『今日は連れていってくれるの?』
「ああ、しほがいるのといないのとじゃ、全然違うから」
『どういうこと?』
「しほがいると、皆本ともちゃんと話せる気がするんだ」
久し振りに見た、先生の優しい笑顔。
きっと人の姿をしていたら、顔が真っ赤になっていたに違いない。
今だけは猫で良かったと思う。
『センセイにとって、私は必要?』
「あぁ、心強い味方だぜ」
思わず、ふいっと顔を背ける。
――嬉しい。
嬉しくて、舞い上がりそうだ。
この瞬間だけは、私は、紫穂に勝っているのではないだろうか。
恐らく、遠く離れたところにいる彼女に敵対心を燃やしたって、全く意味がないとわかってはいるけれど、恋敵に一瞬でも勝てるのは、やはり嬉しい。
例え、この勝負が既に負けているとわかっていても。
「…今日は連れてきたのか」
「ああ、しほもたまには気分転換させてやんねぇと」
そう言って先生は私の籠をデスクに置いた。
すると、すぐにドロシーと呼ばれた子が寄ってくる。
「賢木、今日こそはしほに触れるか?」
「ん一、しほの機嫌次第かな?」
今までのように無遠慮に手を延ばしてくることのなくなったドロシーに、少しだけホッとする。
その代わり、今日は珍しく皆本さんが私に近付いてきた。そのとても冷たい表情に、背筋がヒヤリとして後ずさる。
「賢木、本当にこの仔猫は何もないんだろうな?」
「だぁかぁらぁ、マジで何もないって!俺をちったぁ信用しろよ!」
先生は軽い調子で言っているけれど、本当はすごく傷付いている。
先生の側にいるから、それがとてもよくわかって。
――毎日こんな調子で皆本さんと一緒に居たのね。
帰ってきた時のあの暗い表情に納得がいって、胸が苦しくなった。
「何度も言ってるはずだ、君はスパイなんだぞ。賢木」
「スパイっつったって、外部との通信も遮断されてる。ほぼ幽閉状態。これじゃスパイ活動のしようがねぇって俺も言ってる。」
「どうだかな…例えば」
皆本さんは身を固くしている私をそっと抱き上げて、背中を撫でた。
「しほを使って、外部と連絡を取っている、とか」
「はぁ?しほを疑ってんの?まだほんの仔猫じゃんか」
「でも、サイコメトリーが使えるんだろ?人間との意志疎通は可能だ」
「確かにそうだけど…そこまでして得られるメリットの方が少ねぇよ」
先生は呆れたような表情でこちらを見ている。
皆本さんの手付きは優しいけれど、知っているはずの手とは違う、硬くて冷たいものだった。
「じゃあ、この子は殺しても問題ないな?」
部屋の空気が、一気に冷たくなって、全身に緊張が走る。
「は?お前何言って」
「問題ないはずだろう?何でもないのなら」
「ッ!」
先生の表情が、一気に険しいものになる。
私を撫でる皆本さんの手は、一切の変化がない。
先生は、前髪をくしゃりと掻き乱して、ふう、と息をかぃた。
「皆本、お前、そんな…兵部みたいな発想で動いてんのか?」
「…僕は兵部より手を汚してでも、世界を守ると決めたんだ。」
皆本さんが、私を撫でる手を止める。
ゆっくりと籠に私を戻してから、もう一度私の頭を撫でる。
その目は、暗くて、でも、揺らがない決意が宿っていて。上手く言えないけれど、もう後戻りできないところまで来ているのだ、と悟った。
それは先生も同じようで、ビックリしたような、信じられないとでもいうような、それでいて、まだ皆本さんのことを信じていたいという複雑な表情で皆本さんを見つめている。
「…お前、本気で薫ちやんと殺り合うつもりなのか?」
「必要となればそうするさ。僕の側につくというのなら、お前もだぞ。賢木」
「…何が言いたい?」
「紫穂と対峙したとき、お前は紫穂を殺れるのか?」
「え?」
「仔猫に紫穂の名前まで付けて、未練を捨てきれないのはお前なんじゃないのか?賢木」
睨み合いになった二人の空気は険悪そのもので。
ドロシーも、私も、一切口を挟むことが出来ないような状況だ。
こんなにも、空気の悪いなかで先生は戦っていたのか。
その事実に心が痛む。
ここまで頑なになってしまった皆本さんの心を解すのは、並大抵のことじゃないかもしれない。
皆本さんにとっても大きな存在であるはずの賢木先生のことも信用してないんじゃ、これ以上状況を良くするのも難しい。
――こんな状態で、先生の危機を回避なんてできるの?
冷や汗が背中を伝うような感覚に、ぞわりと背中が逆立つ。
「とにかく、邪魔になるなら、消すしかない。それがここでの道理だ」
「…皆本、お前ッ!そうなる未来を回避する為に、お前は動いてるんじゃねぇのかよ!」
先生が、険しい、痛々しい表情で、叫んだ。
それに対して、皆本さんは微動だにせず、先生を見ている。ふう、と一息ついて、すっと背中を向けてドロシーの肩に手を置いて引き寄せた。
その背中は、もう何も言わせない気配を伴っていて。
「賢木、本当に何もないっていうのなら、しほにあまり情を移すなよ。」
「…こんな罪のない仔猫までどうこうしようっていうのかよ」
「罪があるかどうかは僕が決める。それだけだ」
皆本さんのその言葉に、先生がぎりりと奥歯を噛む。
「しほは、俺の猫だから。俺が責任持つ」
皆本さんから奪うように、先生は籠ごと私を抱き締める。
この、殺伐とした空気に、私の勘が警告を鳴らしていて。
――これは、危ない。危険な状況だわ。
明日にも、予知が起こってしまうかもしれない。
明日こそ、先生の側に居なくては。
「なら、わかってるな。始末すべき時には始末するんだぞ」
「…」
「僕の側に居たいんだったら、それくらいやってもらわないとな」
行こう、ドロシー、と皆本さんがドロシーを伴って部屋から出ていく。
先生は俯いていて表情がわからないけれど、身体を堅くしたままで。
『…センセイ』
「…大丈夫、大丈夫だよ。しほ」
顔を上げて、ぎゅっと眉を寄せたまま笑ってみせた先生が、痛々しかった。
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