と嬉しそうに笑う先生に、もう一度震える声で、バカ、と呟いた。
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