恋とはどんなものかしら?

 高校生になったら、もっとキラキラするんだと思ってた。高校生活に期待をしていたのは薫ちゃんだけじゃない。私もそれなりに期待をしていた。制服が新しくなるだけ、と言われてしまえば確かにそうなんだけど。『女子高生』という憧れの響きに、きっと私みたいな、普通とは違う人間でもキラキラした学校生活が送れるんだと思ってた。
 でも、それは違った。
(思ってた以上に、普通だわ……)
 学校とバベルと家の往復。それなりに忙しく過ごしてる。でも、これじゃ今までと何も変わってない。
 はぁ、と軽く溜め息を吐くと、目敏い男がすぐに指摘してきた。
「なんだよ。華の女子高生が溜め息なんかついちゃって」
 強力になりすぎた私たちの力を少しでも落ち着かせる為に始まった訓練。同じ能力者だから、と私の訓練サポートには賢木先生がついている。
「別に。なんでもいいでしょ」
「溜め息ひとつ吐く度に幸せが逃げちまうんだぜ?」
「……うるさいなぁ。別になんだっていいでしょ」
「……ははーん。さては、楽しくねぇの? 女子高生生活」
 あんなに楽しみにしてたもんな、と笑われて、カチンと来た。
「ほっといてくれる? 先生には関係ないでしょ!」
 カッとなって言い返すと、カルテを肩に乗せた先生が、にやつきながら私に向き直った。
「君ぐらい可愛かったら、彼氏の一人や二人、すぐできるだろ?」
「はぁ? なんの話よ」
「男女交際は生活の潤いだぜ? 楽しくないのはそれが足りてねぇんじゃねぇの?」
 ヘラヘラと笑う先生にムカついて、パンチを繰り出す。簡単に避けられてしまったそれに、余計に腹が立ってぎろりと睨み返すと、ははっと軽く笑って往なされた。
「恋のひとつやふたつ、経験してみろって。生活が一気に明るくなるぜ」
 カルテに今日の訓練内容を書き込みながら先生は笑う。そんな先生に、またひとつ、溜め息を吐いた。
「先生とは違って、器用じゃないのよ、私」
 暗に先生の女好きを指摘すると、苦笑いが返ってきた。
 恋ってよくわからない。だって、私には結末が何となく読めてしまうし、私のことを見た目しか知らない癖に近寄ってくる男の子たちと仲良くするより、薫ちゃんたちといた方がずっと楽しい。
 そもそも、好きになるって、薫ちゃんに出会った時みたいな、運命みたいなものを感じて好きになるものじゃないの。
 ポツポツと呟く私の言葉に耳を傾けてくれていた先生が、よしっと急に大きな声を上げた。
「な、なによ」
 びっくりして、ちょっと引きながら先生を見上げると、先生は見たことない甘い表情を向けていて。
「俺とカレカノになろう、紫穂ちゃん」
 ドキリ、と心臓が高鳴った。

  * * *

「皆本ー、ちょっといいか?」
 訓練の後、先生に手を引かれるまま、皆本さん達の集まる訓練室へと連れてこられた。先生があんまりにも自然に手を繋いできたものだから、抵抗することもできなくて。
 繋がれた手に注がれる視線が何となく恥ずかしくて、私をまじまじと見てくる薫ちゃんと葵ちゃんから目を反らす。
「俺ら、付き合うことにしたから」
「……はぁ_?!_」
 三人が三者三様の面持ちで驚きを表現している。
 私だってびっくりしてるんだから、他の皆はびっくりなんてものじゃないわよね。
「賢木、お前一体訓練中に何をやってるんだ?」
 少し怒りの声色を含ませて、皆本さんは賢木先生を問い詰める。それに対して、先生はまぁまぁ、と空いた手を胸の前で広げて皆本さんを宥めた。
「別に、紫穂ちゃんを取って食おうって訳じゃねぇよ? ちょっとした恋愛ごっこさ。」
 先生は眉をハの字にして苦笑いをしている。すぅ、と息を吸った先生は私たち全員の前で宣言した。
 期間は三ヶ月。その間、手出しは一切しない。ただ、紫穂ちゃんに恋愛の楽しさを理解してもらうためだ、と。
「デートしたり一緒に過ごせる人が居るってのは生活の潤いだろ? それを紫穂ちゃんに体験させてあげるだけさ」
 少しだけ眉を寄せて、困ったように笑いながら先生は告げた。
 皆本さんはまだ訝しげな表情で先生を見ていて、薫ちゃんと葵ちゃんは目をパチパチと見開いている。
 私はというと、先生の告げた内容を改めて咀嚼していて。
「……ねぇ、先生。やっぱり、それ、薫ちゃんと葵ちゃんがいれば充分よ」
 二人と居れば、毎日が楽しい。そして、二人は私にとってとても大切な人。デートしたり、一緒に過ごしたり、って今でも充分満たされている。
「そ、そうだよ! 私たち、紫穂とデート、しょっちゅうしてるよ!」
「ホンマや! ウチらじゃアカンっていうの?」
「そうじゃねぇって。恋愛のトキメキってのを紫穂ちゃんに教えてあげようって話」
 言い募る薫ちゃんと葵ちゃんに、先生はどうどうと手のひらを広げてみせる。
 繋がれたままの右手に、きゅっと力が込められた。それに少しだけドキリとして、一瞬戸惑いながらもきゅっと握り返して。先生がそれに反応して、にこりとこちらに笑顔を向ける。何故かそれにもドキリとして、パッと顔を逸らした。
 そんな私たちの様子を見守っていた皆本さんが、眼鏡の位置を直しながら先生を見遣る。
「賢木、お前の遊び癖を考えると、簡単には了承できないな」
「だから、手は出さねぇよ。ただ遊ぶだけじゃん。男友達みたいなもんだよ」
「手を出さないのは当たり前だ! まず、その手を離してから話をしてもらおうか」
 皆本さんが、ビシリと私たちの繋がれた手を指差して。先生はびくりと肩を震わせて、繋いだ手を見つめてから慌てたように手を離した。
 急に離れた温もりに、ふ、と意識が取られる。
「手を繋ぐくらい別にいいだろ? 一応形はちゃんとお付き合いしようってんだからさぁ……」
 先生は腕を組んで不貞腐れたように頬を膨らませた。それに、皆本さんはまるで信用できないといった様子のジト目で先生を睨み付けている。
「大体、賢木と付き合うってこと自体が賛成出来ないんだよ。君みたいな女好きに紫穂を任せられない」
 ふぅ、と額に手を当てながらやれやれと皆本さんは首を横に振った。
「いやいや、逆だろ。遊び慣れた俺だから、後腐れもねぇし、楽しいことをちゃんと教えてやれるんじゃん」
「君の言う楽しいことっていうのが信用ならないから言ってるんだ! 紫穂が悪い道に走ったらどうするッ!」
 保護者然とした顔で皆本さんはすごい勢いで先生に詰め寄る。先生はそれを軽く往なして呆れた顔を皆本さんに向けた。
「お前がそんなクソ真面目だからこの子ら三人ともなんだかんだで箱入りになっちまったんだろ?! 高校生なんだし、そろそろ遊ばせてやってもいいんじゃねぇの?」
「こんなお転婆で跳ねっ返りの箱入り娘があるかッ! お前にはコイツらがどう見えてるんだッ!?」
「どうって……かなりレベル高めの可愛い女子高生三人組? そこらにはいねぇだろ、このクラスは。」
 至極当然だとでも言うように、先生は私たちそれぞれを見比べて皆本さんに言った。
 薫ちゃんも葵ちゃんも、それを聞いてポッと顔を赤くしていて。
「な、なんや、先生、エライ持ち上げてくれるやん?」
「ホ、ホント。褒めても何も出ないよ?」
 きゃっと如何にも女子高生らしい黄色い声で先生に反応している二人に、皆本さんが慌てて声を荒げる。
「ふ、二人とも! 賢木の言うことを真に受けるな! こいつの病気はお前らもよく知ってるだろッ!?」
「病気って……酷いなぁ。最近は忙しくて遊んでねぇっての。それに、三人とも可愛いのは事実じゃん。俺は事実を述べたまでよ」
 呆れたように皆本さんを睨み付ける先生の言葉に、更に二人は舞い上がっている。
 私は舞い上がるというよりも、純粋に驚いていた。この人も、皆本さんと同じく私たちの保護者のつもりでいると思っていたから。そんな風に私たちのことを見ていたなんて思いもしなかったというか。
 だって、大人の先生が、私たちを女の子として見ているなんて、思わないじゃない。
「俺、今、フリーだし。遊ぶには持ってこいの人材だと思うんだよな。どうよ、紫穂ちゃん?」
 突然、先生に話を振られてびくりと反応する。ん? と優しく微笑みながら、私の顔を覗き込む先生にどうしてだか、胸がきゅんとした。不思議と高鳴る胸を抑えながら、こくりと先生に向かって頷く。
「……いいわ。付き合ってあげる。精々楽しませてもらうわね」
 にっこりと先生に笑いかけて、スッと手を差し出すと、一瞬、驚いた顔をしてから先生はニヤリと笑った。
「上等だ。俺に任せとけ」
 ぎゅっと差し出した手を握り返されて、三ヶ月ヨロシクな、と握手をした。
 こうして、私たちの期間限定の恋愛ごっこが始まった。

  * * *

「本当にいいのか? 紫穂」
「……流石にいい加減鬱陶しいわよ、皆本さん」
 歩いていた足を止めて、皆本さんを振り返る。先生の研究室へと向かっていた廊下の真ん中で、皆本さんと対峙した。私の横には薫ちゃんと葵ちゃんが皆本さんを囲むように立っていて。
「そーだよ、皆本! 紫穂はこれから先生とデートなんだよ! 楽しい気持ちを邪魔しないで!」
「せやせや! 先生の言うてた通り、デートの準備めっちゃ楽しかったわ!」
 服選ぶだけで超盛り上がったよね! と顔を見合わせている二人に、心の中で確かに、と頷いた。
 楽しませてやる、と宣言した先生は、まるで冗談ではなかったと証明するように、すぐに食事の約束を取り付けに来た。
 めいっぱいおめかしして来いよ、と言われて、一応薫ちゃんと葵ちゃんに相談して始まった服選び。これが意外にも楽しくて、三人であーでもないこーでもないとコーディネートした今日の服。先生の好みはどんなのだろう、とか、いやいや紫穂の魅力を最大限引き出そう、とか、三人でいろいろ話し合うのも楽しかったし、自分の着たい服を選ぶわけじゃなくて、その向こう側にいる人を想像して服を選ぶなんて初めてで、それもとても楽しかった。
「でも、相手はあの賢木だぞ?」
 未だに不安そうな顔を見せている皆本さんに、ふぅ、と溜め息をひとつ。
「賢木先生だから安心なのよ。あの人、ああ見えて、ちゃんと相手は選んでるわ」
「……どういうことだ?」
「ちゃんと後腐れない相手を選んでるってコト。私が先生に本気になるなんて有り得ないもの」
 ふん、と腰に手を突いて宣言する。
 先生の恋愛傾向なんて透視よまなくてもわかる。遊ぶのに丁度いい、楽しいコトを共有できるオンナノコ。来る者拒まず去る者追わず、のスタンスで、長く続けることを趣旨としていない。寂しい気持ちを満たしてくれる、楽しい時間を過ごせる相手。
「期間限定の遊びなんだから、私も楽しませてもらうつもりよ」
「そうは言っても、だな……」
「もう! ホント、心配しすぎよ! 先生が私に手を出したりするわけないじゃない!」
 自分で言った言葉に少しだけツキリと胸が痛むのを感じながら、心配そうな顔をしている皆本さんに向かって叫んだ。
「そこまで言うなら盗聴器でも付ける? 先生にはバレちゃうでしょうけど。」
 羽織っているジャケットをぺらりと捲って盗聴器を仕掛けられそうな場所を探す。皆本さんは慌ててそれを制止して、服をキチンと着せつけてくれた。
「君たちのプライベートを暴くつもりはないんだ。だから、そこまでするつもりはないよ」
 皆本さんは、ヘアセットした髪が崩れないようにそっと頭を撫でてから、困ったように笑った。
「とにかく、気を付けて。僕からはそれしか言えないけど……」
「皆本ー? ちょっと本気で心配しすぎじゃない? 大丈夫だよ。流石に賢木先生も未成年には手を出さないって」
「ホンマやで皆本はん。いくらなんでも犯罪者にはなりたないやろ、賢木先生も」
 ねぇ、と顔を見合わせながら、二人は皆本さんの腕に絡み付く。皆本さんはそれをうーん、と唸りながら受け入れて、真剣な目で私を見つめてから言った。
「本当に、気を付けて行ってくるんだよ」
「わかってるわ。じゃあね」
 いつまでも廊下で喋っているわけにはいかない。待ち合わせ時間が迫っている。三人に手を振りながら、先生の研究室へと急いだ。少し上がってしまった息を調えて、インターホンを鳴らす。どうぞ、という先生の声が聞こえて、ロックが外れたのを確認してから、ひとつだけ深呼吸をして扉を開いた。
「いらっしゃい……へぇ、可愛い格好してるじゃん」
 ひゅう、と口笛を鳴らして先生は私を振り返りながら言った。にこり、と笑った笑顔は今まで見たどれよりも優しくて、不覚にもドキドキしてしまう。
 結局、先生の好みがわからないから、と私の魅力を全面に押し出した方がいいという二人の意見を参考に服を選んだ。露出しすぎず、身体のラインも出すぎない、それでいてふわりとした生地がメリハリを魅せてくれる水色のシフォンのワンピース。腰元の細い白のベルトがアクセントになっていて、小物も全部白で揃えた。その上に羽織っているジャケットも白色で、このジャケットだけは今日の為に新調した。足元を飾るパンプスは花飾りが着いていて、淡い花柄のストッキングを引き立てている。
「と、当然でしょ。私、自分が可愛いこと知ってるもの」
 褒められたことが嬉しい、なんて恥ずかしくて一ミリも表に出せない。少し上気した頬を隠すようにそっぽを向いて、ふん、と鼻を鳴らした。クスリ、と先生の笑う声が聞こえて、ギッと音を立てて先生は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
 白衣を脱いで、ハンガ-ラックに掛かっているジャケットと交換した先生が、改めて私に向き直る。先生も珍しくデニムじゃなくてロールアップのカジュアルパンツにジャケットを着て、いつものカジュアルスタイルよりも少しだけかっちりした格好をしていた。
 鞄を片手に私の横に並んだ先生に促されて研究室を出る。地下の駐車場へ向かう道を歩きながら、何も喋りかけることができなくて、悶々としながら段々と俯いてしまう。先生は車のキーを指でくるくると弄びながら、楽しそうに私の隣を歩いていた。二人の温度差というか、ギャップみたいなものに、何だかモヤモヤとしたものが渦巻いていって。
 私、黙っててつまらなくない? 大丈夫かしら? 何か喋りたくても何も言葉が出てこない。いつも先生とどんな話をしていたっけ。ぐるぐると頭の中で悩んでいると、そっと手を繋がれた。驚いて先生を見上げると、また優しげに笑う先生と目が合って。
「緊張してる?」
 ふんわりと笑う先生に、ドキリと心臓が跳ねる。思わず目をそらして、少しだけ、と答えた。
「初デートだから緊張するかもしんないけどさ、相手は俺なんだから。気楽に過ごせばいいよ」
 な、と無邪気に笑う先生の初めて見る顔に、またドキドキしてしまう。こんな風に笑う人だったんだと知って、そのことを知れたことにまたドキドキして。なんで、こんなにふわふわしているの、私――
 先生の車が停まっている場所に着いた時、いつも通り後部座席に乗り込もうとすると、先生が助手席のドアを開けて、また笑った。
「今日はこっち。デートなんだからさ」
「あ……そうよね。じゃあ、お邪魔します。」
 先生のエスコートにドキドキしつつ、ワンピースの裾を乱さないようにしながら何とか助手席に乗り込む。先生がドアを閉めてくれたのを確認してから、シートベルトを閉めた。先生も運転席に乗り込んで、カチリというシートベルトの音がすぐ傍で響く。初めての距離感にドキドキが止まらなくて。先生はドアのロックを確認して、またにこりと笑い掛けてくる。
「シートベルト大丈夫?」
「え、ええ。」
「じゃあ、行きますか」
 前に向き直ってエンジンを掛けた先生に倣って私も前を向く。滑るように走り出した車に身を委ねた。まだドキドキは止まらない。初めてのことばかりでドキドキしてるだけだわ、と自分に言い訳をして、窓の外の風景に目を遣った。

  * * *

「美味しかった……」
「それは良かった。デザートいっとく?」
「え、いいの?」
「もちろん」
 先生が連れてきてくれたのは、少しカジュアルめの創作フレンチレストラン。三階建ての小さなビル一階。青い扉のお店。入口にメニューの看板が立っていて、先生は臆することなく扉を開いた。
 予約していた賢木です、と先生がお店の人に言うと、お待ちしておりました、と笑顔で出迎えてくれて。そんなに大きくないお店なのに、お店の奥に階段があって、隠れ個室みたいな二階席に案内された。
 この席人気でなかなか取れないんだ、と笑う先生にまたちょっとドキドキしながら椅子に腰掛ける。少し狭いけれど、座った途端にまるで先生と二人きりみたいな空間が視界に広がって。思わず周囲を見渡していると、優しく笑ってこちらを見ている先生と目が合った。やっと収まったと思っていた心臓がまたドキンと弾む。多分、赤くなってしまっている頬を、ウェイターさんから受け取ったメニューで隠した。メニューを見ているふりをしながら先生をちらりと盗み見ると、ウェイターさんと親しげにお喋りをしていて。ホッと一息ついてから、ちゃんとメニューに目を通した。
 コースを頼むのはちょっと気が引けるという私の意見に、先生は気にしなくていいのに、と言いながらも、じゃあアラカルトで何品かシェアして食べようと提案してくれて。そんなのできるの? と問い掛ければ、にこりと笑って、頼んだらやってくれるぜ、と返事が返ってきて。
 じゃあ、と前菜二品とメインを頼んでシェアして食べた。サラダとムール貝のクリーム煮で適度に満たされたお腹。そこにメインの羊のお肉のソテーがテーブルに運ばれてきた時は、流石に食べられるかどうか、心配になってしまった。俺食べられるから無理すんなよ、と先生は声を掛けてくれて。それでも、もりもりと食べる先生に釣られて――先生よりも少な目に盛られた量だったからか――私もペロリと平らげてしまった。
 ウェイターさんにデザートメニューを頼んだ先生が、炭酸水をひとくち口に含む。シュワッ、と音を立てて弾けた泡がグラスにキラリと反射したような錯覚を覚えた。初めての雰囲気に呑まれてしまっているのかしら。
 どうして、こんな。キラキラして見えるの。
 自分に問い掛けても返ってこない答えが、更に自分の鼓動をドキドキと早めている。
 さほど時間を置かずにやって来たウェイターさんから、先生がデザートメニューを受け取った。どうぞ、と笑う先生からメニューを受け取る。いちいち笑顔なのは一体何なのよ。メニューを見るふりをして、赤くなった顔をまた隠して。
 今日はドキドキしっぱなしで堪らない。目をぎゅっと閉じて一旦視界を遮断してからメニューに目を移す。目の前いっぱいに広がる煌びやかなデザートたちに心が踊り出す。こんなにドキドキするのはデザートにときめいているせいね、と自分に言い聞かせながらメニューを真剣に選んでいく。
「決まった?」
「……どれも素敵で迷っちゃう」
「またシェアする?」
「いいの?」
「一つずつ頼んで、半分こすれば問題ないだろ」
 先生からの魅力的な提案に、キラキラと目を輝かせて先生を見つめる。
「ホント? 遠慮しないわよ?」
「歳上の男に遠慮なんかすんなよ」
 クスリと可笑しそうに笑う先生にまたドキリとして、不自然にならないようにメニューに目線を移す。メニューを選んでいるふりをして、熱くなった頬を手のひらで冷やした。
「メニュー、決まった?」
「え? 私が決めていいの?」
「もちろん。俺は何でもいいよ」
「……じゃあね、ショコラのケーキと、ピーチメルバ。」
「オッケ。注文しようか」
 スミマセン、と声を上げて先生がウェイターさんを呼ぶ。デザートの注文と食後の紅茶の注文を終えて、先生は私に向き直った。目を少し細めて笑顔を作った先生が、炭酸水の入ったグラスを傾けて弄びながら、ん? と首を傾げる。
 テーブルの上のキャンドルが、先生の褐色の肌を照らして、ぼんやりと顔の輪郭を映し出す。影になった部分とのコントラストが先生の整った目鼻立ちを強調して、その色っぽさに目を奪われた。先生は男の人なのに、なんて美しいんだろう、なんて。思ってしまった。
 結局グラスに口を付けずにテーブルに置いた先生は、ふ、と更に目を細めて口を開いた。
「今日はずっとドキドキしてる?」
 真っ直ぐに私を見つめてくる先生に射抜かれて、身体が固まってしまう。何も答えられなくて目を伏せると、クスクスと先生の笑う気配がして。
「ゴメン。いじめるつもりはねぇんだ。ただ、珍しい顔見れてるなと思ってさ」
 ニッ、と口元を弧にした先生を見て、プイッと顔をそっぽに向ける。
「……先生だって、いつもと違ってニヤケ面よ」
「ニヤケ面って……ひでぇな……そりゃあ、今日は男と女として逢ってるんだからさ」
 いつもと違って当然だろ、と先生は不貞腐れた顔を見せた。ぷう、と膨れた頬は途端に可愛くて。今日だけで、先生の知らない表情をたくさん見た気がする。ドキドキを誤魔化すようにキッと先生を睨みつけた。
「私はッ! そんなに、器用じゃないもの」
「じゃあ何? 紫穂ちゃんはいつもと違う俺にドキドキしちゃったワケ?」
 先生に指摘されてドキリと心臓が跳ね上がる。
 まさか。私が? 先生にドキドキしてたっていうの?
 この止まらないドキドキは、先生のせいだってこと?
 そんな、まさか。
 衝撃の事実に再び固まっていると、くしゃりと顔を歪めて先生が笑った。
「可愛いな」
 まるで愛しいものを見つめるような優しい目で、先生が告げる。その声は、聞いたことがないくらい、甘くて低い、艶のある声で。
 とくん、と胸がなる音が耳に届いた気がした。

  * * *

 あれから、どう過ごしたのか、イマイチ思い出せない。ショコラのケーキとピーチメルバは美味しかった気がするけれど、何だか全体的にふわふわしていてよく覚えてなくて。
 気が付いたら、先生の車で、薫ちゃんたちの待つ家の前に来ていた。
「今日は楽しかった」
 先生の声にドキリとして、先生に顔を向けると、やっぱり優しい顔をしていて。
「また、行こうな」
 すっと伸びてきた手が、私の額からそっと頭を撫でていく。その優しい手つきに思わずうっとりと目を細めた。
「ええ。私も、楽しかったわ……多分。」
「多分って何だよ」
 ははっと笑う先生が、私の頭から手を離す。それが何だか寂しく感じて、きゅっと目を瞑った。そろりと目を開くと、ハンドルに手を掛けた先生が私に向けて笑い掛けていて。間違いなく、私だけに向けられた優しい笑顔。その特別感に、心臓がぞくりと震えた。
「そろそろ門限だ。また明日な」
 に、と笑った先生が運転席から車のロックを解除する。ガタン、と静かな空間には大きすぎる音で、今日の時間の終わりを告げた。
「玄関まで送ろうか?」
「いい。ここで、いいわ」
 きゅっと鞄を握り締めてドアノブに手をかける。何となく、名残惜しい気持ちが押し寄せてくるのを振り払ってドアを開けた。先生に背中を向けて、車から降りる。ドアを閉めて、窓を覗き込むと先生が窓を開けてにこりと笑った。
「じゃあな。また明日。おやすみ」
「うん。今日はありがとう。おやすみなさい。」
 おやすみ、だなんて挨拶を、交わしたことあっただろうか。子どもの頃はあったような気がするけれど、こんな挨拶はしたことがない気がする。
 窓を閉めながら手を振っている先生に手を振り返して、車が視界から消え去るまで見送った。
 今日は本当に先生の笑顔の大盤振る舞いのせいでドキドキしっぱなしだ。先生って本当にイケメンだったんだわ、と当たり前の事実に納得して、胸の鼓動を沈める。
 ふぅ、と一息ついてから玄関を開けると、ただいまを言う前に薫ちゃんと葵ちゃんが飛び込んできた。
「おっかえり! 紫穂! どうだった?」
「おかえりー! 早速やけど感想聞かせてぇな!」
 興味津々、という表情で、二人は私の腕を取った。二人に引っ張られるまま、玄関で慌ただしく靴を脱いでリビングへと向かう。ぼふり、と三人同時にソファに座り込んで、二人分のキラッキラの好奇心いっぱいの目を受け止めた。
「どうって……美味しかったわ」
「そうじゃなくて! エロいことされなかった_?!_」
「されてないわよ! 帰りに頭を撫でられたくらいで……」
「やっぱり全くのノータッチってワケにはいかんかってんな! 流石先生! 百戦錬磨の男!」
 きゃいきゃいと騒ぐ二人の間で、落ち着けたはずの鼓動が甦ってくる。そうだ、あんなの、先生にとったら当たり前のサービスみたいなもので、ドキドキさせられた私が馬鹿なんだわ。
 その考えに、何故か胸がちりっと痛んだけれど、今日の先生の笑顔は私だけの為に向けられたものだったんだから、と自分に言い聞かせた。
「で? デートは楽しかったの? 聞きたいのはそこんとこだよ」
 薫ちゃんがずいっと身を寄せて問い掛けてくる。私は一瞬だけ考え込んで、何と答えようか言葉を探した。
「……楽しかったか楽しくなかったか、と聞かれれば楽しかったわ。食事も美味しくて、お店の雰囲気も凄く良かったし。流石、タラシは慣れてるなって感じ。」
「もー、ホンマ素直やないねんから! めっちゃ楽しかったって言えばええやん!」
 顔にそない書いてあるで、と葵ちゃんに頬をつつかれる。ばっと頬を手のひらで隠すと、クスクスと二人に笑われた。
「紫穂がそんなに顔ゆるゆるになるなんて、どんなデートだったの?」
「ホンマや、そこんとこを詳しく教えてぇな」
 二人にせっつかれて、また考え込む。どう答えればいいのかわからない。だって、ずっとドキドキしっぱなしだったなんて。
「よくわかんない。でも、先生はずっと笑顔で、何だかドキドキしっぱなしで。見慣れない顔ばかり見たから、ちょっと変な感じ。」
 そう、先生のあんな笑顔、見慣れてないから。優しくて、甘い、男の顔。あんな顔、見たことない。
「そんなに違うん? 普段の先生と」
「普段会ってる先生とは全然別物だったわ。本人も、違って当然って言ってたし。今は男と女だって……」
「うわっ! 男と女! 発言がエロいっ! 流石先生!」
 きゃー、と盛り上がる薫ちゃんは足をじたばたさせて頬を赤くしている。葵ちゃんはそんな薫ちゃんを尻目にふぅん、と天井を見上げながら呟いた。
「なんや、やっぱり先生もプライベートの顔があるってことなんやなぁ。付き合い長いし何でも知ってる思てたけど」
 葵ちゃんの言葉に、確かに、と頷く。
 私の場合は透視もあるから、余計に知っているつもりがあった。でも、先生も高超度エスパーで、透視みえない部分もあって当然で。今日のデートで先生の知らない顔を見て、改めて知らないことの多さに愕然とした。
「私も先生の男の顔、ちょっと気になる! 私もお願いしたらデートしてくれるかな_?!_」
 薫ちゃんが閃いたように身を乗り出して言った。その内容に何故かドキリとして、でも、何故ドキリとしたのかわからなくて、戸惑っていると、葵ちゃんまでもが薫ちゃんの発言に乗っかり出した。
「確かに! ウチも大人のデート、体験してみたい! 今度先生に頼んでみようや?」
 そうしようそうしよう! と盛り上がる二人に、どうしてだかモヤモヤして。どうしてなのかは全くわからなくて、何も言い返せないまま、そうね、と相槌を打った。

  * * *

「なぁ先生? ウチらもデート連れてってぇなぁ」
「そーだよ! 紫穂ばっかりズルいよ!」
「お前らは皆本がいるだろ? 皆本に連れてってもらえよ……ってアイツじゃあ無理か」
 廊下を歩きながら、薫ちゃんと葵ちゃんは先生の腕に纏わりついている。
 たまたま待機室に向かう途中で出会った先生に、薫ちゃんと葵ちゃんが走り寄ってデートのお誘いを仕掛けた。困ったように笑いながら、拒否することもなく受け入れている先生にモヤモヤしながら、一歩後ろを歩いてついていく。
 きっと先生のことだ。薫ちゃん、葵ちゃんともそのうちデートしてあげるんだろう。胸がツキンと痛んだ気がしたけれど、それを無視して気のない風を精一杯装った。
「っていうか、この前のデート、そんなに紫穂ちゃんは高評価だったんだ?」
 嬉しいなぁ、と言いながら先生は私に振り返って笑い掛けてきて。胸の痛みなんて忘れる位にどきんと胸が高鳴った。それが何だか無性に恥ずかしくてプイッと顔を背ける。そんな私に、先生は一瞬だけふっと優しく笑ってから、いつもの顔をして薫ちゃんと葵ちゃんに向き直った。
「でも、今の俺は期間限定でも紫穂ちゃんの彼氏だから。デートはまた三ヶ月後な」
 先生はそっと腕を解いて二人の頭を同時にポンポンと優しく叩いた。私を優先してくれる先生の言葉にふわりと気持ちが舞い上がる。
 でも、期間限定という言葉に、心の中で何か引っ掛かりを覚えて。心の中が何となく、ざらりとした感触に包まれた。
「それより、紫穂ちゃん。ちょうど良かった。ちょっと二人になれるか?」
「え、あ、うん」
「なになに? 二人で逢い引き?」
「ちっげぇーよ! 次のデートの相談!」
 先生が薫ちゃんの冷やかしに笑いながら対応している。次のデート、という言葉に、ざらりとした心が一気に弾んでパッと気分が明るくなった。後ろを歩いていた私に並んで、先生は二人に声を掛ける。
「そういうわけだから。ちょっと紫穂ちゃん借りるぜ」
 先生は私の肩を掴んで方向転換させた。その動作に慌てて先生を見上げると、楽しそうに笑う先生と目が合って。やっぱりドキリとして、思わず目を逸らした。
「ど、どこ行くのよ。デートの相談なら、ここでもできるじゃない。」
「味気ねぇなぁ。折角付き合ってるんだし、お茶くらい付き合えよ」
「……期間限定、だけどね」
 自分で言った言葉に何となく傷付きながら、いってらっしゃーい、という二人の冷やかしを背中に受ける。先生は困ったように笑って、そっと私の手を繋いだ。
「ここでもいいけど、折角だからさ。お茶でもしようよ」
 繋いだ手を持ち上げて、私の様子を窺うように先生は指を絡めた。
 まるで、手の甲にキスをするように口元に近付けて、私に向けてウインクをする。あまりの気障な態度に、顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかった。
「赤くなっちゃって……ホント可愛いな」
「……バカ」
 口付けは落とさずにそのまま手を下ろした先生は、思わず空いた手で顔を覆ってしまった私の手を引いて、廊下を歩き始めた。
 この足取りは社員食堂へと向かっているのだろうか。繋いだ手から、透視よみ取ってしまえばいいのに、どうしてだかそれができない。ドキドキと鼓動がうるさくて、集中できなくて。
 ホント、今までこんなことなかったのに。どうしちゃったの、私。相手はよく知ってる先生なのに――違うわね、よく知っていると思っていた先生だ。付き合うということになってから、先生の知らない面ばかり見せられていて本当にドキドキしっぱなしだ。経験値の差が原因なのか、どう対応すればいいのか本当にわからない。
「パフェでもケーキでも、好きなの頼んでいいよ」
 バベルの社員食堂は、いろいろな時間帯にいろいろな人が集まってくるせいか、取り揃えるメニューの品数が幅広く、とても多い。普通の社員食堂には無さそうな喫茶メニューも多種類用意されている。それは、職員の要望も大きいだろうけど、トップが女性だったおかげもあるかもしれない。
 先生に促されるまま、ケーキセットを注文して、先生と座るテーブルを探す。ちょうど四人掛けの正方形のテーブルが空いていたのを先生が見つけて、先生は注文したアップルパイとコーヒーの乗ったトレイをテーブルに置いた。
 その真正面に座ろうとすると、こっち、と角を挟んで隣の椅子を引かれて渋々そちらに座る。
「なんで隣? 向き合って座ればいいじゃない」
「仮にも付き合ってんだからさ。ちょっとはカレカノらしくしようよ」
 眉を寄せて困ったように笑う先生に、そっぽを向いて仕方ないなぁ、と答える。ガトーショコラと紅茶の乗ったトレイを自分の前に引き寄せて、できるだけ表情を崩さないようにして先生に向き直る。
「奢ってくれてアリガト。いただきます」
「どうぞどうぞ。じゃあ俺も、いただきます」
 二人で手を合わせて早速ケーキにフォークを刺す。先生もザクザクとパイ生地をフォークでカットして、アップルパイを食べ始めた。
「先生ホント甘いもの好きよね」
「仕事で頭使ってんだよ。それを言うなら紫穂ちゃんもチョコ好きじゃん。この前もショコラのケーキ頼んでた」
 もぐもぐとパイを咀嚼しながら先生がこの前のデートのことを話題にする。実はあんまりその辺りを覚えてないなんて悟られたくなくて、適当に話を合わせる。
「女の子は皆チョコが好きよ? それより、デートの相談じゃなかったの?」
「あぁ、そうそう。来週の土曜日、まだ空いてる?」
「空いてるけど……私のシフト調べたの?」
「お互いの予定把握すんのは基本だろ? 空いてるんだったら、一緒にどっか行こうぜ?」
「どこか、ってどこよ?」
 フォークを置いた先生が、にっ、と私を見て笑う。
「水族館デート、しませんか?」
 食堂のざわめきが、一瞬止まった気がした。それくらい先生の笑顔に胸がときめいて。
「……行きたい!」
 息をするのも忘れかけていた自分を何とか奮い立たせて先生に答える。
「じゃあ決まりな!」
 嬉しそうに笑う先生に、私も嬉しくなって満面の笑みで頷いた。

  * * *

「水族館なんて久し振り!」
 小学校の遠足以来じゃないだろうか。チケットカウンターに並びながら、ウキウキと弾む気持ちを素直に表に出す。そんな私を見て、先生はいつもの優しい笑顔で微笑んで。
 大分見慣れてきたこの笑顔。見るだけでドキドキしてどうしようもなくなってしまっていた当初に比べて、少しは落ち着いて先生を見ることが出来るようになっていた。
 正直に言うと、まだドキドキはしているのだけれど。
「好きじゃねぇと来ねぇもんな、水族館とか」
 喜んでもらえて嬉しいよ、と先生は私の頭を撫でながら笑った。そんな甘い空気にも少し慣れてきて、少しは素直に受け入れることができている。
「ここの水族館は初めて?」
「うん。ここに来るの初めて。先生は初めてじゃないんでしょ?」
「実は、ここは初めてなんだ」
 にっと悪戯っぽく笑う先生に、目をぱちくりとさせて先生の顔を見上げる。
「嘘でしょ? あの先生が?」
 女の人とのデートが絶えなかった先生なのに、来たことがないデートスポットがあるなんて――と驚き半分揶揄い半分の声が思わず出てしまう。
「ここは割と新しめだし、水族館デートとかあんまりしてねぇんだよな」
「デートの定番なのに?」
「昼間に時間合わねぇとこういうトコは来づらいんだよ。シフトのある仕事してると夜のデートがどうしても多くなっちまうんだ」
「ふぅん」
 私の揶揄いに対して言い訳するように先生は言った。
 それを聞いて、納得したような、何だか言いくるめられたような、そんな微妙な気持ちで相槌を打つと、先生は頭を掻きながら、ふぅと溜め息を吐いてそっぽを向いた。
「信じてねぇだろ。」
「え?」
「こういうトコの方が、紫穂ちゃんが喜びそうだなって思ったんだよ」
 とくん、と胸が鳴った。
 私のことを考えて、ここに連れてきてくれたの? たったそれだけのことなのに、言い様のない喜びが身体を駆け巡って。どうしてだか、堪らない気持ちでいっぱいになった。
 無造作に降ろされていた先生の手に、そっと指を添える。ただ触れただけなのに、ドキドキと心臓がうるさい。それを誤魔化すように、俯きながら、小さい声で呟いた。
「あ、ありがと」
 先生は一瞬驚いた表情でこちらを向いて、すぐに無邪気な顔をして笑った。
「どういたしまして」
 私の触れただけだった指先を、先生はしっかりと絡め取り、きゅっと力を入れる。先生とは、サイコメトリーを使うときにも何度か手を繋いだことはあったけれど、これは俗に言う恋人繋ぎ。今回で二回目だけど、今日の方が密着していて、先生の距離がより近く感じた。
 触れれば透視みえる私たちには有り得ないと言ってもいい触れ合い。透視みようと思えば透視みえるのに、ドキドキが邪魔をして何も透視みえない。このドキドキがバレないようにと思っても、先生には透視よまれてしまっているかもしれない。だって、こんなに触れ合っていたら。何だって透視みえる私たちには、何もかもが透視みえてしまう。
「大人二枚、お願いします。」
「大人二枚ですね、畏まりました」
 先生と受付のお姉さんのやり取りにハッとする。それからごく自然と離された手に、あっ、と声を上げそうになって、思わず口を塞いだ。
 財布を出してお金のやり取りをしている先生に、そりゃ両手使うんだし仕方ないよね、と自分に言い聞かせる。
 え。私、何でそんな。これじゃ、まるで手を繋いでいたかったみたいじゃない。
 お金を払ってチケットを受け取った先生が、行こうか、と私に声を掛けながら笑ったのを見て、パッと現実に戻った。
「先生! お金っ!」
「ん? お金がどうした?」
「チケット代! 今日は払うわ! 奢られっぱなしの理由がないもの!」
 慌てて先生の後を付いていきながら、ショルダーのポーチから財布を探す。財布を取り出そうとしたところで、先生に制止された。
「一回りも歳上の社会人が高校生にデート代出させるなんて、男じゃねぇだろ」
 困ったように苦笑いしながら先生は私の鞄に財布を仕舞わせながら言った。
「でも……」
「俺は彼氏、紫穂ちゃんは彼女。奢られる理由なんてそれだけで充分だろ?」
 先生は笑いながら私の頭を撫でて、私の分のチケットを差し出した。
 彼氏と彼女って言ったって期間限定だし、大人と高校生じゃそもそも釣り合わないし。
 言い返そうと思って、ハタと気付く。釣り合いってなに? 期間限定って受け入れたのは自分自身よ。なのに、何故。どうしてこんなに胸が苦しいの?
「紫穂ちゃん?」
 先生が不思議そうに私を覗き込んでいる。手を伸ばせば触れられるその距離に、胸が切なくなって。誤魔化すようにショルダーの紐をぎゅっと握った。
「なんでも、ないの」
「……そう?」
「チケット、ありがとう」
 ゆっくりと力の入った手をほどいて、先生からチケットを受け取る。チケットに書かれている大人の文字に、きゅっと胸が締め付けられた。
「行こうか、紫穂ちゃん」
 先生がごく自然に私に手を差し出す。少しだけ戸惑って、でも、ゆっくりと手を添えた。先生は優しく微笑んで指を絡めて。
 今は、今だけはいいんだよね。こうして手を繋げる、関係なんだよね。切なくて痛い、自分の胸に言い聞かせるように目を瞑って。精一杯の笑顔で、うんと返した。

  * * *

 入場口で貰ったマップを二人で見ながら何を見ようかと相談する。まるで恋人同士みたいに手を繋いで身を寄せ合って。時々胸が痛みを思い出すけれど、魚たちが見せてくれるキラキラや動物たちの愛らしさがそれを忘れさせてくれて。
 柄にもなくはしゃいでいた。
 先生の手を引いて、大きな水槽に近づけば、先生も笑いながら私に付いてきてくれて。それが、嬉しくて、楽しい。先生を独り占めしてるみたいで、堪らない。可愛いとか綺麗とかしか言わない私に、先生は、そうだなと優しい笑顔を向けてくれて。
 古代魚とか深海の生物を見て二人でスゴいスゴいと馬鹿みたいにはしゃいでみたり。クラゲの水槽を二人で覗き込んで、解説を読みながら、へぇと二人で頷いてみたり。歩き疲れてベンチに座って、他愛ない会話をして。お腹減ったねとカフェテリアに入って二人でご飯を食べて。頼んだものを一口ずつ交換したり、美味しいねって会話したりして。本当に、恋人同士みたいに時間を過ごした。
「おっと。そろそろ、アシカショー行くか」
 先生が腕時計を見ながら呟いた。時計を見ると、確かに、もうそろそろ移動しなければならない時間で。食べ終わってからの会話が楽しくて、時間をすっかり忘れてしまっていた。
 食べ終わった食器を返却口に返してから、先生にトイレに行くことを告げて急ぎ足でトイレに向かう。慌てなくていいよ、という先生の声を背中に受けて、振り返って笑顔を返した。
 トイレを済ませて、鏡の前でリップを直していく。鏡の中の自分を見て、にこりと微笑んで。何だか今日も、ずっとにやけっぱなしな気がする。弛みきっている頬を持ち上げるように手を当てて。ふぅ、と深呼吸をしてから、トイレを出た。
 トイレを出てすぐのところで待っていてくれた先生は壁に凭れ掛かっていて。それだけで絵になるかっこよさに、自然と足を止めて見つめてしまった。
 こちらに気付いた先生がにこりと微笑んでから私に向かって歩いてくる。周りの女の人たちもチラチラと先生を見ていて。
 期間限定とはいえ、一緒にいるのが私で、先生は本当にいいのかと急に不安になった。でも、先生の笑顔と差し出された手に、不安は霧散して。
「行こうか、紫穂ちゃん」
 そっと先生の手に指を絡めると、先生はふわりと優しく笑ってきゅっと握り返してくれる。もう何度目かわからないトキメキが、胸を締め付けた。
「うん」
 胸のトキメキを誤魔化すようにきゅっと先生の手を握り返す。一歩踏み出した先生に倣って、先生の隣に並んでアシカショーのホールへと向かって歩き出した。
 私の歩調に合わせてくれる先生を見上げて笑い掛けると、先生も私に笑いかけてくれて。たったそれだけのことなのに、心が弾んで、楽しい。
「かなり広いのね、このホール」
「どこらへん座る? まだ前の方空いてるぜ?」
「前の方! 真ん中がいい!」
 子供っぽくはしゃいでしまっても、先生は笑って受け入れてくれて。二人で真ん中辺りの前の席に座った。アシカショーが始まるまでの間、ワクワクとした気持ちのまま先生と過ごす。
 この前のデートはいっぱいいっぱいで会話を楽しむ余裕なんてなかったけれど、今日は先生と喋っているだけで自然と笑みが溢れて。楽しくて楽しくて、仕方がなかった。
 何の話をしていても、先生との会話が途切れる事は無くて。それがとても意外だった。言い合ってばかりだった頃もあったくらいなのに、驚くほど会話のテンポが弾む。気が付けば、あっという間にアシカショーの時間になっていた。
「可愛いッ! 見て、先生! ホラ! アシカが手を振ってる!」
 自分でもビックリするくらいに気持ちが浮上していて、本当に子どもみたいにはしゃいでしまう。
 自分の舞い上がった気持ちを抑えられないまま先生の袖を掴んで引っ張ると、目を細めて優しく笑う先生と目が合った。
 その瞬間、まるで時間が止まったかのような気がして、先生と視線を絡め合う。
 お付き合いし出してから今までにも、こんな優しい表情を見せてくれてはいたけれど、こんなに深い色の目で見つめられるのは初めてで。視線に籠もった熱っぽさの意味がわからなくて、どぎまぎしてしまう。
 それでも、視線を外すのは勿体無い気がして、顔が赤くなるのを自覚したまま、先生の視線に応え続けた。
 まるで、そこには私たちだけしかいないような錯覚に包まれた時、パシャンと水の跳ねる音がして大歓声が沸き起こった。
「……何が起こったか、見てなかったな」
「……そうね」
 ちら、と舞台の方を見てから先生が苦笑したのに釣られて、私も苦笑いする。
 名残惜しい気持ちでステージに目を移すと、飼育員のお姉さんが合図して観客に手拍子を求めている。周りの人たちは合図に合わせて手拍子をしているけれど、ステージから目を離していた私たちはついていけなくて。
 何とか周りの空気を読んで、私たちも周囲に合わせて手拍子をした。すると、水の中から上がってきたアシカがボールを鼻に乗せて手拍子に合わせて可愛らしく振付を踊ってみせて。沸き起こる拍手に、私たちもアシカに拍手を送った。
「では、最後に! このボールを受け取った方はアシカと写真撮影していただけます!」
 飼育員のお姉さんが、笑顔で観客席に向かってボールを指し示す。ボールをプールに投げたお姉さんはアシカに指示を出して、アシカはすぐにプールに潜った。
 ぐんぐん泳いでボールに近付いたアシカが勢い良くボールを鼻で弾く。綺麗に弧を描いて飛んだボールは、吸い込まれるように私の手元に飛び込んできて。慌てて受け止めようとして弾いてしまったのを、先生が受け止めてくれた。
「彼氏さん! ナイスフォローです! 写真撮影が当たったお二人に、拍手をお願い致します!」
 わーっと、会場中の注目が集まって、拍手が沸き起こる。
 私も先生も、思わず固まってしまっていて。
 っていうか、私と先生、ちゃんと恋人同士に見えるんだ。他人から改めて言われると、何だかとても恥ずかしくなってしまって、思わず赤くなった頬を両手で覆った。
「はい。では写真撮影を始めますので、当選されたお二人はこちらへどうぞ!」
 写真撮影用の台が用意されたプールサイドへ、先生と二人、連れ立って歩いていく。台の上に乗ったアシカは、クルクルとした大きな瞳が可愛くて。見ているだけで思わず笑顔になってしまう。
 係員の人に指示されてアシカの隣に並ぶと、パシャリ、といきなりシャッター音がして。振り返ると先生が携帯を構えて私とアシカの写真を撮っていた。
「可愛いから、つい。撮っちまった」
 少しだけ眉を寄せて大真面目に言った先生に、何言ってんだか、と笑っていると、係員さんが笑顔で私たちに言った。
「じゃあ、そんな彼氏さんにサービスしちゃいましょうか。彼女さん、アシカの隣にこちらを向いて立ってください」
 合図しても動かないでくださいね、と言われて恐る恐る指示通りにすると、係員さんが先生にカメラを構えるように伝えてから、アシカに向かって合図を出した。するとアシカが私の頬にチュッとキスをして離れていって。連写モードのシャッター音がパシャパシャと鳴り響いた。
「どうですか? いい写真撮れました?」
「ヤバいです……めっちゃ可愛い……」
「それは良かった。では写真撮影に移りますので、彼氏さんもアシカの隣に並んでくださいねー」
 携帯の画面を見つめたままこちらへ歩いてきた先生は、口元を抑えていて表情がよく見えない。
 眉を寄せたままだった先生が、携帯から視線を上げて、私をちらりと見てからパチンと頬を叩いてアシカの隣に並んだ。係員の人に指示されて、日付の入ったボードを二人で持って、アシカを挟むように立つ。
 ハイチーズ!という掛け声と共にパシャリとシャッター音がして、撮影が賑やかに終わった。ほ、と肩の力を抜いてボードを係員の人に渡すと、印刷されて台紙に貼られた写真を手渡された。
「かわいい……」
 私たちの中央で、アシカが可愛らしく笑っている。
 そして、そのアシカを挟むように、今日の日付が書かれたボードを持った私たちが満面の笑みで写っていて。
「記念のプレゼントになります! ぜひお持ち帰りくださいね」
「ありがとうございます!」
 貰った写真を胸に抱いて、アシカと握手してから会場の外へ出た。
「紫穂ちゃん、さっきの写真、俺にも見せて」
 会場を出てすぐに先生に声を掛けられて、写真を手渡す。写真は一枚しかないから、チケット代を払ってくれた先生が持っているのが正しいかもしれない。
 何となくそれがすごく寂しい感じがして、泣きたくなった。
「……めちゃめちゃ可愛いな」
「先生さっきからそればっかり」
 涙を誤魔化してふふ、と笑って少し俯く。
「そんなにアシカが可愛いなら、ショップに寄ってぬいぐるみでも買えば?」
「あー……うん……ちが……いや、何でもない」
 写真を片手にまた口元を押さえて眉を寄せている先生が、ふぅ、と息を吐いて首を振る。それから、私に向かって写真を差し出した。
「え? チケット代払ってくれたんだし、写真は先生のものでしょ?」
「いや、これは紫穂ちゃんが持ってて。今日の思い出に。」
「……いいの?」
「ああ。気にするなら、この写真持ってそこに立って。その写真撮って残しておくから」
「……? わかった。でも写真をアップにして撮らなくていいの?」
「紫穂ちゃんとここに来たんだって記念にな。写真も残るし、一石二鳥。」
 パシャリ、とまたカメラのシャッターを下ろした先生は、満足したように携帯の画面を見つめて携帯をポケットに仕舞った。
「ショップ行こう、ショップ。なんかお土産見ようぜ」
 ごく自然に私の手を取って先生は歩き出した。私は写真を鞄に仕舞いながら先生に着いていく。
「アシカのぬいぐるみ、そんなに欲しいの?」
「あー……紫穂ちゃんの欲しいもの何でも買ってやるよ」
 微妙に繋がらない会話に首を傾げながらショップに向かって歩いていく。
 人がごった返しているショップの中に入ると、一番奥がぬいぐるみコーナーになっていて。先生と一緒にそこへと向かった。
「アシカのぬいぐるみ、可愛いね」
 先程のアシカも可愛かったけれど、ぬいぐるみ用にデフォルメされたアシカもとても可愛くて、思わず空いた方の手で手に取ってしまった。すると、また口元を押さえて眉を寄せた先生が、俯きながら呟いて。
「買ってやる」
「え?」
「紫穂ちゃんにそのぬいぐるみプレゼントさせて」
「はぁ? 自分用に買うんじゃなくて?」
「俺が持ってるより紫穂ちゃんが持ってる方が百倍似合う」
「……まぁ、確かに。そうかもしれないけど」
 先生は、私からぬいぐるみをひったくるように奪い取って、レジに向かった。
 レジの側で先生がお会計を済ませるのを待っていると、ぬいぐるみを抱えた先生がレジ出口から出てきて。確かに先生が持っているよりも、私がぬいぐるみを持っている方がいいかもしれないと笑みが溢れた。
 どうぞ、と差し出されたぬいぐるみを受け取って、ぎゅう、と抱き締めると、再びシャッター音が鳴った。ふと先生を見上げると、やっぱり携帯を構えていて。
「そんなにアシカが好きなの?」
 ちょっとだけ意外な一面を見た、と目を見開いていると、先生に頭をクシャクシャと撫でられる。
「……可愛いんだから、仕方がないだろ」
 せいぜい勘違いしてろ、と呟いた先生に首を傾げながら、先生の隣に並んだ。
 ん、と差し出された手にまた首を傾げていると、先生に手を取られてしっかりと指を絡められる。今までにない強引さに、思わず目を見開いてしまって。かぁぁぁぁと頬に熱が集中する。
 なんだこれ。恥ずかしいを上回って、嬉しい。確かに嬉しいと感じている自分がいる。嬉しくて、楽しい。それなのに、ちょっぴり、切ない。どうしてかはわからないけれど、ほんの少し、紅茶にマーマレードを溶かしたみたいに、甘くて、切ない。気持ちは弾んで楽しいのに、どうして。答えの出ない疑問が、ぐるぐると頭の中を回り続けた。

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