ワールドイズマイン - 2/2

 
「……薫ちゃんが皆本博士と一緒に街へお出掛けしたんですって」

お茶の用意が調ったテーブルを二人で囲んでいると、静かに紫穂が口を開いた。

「……あの堅物が? 遂に動いたのか」

西洋から取り寄せられたティーカップに口を付けながら、そっと眉を寄せる。

「先生は皆本博士とご友人なんでしょう? どんな方なの? 薫ちゃんから聞いてるだけでも素敵な殿方なんだから、きっととても素敵な方なんでしょう?」

キラキラとした紫穂の目が俺に向けられて、ウッと言葉に詰まりながら、当たり障りない言葉を探した。

「アイツは……いい奴だけど、研究バカかな。女性を退屈させてしまう」
「そんなことないわ。薫ちゃんと皆本博士は愛し合っているんですもの。きっと素敵な家庭を築かれるに決まってるわ」

ほんの少し頬を染めて、紫穂は繊細なティーカップの持ち手を指で撫でている。
このぐらいの年頃の娘は結婚や恋愛に夢を持つ年頃だから、そんな風に捉えても仕方ないだろう。どうか目の前のこの少女が嫁ぐ先も、幸せに恵まれた環境であることを願って止まない。フ、と紫穂の言葉に否定も肯定もせず微笑むと、紫穂は思い詰めたようにきゅっと眉を寄せて口を開いた。

「……わ、私と、先生は、ダメなのかしら」
「……え?」
「わ、私と先生も……お、お似合いだと思わない?」

白い頬を更に赤くして、たどたどしく呟いた紫穂は俯き加減でカップに手を添えている。その指先は僅かに震えているようで、許されるのであれば、その手を握って震えを止めてやりたかった。

「皆本は……家柄もいいですし、文句の付け所のない男です。俺とは違う」

静かに、淡々と、できるだけ感情を乗せないように告げる。
紫穂の家柄に見合わない俺が、紫穂の家庭教師をさせてもらっているだけでも贅沢な話なんだ。それ以上なんて望むこと自体が間違いだし、もしそんなことを望んでしまったら彼女をどんな世界に巻き込んでしまうか目に見えている。彼女を不幸に巻き込むなんて馬鹿なこと、できるわけがなかった。

「で、でも……先生はお父様の主治医だし、お父様も気に入ってるし、家柄なんて」
「お嬢様」

俺の静かな声が紫穂の言葉を遮る。紫穂はハッとしたように俺を見つめた。

「俺とお嬢様は住む世界が違うのです。だからそれを望んではいけないんですよ」

ゆっくりと、諭すように告げると、紫穂は顔をくしゃくしゃにして叫んだ。

「で、でも! お父様は賢木先生なら私を嫁がせてもいいって仰ったわ!」

目尻にはうっすらと涙の滴が溜まっている。それでも俺はそれを拭うことはできない。

「紫穂は世間を知らないからそんなこと言えるんだ。俺のところになんか嫁いだら、君がなんて言われるか」
「全て、承知の上だわ! 先生が三宮の爵位目当てで私の先生をしてくれて、私の心を奪ったのだとしても、私は喜んで先生の元に嫁ぐわ! 愛する人と結婚できるのなら、私なにも怖くない!」

好き、好きなの先生が、と紫穂は顔を覆ってしまった。しゃくり上げている紫穂の背中に思わず触れて優しく撫でると、紫穂が俺の胸に飛び込んでくる。

「お父様は、私と先生の縁談も考えてくださっているのよ。私、先生が縁談を受けてくれるなら何だってするわ。大好きなお菓子だって我慢する。苦手なお勉強も頑張るわ。花嫁修業だって嫌がらずに一生懸命やります。私に足りないことがあるなら何でも仰って。それに、爵位だって先生になら継がせてもいいってお父様が」

きゅう、と俺に抱きつきながら必死に訴えてくる紫穂の背中をそろりと撫でる。まだ小さな細い肩を、潰してしまわないようにそっと抱き締めた。

「……君が良くても、俺は、紫穂を辛い目に遭わせたくない」

君には明るい幸せな家庭を築いてほしい、と呟くと、紫穂はふるふると首を振って俺の目を見つめる。

「元より、私に言い寄ってくる殿方は皆お父様の爵位目当てだと存じています。ならばせめて、私が好いた殿方と一緒になりたいと我が儘言うくらい、許してほしいの」
「紫穂……」
「それとも……先生には、もう心に決めた方がいらっしゃるの?」

一瞬だけ、きゅっと眉を寄せた紫穂は、ぎゅっと俺の服を掴んで俯いてしまった。何も答えられずにいると、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべて、紫穂は俺を見上げた。

「もしそうなら、私、その方よりもうんと綺麗になって先生を満足させてみせるわ! 私、女学校でも一等の美貌を誇ってるのよ。誰にも負けたりなんかしないわ」

紫穂らしい強気の発言に面食らっていると、紫穂は悲しそうに微笑んで続ける。

「それに、私と結婚すれば、先生は爵位が手に入って今よりもっと、お仕事がしやすくなると思うの。三宮の後押しで先生の病院だって建てられる。先生には良いことずくめでなくて?」

まるで自分の立場は心得ている、とでもいうような紫穂の発言に思わず顔を顰めた。

「紫穂は、俺が、君のことを爵位の付属品みたいに見てると思ってるのか」

ぎゅう、とその細い身体を抱き締めると、紫穂はそろりと俺の背中に手を回して縋ってくる。

「だって……先生は大人の女性がお好きでしょ。私になんて興味をお持ちでないから、どんなにお誘いしても、頷いてくださらない。だから、これは、私の片想いを成就させるための我が儘なの。先生は、三宮の家が決めた縁談となれば、断れない。私は、先生と一緒になるために卑怯な手を使う、子どもだわ」

俺の胸板に顔を埋めている紫穂の顔がどんな表情を浮かべているのかわからない。小さな紫穂の頭を撫でながら、ふぅ、と溜め息を吐いた。

「……俺と君の縁談の話は、どこまで進んでいるんだ?」
「……先生が頷いてくだされば、すぐにでも縁談を纏めるようにとお父様が」
「もうそんなとこまで話進んでるのか……」

はぁぁ、と深く胸に溜まった空気を吐き出すと、紫穂は俺から身体を離して俯いた。

「……近々、お父様から先生に直接お話されると思うわ。卑怯だと、何とでも仰って。それでも私は幸せなの。独り善がりでも、先生のところへ嫁げるのなら私は」
「紫穂」

俯いたまま喋り続ける紫穂の肩を掴んで顔を覗き込む。案の定、泣きそうな顔をしていた彼女に微笑みかけて、膝を折って抱き寄せた。

「センセイ?」

不思議そうに俺を抱き締め返してくれる紫穂に笑いかけて、きちんと膝を突いて紫穂の手を取る。

「順序が完全に逆だぞ」
「え?」
「結婚の申し込みくらい、俺からさせてくれ」
「え? でも、だって」
「紫穂お嬢様。俺は貴女をお慕い申しております」
「え? 嘘」
「俺は身分の低い家柄の出身。お嬢様が嫁ぐまでの間を一緒に過ごせればそれでいいと己の幸せを噛み締めておりました。ですが、結婚を許されるのであれば、俺はお嬢様と共に、一生を添い遂げたい」

目を見開いている紫穂に、優しく微笑みかける。

「俺と結婚してくださいませんか? 紫穂お嬢様」
「うそ」
「嘘じゃねぇよ。君と添い遂げられるなら、爵位なんて要らない。俺は紫穂だから一緒になりたいんだ」

他の男どもと一緒にすんな、と紫穂に訴えると、紫穂は顔をくしゃくしゃにして一粒涙を零した。

「ふたりきりの時は紫穂って呼んでって言ったわ。やり直して」

眉を寄せて不満そうに頬を膨らませている紫穂に笑いながら、ぎゅっと紫穂を抱き締める。

「俺と結婚してくれ。紫穂」

俺の言葉に、こくりと頷いた紫穂の背中を優しく撫でると、紫穂は俺の目を見つめて言った。

「ねぇ、私のこと、好き?」

じっと、真実を見極めるような目をして、紫穂は俺を見つめてくる。そんな紫穂の目を見つめ返しながら、口元を緩めた。

「あぁ。ずっと好きだったよ。身分なんてクソ食らえって何度思ったことか」
「私も……シェイクスピアのお話みたいに、先生と駆け落ちできたらって、何度も考えてたの」
「……駆け落ちはダメだ。君を不幸にするだけだから。これから何を言われても、力不足かもしれないが、俺が君を守ってみせるよ」

そっと紫穂の頬に手を添えれば、紫穂は涙で濡れた目許をふわりと笑みの形にして。

「先生となら何が起きても大丈夫。それに先生は素晴らしいお医者様だもの。きっと怖いものなんてない。私も、何か言われて黙ってるだけの女じゃないわ。必ず見返してやるの」

強気にそう微笑んだ紫穂に、思わずクスリと笑ってしまう。

「そりゃ頼もしいな……近々、正式にお父様を通して結婚の申込みをする。それまで少しだけ、待っててくれ」

紫穂から身体を離してポンと優しく頭を撫でれば、パッと顔を上げた紫穂がふるふると首を振った。

「そんなの待てないわ! 今すぐお話しに行きましょ! もうすぐお父様が帰ってらっしゃる頃合いだわ!」

こうしちゃいられない、と紫穂は俺が止める間もなく部屋を飛び出していってしまう。

「いや! 紫穂ちゃん!? 俺、今日、正装でも何でもないし準備も何もねぇからな!?」

慌てて廊下に顔を出して叫んでみてももう彼女の後ろ姿は見えず。この広いお屋敷をどんな早さで駆け抜けていったのか、と呆れてしまった。彼女らしい行動力に笑みを零しながら、ここで待っているわけにもいかないとせめて襟だけでも正して、紫穂の後を追いかけるべく廊下を進んでいく。
きっとずっとこの調子で、紫穂に振り回されて生きていくことになるんだろうな、と口元を綻ばせながら、そう悪くない未来に思いを馳せた。

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