司郎のくせに、なまいきだ - 11/13

少佐に弄ばれて見事に砕け散るかもしれなかった俺の幼い恋心は、そのまま粉々になって壊れてしまえばよかったのに、何を思ったのかマッスルの言った呪いまさしく、俺の心にしがみついて複雑な執着心へと変貌し、今日も俺の心の奥で息を潜めながら静かにその灯火を燃やしていた。
オマケにその後存在を知ることになった『破壊の女王』によって本格的な失恋も経験し、いっそ清々しくそこで諦められればよかったものの、自分の成長とともに歩んできたその気持ちは大事に大事に胸の奥に仕舞われて少佐だけを見つめて息づいていた。
ある日、パンドラの拠点、クイーン・オブ・カタストロフィ二世号が完成し、生活拠点を船の上に移した頃、少佐は日本で自分が逮捕される計画を口にした。
それを聞かされた俺たちは当然有り得ないと怒ったし、紅葉も葉も怒りを少佐に思い切りぶつけていたけれど、そんなことで少佐の考えが変わるわけもなく、着々とその計画のために物事が動いていくのを肌で感じずにはいられなかった。
昔、紅葉に言われて心が躍った、自らが少佐の騎士となって従者となるという台詞。
そんな風に、少佐のために大人になりたいという純粋な想いも、大人になれなかった我が儘な亡霊を背負うための力へと変わり、追いつきたいと追いかけていたその背中を俺はいつの間にか追い越して、へそ曲がりな子どもが好きに動けるだけの下支えができるくらいになっていた。
少佐がそのつもりなら俺だって勝手にやる。
少佐が思うよりももっと物事を有利に進めることができるよう大きくなってやるという野望のまま、俺はがむしゃらに力をつけてきた。
どうしたって、俺たちのそばにいてほしいという想いが叶わないのなら、俺が大人になってこの人の我が儘を全力で叶えてやれば、少しは自分の想いも報われるんじゃないか。
そう思い込んでただひたすらに力をつけることしかできなかった、という方が正しいのかもしれない。
日本へ向かう船の中、『これから』に向けて少しずつ体制が整っていくのを目の当たりにしながら、自らも自分の力を発揮するべく組織の中で動いていた。もうあまり時間は残されていない。それでも自分にできる最大限のことはしてやろうと動き回っていたところに、ふらりと少佐が現れた。
昼下がり、遅めの昼食を摂り終えてさぁもう一仕事、と気合いを入れ直したところ、何一つ緊迫感のない顔をしてやってきた少佐に、俺は思わずジト目を返してしまった。
「やぁ司郎。ご機嫌いかが?」
「……なんだよ……いや、何です? 少佐。何か問題でも?」
少しばかり手を止められてしまったことに対する苛立ちを表に出しながら少佐に目を向けると、ニコリと笑った少佐が俺のデスクに腰掛けた。
「僕とデートしないか? 司郎」
「は?」
「昔、君には酷いことをしたからね。これでも反省しているんだよ。あの時は本当に揶揄って済まなかった」
僅かに頭を下げながら少佐は目を伏せる。
普段見ないその健気な様子に驚いておののいているとパッと表情を明るくした少佐が俺の腕を掴んで首を傾げた。
「と、言うわけで。君は今から僕とデートだ」
「え、ちょ、うわっ」
ヒュパッとテレポートが発動したかと思えば身体は宙に浮いて視界が広がる。さっきまで乗っていたはずの船が真下にあって、周りは広い空と青い海に囲まれていた。
「さぁて、どこに行こうか。司郎はどこに行きたい?」
フム、と顎に手を当てて首を傾げた少佐はどこまでも本気のようで、くっと歯を食い縛って鼻で深く息を吸った。そのままハァァと息を口から吐いてしまえば少しは落ち着くかと思ったけれど、当然そんなわけもなく、キッと眉を吊り上げて自分の身体を安定させながら思い切り叫んだ。
「アンタは本当に突拍子が過ぎるんだよ! 急にデートとか言われても困るだろ!?」
いきなり俺を連れ出してどうするつもりだ! と続けざまに叫べば、うるさいなぁ、と耳を塞いだ少佐が眉を下げて俺に向き直った。
「いや、ね? 幼気な少年の性癖を捻じ曲げてしまったお詫びというか。まぁ……単純に思い出作りだよ」
珍しく気まずそうな表情を浮かべて少佐は目を泳がせている。
思い出作り、という言葉がこの先待ち受けている未来を彷彿とさせて、元々ささくれがちだった心に引っ掛かって仕方がない。言葉にできない切なさを堪えるように眉を寄せつつ、それを悟られないようにそっぽを向いて誤魔化した。
一生懸命目の前のことに打ち込んで湧き上がる動揺や寂しさを堪えていたのに、どうしていつも、こうも簡単に現実を突きつけるんだろう。
心の準備なんてさせてもくれない。
勝手に決めて、勝手に行動する。
俺たちはそれに振り回されるだけ振り回されて、それでもこの人を支えたくて。
文句を言いながらもこの人についていってしまう。
「どうした? 司郎?」
黙り込む俺の顔を不思議そうに覗き込んだ少佐の顔が、あまりにも少年らしいキョトンとした表情をしているものだから、燻っていた気持ちも毒気が抜かれて、ついその顔を見つめてしまう。
つくづく俺はこの人には弱いなと改めて自覚しつつ、そっと溜め息を吐いて少佐に向き直った。
「……わかった。デートなんだろ? あー……えっと……俺がエスコートしてもいいですか?」
少しばかり照れが交じってしまったのを誤魔化すように頬を掻いて、改めて少佐の返事を伺うように手を差し出す。
「……なんだ急に、畏まって。エスコートなんてできるのか? お前結局彼女いたっけ?」
ニヤニヤと俺を揶揄うように口元を歪めている少佐の表情にムッとしながらも、自然と俺の手に手を乗せてくれたことが嬉しくて思わず微笑んでしまう。乗せられた手をきゅっと握り返しながら、少佐の問いかけには答えずに告げる。
「……付き合ってほしいところがあるんだ。少佐に行きたいところがないんなら、それくらい構わないだろ?」
「別に構わないけど? そもそもお前のための思い出作りだし? 僕はお前の行きたいところがあるならそれを優先するよ」
あぁそうか、デートだというのならここは少佐の意見を優先すべきだったのかもしれない。いきなり失敗したと思いつつ、以前マッスルに言われたことを思い出した。
確かにデートで誰かをエスコートする経験はないけれど、相手を思い遣る術はあの頃よりも身に付いている、と思う。ましてや相手は背けても背けても目が惹き付けられて仕方がない少佐だ。オマケに付き合いが長すぎて恐らくこちらの手も知れている。
それならば余計に肩肘張らず、普段の俺のままでもいいのかもしれない。
でも、せっかく、デートだ、と言ってくれるなら。
今まであまり表には出さないようにしてきた自分の内に眠る想いを今日だけは解放して、今日の時間を過ごすのも許されるんじゃないかと思えた。
「買いたいものがあるんだ。多分これから必要になる。それを一緒に選んでほしい」
紅葉とマッスルにアドバイスを受けて、確かに必要だと思い至ったソレ。
これからを乗り越えるためにきっとそれは大きな役割を果たしてくれて、ひいては少佐のために繋がるモノ。
自分にとってだけではなく、少佐にとっても役に立ってくれるであろうソレを少佐本人に選んでもらえたら、これからの自分の力強い支えになってくれる、そんな気がする。
「ショッピングデートか。いいんじゃないか? 何が欲しい? 何でも買ってやろう」
フフン、と胸を張って威張ってみせる少佐が何だか妙に子どもっぽくて笑ってしまう。
悪ぶってはいるけれど、実際のところは悪というより無邪気な子どもと言った方がこの人の本質を表現できている気がする。そんなこの人がいつまでもそのままでいられるようにと努力してきたことが実っていると言われているようで、自然と顔が綻んだ。
「スーツがほしいんだ。できればブランドの」
繋いだ手を引いてそっと告げれば、少佐はぱちくりと目を瞬いて俺の顔を覗き込む。
「スーツ? どこかパーティーにでも行くのか?」
「いや……そうじゃないけど。必要なんだ。折角だから選んでくれ」
「フーン……まぁいい。じゃあ街へと繰り出そうか!」
「うわっ」
ギュン、と勢い良く身体の方向を転換されたと思ったらあっという間にまた視界が変わって、高級ブティックが並ぶ街角に降り立っていた。
アーケードになっているその一角は見るからに一流の店という風格を放っている。人混みの多さからここが都会の中心である、ということもよくわかった。久々に見る都会の喧噪に一瞬だけ息を呑んでいると少佐はスタスタと俺を置いて歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! いきなりテレポートしてきたんだから周囲に警戒しないと……」
「大丈夫だ。催眠も同時並行してるから誰も僕たちに違和感を抱かない。さ、行こう。どのショップがいい?」
並ぶ店の前で腕を組み少佐は大仰に仁王立ちしてこちらに笑顔を向けている。どこから見ても目立つその仕草に慌てて周囲を見回すと、確かに少佐の言うとおり誰も俺たちのことを気にも留めていない様子で、それぞれの時間を過ごしているようだった。そういうところは抜かりないんだなと肩を竦めつつ、チラチラとショップのディスプレイを眺めながら少佐の横に並ぶ。
「……どこって言われても。詳しくないからわからない。少佐の方が詳しいんじゃないのか?」
各ブティックのディスプレイに並ぶマネキンたちを見比べてみても自分には違いが判別できない。どれも生地が高そうだというくらいしかわからなくて、それこそ年の功のある少佐の方が詳しいように思えた。
「バカ言うな。僕はずっと学ランだぞ? スーツに詳しいわけないじゃないか」
何をそんな当たり前のことを、とでも言いたそうな顔で俺を見ている少佐に、えー、と眉を寄せて肩を落とす。
「アンタでも知らないことあるんだな……こういうのって大人の嗜みなのかと思ってた」
「なっ、馬鹿にするなよ。僕は好き好んで学ランを着ているだけで必要であれば装いを変えることもある! まぁ、拘りがないんならどの店も一緒だろ。行くぞ、頼もー!」
「あっ、ちょっ! 少佐!」
カラン、と上品なドアベルの音を鳴らしながら少佐は勝手に決めた店の中へと入っていく。それを慌てて追いかけて自分も店内へ入ると、所狭しと並ぶスーツとシャツのディスプレイ什器に圧倒される。ズンズンと店の中を進んでいく少佐は中にいた品の良さそうな初老の男性店員の前に立って、やぁ、と声を掛けた。
「後ろのあの子にスーツを見立ててくれないか? とびきり良いのを頼むよ」
ニコリと笑ってそう告げた少佐に一瞬だけ目を見開いたものの、軽やかにスーツを着こなす店員はすぐに承知しましたと言って俺に笑顔を向ける。
「採寸いたしますのでこちらへどうぞ」
「え、あ、どうも……」
促されるまま壁に飾られた姿見の前に立つと、首に掛けたメジャーをしゅるりと手に持ち替えた店員が鏡の中の俺に柔らかく微笑みかけた。
「楽な姿勢を取っていただけますか? 順番に採寸していきますので」
「は、ハイ」
「緊張なさらなくて結構ですよ。どうぞ身体の力を抜いて楽にしていてくださいね」
失礼します、と俺に声を掛けた店員は、丁寧な手付きで肩幅や首の周り、裄丈、と順番にメジャーを当ててはカルテに細かく数値を書き込んでいく。初めての経験に若干身を固くしながらドキドキとその作業が終わるのを待ち続ける。鏡越しに俺を見守りながらニヤニヤしている少佐をキッと睨みつけると、少佐はクスリと笑って嬉しそうに俺の採寸が終わるのを什器に凭れながら見つめていた。
何とも居たたまれないような恥ずかしさを堪えながらじっと時間をやり過ごすと、お疲れ様でした、と店員が俺に声を掛けて微笑んでくる。ホッと肩の力を抜いて頭を下げると、店員は数字を書き込んだカルテを指で辿りながら念入りに見直して、ラックに掛かっているいくつかのスーツをピックアップして俺の前に並べた。
「お客様のサイズにぴったりなのはこちらのふたつになりますね。もう少しゆったり目ですとこちら。初めてのスーツでしたら動きやすさも考えてこちらのタイプもおすすめです」
ディスプレイの上に並べたスーツを、店員は揃えた指先で指し示しながら、簡単にスタイルの説明をしていく。それを聞いている俺の横で少佐はフーンと頷いていて、わかっているのかわかっていないのかよくわからない顔をしていた。
「……えっと、すみません。見た目ではよくわからないので、全部試着してみてもいいですか?」
「構いませんよ。シャツとネクタイ、それからシューズもご用意しますのでお待ちください。足のサイズを伺ってもよろしいですか?」
「あ、えっと」
自分が今履いている靴のサイズを伝えると、店員は、かしこまりました、少々お待ちくださいね、と微笑んでバックヤードへ消えていった。
緊張が解けて、ハァァ、と深く息を吐いていると、プクク、と嫌な笑い声が聞こえて、顔を顰めながら後ろに振り返る。
「……仕方ないだろ。こういうの慣れてないんだ。緊張くらいする」
ムッとしたまま少佐を睨みつけると、ゴメンゴメン、と抑えきれない笑いを俯いて堪えている少佐と目が合った。
「……いや、あんまりにもカチコチに緊張してるモンだから、おかしくなっちゃって。七五三のお参りでもこうはならないだろ」
クスクスと肩を揺らしている少佐にフンと鼻を鳴らしながら腕を組んで顔を背ける。隠しきれない恥ずかしさを誤魔化しながら、話題をそらすように口を開いた。
「シチゴサン……? って何だよ。ソレもこんな風に身体のサイズを測るのか?」
聞き慣れない言葉を片言で口にしながらチラリと少佐を窺い見ると、そう言えばそうか、と表情を改めた少佐が俺に向かって微笑む。
「日本にはね、子どもの成長を祝う七五三っていうイベントがあってね。文字通り三歳、五歳、七歳になる子どもたちに着物を着せてお祝いするんだよ。お前たちもちゃんと祝ってやればよかったなぁ」
そういうことはきちっとしておけばよかった、と残念そうに言う少佐に、更にムクリと頬を膨らませて文句を言う。
「……何だよ。俺たちの親代わりにはなれないって言うクセに、そういうことは言うんだな。それって矛盾ってやつなんじゃないのか」
自分で言っておきながら、あまりにも子どもじみた言い草にカッと頬が熱くなるのを感じて咄嗟に顔を俯けた。
今の自分の表情を見られてしまうのも、鏡に映り込んでしまうのも嫌で、両手で顔を覆ってしまいたい気持ちを何とか抑えつける。
こんな風に子どもっぽい感情をぶつけている自分だって、大人になろうとしている自分と矛盾していて、少佐のことをどうこう言える立場ではないのに。
本当に格好がつかないなとモヤモヤしていると、クスリと小さい笑い声が耳に届いた。ふと顔を上げて少佐に視線を移すと、困ったように眉を下げて什器に片肘をついた少佐がふわりと笑った。
「……確かに。そうだな、矛盾してる」
司郎の言うとおりだ、と苦笑いする少佐に何か言おうとして、何を言えばいいのか戸惑っていると、靴の入った箱を抱えた店員が戻ってきてにこりと微笑んだ。
「靴もいくつかお持ちしました。シャツとネクタイも準備しますので、先に試着室へどうぞ」
「あ……はい」
タイミングが良かったのか悪かったのかはわからない。とにかく案内されるがまま靴を脱いで試着室のなかへと入った。
「下着になってお待ちいただけますか? すぐにシャツとネクタイをお持ち致します」
「わかりました……」
話が中断されてしまったことに少しだけ歯痒さを感じつつ、試着室と言ってもそれなりの広さがある空間でごそごそと身に着けていた服を脱いでいく。パンツ一枚になればいいんだろうかとデニムパンツも脱いでしまうと、お客様よろしいですか? と外から声が掛かった。はい、と短く返事すると、失礼します、という短い返事とともに店員が試着室の中へ入ってくる。その手には明るいブルーグレーのシャツと数本のネクタイが抱えられていて、壁に備え付けられたラックに手際よくスーツとシャツを引っ掛けていく。
「ネクタイの締め方がわからない場合は私が承りますのでお声掛けください。ごゆっくりどうぞ」
全てのアイテムの準備を整えた店員は、またニコリと笑って試着室から出て行った。初めて手を通すスーツという代物にもたもたしながらも何とか袖を通し終えて、腰のベルトを調整する。ジャケットも羽織ったものの、ネクタイなんて扱えるわけもなく、前のボタンを閉じないまま外に出ようとドアノブに手を掛けた。
「お疲れ様でした。まずは裾の調整を致しますので、試着室の中でお待ちください」
「あっ、ハイ。すみません」
「大丈夫ですよ。鏡に向かってまっすぐお立ちいただけますか?」
「……こうですか?」
「はい。では針を使いますので動かないようお願いいたします」
ポケットから裾上げ用のピンを取り出した店員は、失礼します、と俺に声をかけてから丁寧に裾を整え始めた。採寸の時よりは緊張が解れたものの、まだ僅かに固い身体を解すように深呼吸をすると、裾上げの作業を終えたのか、店員は膝を突いてゆっくりと立ち上がった。それから俺の足元に準備しておいたのであろう艶の美しい革靴を並べた。
「こちらでサイズが合うといいのですが……」
差し伸べられた靴べらを使ってもたもたと革靴に足を入れる。新品の硬い感触に戸惑いながらも何とか足を納めて試着室の外へ出た。
さすが、と言えばいいのか熟練の店員の技で、どこもかしこもサイズはピッタリなのに動きにくさを感じることはない。靴だって足に馴染めば問題ないと思える違和感だった。鏡に映る自分の姿に思わず、おぉ、と心のなかで感嘆の声を上げていると、いくつかのネクタイを持った店員が俺の隣に並んだ。
「ネクタイはどちらにいたしましょうか。好みのお色はございますか?」
俺に向かってネクタイを差し出しながら店員は微笑んでいる。目の前に並べられた複数のネクタイに目移りしてしまって怖じ気づいていると、離れたところで俺たちの様子を見ていた少佐がパッと近付いてきた。
「……司郎はこれが似合うんじゃないか?」
店員が持っていたものの中から迷わずひとつを選び取った少佐は、するりとネクタイを手に取って俺の首もとに当てる。
「……うん。よく似合ってる。これにしろ」
「あ、あぁ……」
言われるがままそれを受け取って、もたつきながら首に引っ掻けようとすると、店員はにこりと微笑んで、ご説明させていただきますね、と俺の手からそっとネクタイを抜いて丁寧にネクタイの結び方を説明し始めた。自分の首にも別のネクタイを巻いて、俺がひとりでもネクタイを締められるように、ひとつひとつの手順を淡々と根気よく教えてくれて、何とかひとりでも形になったとほっとしていると、仕上げに、と店員が微調整の仕方やほどく時の注意点も伝えてくれる。それを聞き漏らさないよう耳を傾けながら、されるがままになっていると、最後に衿元を整えた店員が、いかがですか? と微笑みながら俺を鏡へと促した。
恐る恐る鏡の前で姿勢を正す。
ふぅ、と息を吐いてから鏡を覗くと、何とか様になっている自分の姿に肩の力が抜ける。
スーツに負けてしまっているようではスーツを買う意味がない、と思ってはいたけれど、何とか貸衣裳のような違和感もなく、覚束無いながらもちゃんと着こなせているように見えた。くるりと身体を半回転させて後ろ姿も確認する。錬成した炭素を蓄えた髪とも違和感がない。もっと量が増えても違和感なく着こなせるように思えた。
改めて鏡に映る自分の姿に、よし、と頷いていると、鏡の隅に写る少佐と目が合って思わず振り返った。穏やかな、でも少し泣きそうな柔らかい表情を浮かべている少佐は、俺の姿を眼に焼き付けるように見つめてからゆっくりと頷いた。
「……大きくなったなぁ、司郎。本当に、大きくなった」
少佐はそっと俺に近付いて、愛おしむように眼を細めて俺を見上げる。そのまま白くて細い指で俺の頬に触れて、感極まったように緩く微笑んだ。少し冷たく感じる指先が、頬の表面をそろりとなぞって顎先で止まる。それからもう一度皮膚の感触を確かめるように手のひらを添わせた少佐は、ふわりと微笑んでトンと俺の肩を叩いた。
「他の小物も僕が見ておいてやる。だから早く試着を済ませてしまえ」
他のネクタイも見せてくれ、と少佐は店員に声を掛けている。そのまま俺から離れていった少佐を視線だけで追いかけつつ、少佐の指の名残を確かめるように頬に触れた。
時間差で熱を持ち始めたそこはじくじくと痛みを伴って俺の心を締め付ける。
ただ指が触れただけなのに。
あんなに優しい目で俺を見つめるから。
閉じたはずの心が疼いて、切なくて、苦しい。
どきどきと高鳴って煩い心臓を誤魔化すように少佐から目を背けて、次の試着を済ませようと試着室へ飛び込んだ。

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