「……ハイ。もういいよ。傷口もふさいである」
痕ひとつ残さずに処置を終えた白い肌を指先でなぞって、ふと口元で微笑んだ。
「アリガト……もっと葵ちゃんレベルのテレポーターがたくさんいれば、採血の度に痛い思いしなくて済むのに……」
眉を寄せて小さく呟いた紫穂ちゃんに、眉を下げて苦笑する。
「まぁそれはな……確かにそうなんだけど。テレポートで採血できるよう訓練するより、注射器の扱い覚える方が早いと思う」
「そうなの?」
「多分な。注射とか点滴は数こなせば誰だってできるようになることだからさ」
そっかぁ、と頬を膨らませながら呟いた紫穂ちゃんは、さっきまで俺が触れていた、傷ひとつ残っていない白い腕を指で辿っている。
「まぁな、注射は痛いから嫌だって人も多いから。もっとESPが普及してテレポートで採血できるようになったら嬉しいと思う人は多いだろうな」
言いながら、採血し終えたサンプルを透視してカルテに内容を書き込んでいく。正式な血液検査の結果の前に透視である程度異常を発見できるのも俺みたいなサイコドクターだからできるわけで、皆がその恩恵を受けられるのはまだまだ当分先の話だろう。
血液から透視み取れた情報に顔を綻ばせながらカルテを書き終えて、紫穂ちゃんに身体ごと向き直った。
「紫穂ちゃん、検査の前にチョコ食ったろ。気にするほどじゃないけど血糖値がいつもより高い」
ニヤニヤしながら紫穂ちゃんの顔を覗き込むと、カッと頬を染めた紫穂ちゃんが目を見開いた。
「なっ、なッ!? なんで?! っていうかプライバシーの侵害よ!!!」
血液から情報を透視み取るなんて変態だ! とワーワー叫んでいる紫穂ちゃんに眉を下げながら笑いかける。
「異常がねぇか透視ただけだよ。まぁ、チョコってのは俺のカンだけど。当たってたか?」
「……ムカつく」
ということはつまり正解なんだな、とプイとそっぽを向いてしまった紫穂ちゃんの横顔を見ながらサンプルを検査に回すケースの中へ入れた。まだ不満そうに眉を寄せている紫穂ちゃんは、ちらりとこちらに視線を向けながら唇を尖らせている。
「……なんでわかったのよ。先生くらい鍛えれば、血液サンプルからそこまで細かい内容を透視み取れるようになれるワケ?」
「ちがうよ。さすがに俺でも血液だけでそこまでのことは透視み取れねぇって。紫穂ちゃんとは付き合いが長いからさ、憂鬱なときのおやつに食べるとしたらチョコだろうなって思っただけ」
「……なんで憂鬱ってわかったの」
「紫穂ちゃん注射嫌いだろ? 今日は採血って伝えてあったからな」
イヤイヤ検査しにくるだろうなーくらいのことはわかってたよ、と伝えれば、紫穂ちゃんはますます不貞腐れたように頬を膨らませてしまった。
「何よソレ……何でもお見通しって言われてるみたいで腹立つわ」
「そんなつもりはねぇけど……そう聞こえたんならゴメン」
「……わかればいいのよ。だって先生は私のことなんて興味ナイでしょ」
「興味無いってことはねぇだろ。君のコトは同じ能力者として結構気に掛けてるつもりがあるんだけど?」
デスクに肘を突きながら眉間に皺を寄せて紫穂ちゃんを見れば、不服そうに少し眉を吊り上げた紫穂ちゃんが俺を見つめていた。
「そうじゃなくて……だって、センセイ……前に高校生も射程圏内、って言ってたわ」
「は? 何の話だ?」
「……高校生から告白される状況を常に考えておかないと、って朧さんに言ってたデショ」
「……あー、そういやそんなこと……てかよく覚えてんね?」
「だ、だって……私も、高校生、だし……」
またプイと目を背けてしまった紫穂ちゃんの頬はほんのりと紅く染まっている。それを何だか可愛いなと思いつつ、一応の弁明を述べた。
「アレはさ、高校生もオッケーって意味じゃなくて……仕事柄、高校生の女の子からそういう気持ちを向けられるコト多いからさ。常に可能性は頭に置いておかないとその時が来たときに対応できないって意味で言ったんだよ」
別に高校生も恋愛対象ってつもりで言ったわけじゃないよ、と続ければ、紫穂ちゃんはあからさまにがっかりしたように肩を落としていて。あまりにも悲しそうな顔で視線を落としているものだから驚いて顔を覗き込んだ。
「おい? どうした? 貧血か?」
慌ててストックしてある常温のペットボトル飲料を差し出すと、ふるふると力無く首を振った紫穂ちゃんがそっとそれを押し返す。心配になって紫穂ちゃんの肩に触れてみても、やんわりとその手を払われてしまう。
「ごめんなさい……大丈夫なの……ホントに、ごめんなさい」
そろりと顔を上げた紫穂ちゃんの顔は青くて、とても大丈夫な様子には見えない。
「大丈夫って……そんな風には見えないぞ? ツラいんなら透視てやるから、遠慮すんなって」
な? ともう一度紫穂ちゃんの肩に手を伸ばすと、きゅっと苦しそうに眉を寄せた紫穂ちゃんが俺の手を掴んだ。
「ダメ。透視ちゃダメ……これは、先生には治せない病気なの」
紫穂ちゃんの冷えた両手の指先が、優しく俺の手を包んでいる。その手付きの優しさと、氷みたいに冷たい指先を何とかしたくて、思わずもうひとつの手のひらで紫穂ちゃんの手を包み込んだ。
「俺には治せない病気? そんなの透視てみなきゃわかんねぇだろ?」
「無理だよ。先生には絶対治せない」
まるで痛みを堪えるように顔を顰めた紫穂ちゃんの目許には、じわりと涙が浮かんでいる。泣くほど辛いのかと思いつつ、ドキリとさせられる表情に息を呑んだ。
「……そんなに、つらい、のか?」
「……つらいよ。息ができないくらい苦しい。切なくて胸が痛い」
俺の視線から逃れるように俯いた紫穂ちゃんを見つめながら、聞かされた症状を頭の中で整理していく。それらから思い当たるのはストレス性の何かくらいで、確かに俺には治せないのかもしれないという思いを強くするばかりだった。それでも何かしてやりたいと必死に思考を巡らせる。自分にできることは何かないかと眉を寄せて紫穂ちゃんの指先を温めていると、紫穂ちゃんは力無く笑って目を伏せた。
「私ね、自分にもチャンスはあるんだって思ってたから、まだ何とかやってこれたけど……本人から直接無理って言われちゃうと、こんなに堪えるものなのね」
寂しそうにそう呟いた紫穂ちゃんは、ぽろりと零れ落ちた涙を指先で拭った。紫穂ちゃんの言っていることの意味がわからなくて眉を寄せていると、ふふ、と眉を下げた紫穂ちゃんが悲しげに首を傾げた。
「同じ高校生の子が告白したってだけでもこんなに嫉妬して苦しい。ひょっとしたら、って思ってた全部が否定されて悲しいのに、こうしてるだけでこんなにもドキドキしてまるで自分が自分じゃないみたい。本当にバカみたいだわ」
「……なに、言ってるんだ?」
困惑しながらも何とか言葉にすると、紫穂ちゃんはまた力無く笑った。
「……私ね、恋の病なの。だから先生には治せない」
「え」
「先生を見てるだけでドキドキして胸が切ないの。自分でもどうかしてるって思うけど、もうどうしようもないのよ。先生のすべてに一喜一憂して振り回されて……でももう、それも今日で終わり」
「……は?」
「ゴメンね。まさか自分の気持ちが迷惑になるなんて思ってなかった。治らないけど、こういうのは時間が解決してくれるんでしょ?」
するりと俺の手を解いた紫穂ちゃんは俺の肩に手を置いて、クッと俺のネクタイを引っ張った。
「え、ちょ、紫穂ちゃん?」
今にも触れてしまいそうな距離に顔が近付いて慌てると、眉を下げた紫穂ちゃんが微笑みながら俺を見つめて一気に距離を詰めた。途端にふわりと香る甘い香りと、唇に触れる柔らかい感触に目を見開く。その心地よい感触に思わず目を閉じて紫穂ちゃんの腰を抱き寄せようと手を伸ばすと紫穂ちゃんはそっと俺の肩を押して身体を離してしまった。一瞬だったけれどとても長い時間のように感じたソレは、あっという間に終わってしまう。
「……ゴメンね、センセイ。大好きだったよ。アリガト。じゃあね」
にこりと微笑んでからクルリと背中を向けた紫穂ちゃんの手を慌てて掴む。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。えっと、その」
何をどう話せばいいのかわからないどころか自分が何を話そうとしているのかもわからなくて焦りながら、それでもこの手を離してはいけないという直感が俺を突き動かしていた。しどろもどろになっている俺を笑うように振り返った紫穂ちゃんは、肩を竦めて眉を下げた。
「大丈夫よ、何も言わなくて。ちゃんと全部伝わったわ」
「え? は? 伝わったって、何が?」
「キスしても、伝わってくるのは混乱と驚きだけだった。それって本当に今まで私のこと何とも思ってなかったってことでしょ?」
寂しげに微笑んだ紫穂ちゃんの表情に胸が締め付けられるけれど、紫穂ちゃんの指摘を否定することはできなくて押し黙ってしまう。そんな俺を見て眉を下げた紫穂ちゃんはそっと俺の手を解きながら振り切るようにふわりと微笑んでみせた。
「大丈夫。先生にこれ以上迷惑掛けないようにするから。困らせてゴメンね。今日のことはもう忘れて?」
じゃあね、と笑顔のままドアを開けて行ってしまった紫穂ちゃんを追いかけることもできずに、ポカンとその場に立ち尽くしてしまう。
あまりの展開の早さに目が回りそうだ。くらりとする頭を奮い立たせるように頭を抱える。
紫穂ちゃんは恋の病らしい。しかも相手は俺だという。
そんなまさか、と思いながら、いやでも、キス、したよな、と思い直して思わず指先で唇をなぞる。ついさっきまで紫穂ちゃんの指先を温めていた俺の指はほんのりと冷たくて、触れた唇の熱さに戦慄いた。
「え……えぇー……」
唇に残るかすかな紫穂ちゃんの名残をかき集めながら、ざわざわと落ち着かない胸を手のひらで撫でつける。とくとくと確かに速くなっている鼓動を感じつつ、自分の唇を撫で続けた。
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