芽生え

「うーん……ここは、こう? だから……えっと、こう? かな?」
首を傾げながら、指で丁寧に文字の羅列を辿っていく。
それに合わせてノートにペンを走らせると、見知ったようで何処となく違和感のある文章が出来上がった。
「……あれー? やっぱり違うなぁ」
出来上がった文章をもう一度整理して、更に整えていくと、ようやく自分でもわかる文章が成立した。
「できた! これで、合ってる……?」
何度も書き直したノートの一ページを顔の前に掲げる。
改めて黙読して、ちゃんと意味が通ることにホッとした。
「……おい。ブツブツうるせぇ」
よく知った声が聞こえて慌てて振り向くと、眉を寄せたレオナ先輩が書架の間を縫って私が陣取っている場所へ近付いてきた。
「すみません。うるさかったですか?」
一旦ペンを置いて、私の横に立ったレオナ先輩を見つめる。
「うるせぇも何も……ここは図書室だ。勉強するなら静かにしろ」
「う……確かに……独り言がうるさくてすみません……」
当たり前の指摘をされてしまい、ひそひそと声を潜めて謝罪すると、レオナ先輩は表情だけで『わかったならいい』と返事してくれた。それにもう一度頭を下げてから、首を傾げてレオナ先輩に声を掛ける。
「レオナ先輩は……お昼寝ですか?」
私の問い掛けに、耳をピルッと動かしたレオナ先輩は、くあ、と大きな欠伸をしてからフンと鼻で笑った。
「あぁ……この時間帯は、日当たりが丁度いいんだ」
そう言って、レオナ先輩は指定席になっている出窓に近付いて外を覗き込んだ。確かに、木漏れ日が丁度良い感じに窓辺へ差し込んでいてあたたかそうだ。お昼寝大好きなレオナ先輩がここを選んだ理由がよくわかる。
「……で?」
「ふぇ?」
「どうしてお前はここに居る」
じ、とこちらを振り返って見つめてくるレオナ先輩の真意を探る。
多分、誰も寄り付かない自分の縄張りに私が足を踏み入れたことについて言及されているんだろう。怒られるのかな、と思いつつ、眉を下げて笑った。
「……ここはレオナ先輩のお昼寝場所だから、誰にも勉強の邪魔をされないと思って。勝手に場所をお借りしました。問題でしたか?」
誰も来ないし、レオナ先輩もいないからいいかな、と思っていたけれど、先輩は私と違って気配にも敏感だし、たとえ自分がお昼寝するときにその場に誰かがいなくても、残っている気配が気になるのかもしれない。
ここ、結構お気に入りの勉強場所だったんだけれどな、と先輩の様子を窺っていると、レオナ先輩は表情を変えないままスタスタと私のところまで戻ってきた。
「……いや」
一瞬だけ考える間を取ったレオナ先輩は、小さく呟いて私の左隣に座った。
「……別にいい。お前なら俺の縄張りを荒らしたりしない」
そうしてもう一度大きな欠伸をしたレオナ先輩は、眠そうにパシパシと瞬きを繰り返した。
眠いのならいつも通り窓辺でお昼寝すればいいのに。
眠気を誤魔化すようにぴるぴると耳を動かしているレオナ先輩に、思わずクスリと笑みを溢しつつ、ペンを手にとって筆記を再開した。
ノートにペンを走らせる音だけが静かな図書室に響く。
声に出さないよう書いた文章を指で辿っていると、今まで興味なさそうにぼんやりしていたレオナ先輩が私のノートを覗き込んだ。
「……おい」
「はい、何でしょう」
「文法がめちゃくちゃだぞ」
「……あー」
険しい顔をしてレオナ先輩は私が書いた文章をトンと指で指し示している。
誰も来ないここで勉強していたのは誰にも見られないようにするためなのに、レオナ先輩に見られちゃうとやっぱり不味かったかな。
でもレオナ先輩は周りに言い触らしたりしないだろうし、むしろ秘密にしておく代わりにパシリに使われそう。
それなら変に隠してしまうより、大人しく秘密を喋ってしまう方が得策に思えた。
「えっと……この世界だと、確かにこれは間違った文法になるのかもしれないんですけど。私から見るとこれで合ってるんです」
周囲に聞き耳を立てている人はいないだろうけれど、できるだけひそひそと声を潜めてレオナ先輩に伝える。
自分でも聞き取りづらいくらいの音量だけれど、レオナ先輩は耳がいいおかげで、聞き漏らさずに済んだらしい。
驚いたようにほんの少し目を見開いて、もう一度ノートの文章を確かめてから眉を寄せた。
「……は? どういうことだ、説明しろ」
「実はその……これは私の世界の言葉なんです。こちらの世界と、単語の綴りは同じみたいなんですけど、どうも文法が違うんですよね」
「へぇ……ちょっと見せてみろ」
レオナ先輩は横から身を乗り出してノートを覗き込んでくる。
開いていた文献とノートをレオナ先輩から見やすい位置に動かして二人で本とノートを見比べた。
「……文法が反転してるのか」
「はい。私も完全に理解できている訳じゃないので、多分なんですけど。最近少しだけ規則性がわかってきたかなぁ、ってくらいで」
一度見ただけでわかるなんて、レオナ先輩はやっぱり頭がいいんだなぁ、と感心してしまう。
「これは……『魔法は完全無欠ではなく、また、全知全能の神でもない』……で合ってますか? それを私の国の言葉に書き換えてみたんです」
該当する文章を指で辿ってレオナ先輩を見上げると、レオナ先輩は興味深そうにノートの文字を指でなぞった。
じっと考え込むように本とノートを見比べて、レオナ先輩は、へぇ、と溢して笑う。
「……急にそんなこと言われても困りますよね。レオナ先輩は私の国の言葉を聞いたことも見たこともないんだからわかるわけないし」
やっぱりレオナ先輩に話したのは失敗だったかなぁ、と眉を下げると、レオナ先輩は口角を持ち上げたまま、魔法学大系の一節だな、と呟いた。
「いや、興味深い。それにラギーより全然マシだ。アイツの場合、綴りがめちゃくちゃで何書いてるのかサッパリだった」
「マシ、ってことは……レオナ先輩は私が書いた文章を読み解けるんですか?」
「文法が違っても単語の意味が同じなら大体の意味はわかる。この一文だけじゃ規則性を正確に言い当てるのは難しいが……おそらくこことここが捻れるんじゃねぇか?」
そう言ってレオナ先輩は私が書いた文章の下にサラサラと元の文章を書いていく。そして単語を丸で囲って矢印を使い法則性を示してみせた。
「す、すごい……私がここに辿り着くまで、二ヶ月も掛かったのに……」
「別に……この程度大したことねぇよ。それに、お前の場合、この文献が悪い。自分で選んだのか?」
「いえ……今日の本はトレイン先生のおすすめです」
「あのジジイ……調子に乗りやがって、おそらくこの本はお前にはまだ早い」
「えっ……そ、それは……私じゃこの学校の学力についていけない、ってことですか……?」
「そうじゃねぇ……ハァ……面倒くせぇ、ちょっとついてこい」
うんざりとした表情で溜め息を吐いたレオナ先輩は、だりぃ、と溢しながらもさっさと立ち上がって書架の間を抜けていこうとする。慌ててそれを追いかけると、普段私が近寄らない書棚の前まで来て、迷い無く一冊の本を抜き取った。
「この世界の言葉を知りたいならこの本を読むといい。この世界の公用語を学ぶ入門書だ。大体の奴がこの本から始めて、お前の頭ならそのあとに……コレだな。ついでに魔法についても少しは知っておけ。子ども向けだがこの絵本は大系的に纏まっていて、魔法が使えないお前でもわかりやすいはずだ」
赤茶色の革表紙にところどころ剥がれている金の箔押しが、この本がこの図書室で古くから大切に扱われてきたことを教えてくれる。もう一冊の鮮やかな表紙が目を惹く大きめの絵本は、流石に魔法を学ぶ学園では基本過ぎてあまり読まれなかったのか真新しさが目立った。
レオナ先輩から本を受け取ろうと手を差し出す前に、レオナ先輩は二つの本を脇に抱えて再び書架の間をすり抜けていく。流れるような身のこなしを追いかけて、ノートを広げたままの机に戻ると、レオナ先輩は本を丁寧に机に置いて、さっきまで座っていた椅子に腰掛けた。
「この絵本は公用語で書かれているが、お前の国と単語の意味は同じならその入門書があれば読み解ける程度のレベルだ。公用語の基本文法も学べて魔法学の基礎も学べる。お前が知りたいことに近付けるんじゃねぇか」
革手袋を嵌めたままの指先で絵本の表紙を開いたレオナ先輩が絵本に視線を移して目を細める。
それは明らかに本を大切にしている人の仕草で、ちょっとだけドキリと心臓が跳ねた。
「あ、ありがとうございます……トレイン先生とクルーウェル先生にも相談してみたりはしてたんですけど、手っ取り早く学ぶにはちょっと内容が濃くて、少し困ってたんです」
何だか赤くなっているような気がする頬を隠すように垂れた前髪を耳に掛ける。
レオナ先輩にこんな助言が貰えるなんて思っていなかったけれど、実際に困っていたことが解決できたのだから有り難い。
「本当に助かります。先生たちに相談するにも、わからないことを説明するのが難しかったから」
「……アイツら、初めての女子生徒が真面目で勉強熱心だから浮かれてんだろ。元々、学ぶ姿勢が強い生徒を可愛がる傾向があるからな」
「フフ……確かに。ちょっとわからないことを質問しても、返ってくる内容についていけないことが多いです」
「お前はまだこの世界に来たばかりのクセして魔法に抵抗がねぇからな。戸惑うどころかどんどん吸収してこの世界に馴染んでやがる。時々お前がどこから来たのか忘れちまいそうになるぜ」
「あは……褒め言葉と受け取っておきますね……」
フン、と笑うレオナ先輩の真意はわからないけれど、ここは根性を褒められているのだと思っておこう。
それよりも、今は手に入った新しい教科書と参考書に取り掛かりたい。早速入門書の一ページ目を開いて目を通した。
基本的な文法の規則を頭に入れてから絵本を開く。入門書は開いたまま横に避けて、絵本の文字を辿りながら色彩豊かな絵に目を移した。
絵本の文章を自分の言葉で翻訳しながら、絵本の内容も自分なりにメモを取っていく。
魔法が使えるわけじゃないけれど、今までイメージでしかなかった『魔法』というものがどういった理論で扱われているのかとてもわかりやすく書かれている。
おそらく子どものうちに読む絵本なのだろう。
今まで頑張って読んでいた魔法学の本でよくわからなかった部分が噛み砕いた形で描かれているから、『魔法』に対して全くの無知だった私にもストンと理解できる内容だった。
自分では扱えない魔法(もの)だからわからないのかもしれない、と諦めかけていたけれど、やっぱりちゃんと学問として学べば『魔法』を知ることはできそうだ。
この世界でも取り残されるかもしれないという不安から解放されてホッと肩の力が抜けるとともに、新しい学びを得ることが出来る高揚感で心が躍った。
嬉しくなって一気に絵本を読み進めて翻訳の手を止めずに最後まで駆け抜ける。
ペンを引っ掛けることなく書き終えた文章に満足していると、隣から、じぃ、と熱心に私の手元を見つめる視線に気付いた。
ひょっとしてずっと私の書いた文章を見ていたんだろうか。
ちょっと恥ずかしくなって指先でノートを隠すと、何故隠す、とレオナ先輩は表情を変えずに呟いた。
「面白いな。もっと何か書いてみろ」
私の指を退かそうと伸びてくる手に慌てて手を引っ込めると、レオナ先輩は満足したように笑って私の書いた文章を人差し指で辿っていく。
「……な、何か書けって言われても……改めて言われると難しいです」
興味深そうに私が書いた文章を指でなぞっては気になる文章があるのか行ったり来たりを繰り返している。
ふわりと鼻を擽る香りにはっとして顔を上げると、すぐ目の前にレオナ先輩がいた。
驚く間もなく、また、ドキリと胸が弾む。
こ、これ、レオナ先輩のにおいだ。
ていうか、近くない?
え、これって普通かな。わからないわ。
だって昨日まで、ほんのさっきまでは何ともなかった。
なのにこんな、ちょっと距離が近いからってドキドキするなんて。
レオナ先輩の端正な顔がこちらに向いているという事実だけで、わぁ、と叫んでしまいそうになって思わず視線をノートに戻した。
エースやデュースの方が、もっと近い距離感で一緒にいることは多いのに、どうして急にレオナ先輩相手に意識してしまっているんだろう。
エースやデュース、もっと言うと他の仲のいい人たちと一緒にいるときには感じない異性の部分が何故か目に焼き付いて仕方がない。
レオナ先輩の整った顔立ちや男らしい喉仏、丸くないすっきりとした輪郭が突然私にレオナ先輩が男であることを教えてくれている。
そんなのわかってる。
だってここは男子校なのだから。
ここには男の子しかいなくて、イレギュラーなのは私で、意識されてしまうのは私の方。
だから誰に対しても友人に接するように、ある一線は守りつつも、異性かどうかは関係なく対応してきたはずなのに。
「何か無ぇのか。お前の国にも有名な言葉くらいあるだろ」
「えっ、あっ、あーっ……えーっと……」
なかなか答えない私に痺れを切らしたのか、レオナ先輩はほんの少し不満げに眉を寄せて尻尾を揺らしている。
しどろもどろになりながらも空回りする頭を必死に動かして、何か、何か良いフレーズ、と慌てて考える。
そう、今は勉強中なのだから。
変なことを考えている場合じゃない。
それでもなかなか冷静になれなくてモタモタしていると、レオナ先輩はふと思い付いたように顔を上げてトンとノートを叩いた。
「じゃあ……アレはどうだ……あの時の……うぃーうぃる……ろっく……」
「We will rock you ?」
「それだ。あれはお前の国の言葉でどういう意味なんだ?」
音を出さずジェスチャーだけで手拍子と足踏みを真似してニヤリと笑ったレオナ先輩が、私の顔を覗き込む。
悪戯っぽいその表情にドキンと心臓が音を立てた気がするけれど、全部気のせいにしてペンでサラサラと文章を書き綴った。
「え、えっと……お前たちを驚かせてやる……ですかね?」
本当はもっと荒っぽい言葉を使った方がいいのかもしれないけれど、これでもちゃんとした意訳にはなっている。
他にもあの歌の代表的なフレーズを書いては説明するを繰り返していくと、じっと綴りを見つめて黙々と私の話を聞いていたレオナ先輩が、クククと笑い始めた。
「ハッ……お前の根性を見直したぜ。見事に野郎どもを巻き込んで俺を眠れなくしたんだからなァ」
目論見通りじゃねぇか、とおかしそうに笑うレオナ先輩にぷくりと頬を膨らませる。
「……そんなこと言って……レオナ先輩はちゃんとぐっすり寝てたじゃないですか」
唇を尖らせてそう言うと、レオナ先輩は机に肘を突き嘘くさい困った顔でわざとらしく溜め息を吐いた。
「よく言うぜ。あのあとから野郎どもは事ある毎にあのリズムを刻んではみんなで楽しくお遊戯会が始まるんだからなァ。本当に、お前には驚かされたぜ」
言い終えてから、ニッと笑ったレオナ先輩が目を細めて私を見る。
それがあまりにも芝居掛かった仕草で思わず笑ってしまった。
「フフッ……じゃああの歌を思いっきり歌ったのは正解だったんですね」
「わけわかんねぇ歌を大声で歌ってやがるなとは思っちゃいたが……そんな意味が込められていたなんてなァ。相変わらずの計算高さに恐れ入るぜ」
「そ、そこまで考えてあの曲を選んだわけじゃないんですけど……お褒めの言葉だと受け取っておきます」
「クク……これでも俺はお前を評価してるんだぜ? どんなに野郎どもに揉まれてもしぶとく生き残ってるんだからなァ」
「……それって本当に褒めてます? 何だかあまり嬉しくありません」
ぷぅ、と頬を膨らませて不満を訴えると、レオナ先輩は目を細めて私の顔を見つめてくる。
私を見守ってくれているようなその視線に、何だかドキドキしてしまって目を逸らした。
今までにも、レオナ先輩がこういう優しい目で私を見ていたことは何度かあった気がする。
多分、サバナクロー寮で私が料理番をするようになってから、だったと思う。
あれ以降、レオナ先輩と関わることは圧倒的に増えたし、レオナ先輩と話す機会も増えた。
元々ジャックとの関わりがあるから、知らない仲だったわけじゃないけれど、ただの他寮の先輩後輩という関係から、仲のいい先輩と後輩くらいには成れていた、と思いたい。
ついさっきまで、その認識と相違ない関係だったはずなのに、どうしてこんなに、レオナ先輩がいつもと違って見えるんだろう。
いつもは何とも思わない優しい目が、今は痛くて、恥ずかしくて、嬉しい。
でも、嬉しいってどういうことだろう。
嬉しいか嬉しくないかで言えば、今までだって嬉しかったはずなのに、明らかに感情の質が変わってしまった。
「お前は無鉄砲に見えて意外と勝算がある勝負しか挑まねぇ。自分の置かれた状況を把握する視野も持ってる。充分じゃねぇか」
「……うぅ……やっぱり、褒められている気がしません」
「素直に賞賛と受け取っておけ。俺が認めてやってるんだ、もっと手放しで喜んでいい」
「……じゃあ……ありがとうございます?」
「ハハッ、なんで疑問形なんだよ」
楽しそうに笑うレオナ先輩の顔に目を惹かれて、ドキドキしながら顔を俯ける。
このままレオナ先輩のことを見ていたらおかしくなりそうだ。
ちゃんと勉強しなくちゃ、ともたつく手でペンを持ち直した。
気を取り直して文法の基本形をノートに纏めて自分の言葉も加えていく。
これで少し言語への理解が深まりそうだと満足していると、なぁ、とレオナ先輩が声を掛けてきた。
「ひとつ確認したいんだが。聞いていいか」
「えっと……私に答えられることであれば、いいですけど」
「お前に聞くんだ。お前にしか答えられねぇ内容に決まってんだろ」
フン、と鼻で笑ったレオナ先輩はそっと身を乗り出して、私にだけ聞こえるよう小さな声で言った。
「なぜ翻訳魔法があるのに言葉を学ぼうとする」
さっきまでとは違った真面目な表情で、レオナ先輩はじっと私を見つめてくる。
その顔は私の真意を探ろうとしているようで、思わずきゅっと唇を引き結んだ。
どういうつもりで、そんなこと聞くんだろう。
先生たちは私の学びたいという意思を尊重してくれたけれど、先輩は違うのかもしれない。
私の悪口を言う生徒みたいに、学んだって無駄だと、私に言うんだろうか。
どうしよう。
正直に話しても大丈夫なのかな。
ごくりと喉を鳴らして緊張感をやり過ごす。
それでも、レオナ先輩はきっと笑ったりしないし、ちゃんと聞いてくれるし、本当に学ぶことが無駄だと言うなら、真面目な言葉で私を諭してくれる。
そんな確信は何となくあって、何度かぎゅっと握り拳を作っては解いてを繰り返してゆっくりと口を開いた。
「……こ、この世界のことを、知りたくて」
震える指先を庇うように両手の指を絡める。
レオナ先輩の視線を受け止めているのが怖くなって顔を俯けた。
「パパの……私の父の、口癖で。自分の知らない社会や国を知るときは、まずはその国の言葉を知りなさい、って」
「へぇ……言葉を知れ、と。どうしてだ」
「……こ、言葉を知れば、生活が見える。生活を知れば、文化が見える。文化がわかれば、社会が見える。社会がわかれば、歴史が見える。歴史がわかれば、その国が見える。だから、知らない国のことを知りたければまずは言葉を学びなさい。それが一番の近道だし、第一歩だよって、パパが……あ、えっと、父がいつも、言っていて」
いくら親しくなったからって、馴れ馴れしい言い方をしてしまった。
慌てて言い換えると、真面目な顔をしたレオナ先輩が私を真っ直ぐに見つめていた。
「気にするな。俺の前では畏まらなくていい。ご両親はお前の呼びやすいように呼べ。ご両親だってお前が馴染む呼び方をしていれば喜ぶだろう」
「……そ、そうですか、ね」
私を気遣っているのではない、それなのに優しい言葉に戸惑いながら返事をすると、レオナ先輩はただでさえ綺麗な顔を更に美しく穏やかな笑みに変えて続けた。
「故人を偲ぶのは生きている人間が思い出してやるのが一番だ。お前のご両親を思い出せるのはこの世界じゃお前だけだからな。他人に遠慮してる場合じゃねぇだろ」
何てこと無いようにそう言ったレオナ先輩は相変わらず笑っていて、私に気を遣ってそんな言葉が出たのではなく、本当に心からそう思って言ったのだということがわかる。
その優しさが嬉しくてこそばゆくて、ちょっとだけ痛いと感じてしまって何だかよくわからなかった。
ちょっぴり痛いのに不快じゃなくて、むしろふわふわと浮ついた気持ちになる。
「……あ……あり、がとう、ございます」
もじもじとジャケットの裾を掴んで顔を俯ける。
きっとレオナ先輩に赤くなった頬はバレていると思う。
だってとっても目敏いから、これ以上レオナ先輩に隠せるとは思えない。
もう見ないでほしい。
恥ずかしいから。
それなのに、今この瞬間、私だけを見ていてくれるのが嬉しい。
「お前のお父上は……素晴らしい方だったんだろうな」
レオナ先輩の低くて甘い声が私の耳を撫でて、きゅっと胸が苦しくなる。
もうダメだ。
このままじゃ。
もうダメだわ!
「……えへ、えへへ! そう言ってもらえると嬉しいです! だからね、手っ取り早く言葉を勉強しようと思って本を読んでたんですけど、文法が私にとってはめちゃめちゃで。でも、レオナ先輩のおかげでやっと読み解き方がわかりました!」
咄嗟に自分の気持ちを誤魔化すように声を上げる。
本当は叫んでしまいそうな気持ちを精一杯抑えて笑ってみせた。
みんなに接するように、大袈裟に笑って、何でもないと装って。
そうしなければ、今にも溢れそうな何かが一気に溢れ出して、自分を止められそうにもなかった。
きゅうきゅうと切なく音を立てる胸に気付かないフリをしてノートと教科書に向き直る。
一生懸命目の前の文字の没頭すれば、きっと何も気付かなかったことにできる。
そう気を取り直してペンを握ると、ふと、ノートの端にやわらかな影が落ちた。
「……オイオイ……まさかお前……この俺に勉強の手助けをさせておいて、それで終い……ってワケじゃねぇだろうなァ?」
ニヤリと悪戯っぽく笑うレオナ先輩の顔がすぐ目の前にあってドキリと心臓が跳ねる。ひゃあ、と声を上げてしまいそうになるのを何とか両手で口を押さえることで耐えた。
自分の顔が心臓に悪いってこの人知ってるんだろうか。
知ってるからこんな至近距離でそんなことを囁くんだろうか。
そうだったら酷い。
でもレオナ先輩なら許せると思ってしまうのが何だか悔しくて、ちょっとだけ焦れったい。
こんなに格好いいんだから、きっと他の女の人たちにもこうやって絶妙な距離感で近付いて、人の懐に入り込むなんてこと、朝飯前なのかもしれない。
想像するだけで、そんなの嫌だと感じてしまっている自分がいる。
この時点で、もうダメだ。
「あー……えっと、対価ですね……手持ちが少ないので、払えないかもしれません」
私も騙されちゃった一人になっちゃうのかなぁ、と思いつつ、いやいやまだ大丈夫ちゃんと自覚している分引き返せると自分に言い聞かせて、ンンッと喉を鳴らして裏返る声を誤魔化した。
いやー、この学校イケメンばっかりだし結構耐性付いてきたと思ってたんだけどなー。
流石にヴィル先輩も褒めちゃう顔だけあって破壊力が凄いんだなー。
他人事のように構えていないとどうにかなってしまいそうで、わざとらしくお財布を取り出してレオナ先輩に向けて振ってみせた。
チャリンとも小銭の音がしないオンボロ寮の財務事情をお知らせすると、レオナ先輩は楽しそうに顔を歪めて机に肘を突いてこちらを見ている。
「ハッ! 俺はタコ野郎と違って金には困ってねぇんでなァ……金なんかじゃァとても満足できそうにねぇ」
ククク、と喉で笑うレオナ先輩の顔はとても良い。良すぎて見惚れてしまうくらいだ。
こんなの卑怯だ。
勝てっこない。
だからって、私は簡単に流されちゃうような軽い女じゃない。
そんな顔したからって、易々と釣り上げられると思わないでほしい。
「うぇ、うぅん……え、えっと……な、何を払えばいいんでしょうか……?」
さっきよりももっと声が裏返ってしまった気がするけれど大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせてレオナ先輩に向き直る。
精一杯何ともない顔を装ってレオナ先輩の言葉を待っていると、ジッと私の顔を見つめてきたレオナ先輩がプッと突然吹き出した。
フハハハハと男らしく笑うレオナ先輩にビックリして大きく目を見開く。
お腹を抱えて笑うまではいかないけれど、ほとんどそれの一歩手前に等しい状態のレオナ先輩をキョトンとした顔で見つめていると、ようやく落ち着いてきたのか、レオナ先輩は目尻に浮かぶ涙を親指で拭った。
「フハ、ククク……大真面目な顔しやがって。アァ、今みてぇに間抜けな顔もお前にはお似合いだぜ?」
ニヤニヤと揶揄うみたいに笑ったレオナ先輩に、ボッ、と顔が熱くなる。わなわな震えそうな口を何とか動かしてレオナ先輩に噛み付いた。
「かっ、揶揄ったんですか! ひどい! 私で遊ばないでください!」
「悪い悪い、あんまりにも楽しいオモチャが目の前に転がってたんでなァ……構わずにはいられなかった」
ククククク、とまだちょっとだけ笑ったまま謝られても全然謝られている気がしない。それに、こんな風に遊ばれてばかりじゃ、こっちの心臓が持たなくて、どうにかなりそうだ。
でも、レオナ先輩に勝てる気もしなくて、本当にどうしようもない。
ちゃんと冷静にならなきゃ、振り回されるばっかりできっと大変なことになる。
プイ、とそっぽを向いて頬を膨らませることで何とか怒っていることをアピールする。
そうでもしていないと冷静さはどんどん遠退いてしまいそうで怖かった。
なぁ、怒るなよ、と甘い声で宥めてくるレオナ先輩をすぐに受け入れてしまいそうになるほど、今の私の防壁は脆い。
怒っています、と敢えて口にすることで何とか冷静さを取り戻そうとした。
「……そんなに怒るなよ」
甘い声が急に寂しそうな声になって慌てて振り向く。
すると不安そうなレオナ先輩の目とかち合ってドキリとした。
こんなに振り回されて、こんなのじゃだめなのに、こんなのだめだってわかっているのに、私はレオナ先輩に向き直って口を開いていた。
「だって……ひどいです。私、本当に嬉しかったのに。レオナ先輩は、いつも私が勉強で躓いているところを解決してくれるから。本当に助かってたのに」
きゅ、と握った手に力を入れて気持ちを伝える。
声が震えるのはもう仕方がない。
それはもう諦めて、これ以上振り回されないよう自分の本心を訴えるので手一杯だ。
レオナ先輩は軽く目を見開いて私の言葉を聞いていたけれど、次第にしおしおと耳を垂れさせて、遂にはぺしょりと完全に耳が伏せってしまった。尻尾の先も元気が無さそうに揺れている。
表情はあまり変わっていないのに、どうやらちょっとは落ち込んだらしいことを耳と尻尾が教えてくれて、ちょっぴり可愛いと思ってしまった。
「……揶揄って悪かった。お前の反応がいちいち面白いのが悪い」
ほんの少し眉を寄せて不貞不貞しくそう言ったレオナ先輩の尻尾は相変わらず元気がないし、耳も垂れたままだ。
この人、意外と可愛いのかもしれない。
そう思ったら、何だかおかしくて笑ってしまいそうだけれど、簡単に流されるもんか、とわざと怒った振りを続けた。
「……それ……謝ってるのか謝ってないのか、どっちなんですか」
ぷう、と頬を膨らませて返すと、ちゃんと謝ってる、とレオナ先輩は続ける。
尻尾はとうとう動かなくなってしまった。
「……本当ですか?」
「……これ以上どう謝ればいい」
「そこは自分で考えるところじゃないですか?」
「テメェ……調子に乗りやがって」
「悪いことをしたらごめんなさい。それはどの世界でも共通では? それともこの世界には女の子を揶揄ってもいいとか悪いことをしても謝らなくていいってルールがあるんですか?」
「そんなのねぇよ」
「じゃあ『ごめんなさい』は?」
じぃ、とレオナ先輩の目を見つめて問い掛けると、レオナ先輩は思いっ切り顔を歪めてからガシガシと頭を掻いた。それから耳をふるりと何度も震わせたと思ったらピンと立った耳がこちらに向く。
じっとそれを観察していると、レオナ先輩は、クソッ、と小さく呟いて眉間の皺を増やした。
「チッ……………………ごめんなさい」
随分と間があいたものの、私にだけ聞こえるような音量でごめんなさいをしたレオナ先輩は、何だかとても不満そうだ。
謝るだけでそんなに素直になれないなんて、ちょっと子どもみたいだ。
年上なのに、こんなに可愛いところがあるなんてなぁ、と微笑みながらこくりと頷いて返事する。
すると途端にそわそわと落ち着かない様子で尻尾が揺れ出して、どうしたのかなと首を傾げていると、レオナ先輩は眉を寄せたままチラリとこちらの様子を窺った。
「……機嫌は直ったか」
ぼそり、と呟かれたそれに思わず目を見開く。小さい子どもみたいなそのやり取りが思いがけなくてくすりと笑みが溢れた。
「先輩に揶揄われたので、仕返しです。もう怒ってませんよ」
フフフ、と笑いながら返すと、レオナ先輩がピンと耳を立てて目を見開いた。
それから表情をげんなりとしたものに変えて、耳も一緒に垂れ下がってしまう。
「テメェ……クソ、あーもういい。わかった。話を戻す。対価の話だ」
結構ころころと表情が変わるんだなぁ、と観察していると、レオナ先輩は気を取り直したようにこちらを向いて手の平を差し出した。
うっかりその手を取ってしまいそうになった両手を慌てて胸の前に引っ込める。
これは手を取ったら有無を言わさず何かを支払わされるんじゃないだろうか。
びくびくしながらゴクリと喉を鳴らして恐る恐る口を開いた。
「やっ、やっぱり何か支払わなきゃいけないんですね……できれば、分割払いとか、お願いしたいです……」
ぺしょ、と眉を下げて両手を合わせる。
効果が無いとわかっているものの、仲のいい一年生たちへお願いするときのように小首を傾げてみせた。
するとレオナ先輩はおかしそうに笑って机に肘を突いてからニヤニヤと私の顔を覗き込んでくる。
「ハッ。分割払いは利子が高くつくって知らねぇのか? 相変わらずの平和ボケだなァ……生活が苦しくて可哀想な監督生サマには、慈悲の心で無利子にしてやるよ」
「ひぇ……タダより逆にコワイ……」
「クク……お前にとっちゃ大したことじゃねぇよ。俺にお前の国の言葉を教えろ。それだけでいい」
トン、と指先で私の筆致を指差したレオナ先輩は、表情を真面目なものに変えてそっと身を乗り出した。
「え……? そ、そんなのでいいんですか?」
お互いの顔が近付いて見つめ合う。
近い距離感に倣ってひそひそと内緒話をするように声を潜めると、レオナ先輩も私だけが聞き取れるように囁いて笑った。
「そんなの、じゃねぇだろ。この世界には存在しないはずのモンを学べるんだ。未知との遭遇なんて大金を積んだってそうそう経験できるもんじゃねぇ」
ふわりと、本当にふわりと笑ったレオナ先輩の目は嬉しそうに細められている。
ただでさえ綺麗な緑色の目が、より一層宝石みたいに輝いた。
「お前の言葉は俺にとって一級品の価値があるって言ってるんだ。悪い話じゃねぇだろう? 代わりにお前の公用語も見てやる。それでどうだ?」
出会ったばかりの、何もかも諦めてしまっていたあの頃の目とは違う。
新しいことを求めて探究心のまま突き進んでしまう子どものような目の輝きが目の前にあった。
見ているだけでこちらまで楽しくなってしまうようなキラキラが眩しくて、思わず目を細める。
それでも、目を逸らさずにずっと見ていたいと思える純粋さを感じて、私はこの人の本質に少しだけ触れられた気がした。
きっとレオナ先輩のことを私はまだまだ知らない。
私は、この美しい人のことをもっと知りたいと思った。
「おい、どうなんだ。沈黙はYESと受け取るぜ。交渉成立か?」
「……あ……ちょ、ちょっと待ってください」
「……なんだよ。文句あるのか」
「そうじゃなくて……私でよければ、レオナ先輩に言葉をお教えします。で、でも……レオナ先輩、改めて勉強しなくてもほとんど理解出来てるんじゃないですか? 私が書いた文章、理解できてますよね?」
さっき書いたノートの続きに、少しだけ考えてから文章を綴っていく。『Every cloud has a silver lining』と書いた部分をレオナ先輩に差し出せば、レオナ先輩はゆっくりと文字を辿ってフンと笑った。
「どの雲にも銀の裏地が付いている……『禍福は糾える縄の如し』ってか? 言うじゃねぇか」
「そういうつもりじゃ! でも、そうですね。そういうつもりもあったかもしれません。私なんかが、レオナ先輩にどうこう言える立場じゃないですけど。私は、レオナ先輩をすごい人だと思ってます」
「そりゃどうも。所詮俺は嫌われ者の第二王子だ。どんなに努力しようと、俺の元には不幸しか降ってこねぇよ」
当たり前のことのようにそう言ったレオナ先輩は笑っている。
そんなことはない、と言ってしまうのは簡単だ。
でも、私にはどうすることもできない。
どうすることもできない人間から言われる無責任な励ましは何も生み出さないことを私はよく知っている。
だから軽々しく、今のレオナ先輩に声を掛けるなんて私にはできなかった。
「すみません。この話はやめましょう……話を戻しますけど、これは、私の国の格言みたいなものです。それを直訳して意訳もできるってことは、もうほとんど理解していると言っていいと思うんです」
レオナ先輩は私の意図を汲み取ったのか、話題を変えた私をそれ以上追及することはせず、手元のノートへ視線を移して書いたばかりの文字を指で辿った。
「……まぁ大体はな。でもそれは文法の話だ。発音が理解できない」
淡々と告げたレオナ先輩は、とても真面目な顔をしてノートの文字を見つめている。
「えっ……そうなんですか? 発音? 文法が入れ替わるからかな?」
「お前、試しにこの文章読んでみろ」
そう言ってレオナ先輩は最初に開いていた魔法学大系の一節を指差した。
文法の反転があるから読みにくいものの、読めないわけじゃないから普段話すスピードよりも丁寧にひとつひとつ言葉を読み上げていく。
ピリオドまで辿り着いて文献から視線を移すと、少しだけ眉を寄せたレオナ先輩と目が合った。
「翻訳魔法があるから誰も気付かなかったんだろうが……お前の発音と公用語の正式な発音にはズレがある。まぁ……気付いたヤツがいたとしても、訛りだと判断されていたのかもしれねぇな」
「えっ……訛り?! 私の発音は正式な発音ですよ! ママにどれだけ厳しく指導されたか!!!」
「シッ、声がデケェ……テーブルマナーといい発音といい、お前の母君は相当厳しかったのか?」
「厳しいっていうか……伝統、ですかね。愛国心かもしれません。私のママだけじゃなくて、みんなそうだったから。紳士淑女のマナーを身に着けてやっと一人前、っていうか」
「へぇ……まぁいい。とにかく、おそらくお前の発音はお前の文法に合わせたものだ。だからこちらの文章は読みにくいんじゃねぇか? お前自身が発音で突っ掛かってるところが、こっちの発音と違うところだ」
レオナ先輩はまるで語学の先生のように私が読んだ文章を丁寧に発音していく。そして口元がわかりやすいようわざわざこちらを向いて発音してくれた。
しっかりと見て、聞こうとすれば、確かに自分が知っている発音とは違うものになっていて目を見開く。
「ほ、ほんとだ……今まで全く気付かなかった……」
「この学園はこの世界の至る所から学生が集まってくるからな。翻訳魔法が言葉の壁を乗り越える手助けをしてくれている。お前がこの世界に来て言葉で躓かなかったのはその為だ……まぁ、そのせいで改めて言葉の壁に躓いている、とも言えるが」
「う……そうですね……そういうことになると思います……」
なんだか勉強がうまくいかない、と思っていた原因はこの辺りにあったんだ、と実感して肩を落とす。
でも、原因がわかったから、これからは勉強が捗るんじゃないかと思えた。
ちょっとだけ落ち込んだけれどすぐに気分は浮上して、よし! と気合いを入れ直すと、レオナ先輩が毎週火曜日だ、と口にした。
「お前、毎週火曜日ここに来い。俺が発音も含めて公用語を習得するまで面倒見てやる。だから俺がお前の国の発音で話せるようになるまで協力しろ」
「えっ……いいんですか? っていうか、レオナ先輩、忙しいんじゃ」
「俺は今新しい言語を習得するのに忙しい。他の用なんてどうとでもなる」
「で、でも……私の国の言葉なんて、使いどころがないですよ?」
「……お前にしかわからない内容を話すときに使える。それだけで充分だ」
ニヤリと笑ってそう言ったレオナ先輩は、深い意味を込めているのかいないのか、表情だけじゃ読み取れなかった。
私にしかわからない内容ってなんだろう。
ドキドキするけれど、きっとパシリとか脅しとかそういうのだと無理矢理自分を納得させて深呼吸した。
「……じゃあ、これから毎週火曜日。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくな」
レオナ先輩は楽しそうに笑って私に右手を差し出した。
恐る恐る、革手袋越しのその手を取って握手する。
すぐに離れたその手は大きくて、男の人らしい節を感じる硬さだった。
これから毎週火曜日はレオナ先輩とふたりきりでお勉強。
その事実だけで浮かれてしまいそうになるけれど、これはあくまで勉強会だから、と自分に言い聞かせる。
「早速だが今日は火曜日だ。課題を頼むぜ? 先生」
「う、うぇ……課題、ですか?」
「お前と違ってこっちは教科書がねぇんでなァ。お前だけが頼りだ」
「そ、そんなこと……きゅ、急に言われても……」
「何かあるだろ。発音習得のレッスンが」
「発音かぁ……発音……じゃあ、こういうのは、どうです?」
怒濤の勢いで新しい知識を求める貪欲なレオナ先輩に気圧されつつ、あわあわと文章をいくつか書き綴っていく。

『Red lorry, yellow lorry, red lorry, yellow lorry』

『She sells seashells by the seashore.
The shells she sells are surely seashells.
So if she sells shells on the seashore, I’m sure she sells seashore shells.』

『Peter Piper picked a peck of pickled peppers.
A peck of pickled peppers Peter Piper picked.
If Peter Piper picked a peck of pickled peppers,
Where’s the peck of pickled peppers Peter Piper picked?』

自分にとっては懐かしいそれらを書き終えると、興味津々でノートを覗き込んでいたレオナ先輩が、へぇ、と呟いた。
「早口言葉か」
「はい。特に最初のこれは、子どもの頃に繰り返し練習しましたね」
舌っ足らずの頃から繰り返し口にして発音の違いを身体に覚えさせるやり方は、あの頃から随分経った今でも変わらないと思う。苦手意識を持ちやすい発音だから、世界中で親しまれる方法だ。
「確かに……お前の国に寄せた発音を学ぶには手っ取り早いな」
そう言って私のノートを手に取ったレオナ先輩は、私のペンケースから適当にペンを取り出して何やら文字を書き込み始めた。
見慣れない文字の形は夕焼けの草原のものなのかもしれない。
流れるような筆致で紡がれていく何かに見蕩れながら、熱心に私の書いた文章へと視線を注ぐレオナ先輩の横顔に見蕩れた。
誰かが言っていた。
レオナ・キングスカラーは不精者だと。
果たして本当にそうなんだろうか。
目の前にいるこの人は、こんなにも好奇心旺盛で、人に訊ねることも人から学ぶことも厭わない。
努力をしないんじゃなくて、もう既に努力したあとで、もうこれ以上は無駄だと判断してしまったから、全てを諦めてしまっただけなんじゃないか。
魔力があって、実力があって、優しくて面倒見が良い、そんなレオナ先輩を生まれの順序が二番目だからというだけで排除して、その力を認めないなんて、そんな世界があっていいのか。
きっと、酷いと感じているのは私だけじゃない。
ラギー先輩やジャックだって、レオナ先輩の本当の実力を知っている。
あの二人が現状をただ受け入れるだけだなんて信じたくなかった。
それでも、レオナ先輩に対して私たちがしてあげられることは何もないのは事実だ。
少なくとも、私には地位も権力も何もない。
何かできることはないのかと探すことすらも無駄と思えるくらい、私ができることなんて何も無かった。
こんなに近くにいるのに、私は何もしてあげられなくて、レオナ先輩は孤独の道を歩んでいるんだと考えるだけで苦しくて胸が張り裂けてしまいそうだ。
誰かひとりでも、たった一人でもこの人のそばに寄り添って寄り添い合って歩んでいける人がいれば、マジフト大会の結末は避けられたんじゃないか。
孤独と絶望をたった一人で抱えて生きるなんてことにはならなかったんじゃないか。
ラギー先輩だってジャックだって、彼らなりにレオナ先輩のことを思って行動していたはずなのに、レオナ先輩には届いていなかった。
全てを諦めて投げやりになっていた先輩の心は固く閉ざしていたんだとは思う。
それでも、誰かひとり、レオナ先輩の心に届くまで、何があっても自分はそばにいるとレオナ先輩に伝えることができていれば、ほんの少しは、レオナ先輩も救われたんじゃないだろうか。
そんなの、自分のエゴでしかない。
わかっている。
どうにもできないくせにとやかく言ってくる他人はクソ食らえだ。
私はそれを身をもって知っている。
ラギー先輩やジャックとの関係はあの事件以降穏やかなものだと思う。
でも、レオナ先輩は救われたわけじゃない。
きっと、レオナ先輩の叶わない望みが叶わなければ、レオナ先輩が救われることはない。
でも、それでも。
王になれないレオナ先輩を認めてあげる存在は、今も必要なんじゃないか。
気付けばガタンと椅子の音を立てて立ち上がっていた。
びっくりしたのかピンと立った耳とともにレオナ先輩が少しだけ目を見開いて私を見上げている。
「レオナ先輩ッ」
懸命に文字を追いかけるその目はキラキラして、普段見る気怠そうな表情から程遠い。
ワクワクと楽しい気持ちがこちらまで伝わってくる子どもみたいな横顔が、あまりにも綺麗でぎゅっと胸が苦しくなる。
痛みにじわりと熱くなる目頭を誤魔化すようにふるりと首を振って、バッとレオナ先輩の腕を両手で掴んだ。
「私ッ! レオナ先輩のことが好きですッ!」
ジャックがいる。ラギー先輩だっている。この世界の人間じゃない私にできることなんて何も無い。
そんなのわかってる。
でも。でもだ。
これは騙されたんじゃない。弄ばれたわけでもない。
好きになった。
目の前にいるこの人を私は好きになったんだ。
間違いなく恋に落ちたんだ。
届かなくてもいい。
私はこの人を愛したい。
ずっといつまでも貴方をひとりにはしないと、ただひたすらに想いを届け続けたい。
不公平で残酷な世界のなかで、最後までそばにいる。
その存在に、私がなりたい。
静かな図書室に、わんわんと私の声が木霊する。レオナ先輩は思いっ切り怪訝な顔をして私を見つめていた。その向こうには驚いた顔で司書のゴーストさんがこちらを覗き込んでいる。何人かいた図書室を利用している生徒の視線も感じた。
ちょっとだけ落ち着くと、とんでもないことをしてしまったと思わないでもないけれど、もうそんなの関係ない。
遠慮無く、鬱陶しがられようと、レオナ先輩にちゃんと届くまで、しつこいくらいに好きだと伝える。
そう決めたんだ。
時間が止まってしまったんじゃないかと感じる沈黙を破るように、レオナ先輩の耳がぴるっと動く。
怪訝な顔をより一層険しくしたレオナ先輩は、もう一度耳を動かしてから持っていたペンをクルリと指先で回転させた。
「……そりゃどうも」
じっと私を見つめたままだったレオナ先輩がそれだけ呟いて、眉を寄せたままノートへと視線を戻していく。
シンと静かな図書室が帰ってきて、やっと私はふぅと息を吐いて座っていた椅子に腰掛けた。
荒い扱いをしてしまったせいでずれてしまった椅子の位置を戻しながらレオナ先輩の横顔を見つめる。
もう眉間の皺は取れて目の前の新世界に夢中だ。
澄んだ緑の目がひたすらに文字を追って、男の人らしい節のある細くて長い指が私のペンを握っている。革手袋に包まれた大きな手から伸びる腕は褐色の肌と張りのある筋肉でとても魅力的だ。少し前屈みになっているせいで垂れている長い髪も私とは違う質感で、やわらかな癖がとってもチャーミングに見える。
じっと見つめているだけなのに、心がぽかぽかしてあたたかい。
嬉しくて、胸が苦しいくらいに痛い。
痛いけれど、どうしようもないくらい、レオナ先輩のことが好きになっていた。
ふふ、と漏れる私の笑い声に、レオナ先輩の耳だけが反応する。
なんだかもうそれだけで幸せいっぱいになって、レオナ先輩の耳元に顔を寄せた。
「私、これから火曜日が楽しみです!」
私の声に、レオナ先輩の耳がぴるっと揺れた。

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