はぁ、と肺に溜まった空気を吐き出す。重苦しい気分が少しだけマシになったような気がして、顔を上げると心配そうにこちらを見る皆本と目が合った。
「……賢木、最近ちょっと溜め息多くないか?」
何か悩みでもあるのか? と問い掛けてくる皆本に、あーちょっとな、と苦笑いをしながら返事して。
「まぁ、悩みっつーか……うーん。まぁ、悩んでる、な」
「僕で良かったら聞くぞ?」
眉を寄せてこちらを見ている皆本に、そろそろ一人で抱えるには重たくなってしまった悩みを話してみるのもいいかもしれない。今日はたまたま珍しく、二人並んでバベルのオープンスペースで事務仕事を片していたところだったから、ちょうどいい機会なのかもしれなかった。ただ、ここで話すのはちょっと問題アリな内容なので、皆本と連れ立ってコーヒースペースに移動して、新しいコーヒーを入れてから皆本にヒソヒソと耳打ちをする。
「あのさ……そろそろ紫穂の誕生日だろ?」
「ああ、もうすぐ二月だもんな」
「でな……リベンジ、しようと思って」
「……リベンジ?」
「……再チャレンジ」
「いや、リベンジの意味はわかるよ。何のリベンジだよ」
「……プロポーズ」
より一層小さい声で囁くと、皆本は驚いたようにバッと顔をこちらに向けた。
「やっとか!?」
「シッ!!! 皆本クン、声がデカい!」
「あ……ごめん」
ふぅ、と一息吐いてから皆本を見ると、皆本は口元を押さえながら周りの様子を窺って、内緒話をするように身を寄せてきた。
「おめでとう」
にこり、と笑ってそう呟いた皆本は、本当に嬉しそうで、思わず、は? と首を傾げた。
「何がだよ」
「いや……だって、やっと結婚するんだなぁ、と思ってさ」
感慨深げに呟いた皆本に、俺は頭を抱えたくなった。
「……いや? あのね? 皆本くん……プロポーズ、まだ成功してないからね? 俺」
がっくりと肩を落として皆本をじとりと睨みつけると、心底不思議そうな顔をして皆本は俺を見ていた。
「え? 賢木が言えばすぐオーケーだろ。成功するに決まってる」
大真面目にそう言ってのけた皆本に、はぁぁぁぁ、と深く溜め息を吐いて額に手を遣ってから俯いた。
「……そんなわけねぇよ、俺、一回失敗してんだぜ」
そう、忘れもしない二年前の紫穂の誕生日。紫穂がちょうど18歳を迎えたあの日。俺は紫穂にプロポーズした。けれど、失敗に終わった。
「まだ自由でいたいの。だからダメ」
そう返事を貰った時の光景は、今でも時々夢に見るくらい俺の記憶に強烈に焼き付いている。あれから結婚が絡みそうな話題や場所はことごとく避けて通ってきた二年間。とてもじゃないが、プロポーズが成功しそうな未来は俺には見えてはいなかった。
「でな、皆本……今回ダメだったら……もう、別れようと思うんだ」
抱えていた鉛みたいに重たいものを吐き出して、ふ、と息を吐くと、皆本が小さく、え、と呟いた。びっくりしたように目を見開いて表情を強ばらせた皆本は、文字通り固まってしまっていて。
「え? 別れるって、どういう」
「……そのまんまの意味だよ。若い紫穂を一回りも年上のオッサンがいつまでも縛り付けてるのはよくねぇな、と思ってよ」
「……賢木、それ、本気で言ってるのか?」
ぎゅっと眉を寄せて険しい顔をした皆本の視線が痛い。でも、これは俺だって受け入れたくないけれど、受け入れると決めた決断だ。
「紫穂はやっと俺と皆本が出会った頃の歳になるんだぜ? まだまだ未来も可能性も広がってる。それを、俺が潰しちまうことだけはしたくねぇんだ。紫穂には自由に生きて欲しい」
ふ、と表情を緩めて皆本を見ると、まるで何かに傷ついたような顔をして皆本は俺を見つめていた。なんでお前がそんな顔してるんだよ、と苦笑いしながら、口を開く。
「お前と薫ちゃんはもう運命みたいなもんじゃん。俺は多分そうじゃなかったってだけの話」
「君と紫穂だって……充分、運命みたいなもんじゃないか」
紫穂は君がいなくなったら、と、皆本はそこまで言って口を噤んだ。それにフッと口元を緩めて続ける。
「でもさ、俺、自由に生きたいっていう紫穂を縛り付けてまで側に居たくねぇよ。情けねぇけど、俺は、法的にもアイツの側にいられる権利が欲しいし、紫穂と家族になりてぇんだ」
これが二年間考え抜いた俺の答え、そう呟くと、皆本はぎゅっと目を瞑って、苦しそうに賢木、と俺の名を口にした。
「だから、結婚できないなら、紫穂を自由にしてやるしか、ねぇんだよ」
「賢木、でも、それは……」
「ああ。だから、俺、コメリカ行こうと思ってる」
「え?」
「物理的に離れちまったら、もうどうしようもなくなるだろ」
「そうじゃなくてッ! どうして失敗する前提で話が進んでるんだよ!」
皆本がより険しい表情で俺に迫る。その表情は、心底自分のことのように俺の話を受け止めてくれているのが見てとれて。やっぱりお前にだけは話しておいて正解だったかもな、とふと思った。
「俺には成功する未来が見えねぇんだよ。仕方ねぇじゃん」
そう、仕方がない。今回のリベンジはきっとまた負け戦になる。だから、ちゃんとその後始末をどうつけるのかまで考えただけのこと。
「コメリカ時代の友人とか、在日エスパーチームのケンとか、そろそろあたってみようかと思ってたところだったから、皆本に相談できてよかったよ」
にっと笑ってみせると、険しい表情のまま皆本はおもむろに携帯を取り出して何処かに電話を掛け始めた。急にどうした、と訝しげに見つめていると、数秒も待たずに繋がったのか電話の相手に喋り始めた。
「細かいことは後で説明する。今すぐ葵を連れてここに来てくれ」
皆本はたったそれだけを告げて電話を切った。その様子から見て恐らく薫ちゃんに電話したんだろうなと予測を立てていると、ヒュパッと音を立てて皆本に電話呼び出しを食らった二人が現れた。
「うおッ……なんだよ、薫ちゃんと葵ちゃん呼んでどうすんだよ。皆本」
じとり、と皆本を見遣ると、皆本は少し青ざめた表情でこちらをちらりと見てから二人に向き直った。
「薫、葵。落ち着いて聞いてくれ」
薫ちゃんと葵ちゃんは戸惑いを見せながらも皆本を見つめていて。二人のごくり、という息を呑む音がこちらまで聞こえてきた。
「……賢木が、紫穂と……別れるって言い出した」
「……ええッ!?」
「嘘やんッ!?」
皆本の言葉を聞かされた二人は、一瞬の間を置いて大声で叫ぶ。幸いここには俺たち以外誰もいなかったからよかったものの、誰かに聞かれたらどうすんだ! と皆本を睨みつける。皆本は相変わらず青い顔をしたままで、薫ちゃんと葵ちゃんは茫然自失といった様子で、二人ともぎょっと大きな目を見開いて俺を見つめていた。
「それホンマなん?賢木先生!」
先に自分を取り戻した葵ちゃんがこれまた険しい表情で俺に突っかかってくる。
「……次の紫穂の誕生日、プロポーズに失敗したら、別れようと思ってるんだ」
鬼気迫る表情の葵ちゃんを宥めるように言い聞かせる。淡々とした俺の様子に真剣さを感じ取ったのか葵ちゃんはグッと言葉に詰まって眉を寄せた。
「……賢木は……コメリカに行くつもりらしい」
皆本に付け加えられた一言に、葵ちゃんはハッとしたように俺を見上げた。
「……だからなん? 最近紫穂のこと放ったらかしやろ?」
葵ちゃんにビシッ、と胸に指を突き立てられて思わず目を逸らすと、皆本までがそうなのか、と俺をじっと見つめてきた。ふぅ、と息を吐いて前髪をくしゃりと掴む。
「放ったらかしてるわけじゃねぇよ。徐々に距離置こうと思って、仕事入れてるだけだ」
俺なりの心の準備ってヤツ、と付け加えると、葵ちゃんもはぁ、と溜め息を吐いて額に手を遣った。
「……最近、うちらと一緒に遊んでても紫穂の機嫌悪いんはそういうことやってんな」
ちらりとこちらを見た葵ちゃんの目は、俺を射殺すような目をしていて。グッと怯みながらも何とか言い返した。
「俺だってッ! ……別れたくねぇんだよ!!! でも紫穂が自由に生きたいって言ってるんだから、仕方ねぇだろッ!!!」
俺は紫穂と一緒になりたいし、どうしたって縛り付けてしまう。それなら離れるしかないと、俺にとっても苦渋の決断を選択せざるを得なかったんだ。
「俺には紫穂が結婚を受け入れてくれる未来が見えねぇし、離れるには、俺がいなくなるしか、ねぇんだよ」
声が震えてしまったのはもう仕方がない。だって、本当は、ずっと紫穂の側にいたいんだから。
「別れるの怖ぇから……守りに入っちまったって、しょうがねぇだろ……」
ぐっと喉の奥に何かが詰まったような感じを誤魔化しながら言葉を続ける。大の大人の、それも男がなんと情けないと言われても仕方がない。自分にとって、これ以上なんて有り得ない存在の紫穂を切り離そうとしているのだから、痛みを伴うのは当然で。その痛みを少しでも軽くしようとするのは、普通の人間なら当たり前のことだ。人間、弱くはないけれど、誰しも強くはできていない。ふぅ、と息を吐き出すと、今までずっと黙っていた薫ちゃんがじっと俺の方を見て呟いた。
「……させないよ」
「……え?」
「……私が、紫穂と先生を別れさせたりなんか、させない」
薫ちゃんの意思の強い目が、俺を貫いている。女王と呼ばれた彼女のそれが、俺に向けられていて。場を包んでいた空気が薫ちゃんのオーラで一気に変わった。
「要は、紫穂がプロポーズを受け入れればいいんでしょ? 話は簡単じゃん」
カツカツと俺に歩み寄りながら薫ちゃんは話を続ける。
「皆で協力して、先生のプロポーズ、絶対成功させるよ!」
「……せや。せやな! そうや! 頑張ろ!!!」
「ああ! 僕にできることなら何でも協力するよ!!!」
「は? え? いやいやちょっと待て!!!」
「まずは作戦会議だよ! 早速皆アイデアを出して!」
「ちょッ! 俺の話聞いて!!!」
勝手に俺を置いて始まってしまった作戦会議に自らも参加させられながら怒涛の展開に頭が追いついていかなかった。だって俺、フラれる覚悟決めてたのに、なんで路線変更しちゃってんのこの人たち!!!
「とにかく! 先生は紫穂がどれだけ先生のこと好きなのかもっと自覚して!!! わかった!?」
「いや、だからさ、好きでいてくれてるのは知ってるよ。そうじゃなくて、結婚となると話は別ってことだろ? だから二年前、俺は断られたわけで……」
今でもズキリと心の傷が痛む二年前のあの日。自由でいたい、という紫穂の言葉は俺の心に重く鉛のように沈み込んでいる。
「だから! それは紫穂の照れ隠しだって何度言えばわかるの!? 紫穂はあの日からずっと先生のプロポーズ待ってるんだよ!!!」
「そんなこと言われたって……俺ら二人ともあれからずっと結婚が絡む話題は避けるのが当たり前みてぇになってるし、二年間ずっとそんな調子じゃ……結婚したい俺としては、やっぱ、傷付くっつーか……紫穂もそんな素振りちっとも見せねぇから、急にそんなこと言われても信じらんねぇよ」
「……それに関しては僕も賢木の味方だ。やっぱり一度断られたら誰だって怖いし、照れ隠しにしたってもう少しそれとわかるように言わないと、幾ら恋人同士だからっていってもわからない。何より、それでわかれっていう紫穂も賢木に甘えすぎていると僕は思うぞ」
「だーっ! わかってない! わかってないよ皆本!!! 乙女心は複雑なのッ!!!」
「うーん……いや、それでもちょっと言い過ぎちゃうかな、とウチは思うで。もうちょっと素直にならな、そろそろそういうのが可愛いって甘えてられる子どもとちゃうねんから、ウチラも」
「うっ……それは確かに、そうなんだけど」
紫穂がもうちょっと素直になってくれればなぁ、と呟いた薫ちゃんに、うんうんと葵ちゃんと皆本が頷いて。俺は黙ってそれを見ていることしかできなかった。
「……こういうのはどうだ?」
ふと、閃いたように顔を上げた皆本が、ゆっくりと口を開く。
「薫と葵が、紫穂から賢木を誘うように説得するんだ。どうせ今まで賢木から誘ってばかりだったんだろう? 紫穂から紫穂の誕生日を賢木と一緒に過ごしたいと言わせる。それで、プロポーズも紫穂からさせるんだ」
「……いや、それはちょっと。皆本くん。さすがにプロポーズは俺からしたいっつーか」
「でも賢木先生から言うたらまた断られる可能性大やで?」
「うッ」
「それを考えると……確かに紫穂から言わせる方が勝算上がるかも! さっすが皆本!」
いやいや何かもう目的変わっちゃってない? という俺の問いかけには誰も反応しれくれない。紫穂からプロポーズされてもそりゃあ嬉しいけど、俺としてはやっぱ男としてそこはケジメつけたいわけで。
「寧ろ逆に考えろ、賢木。そこまでのステップを乗り越えるだけの努力もできないようじゃ、紫穂と結婚したって対等にやってけないぞ」
「……確かに、言われてみればそうかもしんねぇけど……でも俺のが年上だし別にその辺はいいかなって」
「ちゃうねん! 先生は紫穂を甘やかし過ぎやねん! 好きやからってグズグズに甘やかしとったら紫穂の性格が今以上にねじ曲がってまう!!!」
「……そんなことねぇと思うけど」
「そうだよ! 先生! これは紫穂に対する試練なの! 先生は絶対手を出しちゃダメ!!!」
「ええー……」
「これで本当にダメだったら、その時は本当に賢木をコメリカに飛ばそう。それで更に紫穂に追い討ちをかける」
「それがいいかも! 本当に会えなくなるって気付いたら流石の紫穂も素直になるかもね!」
「せやな! よっしゃ! 今日から早速紫穂の説教、もとい説得始めんで!」
「じゃあ皆本! あとはよろしく!!!」
そう言うと、薫ちゃんと葵ちゃんはヒュパッと嵐のように去っていった。残された俺たち二人は僅かに起きた空気の振動を受け流して、急に静かになった空間に佇んでいた。
「ねぇ、皆本くん?」
「なんだ? 賢木」
「さっき言ってた、俺をコメリカに飛ばすって、マジ?」
「僕は本気だよ? そろそろ紫穂も賢木に甘えてばかりいないで大人になったらどうだ? っていう僕なりの洗礼さ」
にこり、と笑った皆本の表情は恐ろしく本気度が高くて、久し振りに背筋が震えた。
「ち、ちなみに、どこに飛ばされんの?」
恐る恐る皆本に聞いてみると、笑顔のままの皆本がふっと窓の外を見ながら言った。
「それは言えないよ。言ったら二人の試練にならないだろう?」
「……そーすか」
何だか妙に楽しそうな皆本に、何かを言う気は失せてしまって、もう随分前に冷め切っていたコーヒーを何とも言えない気持ちで飲み込んだ。
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