次の日。国を出る理由が理由だったから、送別会なんかは全部丁重に辞していたんだが、別れの挨拶となるとそりゃ別の話で。お元気で! と別れたはずの皆々様に何事もなく戻ってまいりましたなんて恥ずかしくて言えない。後生だから一緒に出勤してくれと頭を下げてお願いしたのに、皆本は、大丈夫だよ、また明日バベルでな、なんて軽い調子で帰ってしまったものだから、戦々恐々としながらバベルの職員通用門から孤独に足を踏み入れた。大量の引継ぎをして全てを投げ捨てていった医局にはどんな顔して顔出せばいいんだ? なんて考えながらこそこそと自分の研究室へ向かう。まだそこに俺の名前の表札が掛かっていることにほっとしながらドアノブに手を掛けようとしてはたと気付く。あれ、そういえば、ここに来るまで見知った顔にも会ったのに、何で誰も何も言わず普通に普段通りの会釈だけで過ぎ去っていったんだ? おかしいな、と思いつつ扉を開けると、何故かそこにはパソコンを広げて仕事をする皆本が座っていて。
「やっと来たか、賢木。待ちくたびれたよ」
「いや、なんでお前がここにいんの?」
「昨日ちゃんと説明できなかったからさ、ちゃんと説明しに来たんだよ」
そう言って微笑む皆本の話を掻い摘まむと、どうやら俺の偽出国計画はバベル全体で行われていたものらしく、俺の出立の日まで紫穂が行動を起こさなかった場合と行動を起こした場合、そして俺が出立してから紫穂が行動を起こした場合と最後まで行動を起こさなかった場合、四つのパターンを想定して職員全員が皆本や管理官の立てた作戦に則って行動していたらしい。嘘だろスゲーなこの組織。
「……ってことはつまり、バベル職員総出のドッキリに俺は掛かったってことか?」
「……まぁ、そうとも言えるね。でもまぁ、紫穂の行動に左右される部分が大きかったから、作戦本部は毎日バタバタだったんだけどね」
君の出国準備もなかなかに骨が折れたよ、と皆本はうんざりしたように言うくせに表情は笑顔だった。
「まぁ、そういうわけだから、君も今日から通常業務に戻っていいよ。皆も君の帰りを待ってる」
そう言って皆本はパソコンを片付けて俺の研究室から出ていった。俺は何だか肩透かしを食らったような気分が抜け切らないまま、荷物をロッカーに仕舞って白衣を身に着ける。よし、と頬を叩いて研究室を出ると、廊下には医局の面々が集まっていて。何事かと一瞬身を引くと、パンパンッ、と軽やかなクラッカーの音が鳴り響いた。
「賢木先生おかえりなさい! それからご婚約おめでとうございます!!!」
声を揃えて送られた言葉に目をパチクリさせてから、ほっと肩の力を抜いて笑う。
「……ありがとう、皆。それから、心配かけて、すみませんでした」
ほんとだぜバカヤロウ! と仲の良い同僚からヤジが飛んで、わっと人が俺に集まってくる。皆いろいろ口々に言ってはいたけれど、最終的にはおめでとうの言葉を投げ掛けてくれて。ひとりひとりにありがとうと返しているうちに、ひとつのことに思い至った。
医局全員が俺と紫穂が婚約したことを知っていた。そして皆本はバベル全体での作戦だとも言っていた。その二つのことから導き出せる答えはつまり、バベルの職員全員が俺たちの婚約の事を知っているってことになるのでは? ヤバい、これ、紫穂、怒るんじゃねぇの? こんな状況耐えられない、と無かったことにされたらどうしよう。皆の熱いおめでとうの声を受け止めながら冷や汗を流していると、ヒヤリと冷たい空気が場を支配した。
「そろそろ先生を解放してくれないかしら?」
絶対零度の笑みを浮かべてそこに立っていたのは間違いようもなく紫穂で。つかつかと俺に歩み寄ってきたかと思ったら、俺の腕を取って紫穂はぺこりと頭を下げた。
「私の婚約者が普段からお世話になってます。少し話がしたいので二人きりにしてくださると助かるんですけど」
いかがかしら? と皆に向かって微笑んだ紫穂は完全に余所行きの顔を張り付けていて。その場にいた全員がどうぞどうぞと俺の身を差し出してそそくさと去っていってしまった。紫穂はそれを見送ってから、ふぅ、と一息ついて俺の方をちらりと見た。
「……部屋、入れてくれる?」
「あ、ああ、いいぞ」
紫穂と連れ立ってさっき出たばかりの自分の研究室へと入る。来客用のソファに紫穂を促そうとしたら、ぎゅっと腕に抱き着かれてバランスを崩しそうになるのをとっさに堪えた。
「し、紫穂?」
「……昨日は、ごめんね。あのまま、帰っちゃって」
昨日、あの後、俺の荷物を取り返してきてくれた三人が戻ってきて、さぁどうしよう、となったところで紫穂の身体が限界を迎えてそのまま何もなく解散になってしまった。紫穂は帰るのを嫌がったけれど、俺からのドクターストップで、皆本がチルドレンの三人を送っていって、俺は一人で自宅に帰り、そのまま片付けやらなんやらでバタバタしてしまって連絡できず仕舞いだった。
「いや……ずっと引きこもりしてたのに、急に身体動かしたんだから、しゃーねぇよ。それに、時間はこれからたっぷりあるんだ。ゆっくり話をしていけばいい」
ここのところずっとバタバタだったから、多少ゆっくりしたって誰にも咎められないはずだ。そういう意味も込めて紫穂に笑い掛けると、紫穂は不満そうに頬を膨らませて首を振った。
「ダメ。早く本当に先生を私だけのものにしないと気が済まないわ」
少しだけ頬を染めて睨み付けてくる紫穂は、以前とは比べ物にならないくらい可愛くて。
「バベルの皆は、もう俺が紫穂のモンだって知ってるよ?」
「……それだけじゃ、足りないの」
怒るのかと思っていたら、意外な反応が返ってきて面食らってしまう。どうやら本当に紫穂は心から開き直ってしまったようで、俺の方がドギマギさせられてしまいそうだ。
「だから、今すぐ具体的な話をして先生を」
「ちょっと待て、紫穂」
俺が紫穂の言葉を制止したことに、紫穂はびくついたような目を俺に向けてくる。こんだけの大騒動を巻き起こしておいて、まだ不安だというのだろうか? 俺が離れるなんて、もう有り得ないっていい加減わかればいいのに。クスリと笑って紫穂の頬を撫でてから、紫穂の前に膝をついた。
「その前に、言っとくことがあるんだ」
不安に揺れるその心が、いつも笑顔で溢れてくれますように。
「遅れちまったけど。お誕生日おめでとう。紫穂」
はっとした顔をして、俺を見つめ返してくる紫穂に、笑顔を返した。
「俺と、結婚してくれますか?」
「ッ……はいッ!」
笑いながら涙を零した紫穂の手の甲にキスをして、二人で固く抱き締め合った。
コメントを残す