先生がくれた最後のキスは、とても甘くて、優しかった。触れた唇から伝わってきたのは深い愛情。ただ私を愛してくれているということだけは伝わって、じゃあどうして私から離れていくの? という疑問だけが残った。先生が追い掛けてくれなくちゃ、歩くこともままならないのよ、私。
「……紫穂」
ベッドサイドに置かれた小さなテーブルに、ほんわかと湯気の上がる器の乗ったトレイが置かれる。それをぼんやりと見つめていると、ふわりと頭を撫でられた。
「お粥でもええから何かお腹に入れやな。ほら、ふーふーしたるから口開けて?」
スプーンを手にした葵ちゃんが、少しだけ眉を寄せて私に笑いかける。椅子に腰掛けて一口分のお粥を掬った葵ちゃんがふぅふぅと温度を見ながら私の口許へ運んでくる。
「ほら、あーんして? 紫穂」
そっと差し出されたひとさじに、ゆるゆるとした動きで口を付ける。少し塩のきいた玉子粥は、ほんのり甘くて優しい味がした。ゆっくり咀嚼して飲み込むと安心したように顔を綻ばせた葵ちゃんがもうひとさじ掬って運んでくる。
「食べられるだけでええから、食べとき? 栄養つけな、ホンマに動かれへんくなってまうで」
ほら、と口許に運ばれたスプーンに、もう一度口をつけてから、軽く俯いてこれ以上要らないと意思表示する。葵ちゃんは痛ましげに眉をひそめてからスプーンを置いた。そろりと葵ちゃんから目を背けるように俯いて、立てた膝に顔を埋めてしまう。
「……なぁ、紫穂? アンタ、これからどうする気や?」
そっと呟かれた言葉にぴくりと肩を震わせる。葵ちゃんは私を責めるでもなく、ただ、静かに問いかけてくる。
「いつまでも、閉じこもってられへんで? 皆本ハンも、心配してる」
「……うん」
「もう一週間も、バベルに顔出してへんやんか。特務は何とかなるけど、皆心配してはるで?」
「うん……」
葵ちゃんから聞かされる言葉に、力なく返事をする。自分だってわかってる。いつまでもこのままじゃいけないってこと。いい加減現実を受け入れて、一人で立ち上がらなくちゃいけない。そこまで考えて、またじわりと涙が浮かんでくる。もうどうしたって一人じゃ無理なのに、側で支えてくれた人はもういない。
「なぁ、紫穂」
改めて私を呼び掛ける葵ちゃんに、ゆっくりと顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「私……薫ちゃんにも、嫌われちゃったんだよね」
先生が来てくれたあの日、薫ちゃんは私に一生懸命呼びかけてくれていた。それでも、私は受け入れられない現実に大きな衝撃を受けて、薫ちゃんにも答えることができなかった。それ以降、薫ちゃんを見ていない。
「薫は、紫穂のこと、心配しとるよ。でも、どうしたらええんか、わからんねん」
それはウチも一緒や、と葵ちゃんは私の頭を撫でながら告げる。
「先生が、ホンマに紫穂と別れるなんて思っとらんかったから。ウチも、薫も、どうしたるんがええんか、今でもわからん」
力なく笑う葵ちゃんは、ふと何かを決意したように私の手を握って言った。
「……なぁ、紫穂。アンタ、ホンマにこのままでええと思ってるんか?」
力強い目に見つめられて、思わず視線を下げると、がしりと頬を両手で掴まれて逃げられなくされてしまった。
「ずっとずっと、逃げたままで、ホンマに後悔せぇへんの?」
「……」
「……せめて最後くらい、ちゃんと向き合うたらどうやの」
「……でも」
「ウチは今からでも遅ぅない思ってる。今からでも間に合うはずや」
葵ちゃんは苦しそうに顔を歪めてから、ぎゅっと私を抱き締めた。
「自分に素直になりぃや! 紫穂! 欲しいもんは欲しいって言ったって誰も笑ろたりせぇへん!」
ぎゅうぎゅうと私を抱き締めてくれる葵ちゃんの背中にそろそろと手を伸ばしてきゅっと縋る。
「アンタが動かんと何も変わらんのやで、紫穂。アンタが、自分で行動せやんと、ずっとこのままや」
誰もアンタの欲しいもんくれたりせぇへん、と葵ちゃんは苦しそうに呟いた。その声は少しだけ震えていて。
「……ウチも、これ以上は面倒見切れん。あとはアンタがどうするかや、紫穂」
ゆっくりと身体を離した葵ちゃんは、険しい表情のまま、私を見つめて言った。
「明日の見送りくらい、ちゃんとおいでや」
そう言って、思いを振り切るように葵ちゃんは部屋から出ていってしまった。
ふと、一人になってしまった部屋の中。ドアの動きに合わせてはためいたカーテンが気になって、窓のそばへと近寄る。恐る恐るカーテンを開くと、外はもう真っ暗で、月が天高く登っていた。
「……明日」
そう明日。先生はコメリカへ行ってしまう。それを聞かされたのはもうだいぶ前だったような気もするし、つい昨日のことのようにも感じる。先生に別れようと言われて、私たちの関係は終わってしまった。それだけじゃない。先生は遠く離れたところへ行ってしまって、もう会えなくなる。
「……そんなのイヤだよ」
ずっとずっと私の側で笑っていて欲しかった。でも、それは叶わなくなってしまった。
「……先生」
月を見上げながら、ぽつり、と呟く。先生は、先生以上のいい男を見つけて、幸せになれと言っていた。自分の幸せを、自分の手で掴め、とも。
「私の幸せって……なによ、それ」
こつり、と窓に額を寄せて呟いた。ひんやりと冷えた空気が伝わって、私の吐息が窓を白くする。ぼやりとぼやけた窓にうっすらと自分が写りこんで、きゅっと眉を寄せた。
「酷い顔」
泣き続けてもう涙なんて出ないと思っていたのに、まだ涙は枯れていないみたいで。ポロポロと溢れては頬を濡らしていった。
「先生……」
あの時に戻ってやり直せば、全てうまくいったんだろうか。十八歳を迎えたあの日。先生からのプロポーズを断っていなければ、こんなことにはならなかったんだろうか。
あの日、先生から結婚を申し込まれた時、嬉しくなかったわけじゃない。普段見ることのない先生の緊張した表情にドキドキしたことは今でも覚えている。ただ、結婚という現実を突きつけられて、急に怖くなってしまって、まだ自由でいたい、と断った。
だって、結婚してしまったら。形としても先生のものになってしまったら。先生を繋ぎ止めておける自信が私にはなかった。飽きられてしまったら? 嫌気がさしてしまったら? こんな面倒な女だったのか、って気付かれてしまったら? その時私はどうなってしまうんだろう。簡単に想像できてしまって、怖かった。
だから、ずっと追いかけていて欲しかった。捕まりそうになったらするりと躱してずっと逃げていたかった。そう。私は逃げていたんだ。先生からも。自分からも。先生の愛を信じようとしないで、ただ、ずっと逃げていた。先生が好きでいてくれる自分のことも信じないで、ただひたすらに逃げていた。
私はきっと、自分のことを、心の底から愛せてはいなかった。だから、先生の愛を疑ったし、一生なんてあるわけないと恐怖した。あの女好きの先生のことだ、きっといつか浮気する、と先生のせいにして、先生の愛を疑った。全ては自分を心から愛せていないせいなのに、先生のせいにして、先生からの愛を真正面から受け止めていなかった。
私はなんて愚かだったんだろう。先生はあんなにも、それこそ別れを口にしたその最後の瞬間まで、私を愛してくれていたというのに。私は自分に自信が持てないせいで、それを受け止められなかった。自分を愛せないせいで、先生のことを全部愛してはあげられなかった。
気が付けば、空はもう青みがかっていて、ほんのりと冬の白さを乗せた空気が漂っていた。きらりと澄んだ朝焼けに、心が洗われるようだった。
「……まだ、間に合うの?」
部屋に差し込んだ一筋の光が、そっと私の背中を押してくれた。
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