イエローマゼンダ・シンドローム - 4/11

「隣、いいかい?」

比較的、学内でも落ち着いた部類の食堂。
窓際のカウンター席で、一人、今度の授業で使う本に目を通していると、そっと声を掛けられた。

「飯塚、先輩…」

爽やかさを伴って少しだけ遠慮がちに現れた先輩に、前回の強引さはなくて。
戸惑いながらもどうぞ、と受け入れるしかなかった。

「…この前はゴメンね」
「いえ、私こそ失礼しました」

先輩は座ってすぐに、私の方を向いて謝った。
私は読んでいた本を閉じようか閉じまいか、悩みながら答える。
隣の椅子に荷物を置いて座り直した先輩が、改めて私の方を向き直った。

「三宮さんは悪くないよ。僕がちょっと強引だったから」

天然なんだと思っていたら、どうやらそうでもないということがわかって、拍子抜けする。
驚いて視線を先輩に遣ると、にっこりと微笑まれた。

「やっと僕のこと見てくれた」

嬉しそうに笑って、テーブルに肘をついた先輩が、私を見つめ返してくる。
その視線にどきりとして視線をそらすと、クスリと先輩が笑って。

「僕を見てるの恥ずかしい?」

目を細めながら顔をくしゃっとして笑った先輩は、身体ごと私に向き直って身を少しだけ乗り出した。

「…先輩は少し強引なところがありますよね」

ふぅ、と溜め息をつきながら、開いていた本をパタリと閉じる。
本をそのままテーブルの上に置いて、本の上に手を重ねた。

「そうかな?」
「そうですよ。現にさっきも強引だったことを謝られたじゃないですか」
「…確かにそうだね。でも、強引なのはさ、」

乗り出していた身体を元に戻して、先輩は爽やかに笑った。

「君に対してだけだよ」

ざわついていた食堂が、一瞬だけ、音が止まった気がした。
実際はそんなことはなくて、またざわざわといつもの気配が耳に届いてくる。
固まってしまった私に、先輩はふっと笑みを深めて椅子ごと私に身を寄せた。

「君のことが気になるから、強引になっちゃうんだ。」

そっと、飯塚先輩の手が私の手に重なる。
思わず手を引いて避けようとすると、優しく指を絡められた。

「ちょっ、困ります。飯塚先輩…」
「僕が君に触れると困る?」
「だって、私…」
「サイコメトリーが使えるんでしょ?知ってるよ」
「じゃあ、あの…」
「僕はね、君に透視してほしいくらいなんだよ」

にこり、と先輩が笑って私を見つめる。

『君が好きだよ』

ふ、と油断したところにするりと透視み取ってしまった彼の思念。
とくん、と胸が音を立てた。
思わず飯塚先輩の顔を見返すと、顔に似合う甘い顔で微笑む彼と目が合って。
咄嗟に目を背けた。

「伝わった?僕の気持ち」

とろりと目を細めて笑っている先輩が、きゅっと絡めた指に力を入れる。
びくりと反応して手を引いても、先輩は手を解放してくれなくて。
困惑して恐る恐る先輩を見遣ると、にこりと笑みを深めた先輩がこちらを見ているのと目が合った。

「君が好きだから、特別、強引になっちゃうんだ。」

先輩は私との距離を詰めて、まるでとっておきの大切な内緒話でもするかのように、ひそりと小さな声で囁いた。
まるで、この広い空間に二人きりしか存在しないみたいに、先輩は私だけを見つめている。
その視線に、身動きできなくなってしまった私は、呼吸することも忘れてしまいそうで。
私を好き?飯塚先輩が?嘘だ、と思いながらも、手から伝わってくる思念が、これは嘘じゃないと示している。

「一目惚れ、だったんだ。」

ゼミの部屋に現れた、君にね、と続けた飯塚先輩は、頬を赤くしながらも照れたように話し始めた。

「月並みな表現で申し訳ないんだけど、天使が地上に舞い降りたのかと思ったよ」
「……」
「引いちゃうよね。自分でも正直ドン引きした。でもさ、もうその瞬間には恋に落ちてたんだよね」

三宮さんに、と言う先輩は、至極真面目な表情で私に告げる。
思考も停止してしまっている私は、黙って聞いていることしかできなくて。
キラキラとした先輩の瞳に囚われてしまう。

「三宮さんに、僕のことを意識してもらおうと思ったら、多少強引にいかないと駄目なんだなって気付いたんだ」
「……え?」
「君は他の男を見ているからね」

くしゃり、と笑顔を崩して眉を寄せた先輩が、首を傾げて私に問い掛けた。

「賢木ドクターが好きなんでしょう?」

どくん、と心臓が震えた。
どくん、どくん、という胸の鼓動が耳元で聞こえて、うるさくて。
それでも、先輩から逃げることも視線を背けることもできなくて、ただ、茫然と先輩を見ていることしかできない。
まるで先輩が空間を支配してるんじゃないかと思わせる空気を何とか切り抜けようと頭を廻らせても、上手く頭が回ってくれなくて。
そんなとき、テーブルに置いたままだった携帯が、メールの着信を知らせた。

「…行こうか」
「え?」
「今日も迎えに来るんでしょ?賢木ドクター」

ぐいっと私の手を引いて、先輩は私を椅子から立たせた。
そのまま歩いて行こうとするのを、鞄と本と携帯を抱えて躓きそうになりながら慌てて着いていく。

「あの!先輩!離してッ!」
「どうして?」
「どうしてって…」
「見られると困るのかい?賢木ドクターに」

ピタリ、と足を止めて振り返った先輩は、背筋がヒヤリとするくらいの無表情で問い掛けてきて。
思わず足がすくみそうになるのを叱咤して、言い返す。

「賢木先生は関係ありません。他の学生に見られると困るんです」
「僕は何一つ困らないね。寧ろ見せつけてやりたいくらいさ」

にっ、と口角だけを上げて笑ってみせる先輩に、ぞくりとしたものが背中を這い回る。
膝が震えそうになるのを堪えていると、クスリと笑った先輩が、そのまま強引に手を引いて校門へ向かって歩き出した。

「先輩!待って!」
「待たない」
「せめて手を離してッ!」
「離さないよ」

つんのめりそうになりながらも何とか早足の先輩に着いていく。
最後の角を曲がって校門が見えた時、校門に凭れている先生が視界に入る。
こちらを見ていた先生は私たちの姿を確認すると、眉をしかめてゆっくりと身体をこちらに向けた。

「お願い!離して!」
「嫌だ、って言ったら?」

歩くスピードを緩めずに先生へと近付いていく先輩の腕を何とか振り切ろうとしても、ぎゅっと手を握られていてなかなかほどくのが難しい。
もう先生は目の前に迫っていて、無性に泣きたくなった。

「やぁ、こんにちは。飯塚くん、だっけ?」

先生はよそ行きの笑顔で私たちに声を掛けてくる。
その表情の裏側に何が隠されているのか、想像もできなければ、ちらりと垣間見ることもできない。
それに恐怖を感じてしまって、思わず顔を俯けた。
立ち止まった私たちは横並びになって、先輩は先生と真正面から向き合っている。
どんなに手を引いても、先輩は離してくれなくて、どうしてだか悲しくて堪らなかった。

「覚えて頂いて光栄です。賢木ドクター」
「へぇ、俺の名前知ってるの。紫穂ちゃんから聞いた?」
「いえ、論文を読ませて頂きました。」

ひゅう、と先生が口笛を吹く音が耳に届く。
普通に会話しているだけのはずなのに、どこか冷たく感じる二人の会話に震えが走る。
心理戦なんて、日常茶飯事なのに。
どうしてこの二人が向き合うだけでこんなにも恐ろしく感じるの。
先生は、少しだけ目の表情を強くして、ゆっくりとした動作で綺麗な指をすっと前に向け、私たちの繋がれた手を指し示した。

「で?飯塚くん。紫穂ちゃん、嫌がってるみたいだけど。手、離してやりなよ」

口調自体は柔らかいのに、少しトゲが混じったような声で先生は言う。
すると、先輩はクスリと笑って、繋いだ手を先生に掲げて見せつけるように前に出した。

「嫌がって見えるのは、貴方の願望じゃないですか?」

今にも笑い出しそうな楽しい声色で先輩は先生に対峙している。
一瞬だけ顔を歪めた先生は、すぐによそ行きの表情に戻して笑ってみせた。

「……言うねぇ」

ゆったりとした動作で前髪を掻き上げて、強い視線を先輩に向ける。

「でも、女の子の気持ちを読み違えているようじゃあ、まだまだ半人前だ」

先輩は一瞬怯んだのか手を握る力を弛めた。
その隙に何とか手をほどいて距離を取る。
おいで、紫穂ちゃん、という先生の声に、迷わず先生に駆け寄った。
そのまま先生のパーソナルスペースに潜り込んで、ほっと息を吐く。
そっと背中を撫でられて、思った以上に緊張していたことがわかって深呼吸をしながら肩の力を抜いた。
先輩は苦々しげに笑って、ふん、と鼻を鳴らして告げる。

「今日は貴方に僕らの関係を見せつけてやりたかっただけなんで。そういうことでいいです。」

強い態度で先生に言い放った先輩は、私に向かって柔らかく笑ってから、じゃあね三宮さん、また明日、とだけ告げて去っていった。

「……大丈夫か?紫穂ちゃん」

先生の手が、優しく私の肩を抱いてくれる。
その優しい手つきに身体に入っていた力がどんどん抜けていって、先生に身体を預けてぎゅっと鞄を抱き締めた。

「車、行こう。紫穂」

先生が短く言葉を切って告げたのに頷いて、誘導されるがまま車に乗り込む。
助手席に座って、やっと全部の緊張が解れた気がして、はぁー、と深く息を吐いた。
ずるり、と抱えていた本がずり落ちて、腕に抱えていたものを全て膝の上にゆっくりと置き直した。

「紫穂ちゃん」

優しいけれど、有無を言わせない強さで先生が私を呼ぶ。

「消毒、させてほしいんだけど」

いい?と先生が私に向かって手を差し出した。
その手にそっとさっきまで先輩に握られていた手を乗せる。
先生は一度ぎゅっと握ってから、一本一本確かめるような丁寧さで指を絡めた。
全部の指を絡め終えて、壊れ物を包み込むように手を重ねる。
そして、私の手の甲に優しくキスを落としてから、崇めるように自分の額に当てた。

「…こわかったろ」

ちらり、と私の顔を窺い見てから先生は小さくぼそりと呟いた。
それを聞いた途端、ぽろり、と涙が零れて、堰を切ったように泣き出してしまって。
ああ、私、怖かったんだわ、と思い出した。
よしよしと頭を撫でてくれる先生に甘えて、泣きじゃくる。
違和感のあった手のひらは、知っている手に包まれて、違和感のあった温もりも、知っているものに変わって。
先生の肩に頭を埋めると、ぎゅっと抱き締められた。

「…もう、大丈夫だから」

先生の優しい声に、ほっと肩の力が抜けた。
これが、男と女の差なんだわと思い知らされる。
先輩の有無を言わせない態度が怖かった。
抵抗したって、力も武器も使えない状態じゃ、何の抵抗の意味もなくて。
されるがままだった自分が恐ろしい。
もし、先生が迎えに来てくれなかったら。
今頃どうなっていたんだろう。
あの強引さに、私は為す術があったんだろうか。

「もうあの男には近付くな。」

はっきりと、意思の強い口調で先生は告げる。
私はただ頷いて、涙が引くまで先生にすがっていることしか出来なかった。

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