あー、つかれた。
久々の華の金曜日。本当なら夜の町に繰り出して楽しいことに身を投じていたいところだが、俺ももうそんなに若くないのか、日々の重労働を終えてヘトヘトになった身体は素直に家に直行していた。飯は適当、ビールとツマミでいいやと冷蔵庫から取り出したビール片手にうだうだとテレビを流しながらソファで寛いでいた時だった。今日はもう呼び出しはナシで頼むとお願いしていたのに、リビングテーブルの上で震えている端末。もう酒飲んじまったよとげっそりしながら画面を覗くと皆本の文字が目に入る。えー、そっち系の呼び出しー? とうんざりしながらスピーカーをオンにして通話を開始した。
「はい、賢木です。本日は営業を終了しました。またのご利用をよろしくお願いいたします」
「……ちょ、おい賢木! 待ってくれ! 緊急事態だ!」
だから通話を終えたいんだよと溜め息を吐いてからスピーカーを切って端末を耳に押し当てた。
「……なんだよ? 俺もう酒飲んじまってるから使いモンにならねぇぞ?」
「それはもう仕方ない。ただ状況は把握しといてくれ。いいか? 落ち着いて聞けよ」
もったいぶって一度深呼吸した皆本は、一瞬だけ言い澱んでから口を開いた。
「……紫穂が、家出した」
「……は?」
たっぷりと間を置いて間抜けな返事をした俺は暫くの沈黙の後、改めて確認するように問い返した。
「紫穂ちゃんが、家出?」
「そうだ。さっき薫からそう連絡があった。紫穂に連絡が繋がらない。賢木、何か知ってるか?」
「……いや? 知らない。何も聞いてない」
「そうか……賢木も知らないとなると八方塞がりだな……」
皆本の焦ったような声色に、事態の深刻さを察知して話し掛ける。
「紫穂ちゃんの実家とかじゃないのか? 家出っつったって行く宛に限りがあるだろ」
「それが……実家にも連絡入れてないみたいなんだ。帰った様子もない」
「え、マジかよ……」
それいろんな意味でヤベェじゃん、と呟けば、はぁ、と皆本の深い溜め息が電話越しに聞こえてきた。
「ひょっとしたら、と思って君に連絡したんだけど、本当に何もないんだな?」
急に疑うような雰囲気を匂わせてくる皆本にムッとして答える。
「んだよそれ。俺が匿ってるとでも言いたいのか?」
「……だって賢木、紫穂には甘すぎるところがあるから」
皆本の指摘にグッと言葉を詰まらせる。全くもって否定できないのが悔しいけれど、今この瞬間に関して言えば、俺の身は潔白だ。
「……それは……仕方ない、だろ……お前だって薫ちゃんには甘くなっちゃうだろ。それと同じだよ」
「でも君は付き合ってるわけでもないし、気持ちを伝えたわけでもない。本当に交際することになったらどうなるんだ?」
訝しげな皆本に、うぅ、と小さく唸り声を上げる。
「……好きな子に甘くなっちゃうのはしょうがないじゃん」
「だからって交際前から甘やかしすぎなのはどうかと思うぞ」
「そもそも紫穂ちゃんが俺と付き合ってくれるかもわかんないんだからいいじゃん! 俺はお前とは違うの! 正々堂々デートできるようになったお前とはな!」
「うっ……いやでも、君から誘えば、紫穂もオーケーすると思うぞ?」
「気休めありがとうよ……ま、俺がちゃんとアプローチできるようになるまではそういうことはしねぇよ。というわけで今日も匿ってない。寂しくひとり酒してるとこだよ」
自分で言っておきながら何だか虚しくなってくる気が否めない。今は指を咥えて見ていることしかできない自分が恨めしいけれど、仕方がないんだと言い聞かせる。
紫穂ちゃんはまだ十七歳。せめて十八になるまではこちらから何か仕掛けるなんてことはできない。
俺は何だかんだとお家デートみたいなことをしていた皆本と薫ちゃんのようにはいかない。俺の場合、紫穂ちゃんを部屋に上げるだけでしょっぴかれる可能性大だ。なんて言ったって紫穂ちゃんの父親は警察庁長官。ちょっとでもヤバいことは避けるべき。十八になったとしてもしばらくはお日様の元に照らせるような健全なことにしか誘えないだろう。そもそも紫穂ちゃんが俺の誘いに載ってくれるかなんてわかんねぇし! あーくそ皆本と薫ちゃんの関係性が羨ましい!!!
「とにかく! 俺は今間違いなくひとりだし、何なら証明するためにビデオ通話にしたっていいぞ」
「……一応、念のため、ビデオ通話にしてもらってもいいか?」
「俺信用ねぇな! 泣きたくなるわ!!!」
「いや、本当に念のためだよ。君を疑ってるワケじゃない」
「……わかったよ……ほい、これでどうだ? 悲しくなるくらい独りだろ?」
「……あぁ、そうみたいだな。っていうか賢木、ちゃんとご飯食べてるのか? 見たところ酒と簡単なツマミだけじゃないか」
「独りだと作るのも面倒なんだよ、お前にはわかんねぇだろうけどな!」
半ば本気で泣きそうになりながら独り者の寂しさを噛み締めていると、ピンポーン、と何故か俺の部屋のインターホンが鳴った。エントランスの呼び鈴ではない、この部屋直接の呼び鈴。すごくすごーく嫌な予感がして、電話の向こうにいる皆本と顔を合わせながら顔を顰めた。
「なぁ皆本……俺、めちゃくちゃ嫌な予感がしてて、しかもそれが当たってる気しかしねぇんだけど」
「奇遇だな……僕もそうだ」
「……取り敢えず、出た方がいいよな」
「あぁ……通話は切るなよ」
「わかってる」
恐る恐る玄関ドアに近付いて、ごくりと喉を鳴らす。ゆっくり解錠してドアノブを捻ってそろそろとドアを押した。
「先生こんばんは」
「……紫穂ちゃん」
ドアの前、その場所にはにこやかな笑顔を浮かべた紫穂ちゃんが立っていた。キィ、と高い音を立てて完全にドアを開けてしまうと、ニコリと俺に向かって微笑んだ紫穂ちゃんが俺の脇をすり抜けて部屋の中へと入っていく。
「あ、え! いや、ちょっと! 紫穂ちゃん?!」
慌ててドアから手を離して声を掛けるとくるりと振り向いた紫穂ちゃんが目の前にいて。その近さにドキリとしつつ、バタン、とドアが閉まってガチャリとオートロックが稼働した音が聞こえた。
「なぁに? センセ」
息を呑むほどに超ド迫力の綺麗な微笑みが俺に向けられる。なんだかご機嫌斜めなのは窺えるけれど、対俺に向けてその笑顔を放たれたら俺が即白旗振って降参しちまうってわかってやってるんだろうなと心の中で泣きながら、それでも気を強く持って紫穂ちゃんに向き合った。
「こんな時間に年頃の女の子が独りで男の部屋を訪ねてくるのはどうかと思うんだけど?」
腕を組んでできるだけ紫穂ちゃんに負けないように眉を寄せて睨み返すと、可愛らしくぷぅと頬を膨らませて上目遣いに睨まれた。そんな可愛い顔をするな。
「……それ、相手、皆本さん?」
「は? え?」
「電話の相手。どうせ皆本さんでしょ?」
ちょっと貸して、と手に持っていた端末をいとも簡単に紫穂ちゃんに奪われる。
「あっ、ちょっ」
「もしもし? 皆本さん?」
俺の端末に向けて喋り始めた紫穂ちゃんはこちらが震えるくらいに美しくにっこりと笑ってみせた。
「私、今日は帰らないから。薫ちゃんたちに伝えておいて?」
「えっ! 帰らないって紫穂!? どうするつもりだ?!」
「賢木先生に泊めてもらうわ。じゃあね、皆本さん」
「あっ、紫穂! ちょっと待」
ブツッ、と嫌な音が玄関に響く。そのまま紫穂ちゃんは俺の端末を鞄の中へ仕舞った。
「え!? それ俺のケータイなんですけど?!」
「知ってるわ。ちょっと預からせてもらうわね」
これまた綺麗な顔で微笑んだ紫穂ちゃんは、問答無用とでも言うように鞄の上から仕舞った携帯を撫で付けた。そしてそのまま靴を脱いで部屋へ上がろうとしたのを慌てて引き止める。
「いやいやいや! 勝手に入っちゃダメだろう!? つーかさっきも言ったじゃん? こんな時間に男の部屋に上がっちゃダメだって!」
紫穂ちゃんの肩を掴むことも腕を掴むこともできなくて、中途半端な位置で手を振りながら一生懸命訴えると、くるりと紫穂ちゃんはこちらを向いて、ジト目で俺を下から見上げた。
「大方の事情は知ってるんでしょう? 私今日宿無しなの。可愛い妹が泊まりに来たとでも思ってくれればいいわ」
いやいや妹って。可愛いのは否定しないけど俺に妹が居たことなんてない。え、妹ってこんな気安い感じでお兄ちゃん家に泊まりに来たりすんの? 紫穂ちゃんの兄貴羨ましすぎ……いやいや、兄妹! 兄妹だから! やましいことなんてなんもないだろ!!! いやそもそも紫穂ちゃんひとりっ子だしそんな羨ましい存在はいない、って何想像してんだ俺!!!
「いやいや事情は聞いたけど! 紫穂ちゃんを妹にした覚えはねぇし、家出したからって男の家に転がり込むのはどうかと思うぞ!!!」
「別にいいじゃない、お兄ちゃん?」
「ウッ……」
お兄ちゃんの破壊力ハンパねぇ。クッと眉を寄せて衝撃を堪えていると、ニヤリと笑った紫穂ちゃんが更にズズイと距離を詰めてきた。
「何なら……宿代は身体で払うわよ?」
ンフ、と小首を傾げて可愛さをアピールしてくる紫穂ちゃんから必死に目を逸らす。
「宿代なんて要らねぇし女の子がそんなコト気安く言うんじゃありませんッ! つーか何で俺んトコなんだよ朧さんとかほたるちゃんたちとか、他に頼れる女の人いるだろ?」
わしわしと頭を掻きながら問い掛けると、紫穂ちゃんは頬を膨らませて上目遣いに俺を睨み付けてくる。
「呉竹寮は定員オーバーだし、朧さんのトコへ行ったら捕まって家に帰されちゃうじゃない。今日は絶対薫ちゃんたちのトコロには帰りたくないの」
腕を組んでぷいっとそっぽを向いた紫穂ちゃんに頭を抱えながら、何とか言って聞かせるように優しく話し掛けた。
「そうは言っても……俺ん家はマズイだろ。タクシー呼んでやるから、これからでも実家に帰ったらどうだ?」
俺も一緒についてってやるからさ、と眉を吊り上げている紫穂ちゃんを宥めると、紫穂ちゃんはおもむろに自分の私用端末を取り出して何処かに電話を掛け始めた。首を傾げている俺をじっと見つめて、紫穂ちゃんは電話が繋がるのを待っている。僅かに聞こえるコール音がプツリと途絶えて電話が繋がったことがわかった。
「もしもし? ママ?」
紫穂ちゃんが口にしたフレーズにドキリとして身体が硬直する。何でこのタイミングで親に電話すんの? 俺殺されるの? ヒヤヒヤしながら息を呑んで紫穂ちゃんを見つめ返すと、ふん、と鼻を鳴らしながら紫穂ちゃんは電話口に向かって話し始めた。
「ママ? あのね? 今日、私、賢木先生の家に泊まるから」
俺の目を見つめながらサラリと言い切った紫穂ちゃんに、ひゃっと思わず情けない声を出して紫穂ちゃんを止めようと手を伸ばした。それを難なく躱した紫穂ちゃんは何食わぬ顔でお母様と思われる人物と話を続けている。
「ええ……うん、そう……そうよ、そのつもり……だってこのままじゃどうにもならないんだもん」
俺の顔をちらりと見遣った紫穂ちゃんは何故か不満げな表情を俺に向けて喋り続けている。
「……え、いいわよそんなの、気にしないで……え、パパ?」
紫穂ちゃんの口から出た、パパ、の言葉にピシリと顔が引き攣る。あ、コレ、俺死んだな? と全身から血の気が引いていって、氷水でも被ったみたいに体温が一気に冷えた。
「なぁに? パパ……え? そ、そんなこと! だって……うん……うん……はい、わかったわ。ちょっと待ってね」
紫穂ちゃんは一旦携帯を耳から離して画面をスワスワと操作している。そして俺に向かって端末を差し出した。
「はい、センセ。パパが話があるって」
まるで反抗期丸出しみたいな顔をして端末を押し付けてくる紫穂ちゃんから端末を受け取って画面を覗き込むと、そこには間違いなく三宮長官のお姿が映し出されていて。あ、俺ビデオ通話で死刑宣告受けるんだ、と震えながら、引き攣って仕方がない顔を何とか画面に向けた。
「賢木くん、久し振りだね? 元気だったかな?」
相変わらずあまり表情が読めない顔で、画面の向こうにいる三宮長官が俺に向かって語り掛けてくる。
「は、ハイ……三宮長官も、お変わりなく……」
何とか声が裏返らずに言えたのはたったそれだけで、今にも震えそうで仕方がない手を叱咤しながら必死に端末と向き合った。
「……その、なんだ……紫穂が迷惑を掛けて済まないね? 紫穂のことだ、突然訪ねていったんだろう?」
「あ、え、ハイ。突然紫穂さんがいらっしゃって、かなり驚いてます。迷惑だなんて思ってませんが、紫穂さんは責任もって私が保護してご実家にお送りしますので……」
どうか死罪だけはご勘弁を、と心の中で続けながら、一刻も早くタクシーを呼んで紫穂ちゃんのご実家に送り届ける算段を立てていく。背中にダラダラと冷や汗が伝っていくのを感じながら当たり障りない笑顔を浮かべていると、こほん、と小さく咳払いした長官と目が合って膝が震えた。
「……賢木くん」
「ハ、ハイ……」
もう半分泣きそうになりながらも何とか答えると、気まずそうに眉を寄せた長官が俺をじっと見つめた。あ、俺、もう死ぬんだ。
「賢木くん」
「……ハイ」
長官から死刑宣告を待ちながらゴクリと喉を鳴らすと、ふぅ、と息を吐いた長官はへにょりと眉を垂らした。
「賢木くん、諦めたまえ」
あぁ、短かった俺の人生。せめて紫穂ちゃんに玉砕してから死にたかった。心の中で涙を流しながら、長官の次の言葉を待っていると、何だかとても言いにくそうに口を結んだ長官が、言葉を逡巡するように目を閉じてから口を開いた。
「その……紫穂は、透視だけじゃない、運を味方にするというか、流れを自分に引き寄せる力、とでも言うのだろうか。そういうものを持っていると私は思っている。だから、これはもう、受け入れるしかないと思ってくれ」
一体何を言われているんだろうと思いながら、もういっそはっきりウチの娘に手を出しおって! くらい言ってほしい気持ちでいっぱいだった。いや、まだ出してないし何にもしてないんだけど。
「賢木くんは悪くない。君は紫穂のことをきっと心から想ってくれていると私は理解している。ただ、もう、流れは変えられんのだよ」
「……はぁ」
いよいよ何の話かわからなくなってきて、はて、と首を傾げると、もう一度、ふぅ、と溜め息を吐いて眉を寄せた長官は、真っ直ぐに俺を見つめて告げた。
「もう諦めたまえ。流れに身を任せたとしても私たちは何も言わん。怒ったりもしない。紫穂が賢木くんの元へ向かったという時点で、もうこの流れは変えられんのだよ。君が嫌なのでなければ、受け入れてやってくれ。私たちは元より、君を歓迎しているよ」
「……え? ……は? ……えぇ?」
「とにかく、君は悪くない。流れに逆らおうとするな。逆らうともっと大きな波に飲み込まれてしまうだけだ。紫穂をよろしく頼む」
「え? ぇえ? 三宮長官?」
「紫穂。何度も言うが、無理矢理はダメだぞ。相手の同意が」
「わかってるわ、パパ! もう切るわね!」
端末に向けて叫んだ紫穂ちゃんはまたもブツリと回線を切って鞄の中に仕舞う。それからにこりと笑って俺に向かって首を傾げた。
「じゃあ、パパとママの許可も出たんだし。一晩よろしくね? センセ」
「へ? えぇぇ?!」
「早速だけど、お風呂借りるわね? 汗かいちゃって気持ち悪いの」
お風呂どこ? と聞いてくる紫穂ちゃんに訳がわからないまま、そこだけど、と指を差して答えると、ありがと、と笑った紫穂ちゃんが靴を脱いでバスルームに消えていった。呆気に取られて一体何が起こっているのかわからなかったけど、ハッと意識を取り戻して慌てて紫穂ちゃんの後を追いかける。
「ちょっ、紫穂ちゃん?! 風呂って、うわぁぁぁ!!!」
パッと開けたドアを勢いよく閉じる。うっかり目に入ってしまった上半身下着姿の紫穂ちゃんに心臓がばくばくと暴れだす。白くて目映い肌色面積の広さにくらりとしながら閉じた扉に向かって叫んだ。
「ゴメン! 見るつもりはなかったんだ!!! 本当にそんなつもりはなくて!」
もう見えていないのに思わず目元を手で覆って隠しながら叫び続ける。俺には刺激が強すぎる紫穂ちゃんの下着姿をとにかく記憶から消そうと試みるけれど、余りにも鮮烈な被写体はしっかりと脳内のフィルムにその姿を焼き付けてしまったようだ。くっそ、男の本能が忌々しい。
「ねぇ先生、それより、タオル借りたいんだけど。いいかしら?」
「えっ、あぁ……洗面台の右の棚にバスタオル入ってるから、必要なだけ使ってくれていい」
「……これね? アリガト。じゃあお風呂借りるわね」
こっちが拍子抜けするくらい、本当になんでもない様子で紫穂ちゃんはドアの向こうから返事をした。すぐにカラリとバスルームのドアの音がして、しばらくしない内にシャワーの音が聞こえてくる。そんなつもりはないのに何だか風呂を覗いているような気になって慌ててバスルームを離れてリビングへと移動した。
一体何がどうなっている? 俺の命は繋がって、紫穂ちゃんは何故か俺ん家で風呂に入り、オマケに三宮長官に紫穂ちゃんのことをよろしくされた。一体何がどうなってんだ? 何が何だかさっぱりわからない。取り敢えず落ち着こうとソファに腰を下ろして残っていたビールを煽った。ごくりと飲み干してから失敗したと舌打ちする。この状況で酒なんか飲んだらマズイだろ。理性が飛んだらどうする。っていうかマジで紫穂ちゃんここに泊まる気か? それにさっきの風呂場での反応、動揺すらしてなかった。ひょっとして、俺のコト、男と思ってねぇんだろうか。それはそれでめちゃめちゃショックなんだけど! 本気で俺をお兄ちゃんとか思ってそうでコワイ。いや、俺を頼りにしてくれてるのは嬉しいんだけどさ。男として見てねぇからこんな時間に俺の家に独りで来れるし平気で風呂になんか入れるのか。俺が風呂を覗いたりする男だったらどうすんだ! そんなことしねぇけど! 俺のことエロ医者とか散々言ってたくせに! ちくしょう!!!
「せんせー? ドライヤー借りていい?」
「……あー……洗面台の鏡の裏に入ってるから好きに使えー」
力無く答えるとありがとーと返事が返ってきて、数秒も経たない内にドライヤーの音が聞こえてきた。思わず湯上がりの紫穂ちゃんを想像しそうになる自分の頭を叱責する。バカ野郎紫穂ちゃんは俺のこと男と思ってねぇんだぞ! それなのに俺がそういう目で見ちゃったら紫穂ちゃん傷付くかもしんないだろ! 俺を男と思ってねぇのは大変ショックが大きいけど、それはまぁもうアプローチ解禁していい頃合いになったら本気出すとして。つーか、男と思われてない時点で、俺の恋はもう散ってるようなモンかもしんねぇけど!
「先生、お風呂アリガト。先生の家のお風呂って大きくて広いのね?」
「あー……脚が伸ばせる風呂が良かったからな。大きいバスタブ入れてもらったんだ」
言いながら振り返ると、紫穂ちゃんの姿にぎょっとして慌てて目を隠した。
「ちょ、ちょちょッ! ちょっと待て! 家出になんでそんな気合いの入ったパジャマ持ってきてるんだよ!!!」
下はショートパンツで惜し気もなく脚が晒されていて、上はチューブトップに申し訳程度に結ばれたストラップ。柔らかそうなタオル地でできたフリルの裾がヒラヒラと揺れてへそ回りの肌が今にもチラリと顔を覗かせそうだ。急いで寝室に飛び込んで、クローゼットから洗ったばかりの長袖の上着を引っ付かんで紫穂ちゃんに押し付けた。
「……俺のパーカーだけど。頼むからコレ着てくれ」
できるだけ紫穂ちゃんの姿を視界に入れないようにしながら紫穂ちゃんにパーカーを手渡してソファに戻る。
「えぇー……お風呂上がりで熱いんだけど」
「いーから! お願いします着てください!!!」
「……もう、しょうがないわね」
渋々、といった様子でパーカーを羽織って袖に手を通した紫穂ちゃんが、トコトコと俺の隣へやってきてストンとソファに腰を下ろした。チラリと視線を向けると先ほどの大変刺激的なパジャマは覆い隠せたものの、ダボダボのパーカーは袖が長過ぎて、狙ってないのに萌え袖になってしまって全く意図せぬ彼パーカー状態に悶絶しそうになった。袖からチラリと覗く指先を絡め合わせて、膝に置いている紫穂ちゃんの脚は相変わらず白くて眩しい。その脚を開いて俺の肩に引っ掻けて内腿にキスを落としたらどんな顔をするだろう。その白い肌を暴いて口付けて跡を残して俺のモノだとアピールしたいってなに考えてんだ俺! 頭に浮かぶ煩悩を必死に追いやって、額に手を当てるフリをして紫穂ちゃんから視線を外した。
「なぁ紫穂ちゃん」
「なぁに? センセ」
「本気でここに泊まる気なのか?」
やっとの想いで問いかけると、ソファの上で体育座りをして膝の上にちょこんと顎を乗せた紫穂ちゃんがぷぅと頬を膨らませて唇を尖らせた。
「今日はもう薫ちゃんと葵ちゃんの顔見たくないの。何を言われても帰るつもりも出ていくつもりも無いから」
テコでも動かない、という口調で言い切った紫穂ちゃんに、恐る恐る提案する。
「……皆本の家、とか」
「ゼッタイいや!」
「……そーですか」
ぷん、と顔を背けた紫穂ちゃんの態度が可愛く見えて仕方がない自分の目と脳に檄を飛ばしながら、はぁ、と溜め息を吐いて何かいろいろを誤魔化す。
「……そもそも……ここにはどうやって来たんだ? 葵ちゃんに送ってもらったわけじゃないんだろ?」
「普通にタクシーよ?」
「ひとりでタクシー乗ってきたのか?! こんな時間に?! 危ないだろ!!!」
「子ども扱いしないで! タクシーくらいひとりで乗れるわよ!」
「そーじゃなくて! 年頃の女の子が! 夜にひとりでタクシーに乗るのが危ないって言ってんだ!!!」
何かあったらどうすんだよ! と訴えると、ますますぷぅと頬を膨らませて紫穂ちゃんは眉を吊り上げた。不機嫌そうに寄せられた眉が可愛い。いやそうじゃないだろ、俺。
「それに……エントランスどうやって抜けてきた? エントランスのロックナンバー、教えた覚えがねぇんだけど」
一生懸命自分を律しながらちゃんと指摘するべき部分を紫穂ちゃんに問い詰めていく。状況はマズイと判断したのか、テヘッと笑って紫穂ちゃんはウインクしてみせた。
「それは……日々訓練とか任務で鍛えられた全てを総動員しただけ、よ?」
「……そういうのを職権乱用とか、力の悪用とか言うんじゃねぇかなぁ?」
はぁぁぁぁ、と深く溜め息を吐きながら言うと、紫穂ちゃんは小さく、ごめんなさい、と謝罪を口にした。そもそもあんまり怒ってないので全然許す。それを口に出して言うことはないけれど。
「……家出の事情は聞かせてもらえるのか?」
家出をして今日は顔も見たくないなんて、一体何があったんだと心配しながら紫穂ちゃんの様子を窺う。すると紫穂ちゃんは顎を乗せていた膝に顔を埋めて、足の爪先を覆うように指先できゅっと掴んだ。できうる限り身体を縮こまらせた紫穂ちゃんを思わず抱き締めたくなったけど、ぎゅっと膝の上で拳を握って堪える。
「……悔しくなったの」
「悔しい?」
「私だけ、ひとりぼっちなんだもの。薫ちゃんも、葵ちゃんも、皆本さんやバレットがいて楽しそうなのに、私だけひとりで……好きな人がいて二人ともキラキラしてるのに、私だけ、ひとりぼっち……」
「……置いていかれたみたいで、寂しかったのか」
「……そんな感じ。先生はホント私のコト何でもわかっちゃうのね?」
膝から顔を覗かせて、へにょりと笑ってみせた紫穂ちゃんの目尻には涙が浮かんでいて。その涙を拭ってやりたいけれど、どこまでなら許されるのかいまいちわかっていない俺は身体を硬直させたままそっと息を吐いた。
「……君はひとりなんかじゃないだろ。薫ちゃんだって葵ちゃんだっているし、皆本もいる。それに、一応、俺だって、いるだろ」
一応、と逃げ道を作ってしまうのはもう仕方がなかった。まだちゃんと向き合えないクセに力強く、俺がいるだろ、なんて言えない。
「でも二人ともコイビトっていう特別がいるわ。私だけがひとりなのよ? 誰の特別でもない……」
俺にとって君は特別だと言えたなら、紫穂ちゃんの落ち込んだ心を救うことはできるんだろうか。でもきっと今はまだタイミングじゃなくて、俺はもっと時期を見計らってからじゃないと自分の想いを伝える気にはなれなかった。それにどうやら俺は紫穂ちゃんにとって男じゃないらしいし、そんな男から急に近付いてこられても気持ち悪いだけだろう。もっとちゃんと、紫穂ちゃんの心を見極めてそっと近付いていかないと、紫穂ちゃんからの信頼も失ってしまいそうで怖かった。
「……紫穂ちゃんにもそのうち現れるよ。君のコトを特別にしてくれる存在っていうのがさ」
できればそれが、俺だといいけど。スタート地点にも立てていない俺にはきっとそれは過ぎた願い。まずは男だと認識してもらわないと話にならない。ふぅ、と息を吐いて、紫穂ちゃんに優しく微笑む。
「今日はもう寝ろ。俺のベッド、使っていいから」
寝具が気持ち悪かったらシーツとか新しいのに替えてやるからちょっと待ってろ、と言いながら立ち上がると、クイ、と服の裾を引っ張られて。ほんのりと頬を染めた紫穂ちゃんが上目遣いに俺を見つめていた。
「気持ち悪くなんか、ないわ。それより、先生は、どこで寝るの?」
「え?」
「……一緒に、寝ないの?」
うるりとした大きなアメジストが俺を写し出している。吸い込まれそうなその瞳に思わずゴクリと息を呑んだ。その白くて柔らかそうなまろい頬を指で撫でて、慰めるように口付けを落としたい。額から瞼、目尻の雫を吸い取って、頬に優しく口付けて、赤くて小さな唇の蜜を吸うように吸い付いて食べ尽くしてしまいたい。自らの内を駆け巡る欲求を無理矢理抑えつけて、ぐっと手を握り締めた。
「寝るわけ、ないだろ。年頃の女の子が、男と一緒にベッドで一晩過ごす、なんて……君は、何も知らない子どもじゃないはずだ」
あんまりふざけるなよ、と言おうとして、言えなかった。俺の服の裾を掴む手にきゅっと力が入って、縋るように下から俺を見つめてくる紫穂ちゃんの目に囚われる。
「先生となら……いや、じゃないよ?」
ひっそりと告げられたその言葉に目を見開く。
「先生、上手なんでしょ? なら、私、こわくないわ」
ふわ、と微笑んだ紫穂ちゃんに思わず手を伸ばしそうになって慌てて手を握り締めた。立ち上がろうとしていた腰を下ろして、紫穂ちゃんに向き直る。俺の服を掴んでいた手を取って、優しくそっと包み込んだ。
「……今の紫穂ちゃんは、薫ちゃんや葵ちゃんに引っ張られて、惑わされてるだけだ。そういうことは、ちゃんと、本気で好きになった相手とした方がいい。ノリとか、勢いとか、興味本位でってのは、止めておけ。大事なんだから、ちゃんとその時のために取っておくんだ」
静かに、諭すように言い聞かせる。紫穂ちゃんにとっては気安く相手をお願いしやすい存在だったのかもしれない。俺を選んでくれたのは嬉しくて、でもそんな火遊びの相手にしかなれない自分が悔しくて、歯痒かった。
「君にも、必ず現れる。君が本気で好きになれる相手ってのが」
まだ君には言えないけれど、少なくともここに一人、本気で君のコト好きな男はいる。抱き締めて、好きだと伝えてしまうのは簡単なことだけれど、それをしてしまうのは大人のやることじゃない。俺は男としてだけでなく、頼れる大人としての自分も見ていてほしかったから、紫穂ちゃんに簡単に手を出すわけにはいかなかった。
「……それって……私のコト、女として見れないって言ってるの?」
少し眉を寄せて険しい表情をしてみせた紫穂ちゃんに苦笑いを返す。
「そんなわけねぇだろ。君は年頃の女の子だって何度も言ってるし、年頃の女の子だから家に返そうとしてるんだ。充分女の子として扱ってる」
「……じゃあ私が子どもだって言いたいの?」
「そうじゃねぇって。君はもっと自分の身体を大事にしなさいって言ってんだ」
「……大事だから先生にあげるって言ってるのよ」
きゅっと眉を寄せた紫穂ちゃんが身を乗り出して俺の膝に手を載せる。指先がそろりと内腿を辿って官能的な動きをみせた。思わず反応しそうになる自分の身体を叱咤して紫穂ちゃんの手首を掴んで止めさせる。一瞬だけきょとんとした顔をした紫穂ちゃんは、俺の顔を見つめてほんの少し泣きそうに顔を歪めて俯いた。抱き寄せたくなるのを必死に我慢しながら、ポンポンと紫穂ちゃんの頭を撫でる。
もういっそ、この際はっきりと想いを伝えて、紫穂ちゃんからきちんと距離を取るのもいいかもしれない。紫穂ちゃんのことをちゃんと女として見ているということが伝われば、紫穂ちゃんも俺との距離感を改めてくれるかもしれない。そっと息を吐いて、紫穂ちゃんの目を見つめながらできるだけ真剣に伝えた。
「俺は……君に本気なんだ。だから、そういう……都合いい関係みたいなのは、ちょっと……いや、かなり寂しい」
そろりと頭から手を滑らせて、指先で紫穂ちゃんの頬を撫でる。初めて、意図して触れた肌は柔らかくて、吸い付くように手のひらで頬を包んだ。これ以上はダメだと自分に言い聞かせて、そっとふわふわの髪に指を通しながら手を離す。不思議そうに目を見開いて俺を見つめてくる紫穂ちゃんに、もっとハッキリ言わねぇと伝わんねぇか、と眉尻を下げた。きらきらと星が瞬く瞳を見つめて、そっと大切に告げる。
「……君のコトが好きだって言ってるんだ」
真っ直ぐ大きな目を見つめながら言うと、大きな目を更に大きく見開いた紫穂ちゃんは恥ずかしそうに頬を染めてほんの少し俯いた。
「……わ、私のコト、す、好きなら……私と……エッチ、してくれても、いいじゃない」
ぽつぽつと呟く紫穂ちゃんに、それじゃダメだ、と小さく呟く。
「紫穂ちゃんの気持ちが伴ってないのに、身体だけ繋げたって、虚しいだけなんだぞ」
俺だけが紫穂ちゃんを好きで、しかもこちらを向いてもいない十七歳の紫穂ちゃんにせがまれて身体だけの関係を持つなんて、こんなに虚しいことなんてない。身体だけの関係から振り向かせることだってできるだろうけど、それじゃダメで。若い紫穂ちゃんが自分から俺を選んでくれるんじゃなきゃダメだ。
「だからさ、君は、真剣に恋をして、結ばれた相手とそういうことしなきゃダメだ。俺で済まそうなんて、そんな風に思うな」
君は皆に愛される存在なんだから。そう告げて紫穂ちゃんに優しく微笑みかける。
「さ、もう寝ちまえ。明日ちゃんと君の家まで送ってやるから。薫ちゃんたちと仲直りするんだぞ」
紫穂ちゃんにそう言って立ち上がろうとすると、今度はグイと思い切り腕を引っ張られてソファに座り直させられた。そのままのし掛かってこようとする紫穂ちゃんに慌てて抵抗する。
「ちょ、紫穂ちゃん?! 何やって」
「センセイ」
じっと俺を見つめてくる目許は赤く染まっていて。
「き、気持ちなら……伴ってるでしょ」
普段なら有り得ないくらいの距離に顔を近付けて、紫穂ちゃんは呟いた。
「へ?」
「ちゃんと、気持ち、伴ってるんだから……虚しくなんか、ないでしょ?」
かぁ、と更に顔を赤くして紫穂ちゃんは俺を睨み付けてくる。
「あ、あたしの気持ち、知ってるんでしょ。じゃ、じゃあ……何も、躊躇すること、ないじゃない」
先生、私のコト、好きなんでしょ、と紫穂ちゃんはもたもたした口調で呟いた。ほとんど自分の身体を俺に押し付けるようにして引き続き俺にのし掛かろうとしている紫穂ちゃんの身体は柔らかい、じゃなくて!
「な、何の話だ? っていうかいろいろ当たってる! お願いだ退いてくれ!!!」
じゃないといろいろホント手遅れになっちゃうから! と心の中で叫びながら紫穂ちゃんから逃れようと身体を捩る。
「退いたらエッチしてくれる?! 私のこと好きなんだからいいじゃない!」
「だから! ダメだって言ってるだろ! 俺は君が好きだからこういうなし崩しみないなのは絶対イヤなの!!!」
「なんで?! 好きならエッチしたくなるんじゃないの?! どうして私はダメなの!?」
「だって君は俺のこと好きでも何でもないだろ!? それなのに君とそういうことできるワケないじゃん!」
言ってて自分で虚しくなってくる台詞を思い切り叫ぶ。それを聞いてハッとしたような顔をした紫穂ちゃんは、急に俺の上から退いてモジモジと萌え袖から覗く指先を絡め始めた。頼むからそういう可愛い仕草は止めてくれ抱き締めたくなっちゃうだろ。
「せ、先生……ホントに知らないの? 私の気持ち」
「……さっきから一体何の話だ? 俺のコトお兄ちゃんとしか見れないとかそういうアレか? それなら今日君がここに来て思い知ったよ俺のコト男として見てないってこと俺全然知らなかったまぁ別にいいんだけどさ」
精一杯の強がりを言いながら、乾いた笑いを溢すと紫穂ちゃんはパッと顔を上げてふるふると首を振った。
「ちっ、ちがうわよ!!!」
「へ?」
「なんで……なんでパパにもママにも、皆本さんにまでバレてるのに、なんで先生は知らないのよ!!!」
「は、はぁ?」
「この鈍感! バカ! ロリコン!!!」
「ろ、ロリコンで悪かったなぁ!? こんな年下の子に惚れたのは後にも先にも君だけだけどな!!!」
一番言われたくないことを一番言われたくない人に言われて俺の心はもうぐしゃぐしゃに潰れて涙を流している。もうこれ気持ち悪いって言われてるようなもんじゃん。さよなら俺の恋心よ。昔流行った名曲のように華々しく散ってくれ。本体の俺も暫くは立ち直れないと思う。どこか遠いところで元気にやってくれ。
「……君のことが好きになっちゃったんだからロリコンって言われても仕方ねぇけど。気持ち悪いってんならとっとと寝室に逃げて早く寝ちまえ。何なら朝まで俺は車で過ごすことにするから。それなら君も安心だろ」
ひとり寂しく失恋を癒すドライブに出掛けてもいい。きっと夜風が俺のひび割れた心に沁みて俺を癒してくれる……まぁ大人しく引き下がる気もないので立ち直ったら君が十八になったその瞬間から猛アピールしてリベンジするけど。
「とにかく、君から見れば俺は犯罪者予備軍だ。紫穂ちゃんの望む通りに俺は動く」
両手を上げて降参の意を示し、じっと紫穂ちゃんからの言葉を待つ。すると紫穂ちゃんはまた俺ににじり寄ってきて、俺の膝に触れた。
「……じゃあ、私とエッチして」
「は?」
「私の望む通りにしてくれるんでしょ。なら私とエッチして!」
「き、君は俺を犯罪者にするつもりか?!」
「パパから御墨付き貰ったわ! 先生は最強の免罪符を手にしてるのよ!」
「はぁ?! 俺、そんなん貰った覚えねぇよ!!!」
「先生は悪くない。先生のコト歓迎してる。流れに身を任せろって言われてたじゃない!」
「あー……あ? あの、意味わかんなかった会話か?」
「そうよ! ママもそんなに欲しいなら既成事実でも作ったらどう? って言ってたわ!」
「き?! 既成事実?! なんだそれどういうことだよ?!」
「だ、だって先生とエッチしちゃえば先生逃げられなくなるでしょ? 先生って実は真面目だから」
「実は真面目って酷い言い方だな!? っていうかナニ?! 親子揃って俺を犯罪者にしようとするってどういうこと?!」
「だから犯罪者じゃないってば!!!」
「その理論がめちゃくちゃだって言ってんの!!! 俺のコト好きじゃない君に手を出すだけで普通に犯罪だから!!!」
一体なんなんだこの親子! と心の中で泣き叫ぶ。俺の膝をそっと撫でる紫穂ちゃんにヒッと悲鳴を上げて頼むから止めてくれと目で懇願すると、おずおずといった様子で上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる紫穂ちゃんの目とかち合った。
「……本当に、私の気持ち……知らないの?」
「え?」
「なんで皆にバレてるのに、先生だけ、知らないのよ」
ポカポカと力ない紫穂ちゃんの拳が俺の胸板に繰り広げられる。それを軽く往なしながら首を傾げていると、きゅっと眉を寄せて頬を染めた紫穂ちゃんが、困ったように俺を見つめた。
「……わ、私……先生のコト……好き、なんだよ?」
目尻に涙を浮かべて俯いた紫穂ちゃんは、ぎゅっと目を瞑って小さな手を握り締めた。
「……え? ……ぇえ!?」
「……先生は大人で、私のコト、女と思ってないのか子どもと思ってるのかのどっちかで、私のことなんて何とも思ってないと思ってたから……だから、強攻手段に出るしかない、と思ったの」
「……それが、今回の家出騒動?」
こくこくと頷く紫穂ちゃんは、ゆるりと目を開いて俺を見つめた。
「……だって、先生、どうしてかわからないけど、私にはすごく甘いじゃない? だから、押せば、無理矢理でも、既成事実、作れるかなって」
「……いやいやいやいや紫穂ちゃんそれ犯罪だからね? 無理矢理はダメ」
「わかってるわよ! パパにも言われたもの! 同意が大事って!」
長官と紫穂ちゃんの最後の会話はそういう意味だったのね、とがくりと肩を落とす。そのまま身体から力を抜くとこの機を逃さんとばかりに紫穂ちゃんがまた俺の身体に手を伸ばしてくる。グッと体重を掛けられて後ろへ倒れ込みそうになった。
「ちょ! 紫穂ちゃん! 退きなさい!」
「イヤよ!!! 両想いなんだから! 無理矢理じゃなければいいんでしょ!?」
「両想いだからっていいってワケじゃねぇの! 両想いだとしても相手の同意は絶対だからな!!!」
「じゃあ同意してよ! そんなに私とエッチするの嫌なの!?」
「イヤなワケないだろ! 君こそこんな年の離れたオッサンとするのイヤじゃないのか!?」
「当たり前でしょ!? 好きなんだもの!!!」
ワッと俺の首に抱きついてきた紫穂ちゃんの重さに耐えきれなくてドサリとソファに倒れ込む。いろいろ柔らかい身体が俺の身体にのし掛かってもうなんかいろいろダメだと頭の中が真っ白になった。のそりと俺の身体から退いた紫穂ちゃんは、俺の顔の横に腕を突いて俺の顔を覗き込んだ。
「もう諦めてよ」
「……何をだ」
「もう全部諦めて、大人しく私のモノになってよ」
「え」
「ずっとずっと先生だけ見てた。もう今更他なんて要らない。先生が欲しいの。私が満足させてみせるから、お願いだから私のモノになって」
泣きそうな顔で紫穂ちゃんは俺を見つめてくる。キラキラのアメジストが今にもこぼれ落ちそうで息を呑んだ。
「……要らないって言われても、俺はもうずっと前から、君のモノだよ」
そろそろと紫穂ちゃんの頬に手を伸ばすと、ふわりと柔らかい感触にクラクラした。そのまま包み込むように手を這わせると、すりりと紫穂ちゃんは俺の手に擦り寄ってくる。その仕草がもうめちゃくちゃ可愛くて、思わず顔を綻ばせて微笑んだ。
「君こそ、一回りも年の離れた俺が選択肢に入ってるなんて思ってなかったから。紫穂ちゃんが十八になったら本気出して口説こうってずっとその日を待ってたんだぜ? まさか君から好きだなんて聞けると思ってなかった」
ふにふにと頬の感触を楽しみながら、親指で優しく唇を撫でる。吸い付くような触感にドキリとして思わず手を離した。
「ご、ゴメン……君のこと好きだけど、まだそういうのは先でイイって俺は思ってるから」
変な触り方してゴメン、と目を逸らすと紫穂ちゃんに顔を掴まれて無理矢理視線を合わさせられる。
「……今のはキスする流れじゃなかったの」
むぅ、と頬を膨らませて俺を睨み付けている紫穂ちゃんはもうホントに可愛くて、これがメロメロってヤツかと自分の状態に関心した。
「……好きな子とキスしたら……止まんなくなっちゃうだろ」
だからココは我慢が正しいの、と紫穂ちゃんの手を取ると、紫穂ちゃんは眉を下げてクスリと笑った。
「先生ってホントに詰めが甘いわよね。それってキスしちゃえばエッチできるって言ってるのと同じじゃない」
「……あ」
「もう逃がさない。流れに身を任せろってパパも言ってたわ」
「や、あの」
「もう黙って」
紫穂ちゃんの顔が目の前に迫る。もう逃げられない、とぎゅっと目を瞑ると、ちゅ、と可愛く唇が押し当てられた。ゆっくりと紫穂ちゃんが離れていく気配にゆるりと目を開くと、目をぎゅっと瞑って小さく震えている紫穂ちゃんが目に入った。ぷるぷると震えている紫穂ちゃんは可愛いけれど、正直、なんというか、拍子抜けで。
「……え……これだけ? もう終わり?」
思わず溢れ出た本音に紫穂ちゃんは顔を真っ赤にしてわなわなと唇を震えさせた。
「こっ、これだけ、って! も、もう終わりって何!? キスって、これがキスじゃないのッ!?」
紫穂ちゃんはあわあわと慌てながら俺の身体の上から逃げるように立ち退いて。
「わたっ、わたしっ、初めてなのよッ!? 初心者にこれ以上のことを求めるなんて、どうかしてるんじゃないッ?!」
半分涙目になりながら紫穂ちゃんは俺に向かって叫んだ。あっという間に俺から距離を取ろうとする紫穂ちゃんの手首を咄嗟に掴む。
「……初心者のくせに、俺と既成事実を作ろうと思ってたんだ?」
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