「紫穂ちゃん譜面は読める?」
「一応……」
「じゃあひとまず、弾いてみようか」
にこり、と笑った悟先輩が私に譜面を手渡す。私が座ったピアノ椅子の横に立って、悟先輩はポーンと鍵盤を鳴らした。
「うん。今日も調子がいいみたい。まずは何でもいいから弾いてごらん?」
先輩に促されるまま鍵盤に指を置いて、恐る恐る鍵盤を押した。ポーンとピアノの音が部屋に響く。その音をじっと目を閉じて聞いていた先輩は、眉を下げて困ったように笑った。
「そんなに固くならないで? 紫穂ちゃんがあんまり緊張しちゃうとピアノも緊張しちゃうから。自信を持って、とまでは言わないけれど、もっと気楽に、肩の力を抜いて?」
もう一度、と先輩に促されて、ふぅ、と深呼吸をしてからもう一度鍵盤を弾いた。もう一度静かな部屋にポーンと澄み渡った音が響いた。あ、いい音、と自分でも思っていたら、隣に立っていた悟先輩が小さく、うん、と頷いて笑った。
「……いい音が出たね。まるで紫穂ちゃんの心の中を覗いてるみたいだ」
きっと他人に言われていたら、これ以上近寄らないで、と冷たくあしらって、二度と自分に近付けなくなるような精神的苦痛を味合わせていたと思う。でも、悟先輩の澄んだ目に見つめられると、先輩の言葉が嫌なモノではなくなるから不思議だ。
「とても綺麗で、柔らかい。ちょっぴり傷付きやすくて、繊細で、でもあたたかく周りを包んでくれる、そんな音」
「……そんなことないですよ。私、腹黒いってよく言われますから」
「フフ……それは君の鎧でしょ? 本当の君は、こんなにも澄んだ音をしてる」
もう一度弾いてごらん? と先輩に促されるまま鍵盤に手を置いてそっと集中する。目を閉じてもう一度同じ鍵盤を弾くと、同じようにポーンと音が流れた。
「いいね、そのまま。今度は和音を弾いてみようか」
ふ、と先輩がピアノ椅子の空いたところに腰掛けてぐっと距離が近くなる。先輩はそれを気にした様子もなく鍵盤に手を置いて和音を弾いてみせた。
「ドミソ、に指を置いて弾いてみて。僕の合図に合わせて」
三、四、という先輩のカウントに慌てて鍵盤を押すとぱらりとばらけた和音になってしまう。
「大丈夫、落ち着いて。もう一度、三、四」
ポーン、と今度は同じタイミングで鍵盤が鳴った。
「そう、その調子。三、四」
先輩のカウントに合わせて、ポーンと和音を奏でていく。肩の力を抜いて、とか、もっと素直に、とか先輩のアドバイスを聞きながら繰り返しドミソの音を奏でた。
「いいね、そのまま続けて。三、四」
先輩の纏う気配が変わった、と思いながら和音を鳴らすと、先輩もカウントに合わせて鍵盤を弾き始めた。最初は私と同じ和音。次第にそれに合わせた伴奏音が加わる。そしてカウントに合わせたアルペジオ。私が弾いている音は変わらないのに、様々な表情を見せてくれる音色が美しくて。先輩が奏でる音が私が鳴らしている音を華やかに彩って飾り立ててくれる。シンプルな音色が驚くほどにキラキラ輝いて、ただ和音を弾いているだけなのに純粋に楽しいと思えて仕方がなかった。最後のカウントで先輩はメロディが終わる時のように終止符の和音を響かせて動きを止めた。
「……うん。いい感じだね。すごくいいと思わない?」
鍵盤から指を離した先輩がこちらを見ながら笑いかける。演奏していた時は気付かなかったけれど、驚くほど近い位置に先輩の顔があって思わず顔を逸らした。
「……とても、素敵だと思います。何て言うか、同じ音を弾いてるだけだけど、すごく、楽しかった」
じっとこちらを見てくる視線を感じながら、顔を俯けて何とか返事する。気付いてみれば、顔が近いだけじゃない。肘や太腿は先輩と触れ合っていることに気付いてしまって慌てて距離を取ろうと座っている位置をずらすと、先輩も慌てたように椅子の端から立ち上がった。
「ご、ゴメン! 夢中になってて気付かなかった。別にやましい意味はないんだ……」
珍しくわたわたと慌てている先輩の姿が何だか面白くて、クスリと笑みが溢れる。
「大丈夫です。先輩からやましい気持ちなんて、少しも見えてきませんでしたから」
お互い、演奏に夢中になっちゃってたんですね、と笑うと、先輩は嬉しそうに笑って、そうだね、と頷いた。
「僕もすごく楽しかった。でもね、今日は、僕が紫穂ちゃんの音に合わせていたから、連弾はこうはいかない」
急に真剣な顔をしてピアノに向き合った先輩は、そっとピアノを撫でながら続けた。
「ピアノとの対話だけじゃない。奏者同士の音を聞いて、それから呼吸を合わせて、一つの音楽を作り上げていく。僕が、紫穂ちゃんに合わせているだけじゃ、本当の音楽は生まれない」
先輩の真摯な言葉が耳から私の中へじんわりと広がっていく。
「今日はお互いこの楽しい気持ちを共有できたことを大切にしよう。明日から、曲の練習に入ろうか?」
「……はい、ありがとうございます」
「ありがとうだなんて……僕は紫穂ちゃんと楽しく過ごしたいだけだよ? 手っ取り早く自分のテリトリーに引き込んだだけさ」
僕はピアノぐらいしか取り柄がないからね、と笑う先輩は何処か寂しげで。そんなことない、と首を振った。
「私、ピアノ、楽しいです! 今まで、その……何でもある程度できちゃうから、真剣にひとつのことに取り組もうなんて思ったことなかったし……悟先輩のおかげで、何かやってみようって思えて、とても楽しいです」
わくわくした気持ちが抑えられない、と小さく呟くと、先輩はキラキラと輝くような満面の笑みを浮かべた。
「僕の大好きなピアノを、紫穂ちゃんが好きになってくれたなら、とっても嬉しい! 明日からも練習頑張ろう!」
「……はい! 今日もありがとうございました!」
「ありがとう、でいいよ。僕は君ともっと深く知り合いたい」
「あの、えっと……じゃあ、悟先輩、今日はありがとう。また明日もよろしくね?」
「もちろん! 喜んで」
本当に嬉しそうに笑った先輩に釣られて何だか自分までが嬉しくなってくる。うきうきした気持ちのまま譜面を片付けようとすると、あ、と先輩に止められた。
「それ、紫穂ちゃんの譜面だから。持って帰って? 時間があったら譜読みだけでもしてみて」
「……私の、譜面?」
「そう。僕と連弾するための、君だけの譜面だよ。もうそれは君のモノ。大事にしてあげてね」
「私だけのモノ……」
「これから、僕たちの音楽を作るために必要なモノさ。書き込んだり、消したり。僕たちだけの譜面になる」
自分たちだけの譜面。その言葉が高揚感を生んで、ドキドキと心臓を高鳴らせる。貰った譜面を胸に抱き締めて、こくりと頷いた。
「……大事にします……とても、大切にするわ」
胸にある譜面を汚さないよう大切に鞄に仕舞うと、先輩も、うん、と頷いた。
「じゃあ、今日はこれで終わりにしようか。また明日ね、紫穂ちゃん」
「ええ。悟先輩、また明日」
鞄を持ってドアに向かえば、悟先輩が手を振ってくれる。それに笑顔で手を振り返して教室を飛び出した。
これからバスに乗ってバベルに向かう。でも弾んで仕方がない気持ちを落ち着かせることはとても難しかった。バスに乗ったら、いいえ、バス停に着いたら。私はきっと譜面を広げて譜読みを始めてしまうだろう。
明日が待ち遠しい、なんて感じるのはいつぶりだろう?
弾んだ気持ちそのままに、バス停までの道を急いだ。
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