「どうぞ、入って」
少し疲れた様子の薫ちゃんに出迎えられて、明石邸へと上がらせてもらう。仕事を終えてすぐに駆けつけたから、日が暮れてまだ少ししか経っていない。
「……紫穂の様子は?」
仕事中に連絡はなかったから、特に変化があったわけではないだろうけれど、確認せずにはいられなかった。薫ちゃんはゆるゆると首を振って申し訳なさそうに呟いた。
「全然ダメ。部屋には入れてくれたんだけど、反応がないから勝手にドア開けて入っちゃっただけで、全く無反応」
朝の時よりひどくなってる気がする、という薫ちゃんにただひたすら黙ってついていく。
「今は葵がついててくれてるけど、私たちじゃ何にも喋ってくれない」
先生だけが頼りだよ、と力なく呟いた薫ちゃんは、眉を寄せて困ったように微笑んだ。
「私たち、何があってもずっといっしょだったのにさ、こんな風に心を閉ざされるの初めてで、本当にどうしたらいいのかわかんないんだ」
「……薫ちゃん」
「紫穂も、こんなになっちゃうくらい先生のことが好きなら、迷わず胸に飛び込めばいいのに」
本当にバカだよ、と薫ちゃんは寂しそうに笑った。俺は何も言えないまま薫ちゃんの後ろをついていく。階段を上がってすぐの部屋を薫ちゃんがノックして、中に声を掛けた。
「紫穂……先生が来てくれたよ」
ドアに向かって薫ちゃんが小さく呼び掛けると、暫くしてドアノブがカチャリと音を立てた。ごくりと息を呑んでドアがゆっくりと開くのを見守っていると、現れたのは葵ちゃんで。小さく先生、と呟いたその表情は疲労の色が滲んでいた。
「先生来はったでって声掛けてもピクリともせぇへん……どないしよう」
葵ちゃんが困ったように眉を寄せて、小さな声で俺たちに告げる。救いを求めるような二人の視線を受け止めて、二人を安心させるように小さく頷いて、もう一度来訪を伝えるために開いたドアをノックした。
「紫穂、入るぞ」
初めて入る紫穂の部屋。明石邸で紫穂に会う時は大抵リビングだったから、今まで紫穂のプライベートスペースに足を踏み入れる機会は無かった。ある意味、それも紫穂の心の壁を表していたのかもしれない。明るい部屋の雰囲気と、柔らかいカーペットの感触を足の裏に感じて、ここが女の子の部屋なんだということを肌で感じる。そのままゆっくりと部屋を見渡して、ベッドの上で小さくなっている紫穂を見つけた。立てた膝に顔を埋め、自分を守るように腕で抱き締めて小さく身体を縮めている紫穂は痛々しいのに、彼女を包むように広がっている柔らかな紫色の髪が儚さを際立たせて、とても美しく見えた。
「紫穂」
優しく呼び掛けながらベッドに近付く。薫ちゃんと葵ちゃんが使っていただろう椅子が側に並んでいて、反応を見せない紫穂の様子を窺いながらゆっくりと腰かけた。
何から話せばいいだろう。きっと何から話したとしてももう手遅れだという気はする。それでも、話をして、紫穂が前を向けるようにしてやらないといけない。それが多分、俺が最後に紫穂のためにしてやれることだ。ドアのところで固唾を呑んで俺たちの様子を窺っている薫ちゃんと葵ちゃんに小さく笑いかけて、しっかりと紫穂に向き直った。
「紫穂」
先程よりもまっすぐ伝わるように紫穂の名前を口にする。やっぱりピクリとも反応は見せてくれないけれど、構わずに紫穂は話し続けた。
「昨日は驚かせてゴメン。あのタイミングでコメリカ行きの話をするつもりはなかったんだけど、コメリカに行こうと思ってるのはホントだ」
どう話をすれば自分の立てた筋道に話が戻るのかさっぱりわからないけれど、とにかく自分の話をどういう形でもいいから紫穂に聞いて貰わなければ話は始まらない。
「本当はさ、紫穂の誕生日に、格好良くプロポーズ決めて、きっちり未練断ち切って、コメリカに飛ぶつもりだったんだ」
それはもう絶対に叶わない望みになってしまった。どうやったって時間は巻き戻せない。
「俺は、やっぱり、紫穂の生涯の伴侶になりてぇんだ。でも、紫穂は違うだろ?」
返ってこない返事に力なく笑って話を続ける。
「紫穂はさ、俺と違ってまだ若いから。まだまだたくさんいろんな奴と出会うだろうし、そん中で紫穂が一生を捧げてもいいって男が現れると思う。そんで、きっとそいつは俺よりも絶対いい男だ」
俺はそれを祝福できたとしても、見届けることはきっとできない。そこまで俺は、強くはなれない。
「君の幸せは、君の手で掴んでくれ。待ってたって、誰も持ってきちゃくれない。君の幸せは、君だけのモンだ。」
紫穂に向かって伸ばしそうになる手をぎゅっと膝で握り締めて、紫穂に向かって精一杯笑いかける。
「……別れよう、紫穂。君のこと、コメリカから見守ってる」
そこまで言って、初めて肩をピクリと震わせた紫穂が、ゆっくりと顔をこちらに向けた。大きく見開かれた紫色の目は涙に濡れていて。今にも宝石がこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに綺麗だった。
そっと立ち上がって、紫穂の頬に指を添わせる。柔らかな肌の感触に、心が震えた。そのままこちらを向かせて、薄く開いた唇に優しく口付ける。名残を惜しむように唇を食んで、薄く開いた目から紫穂の大きな目を見つめる。ちゅ、と軽く吸い付いてから、ゆっくりと離れていく。
「……幸せになれよ」
紫穂にだけ届くような音量で囁いて、そろりと頬を撫でてから未練を断ち切るように距離を置いて。涙でキラキラ光る瞳が、俺の姿を映していた。
「じゃあな、紫穂。元気でな」
そっと頭を撫でてから、背中を向ける。そのまま振り返らずにまっすぐドアへと向かった。
「……そんな、先生! 話と違うよ!!!」
「……違わねぇよ、薫ちゃん。俺は、紫穂に受け入れて貰えないなら別れるって、最初から言ってただろ?」
「でも、そんな! だって! ねぇ紫穂! 何か答えてよ!!!」
薫ちゃんが紫穂のベッドに駆け寄って叫ぶ。薫ちゃんの目にも涙が溢れていて、彼女の丸い頬を濡らしていた。
「ねぇ紫穂! 何か言ってよ!!! 先生行っちゃうんだよ!」
泣き叫ぶような薫ちゃんの声を背中に受けながら、そっと部屋をあとにする。そんな俺のあとを静かに追い掛けてきた葵ちゃんが、玄関口で口を開いた。
「ウチはまだ諦めへん」
昨日と同じ強い意思を称えた瞳が、俺を貫いて。
「紫穂はまだ何も答えてへん。先生がコメリカに行くギリギリまで、ウチは紫穂を諦めへん!」
葵ちゃんの目尻にキラリと光るものが見えて、俺は最後まで女の子を泣かせてばかりだな、とぼんやりした頭で考える。そんな自分にはこんな終わり方がお似合いなのかもしれない、とふと達観したような気持ちで葵ちゃんに笑いかける。
「……紫穂のこと、よろしく頼む」
俺はもう側にいてやれないから、と呟くと、葵ちゃんは悔しそうに顔を歪めて階段を駆け上がっていった。俺は静かに玄関の扉を開けて外に出る。近くのパーキングに停めてあった車に乗り込んで、はぁ、と深く溜め息を吐いた。耐えきれなくて頭を抱えるようにハンドルにうつ伏せる。しばらくそうしてじっと目をつぶってから、ポケットを弄って携帯を取り出した。片手で携帯を操作して番号を呼び出す。
「……どうした? 賢木」
「皆本……」
聞こえてきたいつも通りの声にほっとして、じわりと視界が滲む。ぎゅっと目を瞑って何とかやり過ごそうとして、じわじわ熱くなってくる目蓋が限界を訴えて、思わず目頭を指で押さえた。
「……紫穂と、会ったのか?」
そっと静かに、こちらの様子を窺うように皆本は電話越しに口を開いた。震えそうになる唇を何とか動かして答える。
「ああ、今、会ってきた」
たったそれだけを伝えるだけで精一杯の自分を自覚して、堪らず片手で顔を覆った。どうしようもない気持ちで胸がいっぱいになって、息が苦しい。
「俺さ……皆本……」
「……うん」
皆本は、電話の向こうで俺が喋るのをじっと辛抱強く待ってくれている。パタパタと落ちてくる雫で膝を濡らしながら、深呼吸をして何とか皆本に話しかけた。
「……俺……俺さ……紫穂と、別れたんだ」
皆本は淡々と俺の言葉を受け止めて、特に感情の波を立てることもなく、静かに答えた。
「……そうか」
皆本の落ち着いた声が耳に届いて、じわりと広がっていく。まるで波のない海のような静けさに、ぽつり、ぽつりと独白を重ねていった。
「俺さ、紫穂には真っ白なウェディングドレス着せて、ふわふわのレースで出来たヴェール被せて、生花のブーケ持たせて、ヴァージンロード歩いて貰いたかったんだ」
「……うん」
「そんで、いっぱい人呼んで、披露宴ではお色直ししまくって、俺の嫁はこんなに綺麗で可愛いんだぞって、来てくれた人全員に自慢するんだ」
「……ああ」
「新居はさ、ESP対策万全のマンション買って、二人で新婚用の家具揃えて、何もかんも新しいの二つずつ用意してさ……」
「……」
「馬鹿みたいな新婚生活送ってさ、皆に馬鹿にされても幸せだからいいんです! なんて言い返して……」
「……そうだな」
「そんな……そんな、幸せを……なんてことない日常をッ、紫穂と、二人でッ……送りたかった、だけなんだッ」
嗚咽が漏れるのも気にせずに喋り続ける。
「でもッ、もう……もう、そんな未来は、手に入らないッ」
情けなく溢れる泣き声を、皆本はただ黙って聞いてくれて。
「ただ、好きってだけじゃ、ダメだった! 俺は、紫穂のこと、大事にしてやりたくてッ、それでッ」
「わかってる。わかってるよ、賢木」
「俺はッ、紫穂をッ! こんなに愛してるのに! 最後は、もう、泣かせることしかッ、出来なかったんだ!」
最後に見せてくれた紫穂の泣き顔が、今も脳裏にこびりついて離れない。笑った顔が可愛くて、怒った顔も可愛くて。全部全部大事だった。なのに、最後に見れたのは泣き顔で。何をどうすれば正解だったのか、今でもよくわからない。
「俺の何がダメだったんだ? どこからやり直せば上手くいく? 俺はどうすれば良かったんだ?」
「……賢木」
考えたって仕方のないことを次々に口にして、皆本を困らせている自覚はある。それでも、馬鹿みたいな自問自答を止めることはできなくて。
「俺がずっと我慢してれば良かったのか? 一緒になりたいなんて望んじまったからいけなかったのか? ただ側にいるだけで満足してなきゃいけなかったのか?」
この二年間、ずっとずっと繰り返し考えて、どんなに考え抜いても出なかった答え。わからない答えの末に、別れを選択したクセに、ぐらぐらと揺らぐ足元に、何かに縋らずにはいられない自分が、情けなかった。
「……俺は……俺は、振り向いてくれない紫穂から、逃げたんだ。なのに、まだ、どっかに希望があるんじゃないかって、縋り付いてる」
ホント、情けねぇよな、と涙声で呟いた俺に、皆本はまるで隣で話を聞いてくれているような声で、俺に告げる。
「情けなくなんか、ないさ。誰だって、振り向いてくれない人を追いかけ続けるのは辛い。君みたいに、愛情深い男なら尚更だ。無償の愛だって、一方的に与え続ければいつかは枯渇する」
皆本は、俺の肩を優しく撫でるように言葉を続けた。
「コメリカで、自分自身に愛情を注いでこい。向こうで賢木にも良い出会いがあるかもしれないし、出会いがなくても、また日本に戻ってきたら、何か変わってるかもしれない」
紫穂が、と言わないのは皆本の優しさだろう。ぐっと涙を飲み込んで、泣き濡れた目元をぐしぐしと拭っていく。
「君は、もっと自分に素直になって、我儘になっていいんだ。君の為に、君の人生を使ってくれ」
もっと貪欲に生きてくれ、という皆本に、泣き笑いで答える。
「バッカおめー、俺がこれ以上欲望に素直になったらただの我慢の利かねぇガキじゃんかよ」
「本当に大切なものには手を伸ばせないクセによく言うよ」
「えー……そんなことねぇよ?」
「本当に欲しいものは怖がってないで、欲しいって言葉にして欲しがらないとダメなんだぞ……君も、紫穂も」
俺に向かって告げられた言葉にひゅっと息を呑む。その声色は少しだけ深刻で、皆本は静かに息を吐いた。
「……まだきっと、希望はある。君も、難しいだろうけど……諦めるな」
苦しげに呟かれた最後の言葉に、拭いきれなかった涙が、一筋頬を伝った。
「……もう、俺に、できることなんて」
ない、と続けようとしても、喉がひくついて、上手く言葉にできない。そんな俺にわかっているとでも言うように、皆本は優しく笑って。
「賢木は、お前の精一杯をしたんだろ?だったらもう、あとは待つだけさ」
「……待つ、だけ」
「ああ。コメリカ行きの準備でもしながら、待てばいいんだ。むしろ、コメリカに行ってからも、待ってていいんじゃないか?」
「いやでも紫穂はレベルセブンで、簡単には出国できないだろ」
「そんな常識を覆してきたのが、彼女たちレベルセブンじゃないか」
「そうだけど……」
「まぁ、君の赴任先は楽しいところを用意しておくから」
「……お前、どっちの味方なんだよ」
「僕は、二人の味方だよ?」
クスクスと笑っている皆本に力が抜けて、そっか、と力なく呟く。じゃあそろそろ切るよ、と呆気なく電話を切られてしまって、待ち受け画面になってしまった携帯を見つめる。暗い車内でぼんやりと明るい画面に目を遣った。そこに浮かぶ、こちらを見て笑っている紫穂の姿に、力なく微笑んで車のエンジンを掛けた。
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