自分の内に秘めた想いを自覚して、世界は劇的に変わるのかと思っていたけれどそうでもなかった。
だって、日常はいつもと変わりなく過ぎていくし、少佐への気持ちを自覚したからといって、少佐と俺の関係が変わるわけでもない。
ただ、ずっと胸に抱えていたモヤモヤとした不快なものはびっくりするくらいにすっかり消え失せてしまって、いっそ身体が軽くなったんじゃないかと思うくらいに爽快になった。自分でも持て余して扱いきれていなかったそれらに名前がついて、その正体がわかった途端、まるでそれがそこにあるのは当たり前だというように、自分のなかに馴染んでいた。
あんなにも違和感に苦しんでいたのがまるで嘘みたいだ。自分のなかに流れていたよくわからないものに色がついて俺に存在を示してくれる。
その想いのまま動いてしまいたい気もするし、まだそっと内に秘めたまま見ているだけでいいと感じている自分もいる。
とくり、とくり、と自分のなかで脈打っているこの想いは時折顔を見せて表に出たいと俺に訴えてくるけれど、まだもう少し自分だけのものであってほしい気もして、日々穏やかに過ごしていた。
何もしなくてもマッスルにはバレているようだったし、少佐に直接バレてしまったらきっと揶揄われてしまうと予想できたから、何の変化も起こさず、このままでいいと思えた。
「なぁマッスル? そろそろアイツ、痺れを切らす頃合いかな?」
なんてことのない穏やかな昼ご飯の最中、生野菜のサラダをつついていた少佐がおもむろに口を開いた。少佐が突然話し出した内容の指すところを理解してしまった自分は、うっかり眉を顰めてしまって、慌てて食事に集中しているフリをして顔を俯ける。無理矢理自分は何も聞こえなかったという顔をして、ブイヤベースに浸したパンに噛りついた。
「ちょっと少佐! 子どもたちの前でそういう話は」
声を潜めながらも眉を寄せたマッスルに、少佐はキョトンとした表情を浮かべている。ただ、そんな表情を見せたのはほんの一瞬だけで、すぐににやりといつもの不敵な笑みを浮かべて肩を竦めてみせた。
「……そうだな。確かに、こういう話は子どもの教育に悪い」
悪かったね、と申し訳なさを微塵も感じさせないにこやかな顔をして、少佐はサラダに混ざったチーズへフォークを突き刺している。何てことのない顔をしてそのままぱくりとチーズを口に入れた少佐は、自分から口にしたその話題なんてもう忘れているようだった。
本当に、この気まぐれでコロコロと変わっていく態度に、どれだけ周りが振り回されているのか、少しでもいいから考えてみてほしい。それでも、そんな少佐がもっと自由に動けるよう力を付けたい、と望んでいる自分もいて、自分も大概矛盾しているな、とブイヤベースの具も口に含んだ。むしゃむしゃととにかく口の中のものに集中して、余計なことを考えないようにしていると、コトンとカトラリーを置いた紅葉が真剣な目をして少佐を見つめた。
「……ねぇ、少佐」
少女の軽やかな声なのに、しっかりとした響きを持った紅葉の声が、食事中の俺たちの手を止める。
「少佐は、あの男の人のところへ行っちゃうの?」
きりっとした紅葉の目がまっすぐに少佐を射貫く。驚いたように目を見開いてみせた少佐に、ぷぅと頬を膨らませて紅葉は不貞腐れるように視線を逸らした。
「だって……恋人同士は一緒に暮らすんでしょ? 昔読んだ絵本にそう書いてあったわ」
お姫様と王子様だってお城で末長く幸せに暮らしてるって書いてあるもの、と眉を寄せながら、何かを堪えるように悔しさを含ませた声色で紅葉が続ける。まさかそんなことあるわけない、と思いながら少佐の顔色を窺うと、眉を下げつつもにやにやとこちらを揶揄うような表情でテーブルに肘を突いていた。
「……そうだな。それもいいかもしれないな? アイツは金持ちだし、そういう物語の結末があってもいいかもしれない」
わざと抑揚を付けた声で返事をしてみせた少佐に、思わず顔を顰めて胡乱な目を向ける。
冗談とはわかっているものの、それを冗談と受け取れない葉や、苛立っている紅葉相手にぶつけてしまえば、どんな結果になるかなんて手に取るようにわかるだろうに、どうしてこの人はそんな風に周りを煽らずにはいられないのか。まだ幼い葉が少佐の発した言葉の意味をはっきり理解したとは思えないけれど、それでもこのあと良い展開は待っていないような予感しかしない。
ハァ、と小さく溜め息を吐きながら葉の様子を窺い見ると、ぽとりと持っていたパンをテーブルに落としてふるふると震えている葉が、こぼれそうな目を更に大きく見開いて少佐を見つめていた。
「……しょーさ……どこかにいっちゃうの?」
澄んだ宝石のような目にはじわりと大粒の涙が浮かび始めて、あ、と思った瞬間にはクシャリと表情を歪めて大きく口を開いた。
「やだー!!! いっちゃやだー!!! どこにもいかないでー!!!」
わああ! と耳をつんざく音量で泣き始めた葉に、慌てて身を守るように両手で耳を塞ぐ。同じように葉の隣で耳を塞いでいる紅葉は、半分音波の衝撃を喰らってしまったのか、目をチカチカさせて頭をふらつかせている。耳を塞ぎながらも何とか葉に駆け寄り宥めているマッスルだって、あまりの声量と音波に顔を引き攣らせて涙目だ。ひとり涼しい顔をしてニコニコその様子を見守っている少佐だけが平気なようで、クソッと舌打ちしながら何とか飴を取り出して葉の口に放り込んだ。
舌の上に乗っかった飴の存在に気付いたのか、葉はハッとしたように飴の棒を手に持ってペロペロとロリポップを舌で転がし始める。それでも目元に浮かんだ涙はそのままで、今にもぽろりと零れてしまいそうなくらい悲しい表情を浮かべていた。
爆音から解放されたことにホッとして息を吐いていると、ぷるぷると肩を震わせた紅葉がガタリと椅子の音を立てて立ち上がる。キッとキツい目を少佐に向けた紅葉は、苛立ちを抑えきれないというようにバンとテーブルを両手で叩いた。
「信じられない! 少佐は自分の言葉で誰かが傷付くかもしれないって考えたことある!?」
怒りで頬を真っ赤にしつつも苦しそうに寄せられた眉が紅葉の決死の思いを訴えかける。それでも少佐は表情ひとつ変えず椅子に座ったままで、紅葉は絶望したようにきゅっと目を細めて唇を噛み締めた。
「……もういい。頭冷やしてくる」
そう言ってパッとテーブルから離れた紅葉はあっという間に部屋から出て行ってしまった。その様子を見守っていることしかできなかった自分を情けなく思いつつ、マッスルの方へ顔を向けると、マッスルも呆れたように葉を抱き上げて立ち上がった。
「私も、さっきのはあんまりだと思うわ。ちょっとは反省してくださいね、少佐」
葉とお散歩してきます、と言ってそのまま二人も部屋から出て行ってしまう。
取り残された俺と少佐は、しばらく無音のまま固まっていた。ふたりきりになっただけだというのに恐ろしくシンと重たい空気が流れている。そんな中で食事の続きを始める気分にもなれず、だからといって空気を変えるような話をする気にもなれない。
ただ黙々と黙って膝の上に置いた手に力を込めていた。
「……お前も、出て行っていいんだぞ。司郎」
静かに、そう告げられた言葉に思わず少佐を見つめると、少佐は先程までとは違う無表情でそっぽを向いていて。
「……俺は……ここに残る。紅葉も心配だけど、俺は、アンタもひとりにしておけない」
自然と口から出ていたのはそんな言葉で、自分でもちょっとびっくりしてしまった。
でも、確かに、今の少佐を置いて紅葉を探しに行くのはちょっと自分の本音とズレているような気がして、勝手に口から出た言葉だけれども間違いなくそれが自分の言葉であることは理解できた。
「少佐は、本当に勝手だし、子ども相手に本気で煽るし、ちょっとそういう大人げないとこ直した方がいいと思うけど……少佐は少佐だ。人は、変わってほしいと願ったって変わってくれない」
そっと目を閉じて小さく息を吐く。
他人を変えることは容易ではない。
じゃあどうするか。
簡単だ。自分を変えるしかない。
「少佐がいつまでも子どもでいたいなら、俺たちが大人になるしかないんだ。紅葉も葉も、きっといつかそのことに気付く」
「……へぇ? まるで自分は僕より大人だ、みたいな言い方するんだな?」
にや、とまたこちらを挑発するような笑みを浮かべてテーブルに肘を突いた少佐が、俺を煽るように視線を投げてくる。それに、ふ、と肩の力を抜いて、口元を緩めた。
「……俺はまだ、まだまだ子どもだよ。でも、大人になりたくて足掻いてる」
少佐を変えることなんてできない。
でも追いつこうと努力することは俺にでもできる。
「いつか必ず大人になって、アンタに追いつけるくらい、俺は強くなってみせる」
ニッと笑って答えてやれば、少佐は不貞腐れたようにそっぽを向いて、ヒラヒラと手のひらを翳した。
「……勝手にしろ」
「あぁ。勝手にする。俺は、俺だ」
完全に俺に背を向けてしまった少佐にくすりと笑みをこぼしながら、カタンと椅子から立ち上がる。
少佐はもうひとりにしても大丈夫だろう。紅葉の言いたかったこともちゃんと伝わっているだろうし、何より、銀髪から覗く紅く染まった耳の先が自分の行動がやり過ぎだったことを反省していると教えてくれている。
俺の言葉もきちんと少佐に届いたのだと信じたい。
「俺、紅葉の様子見てくる」
何も言わず、ひらりと手を振るだけで返事をした少佐に、またくすりと笑って、そっと部屋を抜け出した。
司郎のくせに、なまいきだ - 7/13
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