紫穂ちゃんの誕生日にプロポーズしようと思ったら間男(仮)が現れて情緒をぐっちゃぐちゃにされた話。 - 11/12

「……何というか……とにかく、お疲れ様。大変だったな」
「いや……俺より紫穂の方がキツかったと思う。今度ねぎらってやってくれ」
「そりゃあ、僕らもねぎらうけれど、賢木がねぎらってやるのが一番紫穂には効くと思うぞ」
「……そうかなぁ」
「そりゃそうだろ。それより、大変なときにコミュニケーションが満足にできなくてお互い辛かったんじゃないか?」
「……うん……まぁな……正直、プロポーズは無理、って思ったよ」
「……賢木がそこまで思い詰めるなんてよっぽどだな」

じゃあ僕はそろそろ帰るよ、と立ち上がった皆本を見送るために、二人並んで玄関へ向かう。勝手知ったるという様子で俺のマンションの玄関に備えている靴べらを取り出した皆本は、靴を履いた後ゆっくり振り返って笑った。

「紫穂にゆっくり休むよう伝えてくれ。賢木もあまり無理するんじゃないぞ」

君たちは大事なことほど一人で抱え込もうとするからな、と腕を組んだ皆本は全く、と言いながらも俺たちを気遣ってくれているのが伝わってきて眉を下げて笑うしかなかった。すぐに車を出してくれたり、紫穂の家ではなく俺の家に送ってくれたりだとか皆本なりに俺たちを見守ってくれているんだろう。帰り支度を整えた皆本に、ちゃんと伝えとくよ、と呟いて玄関の鍵を開けた。

「……でもさ……仕方ねぇよ。それだけ、紫穂は特別なんだ。他とは全然違う。俺が知ってる恋じゃねぇんだ」

思うようにならないのが恋だとは思うけれど、こんなにもたった一人に振り回されて、オマケにそれが嫌じゃないなんて他に知ってる今までのどれもとは違った。それがいいのか悪いのかはわからない。そもそも、手放したくないなんて思うこと自体、初めてかもしれなかった。

「……人は、それを『愛』って呼ぶんじゃないか?」

ちょっとクサかったかな、と笑って言う皆本にハッとして頷いた。

「……そうか……愛……そうかもな」

愛なんて言ってしまうと、確かにちょっと格好を付けすぎているのかもしれない。でも、それが意外としっくりきているというか、自分が紫穂ちゃんに向けているものは愛なんだと言われてストンと納得できる感覚があった。
皆本も、思うところがあるのか、照れた風を装っているけれど堂々としているから、似たような心境で薫ちゃんと一緒にいるのかもしれない。俺の様子が変化したのを感じたのか、皆本は顔を綻ばせてドアノブに手を掛けた。

「紫穂をよろしく。賢木になら、安心して任せられる」

じゃあ、とドアを開けて帰っていく皆本に軽く手を挙げて返事をする。任せる、の意味がきっと複数だったのは俺の勘違いじゃないと思う。任せられなくたって紫穂ちゃんの人生は背負うつもりでいるんだから、もう負けてなんていられないけれど――紫穂ちゃんが俺を選んでくれるかどうかは別として。
誕生日までしっかり環境を整えて、ちゃんとプロポーズに臨みたい。まずは紫穂ちゃんの体調を戻すところからだな、と玄関からリビングへ戻ると、寝ていたはずの紫穂ちゃんが寝室のドアの前で棒立ちになって俯いていた。

「紫穂!? 身体起こして大丈夫なのか?!」

慌てて駆け寄って紫穂ちゃんの肩に触れると、強い拒絶が手のひらから伝わってきた。驚いて紫穂ちゃんの顔を覗き込むと、今にも零れ落ちそうな大粒の涙があっという間に頬を伝ってぽたぽたと床にシミを作っていく。

「え? 紫穂ちゃん? どこか痛むのか? まだ辛いなら寝てていいんだぞ?」

透視まなくても透視できてしまった拒絶に怖じ気づいて行き場を無くした手を中途半端な位置で固定したまま紫穂ちゃんに問い掛け続けていると、紫穂ちゃんははらはらと涙を零しながら震える唇を動かしてじっと俺を睨みつけた。

「うそつき」
「……は?」
「私と結婚してくれるんじゃなかったの? 全部嘘だったの?」

ひどい、と小さく呟く紫穂ちゃんは至って真剣な様子だけれど、言われたこっちはちょっと混乱しつつあった。
俺、自分が知らないうちに紫穂ちゃんにプロポーズしてたのか? 全く記憶にないんだが。
え? 何の話? と問い返すことも許されない空気にどうしたものかと惑っていると、紫穂ちゃんは泣き顔をさらにくしゃくしゃにして子どもみたいに泣きじゃくり始めた。

「私が最近修二の彼女を頑張れてないから? もう私に飽きちゃった? やっぱり五年も付き合ってたらもう要らない? 他の若くて可愛い女の子の方がよくなったの?」

それとも私じゃ物足りなかった? と問い掛けてくる紫穂ちゃんは堪えきれなくなったのか、涙で濡れた顔を隠すように手のひらで覆ってしまう。極限まで疲労した紫穂ちゃんの身体はすぐに悲鳴を上げた。呼吸を乱しながらぐらついて、紫穂ちゃんはその場に倒れ込みそうになる。慌ててそれを抱えるように抱き上げてそのままソファに腰掛けた。ぐったりした紫穂ちゃんの身体を膝に抱えつつ、少しでも呼吸が整うようにと背中をゆっくり撫で上げる。

「急にどうした? 何か夢見でも悪かったのか?」

できるだけ自分の記憶にないプロポーズには触れないようにして問い掛けると、紫穂ちゃんは顔を覆っていた手のひらを少しだけ浮かせて俺の顔をじっと見つめた。

「だ……だって……ぷろぽーず、むりって」

言ってたぁ、とまたわんわん泣き始めてしまった紫穂ちゃんをヨシヨシと頭やら背中やら腕やらをとにかく撫で回して慰める。
そう言えばさっき皆本と話していたときにそんなことを言ったけれど、紫穂ちゃんはそこだけピンポイントで耳にしたらしい。
あの無理は『俺からのプロポーズは受けてもらえない可能性がある』の無理であって、決してプロポーズを断るという意味での無理ではない。
っていうかそもそも、俺、紫穂ちゃんからプロポーズされたっけ?
そんな嬉しい展開を忘れるなんて有り得ないけれど、どんなに頭のなかをひっくり返しても全く記憶にないからどうしようもない。

「あー……えーっと……紫穂ちゃん、あのさ? 俺、申し訳ないんだけど記憶になくて……プロポーズ、いつ、してくれたっけ……?」

場の空気が凍る覚悟で恐る恐る尋ねると、紫穂ちゃんはグスグスと鼻を鳴らしながらもキッと俺を睨み上げた。

「毎日わたしにお味噌汁作ってくれるって言った」
「え……あー……え? アレってそういう意味だったの?」

それってどっちかというと男側の台詞なんじゃ? と思いつつ、アレは紫穂ちゃんなりの可愛いプロポーズだったんだなと朧気な記憶を噛み締める。そんな俺の様子に何かを勘違いしたのか、紫穂ちゃんはまたわんわんと泣き始めてポカポカと力の抜けた腕で俺を殴り始めた。

「ヤダ! 別れない! 絶対別れない! 別れるんだったら先生を殺して私も死ぬッ!」
「エッ! や、あの、刀傷沙汰はマズイって」

いつもの本気のパンチからはかけ離れた弱々しいパンチを受け止めつつ、ぐしょぐしょになった目許を優しく親指で拭って紫穂ちゃんの身体を抱き締める。抵抗する力も残っていないのか、大人しく抱き締められながら紫穂ちゃんはべそべそという言葉の通りに泣き続けた。
昔、皆本といろいろあってワンワン泣き叫んで大騒動になったのを思い出して思わず口元を緩めると、笑うなぁ、とまた弱々のパンチが飛んでくるのが可愛い。

「別れないし、君からのプロポーズを断ったりもしないよ。何て言うか、子どもの頃に泣いてたの思い出すなぁと思って」
「……子どもっぽいって言いたいんでしょ」
「そうじゃなくて……あの頃は皆本以外にそんな顔見せなかったのになぁ、と思っただけだよ」

本当に皆本とチルドレンの絆は絶対的で、微笑ましい気持ちで見守ってはいたけれど、実はこっそり嫉妬したりしたこともある。絶対誰にも言わないし一生秘密だけれども。
今回はそんな姿を俺に晒してしまうほど弱り切ってしまっていたんだろう。しっかり労らなきゃな、と気持ちを改めていると唇を引き結んで涙を堪えている紫穂ちゃんが、思い詰めたように眉を寄せて口を開いた。

「皆本さんは……良い意味でも悪い意味でも、私たち三人を平等に愛してくれたわ。でも先生はそうじゃないでしょ。ずっと私だけ特別扱いして、私にだけ真正面からぶつかってきてくれた。だから私は、三人分の愛情が籠もってる皆本さんのお味噌汁より、私のことだけ考えて作ってくれる先生のお味噌汁が好き。ずっとずっとそうなの。先生はそうじゃないかもしれないけど、私はずっと先生が好き」

だから別れるなんて言わないで、と言い終えた紫穂ちゃんは再びぼろぼろと涙をこぼして俺の胸に縋った。

「もう結婚したいなんて我が儘言わない。ずっと側にいられるだけでいい。浮気したって我慢する。だからお願い、私の恋人でいてください」

服の胸元が紫穂ちゃんの涙でどんどん濡れていくのがわかる。切実に訴えかける紫穂ちゃんの想いで胸が苦しい。紫穂ちゃんの身体をギュッと抱き締めてから、顔を覗き込むようにして向き直った。

「聞いて、紫穂ちゃん」

じっと紫穂ちゃんの潤んだ目を見つめながら、深呼吸をして息を整える。

「俺、今回、本当に何にも知らなくて、何にも聞かせてもらえなくて、キツかったし、辛かった。でもそれ以上に紫穂ちゃんが俺のために頑張ってくれてたって知って、自分がすげー情けなかった」

力になれなかったどころか、一方的に守られるばかりで紫穂ちゃんを支えることすらできていなかった。紫穂ちゃんを信じて待つこともできない俺が本当に紫穂ちゃんの人生を背負えるのかと自信も失ってしまう始末で、まだまだ未熟だと痛感させられた。

「今回のことがあって、俺は本当に、君は間島のところへ行っちゃうのかもって思ってたから……振られるのは俺の方だって本気で思ってたんだぞ」

ばかみたいだろ、と苦笑いをこぼすと、紫穂ちゃんはそんなの有り得ないと言いたげな苦い顔を浮かべて俯いてしまう。そんな紫穂ちゃんをもう一度ゆるく抱き締めて少しだけ覗いた額に口付けを落とす。

「俺のことを守るために、何も話さないっていう選択をしたのかもしれない。でも、これからは俺を信じて、何でも全部話してほしい。君から見たら、俺はずっと頼りない男なのかもしんないけど、紫穂ちゃんに信頼してもらえるよう、俺も頑張るからさ」

これから先どんなに頑張ったって、紫穂ちゃんには一生負けっぱなしなんだろうなぁと思いつつ、落ち着いてきた紫穂ちゃんの背中を改めて撫でていると、紫穂ちゃんは思い詰めたようにキュッと眉を寄せて俺の背中に腕を回した。

「修二のこと、信頼してる。疑ってたわけじゃないの。ただ、アイツは……アイツは本当にヤバい奴だから」
「……確かにな……ヤバい奴なのは今日のたった数時間でよくわかった」

今日起きたゾッとするような出来事を思い出して身震いする。巡り合わせが悪ければ、未遂で終わった今回の件も事件に発展していたかもしれない。

「……間島はね、最初、私に言い寄ってきたのよ。大学生のとき、それこそ出会ったときから私を狙ってるっていう態度を崩さなかった。興味無かったし、相手にしてなかったんだけど、あんまりにもしつこいからちょっと調べたのよね。そしたら本当の目的は私を介して修二に近付くことなんだってわかったの」
「えっ……大学生の頃の話、だよな?」
「えぇそうよ。高校生の頃から医大に進むことは決めてたらしいけど、高校生のときにたまたま見かけた修二の論文と写真で一目惚れしたらしいわ。何度聞いても気持ち悪いわよね」

昔俺に向けていた虫の死骸を見る目付きよりも更に酷い、蛆虫でも見るような顔をして告げた紫穂ちゃんは、間島を思い出してウンザリしたのか、はぁぁ、と深く重い溜め息を吐いて続けた。

「それからは……どうすれば修二に近付けるかだけを考えて生きてきたそうよ。それこそ、私とお近づきになれば修二に会えるって調べ上げるくらいにね」
「……恐ろしいな……まず何より表に出てないはずの俺と紫穂の繋がりに気付くってのがマジで恐ろしいわ」

自分の知らないところで這い寄っていた気配にぶるりと身体を震わせる。公には繋がっていないはずの紫穂ちゃんと俺の関係性を見抜くあたり、間島は相当頭のキレる奴なんだろう。その頭の良さを是非とも良い方向へ向けてほしいところだ。

「つーか、その頃俺たちまだ付き合ってなかったじゃん? もし間島のアタックが成功してたら、お付き合いしてたり」
「世界が崩壊してアイツと二人きりになったとしても有り得ないわね」

ギロリ、と人を殺せる目付きで告げた紫穂ちゃんは、マジで有り得ないわ、と繰り返し口にする。それから、ふぅ、と溜め息を吐いて俺の胸に擦り寄った。

「……言ったでしょ。私はずっと先生だけだったの。好きでもない人と付き合うなんて、私にはできないわ」

意外と潔癖なの、とツンとした顔で言う紫穂ちゃんを抱き締める。
潔癖なのは知ってたし、潔癖な君が俺みたいな男と付き合ってくれたこと自体が奇跡だし、間島みたいな男に引っ掛からなくて済んだ潔癖なところにめちゃくちゃ感謝なんだよなと胸の内で何となく皆本に拝んだ。

「……俺さ、君のコトずっと天敵だと思ってたんだけど、君は違ったんだな」

子どもの頃は本当に俺にばっかり突っかかってくるイヤな奴だと思っていたけれど、実のところそれは違うと頭の片隅ではわかっていた。
まるで自分の写し鏡のような存在で、なのに自分にないものに恵まれて、きっと自分のようにはならない存在。
俺がもっと大人になれていたら、もっとうまく導いてやれたのかもしれないともどかしい思いを抱えなかったわけじゃない。ムキになって向き合っていたのは、本当に自分がまだまだ若くて未熟だったんだと今なら思う。でも、あの頃の俺たちだったから、今の俺たちに繋がるわけで、紫穂ちゃん無しの人生がもう考えられない俺はこれでよかったんだとも思った。
自分にとって紫穂ちゃんが天敵だと思っていたように紫穂ちゃんもそうだと勝手に決め付けていたけれど、紫穂ちゃんにとってそうじゃないと知ったとき、正直この世の終わりかと思うくらい落ち込んだ。実際はそれよりもっと紫穂ちゃんの心の奥深くに存在できていたと知って、とてつもない自信を自分に与えてくれた。

「……先生が私のこと、良く思ってないのは知ってたわ。でも……私は先生のことを敵だなんて思ったことないのよ」

俺に抱きつきながらそう答える紫穂ちゃんに、胸がきゅうと苦しくなる。衝動のまま抱き締め返すと、苦しい、と言いながらも嬉しそうな表情を浮かべて紫穂ちゃんは俺を見上げた。可愛い仕草に堪らず真っ白な頬へ口付ける。素直に受け入れてくれるだけじゃなく、お返しに俺の頬にキスをくれたことが嬉しくて、紫穂ちゃんの目を覗き込んで唇同士のキスを強請る。ほんのりと目許を赤らめて応えてくれた紫穂ちゃんに、軽く触れるだけの口付けをして額を擦り合わせる。

「……間島は紫穂ちゃんにとって恋敵だった、ってことだ」
「……認めたくはないけれど、そういうことになるわね。でも私、アイツに負けたことないわ」
「……へぇ?」
「最後はちょっと力尽きちゃったけど、先生のこと、守りきったもの」

ぎゅう、と俺を抱き締める腕に力を込めて、紫穂ちゃんは満足そうに微笑んだ。

「私の修二に近付こうなんて五百年早いのよ。アイツの悪巧み、全部潰してやったわ」

なんて事ないように紫穂ちゃんは言っているけれど、今回の一件の顛末から想像するに紫穂ちゃんはこれまで俺を守るために幾度も気を回してきたんだろう。付き合ってない頃からそうして苦労してくれていたんだと思うと、今こうして二人で居られるのは本当に紫穂ちゃんのおかげのような気がした。
すりすりと擦り寄って甘えてくる紫穂ちゃんの好きにさせていると、ほんの少しだけ眉を寄せた紫穂ちゃんが、でも、と呟いた。

「……藍田先生にだけじゃなくて、修二にもちゃんと全部話しておけばよかった」

紫穂ちゃんの珍しく弱気な発言に驚いて動揺してしまう。すると紫穂ちゃんは、ぷくりと頬を膨らませて唇を尖らせた。

「だって……まさか浮気を疑われるなんて思わなかったわ。しかも相手がアイツだなんて」

ホント最悪、と呟く紫穂ちゃんは拗ねた顔でドンと俺の胸板に軽く頭突きを噛ました。弱っているせいでそれほどの衝撃はないけれど、充分な怒りは伝わってきて思わず苦笑いを浮かべた。

「次からは全部話してくれ。俺もうホント嫉妬でどうにかなりそうだったんだからな」

ぐりぐりと額を押し付けて甘えてくる紫穂ちゃんを抱き締めて、本当にキツかった、と改めて溜め息と共に吐き出す。
紫穂ちゃんだけでなく、他のスタッフも心配していたように、もし、最初から全て聞かされて事態を把握していたとしたら多分俺が前に出て解決しようとしていたと思う。でも、俺だって馬鹿じゃないから、一人で対応するとマズいとわかれば周囲と協力して対応しただろうし、前に出ないなりの対処法をスタッフたちと考えるくらいしたハズだ――もう全部終わってしまったと言ってもいい状況なので、今更悔やんでも仕方がないが。
それでもやっぱり、もうちょっと信用してほしかったなぁ、と悶々としているのが透視で伝わったのか、紫穂ちゃんは再び信用してなかったわけじゃないもの、と申し訳なさそうな顔をした。もういい、済んだことだよ、と甘やかすようにキスを送れば、くすぐったそうにそれを受け止めて、紫穂ちゃんは俺の頬に手を添えて俺の目を覗き込んだ。

「……ねぇ」
「なに? どうした?」
「今年は……お誕生日、お祝いしてくれないの?」
「……アイツと祝うのかもなぁ、って思ってたからなぁ」
「そんなわけないじゃない」

本気で疑ってたのね、と悲しそうな顔をする紫穂ちゃんに、もう一度キスをしてから紫穂ちゃんの身体を抱き締める。そして膝の上から紫穂ちゃんを降ろしてここで待っているように伝えてから書斎へ向かった。デスクの引き出しに大切にしまい込んだリングケースを取り出して深呼吸をする。
うまくいくかもしれないし、断られるかもしれない。
でももう下準備だとか誕生日じゃないとか関係なかった。
きっと今がそのタイミング。
ヨシ、と気合いを入れ直してリビングへ戻る。隠すこともせず持ってきたプレゼントを紫穂ちゃんの前に差し出して、その場へ傅いた。

「俺と結婚してよ、紫穂ちゃん」

俺の行動をじっと見守っていた紫穂ちゃんは、俺の言葉を聞いた途端に普段見せないようなポカンとした表情を浮かべて首を振る。

「嘘。先生がそんなこと言ってくれるわけがない。これはきっと夢なんだわ」

そうよ、夢よ、と言いながらウンウンと頷き始めた紫穂ちゃんに、わなわなと手が震えて思わず叫んだ。

「はぁぁッ!? なんでこんな状況で嘘吐く必要があるんだよ!」
「だって……修二が、先生が誰かひとりのものになるなんて、有り得ないもの」

くしゃりと顔を歪めて、紫穂ちゃんは小さな声で呟く。それが、過去の自分の行いのせいで発せられた言葉だとわかるから、紫穂ちゃんを責めることもできず、息を呑むしかなかった。紫穂ちゃんの目に俺がどう映っていたのかをひしひしと実感してしまって頭を抱えたくなるけれど、俺は俺なりに、紫穂ちゃんに向き合ってきたつもりがあった。

「……五年掛けて、俺は君に誠意と本気を見せてきたつもりだったんだけど。まだ足りなかったか?」

こんなにも夢中になって、たったひとりの女の子を追いかけ続けたことなんて過去にないんだ。
俺がそんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけれど、俺にはもう紫穂ちゃんだけで充分だった。

「もう一回言う。三宮紫穂さん、俺と結婚してください。指輪が気に入らないって言うなら、次の休みに買いに行こう。二人で」

二度目のプロポーズは声が震えて一度目よりもかなり格好悪かった。でも、かっこ悪いところも全部紫穂ちゃんになら見せられるから、ずっとこの子と一緒にいたいと思えたんだ。一回りも年上なのに、いつまでも格好がつかないなんて笑ってしまうけれど、これからも一生負け続ける紫穂ちゃんのことを抱き締めて支えられるのは俺だけだと今なら確信を持って言える。もうどんな奴が現れたって、この場所を他の誰かに譲るなんて有り得なかった。
くしゃくしゃに歪めた目尻にじわりと涙を溜めて、紫穂ちゃんは恐る恐る俺の手からリングケースを受け取る。

「やだ。これがいい。これじゃなきゃヤダ」

ぎゅう、とリングケースを胸に抱き締めて、紫穂ちゃんは止まっていた涙を再び流し始めた。それを優しく抱き寄せながら、よしよしと背中を撫でる。

「誕生日プレゼントはちゃんと別で用意しようと思ってたんだけど……ちょっとバタバタしたりいろいろあったから、まだ準備できてねぇんだ。もし良かったら今度の休みに一緒に買いに行くなんてどうだ?」

久々にデートしようぜ、と笑えば、紫穂ちゃんは一瞬考え込んで、おもむろにソファから立ち上がった。俺の腕からスルリと抜け出した紫穂ちゃんは明確な意志を持って自分のカバンへと向かって歩いていく。
え、ひょっとしてこの状況で帰るの?
嘘だろ、と紫穂ちゃんの様子を見守っていると、紫穂ちゃんはカバンのなかから何かを取り出して、バッと俺の前に突き出した。

「……それなら、これがいいわ」
「はへ?」
「誕生日プレゼント。これがいい」
「ちょ、ちょっと待て。これって」
「名前を書くだけでいいわ。まさかボールペンがないなんて言わないわよね?」
「いや、そうじゃなくて」
「何かご不満? 私が私の誕生日プレゼントを準備したんだから感謝してほしいくらいだわ」

そう言って紫穂ちゃんは不貞腐れたような表情で紙を俺に押し付けてくる。
俺が知っている茶色ではなく、多分よくある結婚雑誌の付録であろうピンク色を纏った婚姻届には既に紫穂ちゃんのご両親の署名が証人欄に記載されていた。

「……いつの間にこんなの用意して……っていうかこういうのはちゃんと二人で挨拶してから書いてもらうモンじゃねぇの……?」

実際の署名を見たことは数えるほどで記憶が確かならばこれは間違いなく紫穂ちゃんのご両親が書いたものだ。まぁ、自分の朧げな記憶を頼りにしなくても、透視をしてしまえばすぐにそれは本物だとわかってしまうのがこの能力の悲しいところでもある。
ニュースでご当地婚姻届の特集は見たことがあったけれど、今ドキの婚姻届はこんなにファンシーなんだなと変なところに感心しつつ、ほぼ全ての空欄が埋められたソレを見つめた。本当にあとは俺が署名をして判をつけばいいだけという用意周到さに舌を巻いていると、紫穂ちゃんは顔を真っ赤にして服の裾を掴みながら答えた。

「こっ……今年の誕生日で、付き合ってもう五年になるしっ……そろそろ真面目に結婚を考えてくれてもいいんじゃないのって、脅すつもりだったのよっ」

いや脅すなよ、と思わずツッコミそうになったけれど、過去の俺の行いのせいで不安にさせてたんだから仕方がないか、とニヤける顔に力を入れて誤魔化しつつボールペンを取りに立ち上がった。書斎から使い慣れたボールペンと革の下敷きを持ってきて、リビングのサイドテーブルに婚姻届と下敷きを広げる。繰り出し式のペン先を出して、さて署名しようとしたところで慌てた顔をした紫穂ちゃんが俺の手首を掴んだ。

「え、なに」
「な、なにじゃないわよ! 書いちゃうの?!」
「え? 書くんじゃないのか?」
「はぁッ? ちょ、ちょっとは抵抗しなさいよ!」
「なんで? 俺と結婚してくれるんじゃないの?」
「えっ……け、けっこん、する、けど」
「じゃあ書かなきゃダメじゃん」
「……そ、そう、なんだけど。でも、だって」
「まだ書かない方がいいか? それともやっぱり俺と結婚するのは嫌か?」

じっと紫穂ちゃんの目を見つめながら問い掛けると、そんな聞き方ずるい、と紫穂ちゃんは眉毛を八の字にして頬を膨らませた。

「……嫌じゃないわよ。先生こそ、書いちゃったら、やっぱりやめた! なんて言わせないんだから」
「言わねぇよ。言うわけねぇだろ。やっと君と結婚できるってこっちは浮かれまくりなんだぞ。君こそ、やっぱりやめた! なんて言わせないからな」

ニッと笑って紫穂ちゃんの頬に口付けてから、テキパキと署名欄だけが残された書類を埋めてしまう。あぁもう、今すぐ提出しに役所へ駆け込みてぇなぁ、という気持ちを宥めつつ、まじまじと完成した婚姻届を眺めた。

「君の体調が回復したら、すぐにご両親のところへご挨拶へ伺いたいんだけど……俺、ひょっとして結婚を決めるのが遅い! とかお前に娘はやらん! とかキレられたりすんのかな?」

手にした婚姻届を丁寧に三つ折りにしてから紫穂ちゃんに手渡すと、紫穂ちゃんはそれを複雑な顔で受け取りながら答えた。

「……パパも、ママも、歓迎はしてくれてる、と思う。多分だけれど」
「……多分、かぁ」

実を言うと、紫穂ちゃんのいないところでご両親にはチクチクと嫌味を言われていたし、その度に歳も離れているから紫穂ちゃんがもう少し医者として落ち着けるようになるまで見守りたいと正直にお話させていただいていた。決して考えていないわけじゃないし、自分としては責任を持つつもりでいるけれど、彼女はまだ社会に出たばかりで今後どう生きていくのかわからないからと説明する俺に、ご両親も一定の理解は示してくださっていたので、ちゃぶ台返しの展開よりもむしろやっと安心させてあげられるのかもしれない。

「あ、そうだ。しばらく君のコト、俺の家で面倒見るからな。俺がオーケーって言うまで家には帰さないぞ」

紫穂ちゃんのご両親にご挨拶する前にまずは紫穂ちゃんが元気にならなくてはならない。その話はまた後日、とばかりに話題を変えると、紫穂ちゃんは一瞬だけ驚いたように目を見開いてからツンといつもの澄まし顔でそっぽを向いてしまう。

「子ども扱いしないで」
「子ども扱いじゃねぇよ。君のことが大事だから言ってんだ」
「じゃあこのまま居座っちゃおうかしら」
「え」
「……うそ、ごめんなさい。冗談よ」

紫穂ちゃんは自分の発言をなかったことのように誤魔化して笑っている。その切り替えの早さについていけないのと、うまくいけば紫穂ちゃんと同棲状態に持っていけたかもしれなかったのに冗談だと片付けられてしまったことが自分でも驚くくらいにショックで落ち込んでしまう。

「えっと……あー……冗談、なのか」

何とかへらりと笑って泣きそうな気分を誤魔化していると、紫穂ちゃんはほんの少し頬を赤らめて目を逸らした。

「だって……ずっと一緒にいたいなんて、重いでしょ? 修二はそういうの苦手だろうから」

いつまでも自由でいたいんじゃないの? と拗ねたように告げる紫穂ちゃんは写真に残して記憶しておきたいくらいに可愛い。抱き締めてしまうのも勿体ないくらい可愛い紫穂ちゃんの顔をずっと見ていたくて、じっと見つめながら紫穂ちゃんの手を取った。

「そんなことねぇよ。俺はずっと住んでくれたって構わないんだぞ。俺だって君に重たいとか鬱陶しいとか思われたくなくて、同棲したいってずっと言い出せなかった」
「……ホント?」
「昔の俺は彼女の私物を部屋に置くこと自体嫌だったんだ。でも君のモノは自分から揃えてただろ? そんなことするの、あとにも先にも君だけだって。本当はこのまま一緒に住んでくれないかなってずっと思ってた」

言いながら、自分はとんでもないことを紫穂ちゃんに告白しているなと気付いて顔が赤くなっていくのがわかる。でも事実だからしょうがないと開き直って赤い顔を紫穂ちゃんに曝した。紫穂ちゃんは紫穂ちゃんで、とんでもないことを告白されていると気付いたのか、わたしも、と小さな声で話し始めた。

「わ、わたしも、修二の荷物が増えていくのが嬉しくて、お揃いのものを買ったりとか、すごく大事にしてて……時々、元気がないときとか、こっそり透視したりして、あぁ、私はちゃんと修二の彼女なんだなって、本当に励まされてて……でも、そんなのきっと重いだろうなって、誰にも言えなかったの」

それくらい、ずっと修二のことが好きだったのよ、と告げた紫穂ちゃんは白くて細い首まで真っ赤に染め上げていた。あまりの可愛さにあぁもう我慢出来ないと紫穂ちゃんを自分の腕のなかへ閉じ込める。

「愛が重くて最高じゃん!」

一緒に育ててきた愛は、すくすくと成長して心地良い重さになっていたみたいだ。

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