イエローマゼンダ・シンドローム - 3/11

「こんにちは。三宮さん」
「こんにちは、飯塚先輩」

昼休み、次の講義室へ向かう途中、後ろから声を掛けられて振り向くと、そこには飯塚先輩がいて。
駆けてくる彼に合わせて立ち止まって待っていると、にこりと笑顔を向けられた。

「これから授業?」
「はい。今から向かうところです。」
「一緒に行ってもいいかい?」
「え?」
「次の授業は何なの?」
「えっと、第二外国語のドイツ語ですけど…」
「三宮さんもドイツ語なんだね!僕も一緒に受けようかな」
「え?」
「次の授業、休講になっちゃってさ。僕も去年履修したし、復習がてらに。」
「でも、先輩」
「大丈夫。バレないよ。それに僕、あの先生の授業、好きなんだ。」

いいかい?と歩き出した飯塚先輩は、断る理由を私には与えてくれなくて。
にこりと笑う先輩の後を追い掛けた。
飯塚先輩は私が隣に並んだのを見て、私に歩調を合わせてゆっくりと歩いていく。
横目でちらりと見上げると、とても楽しそうに笑っていて。
余計に何か口出すことができなくなってばれないように小さく溜め息を吐いた。
教室に入っていつもの定位置を陣取ると、先輩も私の隣に座って。
本気で授業を受ける気なのかしらと疑問に思っていると、ふ、と先輩に笑い掛けられた。

「強引だったかい?」
「え?」
「少しでも君と一緒に居たいんだ」

にこりと笑う先輩にどきりと胸が鳴る。
丁度その時、教授が教室に入ってきて、会話を中断せざるを得なくなった。
慌てて授業の準備をしてその場を誤魔化す。
一体今のは何だったんだろう。
ドキドキと胸の鼓動が鎮まってくれない。
いつもは集中して受けているドイツ語の授業なのに、全く集中できなくて耳からも目からも授業の内容が溢れていく。
こんなことは初めて、でもなかった。
先生に勉強教わっていた時も時々こんな風に集中を乱されたことがあったっけ。
その時を思い出してしまって、何だか頬まで熱くなってくる。
チラリ、と先輩の方を見てみると、真面目にノートを取って授業を受けている様子で。
ふ、とこちらに気付いた飯塚先輩が、口だけで、どうしたの?と聞いてくる。
その顔はとても優しい笑顔で。
思わずバッと勢いよく視線を前に戻して、小さな声で何でもないです、と呟いた。
どうしちゃったのかしら、私。
こんなことで動揺する、なんて。

「じゃあ今日はここでお仕舞いにします」

あっという間に授業の時間が過ぎてしまった。
いつもの充実したドイツ語の時間がこんな風に終わってしまったなんて。
少しでも先生に追いつきたいと選択したはずの第二外国語。
それが、飯塚先輩が一緒だからと言うだけでこんなにも掻き乱されるなんて、自分が信じられない。

「大丈夫?三宮さん」

飯塚先輩に声を掛けられて、ハッとする。
もう部屋には殆ど生徒が残っていなくて、次の授業の生徒が少しずつ集まり始めている。

「あ、ごめんなさい。私」
「大丈夫だよ。取り敢えず出ようか?」

先輩に促されて、慌てて荷物を纏めて部屋を出た。
廊下に出て一息吐くと、先輩が心配そうな顔で私を覗き込んでくる。
それにもドキリとして、思わず身を引いた。

「あ、驚かせちゃったかな?ゴメンね。心配だったから」
「…すみません。」
「大丈夫だよ。三宮さん、次も授業取ってるの?」

ふんわり笑っている先輩に、首を横に振って答えた。
少し冷静になりたい。
どこか一人になれる場所はないかしら。

「なら、少し休んだ方がいいよ。カフェテリアに行こう」

パッと手を取られて、先輩が心配そうな笑顔でカフェに向かう道を進み始める。

「あ、あの、私ッ」
「何か約束でもあるの?」
「いえ、そういうわけでは…」
「じゃあ行こう。少し休んだ方がいい」

飯塚先輩は戸惑う私を少し強引にカフェテリアへと連れ込んだ。
奥の窓側の目立たない席に私を座らせて、先輩は飲み物を買いに行ってしまった。
鞄を場所取り代わりに置いていってしまった先輩を振り切って立ち去るわけにもいかず、大人しく窓際の二人席から外を眺める。
奢られる義理はないから、お金を払おうと財布の中の小銭を確認すると、運悪く細かい小銭がないことに気付いて溜め息を吐いた。
どこまでもついていない。
もう一度、ふぅ、と溜め息を吐いていると先輩がアイスティーを二つトレイに乗せて戻ってきた。

「アイスティーで良かった?シロップとかミルクは適当に持ってきたんだけど。」

トレイに乗せられたグラスを私の前にひとつ置いてから、先輩は私の正面に座ってトレイにあるガムシロップなんかを丁寧に私の前に並べている。

「大丈夫です。お金返しますね」
「いいよ。僕が誘ったんだし。ここは奢らせて」
「…奢られる理由がありません」
「じゃあ、たまには先輩に奢られときなよ」

理由はそれで、とにっこり笑う飯塚先輩に圧されて、根負けしてしまう。
心理戦なんて、私の得意分野のはずなのに。
この人相手にはどうしてか勝てない。
私も普通人だからと遠慮しているせいだろうか、強引に押しきられてしまう。

「すみません。じゃあ、頂きます」
「そういうときはありがとうって言うんだよ。三宮さん」
「…ありがとう、ございます」

屈託なく笑う先輩を正面から見ていられなくて目をそらした。
なんだか少し頬も熱い気がして、俯き加減で顔を隠す。
先輩がアイスティーにシロップを入れるのを見て、私もシロップとミルクを入れてカラカラとグラスをストローでかき混ぜた。

「ミルクティー好きなの?」
「ええ、まぁ」
「そうなんだ。尚更アイスティーを選んで良かったよ」

本当に嬉しそうに笑う飯塚先輩が私を見てにっこりと笑みを深める。
飯塚先輩もイケメンの部類に入るからかしら、イケメンには慣れているはずなのに、ドキドキしてしまっていけない。
真っ直ぐ私に向けられる笑顔だからなのか、驚くほどにキラキラして見える。
そんなの、見慣れてるはずなのに。
きゅっと口を結ぶと、携帯が振動したことに気付いて鞄から取り出して確認すると、一件メッセージが入っていて。

【今どこ?今日三限までじゃなかったっけ?】

送り主を確認するまでもない内容に、ぎゅっと携帯を握り締める。
返信を打とうとメッセージアプリをタップすると、ふ、と強い視線を感じて顔を上げた。

「この前の男の人からかい?」

少しだけ眉を寄せて険しい顔で飯塚先輩がこちらを見ていた。
その初めて見る表情に、どきりと冷たいものが走る。

「えっと、そうですけど」
「あの人、バベルの賢木ドクターでしょ?」
「…何でご存知、なんですか?」
「気になったからね、調べたんだよ」

論文に写真載ってるのがあったから、と眉を寄せたまま申し訳なさそうに飯塚先輩は笑った。
そのまま、少しだけ真面目な表情をして、私を真っ直ぐに見つめてくる。

「賢木ドクターと三宮さんは、どういう関係なの?」
「えっと…」
「お付き合い、とか、しているの?」
「…してませんよ。昔から、お世話になってるだけです」
「……そう」

ふぅ、と息を吐いて先輩は私から視線を外した。
何だか詰問されている気分がして、落ち着かない。
一瞬シンとしてしまった空気に、カラン、とグラスの氷が溶ける音が響いた。

「僕は、君が心配なんだ。」
「…え?」
「年上の医者なんて、遊んでそうじゃないか」

カラリ、と先輩はストローでアイスティーをかき混ぜながら言った。
そして、今度はしっかりと、私に顔を向けて告げる。

「君が心配なんだ。」

あまりにも真っ直ぐ向けられた視線に、思わず視線を外してしまう。
心配って何。
先生が遊んでる、とか、何で、この人に言われなきゃいけないの。
怒りにも似た恥ずかしさみたいなものが込み上げてきて、握り締めた手が震える。

「別に、先輩には関係ないじゃないですか」
「え?」
「私と先生がどういう関係かなんて、先輩には関係ないじゃないですか」

キッと先輩を見つめ返す。
するりと出た言葉は思ったよりもトゲトゲしくて、思わず口を塞ぐ。
飯塚先輩はびっくりしたように目を見開いて私を見ていて。

「すみません。失礼します」

居心地の悪さに吐き気がして、思わず立ち上がって駆け出していた。
後ろで三宮さん、と私を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り切るように目を瞑ってカフェテリアを飛び出す。
そのまま、いつも先生が待ってくれているはずの校門へと走った。
先生のことは、言われ慣れているはずなのに、どうして。
どうしてこんなにも胸に引っ掛かったんだろう。
それに、今の先生が昔の先生とは違うって私は充分に知ってるのに。
なんで、どうして、先生を知りもしない貴方が先生のことをそんな風に言うの。
私と先生がどうだって、貴方には関係ないはずなのに!校門に、見慣れた姿を見つけて、ざわついた心が萎えいでいく。
先生も私を見つけたのか、こちらを向いて大きく手を振っていて。
駆けてきたそのままの勢いでその胸に飛び込んだ。

「うぉっ!どうした、紫穂ちゃん」

驚きながらも優しく抱き締めてくれる先生に、荒れた心が落ち着いていく。
ほっと肩の力を抜いて、先生にきゅうと抱きついた。

「なんでも、ないの」

ぎゅっと抱き締め返してくれる先生に甘えて、そっと身を任せてしまう。
ここじゃ目立つから、と先生に耳元で囁かれて、肩を抱かれたまま車に誘われた。

「大学でなんかあった?」

車を少しだけ走らせて人目のつかないところへ移動してから、先生が声を掛けてきた。
その表情は私を心配してくれているもので。
何があったか伝えるのが難しくて言い澱んでいると、先生は眉を寄せたまま笑って私の頭を撫でた。

「言いにくかったら、言わなくてもいいけど。俺には何でも言ってくれると嬉しい」

ふ、と優しく笑う先生に何だか泣きたくなってくる。
きっと今の私の顔は人に見せられないくらいくしゃくしゃで。
するり、と先生が私の頬を撫でた。

「キス、してもいいか?」

真剣な眼差しで先生が私を見つめる。
こくり、と小さく頷くと、嬉しそうに先生が笑って。
ゆっくりと私が目を閉じるのを待って、先生がゆっくりと近付いてくる。
先生は優しい。
いつでも私を待ってくれている。
でも、今は。
強引でもいいから奪ってほしい。

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