すれ違いにも似た胸のつかえを抱えた俺は、その日から自然と少しずつ紫穂ちゃんと距離を取り始めた。とは言っても仕事では関わるので完全に離れたわけじゃない。ただ、間島の話題に触れないよう俺が気を遣い、紫穂ちゃんが申し訳なさそうに残業を続けているだけ。こんなのを続けたら絶対に良くないのはわかっているし、何より紫穂ちゃんが潰れてしまうのは目に見えていた。
そして、それはあっという間に現実となって俺を襲った。
「倒れた? 紫穂が?」
オンコールかと思って取った通話はそれよりも遥かに俺の精神を揺さぶって、何とか冷静さを保てている自分を少しだけ見直した。
「今から行く。意識は?」
「それが、その」
「来ないで!」
電話の向こう側だというのにはっきりとこちら側まで届く紫穂ちゃんの声に、慌てて受話器から耳を外してスピーカーに切り替える。
「意識はあるんだな? 紫穂、今迎えに行くから待ってろ」
「だめ。来ちゃダメ」
さっきとは打って変わってか細く頼りない声が受話器越しに響く。その声が間違いなく彼女は泣いているのだということを俺に伝えていて、思わずギュッとスマホを握りしめる。
「……来るなって言ったって……倒れたんだろ……? きっと過労だ、ずっと無理してたろ。動くのが辛いなら俺の執務室使っていい。せめて……せめて、君の顔が見たい」
きっとぐしゃぐしゃで情けないことこの上ない顔をしているだろう。電話だから誰にも見られずに済んだけれど、本当に今にも泣き出してしまいそうなくらい、心が苦しかった。懇願するように絞り出した言葉は、聞き届けられることはなく、拒絶されてしまった。
「ダメ。会えない。今会ったら、自信失くしちゃう」
ごめんなさい、ごめんなさい、と震える声で繰り返す紫穂ちゃんの返事を聞きながら、目の前がどんどん真っ暗になっていくのを俺はぼんやりと感じていた。
最愛のあの子が泣いているのにそばに行って慰めてやることもできないのか。
そんな俺があの子の人生に責任を持つなんて言っていいのか。
こんな状況でプロポーズして結婚しようなんて、夢のまた夢なんじゃないのか。
ひょっとしたら、自分は浮かれきってお花畑に住んでいたのかもしれない。誰もがハッピーエンドになれるなんて馬鹿馬鹿しい寓話だと思っていたのに、それを馬鹿みたいに信じていた愚か者は自分自身だなんて、とんだお笑い種じゃないか。
「……そうか。わかった」
何とか絞り出すように告げたその言葉に、紫穂ちゃんはまたごめんなさいと震える声で反応を返してくる。
もう駄目なのかもしれない、とうっすら感じていた予感がリアルな熱を帯びて俺の背中に張り付く。震える手を握り締めて、お願いだからゆっくり休んでくれとだけ告げて通話を終了した。
俺にはもう会いたくないのかもしれない。ならせめて、間島がどんな男なのかこの目で確かめてやる。どんなに周りから反対されようとそれだけは譲れない。これが俺なりのケジメだ。
明日、勤務時間前に医局を覗けば、ちょうど退勤時間の間島と顔を合わせられるはずだ。ちゃんと顔を見て、紫穂を任せられる男なのか俺が見極める。それくらいのことは許されるだろ?
「紫穂」
どうか、俺よりもずっと、ずっとイイ男であってくれ。
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