ふぅ、と深呼吸をする。
閉じていた目をゆっくり開くと、まだ少し慣れない白ばかりに包まれた部屋。
レオナ先輩の婚約者になるはずだった人のために作られたこの部屋は、持ち主不在――というか一悶着あってお蔵入りとなり、王様のひと言で私が使うことになった。
今まで暮らしていた使用人の宿舎とは広さも快適さも桁違いで、最初はこんなところに居てもいいんだろうかという緊張で眠れない夜を過ごしたりもした。
そんな仮住まいも今日までだ。
そう思うと不思議と愛着も湧いてくるから、もし可能であるなら、これからもここを私室として使えないか、レオナ先輩に聞いてみるのもいいかもしれない。
だってお互いきっと一人になりたいときだってあると思うし。
いくら夫婦になるからって、いつも一緒、なんて有り得ないのは私が一番よく知っている。
それでもきっと、プライベートの時間はレオナ先輩と一緒にいるんだろうなぁ、と想像できて笑ってしまう。クスリと微笑みながら、そんな人と出会えて本当に幸せだ、とこれから来る未来に胸が躍った。
肌触りのいいシルクの寝具に包まれた身体をやっとの思いで起こすと、見計らったように部屋の扉が叩かれる。
この音はきっとターシャ。
数日で覚えてしまったノックの音に微笑んで、床へと足を着けた。
「失礼いたします、ユウ様。朝のお支度に参りました」
「おはよう、ターシャ。今起きたところなの」
大きな扉を人ひとり分だけ通れるくらいに開けて、ターシャはスルリと身体を部屋の中に滑り込ませる。そして、私の顔を見てふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「本日はおめでとうございます。よくお眠りになったようですね。肌つやが一層輝いてらっしゃいます」
「あ……えっと……あ、ありがとう? ……連日のスペシャルケアのおかげで、びっくりするくらいお肌の調子はイイデス、ネ……」
「そう仰っていただけますと私も腕によりを掛けた甲斐がございます」
にこにこと微笑んでいるターシャは私をドレッサーの前に導いて髪をブラシで解きはじめた。
「この後お召しかえがございますから、朝の身支度は簡単に。朝食も軽いものをお持ちいたしましたがいかがなさいますか?」
「あ……えっと、グリムは?」
「グリム様はジャック様とご一緒に食堂で召し上がったそうです」
するすると丁寧にブラッシングされた髪は片側で緩く纏められた。使われているリボンはやっぱり上質で、これの何処が簡単な身支度なんだろうと肩に力が入ってしまう。
「ユウ様、慣れです。いつ如何なる時も胸を張って堂々と。今日からユウ様も王族の一員となられますから」
ふふふと笑いながらターシャは私の手を取って、ドレッサーからテーブルへと移動した。導かれるまま椅子に腰掛けた私を確認して、ターシャは軽食の乗ったワゴンを引いてくる。
「心が少しでも落ち着かれるよう、ハーブティーもご用意しました。今日はお食事の時間を作るのもなかなか難しいでしょうから、食べられるものだけでも口に運んでくださいませ」
「はい……え、えっと、先輩……じゃなくて、レオナせんぱ、でもなくて……その、レ、オナ、殿下は?」
「殿下はお部屋で朝食をお摂りになるとのことでした。あと、ユウ様。慣れです」
「は、ハイ……慣れ、ます」
「大丈夫ですよ。そのうち身体が勝手に慣れます。ユウ様はまだ生活が変わられて短いんですから、いずれここで過ごす時間の方が長くなりますよ」
そう言ってあたたかいハーブティーをサーブしてくれたターシャは、いつもと変わらない笑顔を浮かべてもう一度おめでとうございますと告げた。
「う……はい……でも……うー……すっごく緊張するー……」
カップに伸ばした手をぎゅっと握り締める。それから顔を俯けて、はぁぁぁぁ、と深く溜め息を吐くと、ターシャはクスクス笑って目を細めた。
「ユウ様は微笑んでいらっしゃるだけでいいんです。あとは殿下が何とかしてくださいますから。大事なお式も成し遂げられないようでは、男の名折れですよ」
フン、と鼻を鳴らして胸を張ったターシャは、生粋の夕焼けの草原育ちらしく、女に恥を掻かせる男はいくら殿下と言えども男とは言えませんので、と続けた。
「それに、ユウ様はレオナ殿下を追いかけてこの国までいらっしゃったんです。その度胸があれば夕焼けの草原の王族としても充分やっていけますよ」
ただ堂々としてればいいんです、と笑うターシャは使用人の宿舎で同室だった頃の勝ち気な表情で耳をピンと立てている。その顔があんまりにも自信に溢れているものだから、自然と肩の力が抜けてクスクスと笑ってしまった。
「そうだね……ターシャの言う通り、レオナ先輩が何とかしてくれる」
「でしょ? ユウは堂々としてればいいのよ。ユウを泣かしたら私がレオナ殿下の食事を全部野菜に変えちゃうから!」
ぴょこり、と耳を立てて名案でしょ? と笑うターシャは一緒に暮らしていた頃と変わらない。フフン、と鼻高々に笑っているターシャに、強張っていた身体はすっかり解れた。
アハハそれ良い! と手を叩くと、ターシャも顔をくしゃくしゃにして笑う。同じ部屋で暮らしていた頃のように、しばらく肩を寄せあって二人で笑った。
* * *
何とか朝食を胃のなかへ入れた後、ターシャに連れられて広い王宮を歩いていく。
これから大きな式典なんかで使われる、着替えの為のお部屋に移動して、今日の為に誂えた衣装に着替えることになっている。
考えただけでやっぱり緊張してきた! と肩を縮めていると、ターシャにばしんと背中を叩かれた。
大丈夫、と頷いてくれるターシャに力無く笑って返事すると、向こうの角からレオナ先輩たちが曲がってくるのが見えた。
「あっ! レオナせんぱ」
バッと大きく手を振ろうとして、笑顔のターシャにユウ様、と窘められる。
慌てて手を下ろして乱れた裾を直しながら、レオナ先輩がこちらに歩いてくるのを待った。
「おはようございます、殿下」
まるで可憐な一輪の花のように、とマナーの先生に口酸っぱく言われていたことを心に唱えながら可愛らしく微笑む。
するとラギー先輩がブッと口元を押さえて吹き出した。ジャックは難しい顔をして何とか笑いを堪えている。レオナ先輩に至っては顔を背けて肩を震わせて笑っていた。みんなヒドイ! と頬を膨らませると、またユウ様、とターシャに窘められた。
「……随分、様になったじゃねぇか……お転婆娘が、まるでプリンセス、みたい、だ、な……ククッ」
堪えきれないというように笑うレオナ先輩を睨み上げてプイッとそっぽを向くと、あー笑った笑った、と目尻に浮かんだ涙を拭ったラギー先輩が眉を下げて口を開いた。
「ユウくん、折角のお淑やかなお嬢様が無邪気に手を振ってちゃ何もかも台無しっスよー」
「……だから、そう思って、やり直したんです」
「次はやり直さずに挨拶できるといいっスね」
これはきっと次もやるぞ、というラギー先輩の顔にますますむくれていると、もうすっかりいつも通りのジャックが頭を掻いて言った。
「まぁでも……人は急に変われないし、無邪気でお転婆な方がお前らしいと思う」
悪気なんて全くないであろう真っ直ぐなジャックの言葉の受け止め方がわからなくて、むくれたまま唇を尖らせて不満を口にした。
「それって……今言われると、褒められてるのか嫌味言われてるのか全然わからないよ……」
もー、と頬を膨らませながら眉を吊り上げると、レオナ先輩はニヤリと笑って私の頭に手を置いた。
「意地悪な男に捕まって可哀想になァ。嫌なら今すぐ逃げたっていいんだぜ?」
嫌味ったらしくそう言ったレオナ先輩はポンポンと私の頭を叩いている。
余裕ぶっているけれど、それが本心でないことはわかる。
ぷぅ、と膨らませた頬を萎めながら、頭の上に載せられたレオナ先輩の手を取った。
精一杯口角を持ち上げて揶揄うフリをしている臆病者にわからせてやる。
私の頭から下ろした手をぎゅっと握り締めて、そんなに怖がらなくていいと伝わるよう、柔らかく微笑んだ。
「逃げたいのはレオナ先輩の方じゃないですか?」
「なッ……」
「散々私から逃げまくって、とうとう逃げられないところまで来ちゃいましたね? いいんですよ、私は結婚式当日に捨てられたって。レオナ先輩が帰ってきて正式に結婚してくれるまでずーっと待ってますから」
フフン、と鼻を高くして言ってやると、私の横でターシャがピュウと口笛を吹いた。
どんなに突き放されても、スッポンみたいに齧り付いて最後の最後までレオナ先輩の手を離さずにいたから、今、私はここにいる。
もう何があっても、何を言われたって絶対にレオナ先輩から離れないと覚悟を決めた私は強いんだ。
胸を張って精一杯小さな身体を大きく見せる。私は逃げるわけがないし、逃げるならレオナ先輩の方なのでは? と堂々としていると、ぶはっ、と盛大に誰かが吹き出した。堪えきれなくなったとでも言いたげなラギー先輩が、口元を押さえながらレオナ先輩の背中を叩く。
「クッ……ふッ……い、言われちゃいましたね、レオナさん! どーなんスか、逃げるんスか? 今ならまだ逃げられますよ」
大きく肩を揺らしてケラケラ笑っているラギー先輩をレオナ先輩はぎろりと睨みつけてフンと鼻を鳴らした。
「……逃げねぇよ。逃げるわけねぇだろ」
行くぞ、と踵を返したレオナ先輩はピンと背筋を伸ばして歩いていく。
慌ててそれを追い掛けながらその堂々とした背中を見つめた。
王族として洗練された所作を身に付けている先輩に恥じないよう、私も顎を引いてしゃんと背を伸ばして歩く。
今日私たちは結婚式を挙げる。
やっと、レオナ先輩の隣に並んで歩ける日が来たんだ。
真っ直ぐ前を向くレオナ先輩の横顔を見上げて、思わず顔が綻んだ。
* * *
「ユウ様、少しだけ上を向いてください」
ターシャが顎を少し持ち上げるのに合わせて顔を上げると、柔らかくて大きなブラシが頬や額を撫でていく。さらりと二往復したのを確認してからゆっくりと目を開けると、嬉しそうに微笑むターシャと目が合った。
「さすが私。完璧に仕上がったわ」
さぁ鏡を見て、と手渡された手鏡を覗き込むと、衣装のリハーサルのときより明るく仕上がった自分が居て目を見開いた。
「うわぁ……すごい……なんでぇ……?」
「スペシャルなケアのおかげですね。あと、仕上げのパウダーをリハーサルで使ったものよりパール多めのキラキラ増し増しにしましたから」
どうだ、と言わんばかりに胸を張っているターシャにありがとうと伝えつつ、もう一度鏡を見つめる。
確かに肌のポテンシャルが底上げされているのもあるだろうけれど、顔だけじゃなくデコルテにもパウダーが施されていて光の乱反射が眩しい。ヴィル先輩の特訓を頑張っていたときよりもすごい成果だ。今日の式にはヴィル先輩も参列してくれるそうだし、今日の私を見たらさすがのヴィル先輩も褒めてくれるかも。
にまにまと緩んでくる頬を何とか触らないよう表情筋に力を入れると、鏡に反射する自分が眩しくて思わず目を瞑った。
これ、外で目を開けていられるのかなと不安になっていると、ターシャがニヤリと笑って耳許に囁いた。
「眩しすぎてレオナ殿下の目が潰れちゃうかも」
ニタニタと悪戯っぽい笑みを浮かべているターシャは満足そうに頷いて私の手から鏡を取る。それから準備されていたミモザのブーケを私に手渡した。
私が持ちやすいように、持ち手部分が太い束にならないよう調節されたブーケはとても豪華で、明るい黄色が今日を祝福してくれているようだ。
生花の自然な香りに頬を綻ばせながら、うーん、と首を傾げた。
「……それは……ないでしょ、有り得ないよ」
ないない、と否定しながら眉を下げて苦笑いを返す。するとターシャは手を腰に突いてフンと鼻を鳴らした。
「わかんないわよ? だって一生に一度の花嫁衣装なのよ? 私がこんなに最高に仕上げたんだから『この世界の誰よりも美しい!』くらい言ってくれないと」
大袈裟な演技でそう言うターシャに、首を傾けながら答える。
「……いやー……言わないと思うよー? 先輩は私の見た目とかどうでもいいと思うし」
女性に対して見た目でどうこう言うタイプでも無さそうだし、ご自身が大変美形でらっしゃるのだから、私の見た目なんて気にしてないと思う。素直にそう告げると思い切り眉を寄せたターシャが、これ以上無いくらい顔を歪ませながら口を開いた。
「はぁー? 何それ、一国の王子にもなるとそんな態度も許されるの!? 夕焼けの草原出身の男なのに女性に対する褒め言葉のひとつも出ないとか有り得るわけ?」
有り得ない有り得ない! と目を三角にしているターシャを宥めつつ、過去の出来事を思い出してみる。
「うーん……女性を褒めたり敬ったりが苦手なわけじゃないと思うよ? 計算してそれをやってるところもあるけど。ただ……」
「ただ?」
グイグイと迫ってくるターシャの勢いに圧されているのを感じながら、ぽつぽつと口を開いた。
「今まで、その……私……綺麗、とか言われたことないし」
「ハァァァァァァ!?」
「ちょっ、声が大きい!!!」
慌ててターシャの口を押さえると、衝立の向こうからご準備できましたか? と声を掛けられた。どうしようとおろおろしていると、ターシャが私の手を引き剥がして、まだ少しお時間掛かります! と平気な顔で答えた。
その平然とした態度にぱちくりと瞬きしていると、ターシャはキッと眉を寄せてひそひそ続きを話し始めた。
「綺麗って言われたことないとか有り得ないでしょ? そうなんじゃないかと思ってたけどレオナ殿下ってやっぱり朴念仁なわけ?」
「ぼ、朴念仁ではないと思うよ? 他の女性はサラッとあしらったりするし……かわいい、は言われたことあるけど、綺麗って言われたこと、そういえばなかったなぁ、ってだけで」
「なにそれー」
「五つも歳下だし、私いつまで経っても子どもっぽいし。だから綺麗とかそういうのとは違うんだよ」
そもそもレオナ先輩は、きっと今でも私なんて軽くあしらえると思ってそうだ。だからずっと私と向き合おうとしなかったんだろうし。
いろんなことがうまく転んで私は婚約者の立場を手に入れたけれど、結婚式のリハーサルだって私は緊張しっぱなしだったのにレオナ先輩はサラーッとこなしちゃうし。
この世界で生きるととうの昔に私は決意を固めていたけれど、レオナ先輩は未だに私が自分の世界へ帰る方法を探してそう。
何それ泣いちゃう。
「……レオナ先輩のこと、私は本当に好きだけど。どうしてもあの人にしがみついていたいのは私だから……結婚を決めてくれたのも絆されちゃっただけなのかもね」
まぁ結婚を決意したのはレオナ先輩なので一生手放すつもりありませんけど! と腰に手を突いて胸を張ると、ターシャは深々と溜め息を吐いて私の肩を叩いた。
「……ユウにそういうこと言わせる辺り、レオナ殿下も相当お子様よ。どっこいどっこいだわ」
ヤダヤダ、と呆れたように首を振ったターシャは私の手を引いてゆっくりと立ち上がらせた。
それからご準備ができました! と衝立の向こうに声を掛ける。すると待っていましたと言わんばかりに部屋の中央を仕切っていた衝立が取り払われていく。そしてその向こうから、私と一緒に準備室へ入ったレオナ先輩が、この日のために誂えられた婚礼衣装に身を包んで現れた。
「……わ……ど、どうしよ」
白を基調にした衣装に金の装飾。それら全部がレオナ先輩の肌の色を引き立てるように輝いている。緩く、でも丁寧に纏められた髪は、一筋の乱れもなく肩から背中へと流れてまるで豊かな鬣のよう。学生時代はよく見たけれど、今日は明るいアイラインが目蓋に引かれていていつもより一層切れ長の目を強調していた。
「ま、待って、ねぇ待って。ターシャどうしよう」
「……ユウ様。落ち着いてくださいませ」
「む、無理だよ! ねぇターシャ、スマホ取って!」
「……ユウ様」
「カッコイイとかそんなレベルじゃないよカッコイイ通り越して美の象徴だよはやく写真に撮らなきゃ消えちゃったらどうしようはやくスマホ取ってターシャ!!!」
レオナ先輩から目を離せないまま、ターシャに向かって手だけをあわあわと動かす。するとレオナ先輩がハァァと眉を寄せながら深く溜め息を吐いた。
「……写真はこの後撮るっつっただろうが。宮廷のカメラマンの前で記念撮影。もう忘れたのか?」
「そ! それは! だって! 顔が! いつもと違うから!!!」
「ハァ?」
「それ! 今のその顔! そういう普段の姿は撮れないじゃないですか! ターシャはやく!!!」
はいはい、とほとんど素が出た状態のターシャがやっとスマホとブーケを交換してくれて、私はパシャシャシャと連写で写真を撮り始める。
嫌々そうな顔をしているレオナ先輩も、乱れていく自分の衣装も無視して撮影に臨んでいると、ゴホン、と場の空気を切り換えるような咳払いが響いた。
「ユウ様、ドレスが乱れてらっしゃいます。撮影のお時間も迫っておりますので……ターシャ」
「はい、ダラス様。さ、ユウ様こちらへ。裾の乱れを整えましょう」
「あぁぁあああぁぁぁー……まだ足りないのにー……」
今回の総取締を務める宰相のダラスさんが眉をひくつかせながら笑顔を浮かべている。
それでも諦められないとスマホを構えようとしたところでブッハ! とラギー先輩が吹き出す声が聞こえた。ハッとしてそちらを見るとジャックはまた難しい顔で肩を震わせているし、ラギー先輩は一度吹き出したことでスッキリしたのか澄ました顔でレオナ先輩の側に控えている。
もう一度響いたダラスさんの咳払いに、またやらかしてしまった、と眉をハの字にして大人しくターシャに手を引かれて姿見の前に戻った。
「……やばい……やってしまった」
ぐぬぬ、と唇を噛んでされるがままになっていると、テキパキと衣装を整えたターシャがぼそりと呟いた。
「なにやってんのよ」
「だって……びっくりするくらいカッコイイ……」
「……そーね。ユウはそういう子でした」
眉を下げてクスリと笑ったターシャは、ふぅ、と息を吐いて私からスマホを取り上げる。そして再び私にブーケを手渡してから微笑んだ。
「ではユウ様。皆様がお待ちです。参りましょう」
「……うぅ……はい」
ホントこういうところがダメなんだろうな、と反省しつつターシャに手を引いてもらいながら歩く。ドアのところでラギー先輩たちと話をしているレオナ先輩の姿が見えて、やっぱり胸が高鳴った。
こんなにカッコイイんだから今日のお式でまたファンが増えちゃうんだろうなぁ、と後ろ姿を見つめていると、こちらに気付いたレオナ先輩と目が合った。
目を合わせたまま隣に並んで、レオナ先輩を見上げながらふわりと微笑む。
「先ほどはお見苦しいお姿をお見せしました。とってもお似合いです。今日もすごくカッコイイ」
一生懸命澄まして言ってみたけれど、いつも以上に美しく着飾ったレオナ先輩に、ンフフと緩んだ声が漏れてしまう。ターシャはそんな私にこっそり肘鉄をお見舞いしてきた。咎める意味も揶揄う意味も込められたその痛みにびくりと顔を引き締める。今のもやらかしに入るだろうかと冷や冷やしていると、レオナ先輩は照れたような納得したような表情を浮かべて小さく頷いた。
「……ン」
「え、何それカワイイ」
思わず呟いたらまた後ろで、ブッフォ! とラギー先輩が吹き出して、ユウ様! とダラスさんが笑顔のままで叫んでいる。
スミマセン! と大きく返事をしながら、私こんな調子で本当に無事結婚式を終えられるのかしらと不安になってしまう。
それでもさり気なく差し出されるレオナ先輩の腕に手を掛けると、この人となら大丈夫と思えてくるから不思議だ。
「お待たせしました。行きましょうか」
「あぁ」
小さく返事をくれたレオナ先輩に微笑んで、明るい陽射しが差し込んでくる廊下へ歩き出した。
* * *
「撮影はこれで以上になります。お疲れさまでございました」
ほ、と息を吐くとすぐに控えの従者がやってきてメイクの崩れや衣装の乱れのチェックが始まる。あっという間に最終チェックが終わり、手を引かれて大きな扉の前まで連れて来られた。
あぁいよいよ、と扉を見上げると、ここまで一緒に付き添ってくれていた従者の人たちが一斉に捌けていく。
「扉が開くまでこちらでお待ちくださいませ」
この場に残っていた扉を開く係と思われる人が頭を下げたのに合わせて自分もペコリと頭を下げると、ク、と小さい笑い声が隣から漏れ聞こえる。
「……いつまで慣れねぇんだよ。いい加減ペコペコしてねぇで堂々としたらどうだ?」
「……生まれてからずっと王族のレオナ先輩と一緒にしないでください。私は一般家庭の出身なんです」
ぷくりと膨れながらレオナ先輩を見上げると、レオナ先輩はほんの少しだけ笑ってすぐいつもの表情に戻った。
やっぱりカッコイイなぁ、とその横顔を見つめながらひとつだけ深呼吸をする。
落ち着き払ったレオナ先輩の顔に、緊張しているのは私だけなんだなぁと深呼吸を繰り返していると、そろりと肩を抱き寄せられてどきりと肩が跳ねた。
「緊張しなくていい。お前はいつも通り笑ってろ」
レオナ先輩の大きな手のひらから伝わる少し高めの体温に胸が早鐘を打ち始める。
これはこれから儀式が始まるという緊張だけじゃない。口から心臓が飛び出してしまいそうなドキドキで、じわじわ顔が赤みを帯びていくのがわかって慌てて俯いた。
ひぇ、と悲鳴を上げそうになるのを何とか堪えて唇を引き締めると、フッと笑ったレオナ先輩が私の背中をポンと叩いた。
「こんなもんただの公務だと思やいいだろ」
「私はその公務自体がはじめてなんですけどね?!」
ワッと思い切り叫ぶと何となく肩の力も抜けて緊張が解れた気がしてくる。さっきまであんなにガチガチだったのに不思議だ、とミモザのブーケを持ち直すとレオナ先輩がまた笑った。
「それでいい。お前はいつも通りでいいんだよ」
さぁ行くぞ、と小さく声を掛けられて、レオナ先輩が私にそっと肘を差し出した。
男の人にエスコートしてもらうこと自体は慣れているはずなのに、相手がレオナ先輩だというだけでドキドキと胸が高鳴るから堪らない。
きゅう、と苦しくなる胸を深呼吸で宥めてから、そろりとレオナ先輩の腕に手を絡めた。
「……ご準備はよろしいでしょうか?」
「問題ない」
「それでは開扉いたします」
ドアの両側からそれぞれ取っ手が引かれて、キィ、と高い音とともに明るい日射しが差し込んでくる。一瞬だけ眩しさに目を細めると、リハーサルとは違う、たくさんの人たちが椅子に座って式が始まるのを待っていた。
ひゅ、と喉が縮むのを感じて身を固くすると、ドアのところで控えていた女の子たちが勢いよく空に向かって花びらを撒き散らしていく。
赤や黄色、白にオレンジ、時折交じるピンクが確認できたところでレオナ先輩が固まったままの私を誘導するように歩き始めた。
釣られるようにゆっくりと歩みを進めると、花びら隊の少女たちも一緒に講堂の中央に引かれた赤いカーペットを進み始める。
私たちが歩くところに花びらの雨が舞い、私たちを見ている人たちのところへもひらひらと花びらが降り注ぐ。白を基調とした講堂の中が一気に華やかになる光景に目が奪われて、自分の状況を忘れてしまいそうだ。
色鮮やかなこの舞台が自分とレオナ先輩のためのもので、自分たちがこの場の主役なのだという事実に震えてしまう。震えを誤魔化すように思わずレオナ先輩の腕を掴む手にきゅっと力を込める。すると、そっと優しく手を引かれて、ふとレオナ先輩を見上げた。
陽射しが差し込んで、花びらに光がきらきらと反射する。その光を堂々と受け止めていたレオナ先輩が穏やかに微笑んで私に視線を移した。
たった一瞬だったけれど、目が合った瞬間、大丈夫だと伝えてくれているようで、トクンと胸が高鳴る。
あぁ、私、本当にこの人の隣を歩いてもいいんだ、と唐突に胸が苦しくなって、じわりと熱くなる瞼を誤魔化しながら胸を張って歩いた。
せめて、この人が後ろ指を指されることのないように、今日の式を堂々と終えなければいけない。
レオナ先輩からやっぱり止めたと言われるまで、この場所は私のものだ。
誰にだって奪わせやしない。
レオナ先輩のエスコートに恥じないよう、ピンと背筋を伸ばして祭壇までの道のりを歩いていく。
顎は引いて、首がぐらつかないように。
ヒールに惑わされて躓かないよう、まっすぐ足を動かして踵から下ろさずつま先と同時に着地させるように。
今日のために何度も何度も繰り返し練習した。
私こそがレオナ先輩の正妻なのだと、歩く姿、振る舞いで世界中の人に知らしめる。
この人の隣で、この人を笑顔にするのは私なんだと、レオナ先輩の隣で自信を持って笑っていたい。
花びら隊の女の子たちが最後の花を空に向かって大きく投げる。ひらひらと花の舞うなか、レオナ先輩のエスコートに導かれて、今日のために飾り付けられた祭壇の前に並んだ。そこに立つ祭司様と目を合わせると、打ち合わせ通りに祭司様が祝辞の唄を奏で始める。
とうとうと謳われるサバンナの命の輝きを聞きながら、粛々と進んでいく儀式の手順を頭のなかで丁寧に辿っていく。
禊ぎを終え、王家の書物に結婚の証であるサインを書き、祝辞が終われば誓いの言葉を交わす。
レオナ先輩にも、ダラスさんにも祭司様にも、繰り返し付き合ってもらってリハーサルを重ねてきた。
大丈夫、大丈夫。
あとは誓いの言葉を交わすだけ。
祝辞の唄が静かに終わって、祭司様がこちらに合図をする。
レオナ先輩の『私と共に生きてくださいますか』の問い掛けに、私は『ハイ』とひと言返すだけだ。
「では新郎、レオナ・キングスカラー。新婦、ユウ・クロウリーに誓いの言葉を」
リハーサルの通りに祭司様が式を進めていく。
祭壇に向かっていた私たちはここで初めてお互い向き合う。ゆっくりとした動作でレオナ先輩が私の前に傅いた。
何度見たって見惚れてしまう綺麗な顔が私を見上げて、忠誠を誓うように右手を胸に置く。
まるで何かを乞うような視線に釘付けになりながら、返事の声が掠れてしまわないよう、自分を落ち着かせるため深呼吸を繰り返す。
レオナ先輩が喋ったあと、私はハイと告げるだけ。
大丈夫、何も難しいことはないんだから。
あぁ、でも緊張でおかしくなりそう。
はやく誓いの言葉を言って。
じゃないと失敗してしまうかも。
たったひと言すら言えないと非難されてしまわないよう、はやく私に『ハイ』と言わせて。
じっと願うようにレオナ先輩の視線に応えれば、レオナ先輩はフッと一瞬だけやわらかい表情を浮かべた。
それから、ひとつだけ息を吐いて、スッと真剣な表情を浮かべて口を開いた。
「ユウ」
静かな、低くて穏やかな声に呼ばれてハッと目を見開く。
「……私はこの国の第二王子として生を受け、この国のために尽くすと信じていた。私の力はこの国のためになると、幼い私は疑わなかった。王族として恥じぬようたくさんのことを学び、その努力は必ず自らの助けになると研鑽に励んだ。しかし、私に与えられた力はこの国で最も恐れられる力。どんなに足掻こうと奪い尽くすことしかできない恐怖の力。人々はその力を恐れ、私を恐れた。努力は報われない。私の力は私にそれを知らしめ、絶望の淵に立たされた私に諦念を与えた」
シン、と空気が静まる音が聞こえる。
息をすることも忘れそうになりながら、レオナ先輩の視線に応えた。
「力は私に渇望を与え、私は自らの強大な力を振りかざし、強さを誇示した。そうすれば癒えぬ飢えはいつか満たされると信じ、傍若無人に振る舞い、自分のものにならない世界を呪った。だが、君との出会いが私を変えた。自らの渇きを癒やすのは力の強さではない。私の飢えは自分自身の強さでしか満たせないと教えてくれた。この地で生きる強さを持つ君と出会い、君の生き様に、私は教えられてばかりだった」
そこまで言ったレオナ先輩は、ふ、と力が抜けたように眉を下げた。それから、レオナ先輩は憑き物が落ちたように優しく微笑んで続ける。
「私は、自らの力が国の栄えの妨げになるのが怖かった。国のためと尽くしてきたのに、私自身がいつか全てを奪うのではないかと恐れていた。自分でも気付いていなかったその真意に、君は気付かせてくれた」
言いながら、ゆっくりと目を閉じるレオナ先輩から目を離すことができない。再び開かれた目が光を吸収してきらりと瞬く。涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、ぐっと唇を引き結んだ。
「君は水の精霊の加護を受け、飢えて干涸らびていた私の恵みの雨。己の恐怖に立ち向かう力と強大な力を御する強さを私に与えてくれた。私はもうなんびとからも、なにものも、決して奪ったりしない。国のため、民のため、私の全てを尽くすことを誓う。私とともに、この国の恵みの雨となるよう、これから先、何があろうと、どうか、私と共に生きてくれ」
願うように告げられた誓いの言葉が、ぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。苦しいくらいに痛む胸が呼吸を妨げて顔を顰めてしまいそうだ。
答えなければ。
応えなくちゃいけないのに。
与えられた言葉の重みを受け止めるので精一杯だ。
両手を広げたって全部抱えられるかどうか。
それくらい大きなものを受け取ってしまった。
全部全部返したい。
手を伸ばして、この人の手を掴んで、私だってと伝えたい。
苦しい。
こんなにも苦しい。
満たされて、溢れて、洪水を堰き止めるダムみたいになっている感情を落ち着けるように呼吸を繰り返していると、祭司様が静かな声で沈黙を破った。
「新婦、ユウ・クロウリー。誓いの言葉を」
ふわりと微笑む祭司様はこの状況をよくわかってくれているようで、私が落ち着くのを待つように優しく告げてくれる。
そのやわらかな気遣いが、自然と肩に入っていた力を解してくれた。
ふぅ、と目を閉じひとつだけ深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開いた。
「……はい。私はあなたと共に生きると誓います」
ぽろりと、涙が一粒頬を伝っていくのを感じる。
写真に撮られてしまっただろうか。
泣き顔だなんて悪い意味で捉えられてしまうかもしれない。
でも、こんな、こんなにも溢れる感情を抑えることなんてできないし、きっと悲しくて泣いているんじゃないと伝わるはずだ。
湧き上がる感情のままこぼれるように笑って、レオナ先輩に応える。するとレオナ先輩は安心したように顔を綻ばせてそっと私の手を取った。そのまま指の背に誓いの口付けをして、ゆっくりと立ち上がる。
「それでは新郎、レオナ・キングスカラー。新婦に契りの花冠の贈呈を」
祭司様が合図をすると、花びら隊のひとりがレオナ先輩の元へ生花をあしらった花冠を運んでくる。
丁寧な手付きでそれを受け取ったレオナ先輩は、式に参列している人々にそれが見えるよう美しい所作で花冠を掲げた。
それからゆっくりと私に向き合って、目を合わせて私にだけわかるよう頷いた。それを合図にそろりとお辞儀するように頭を少しだけ下げる。一歩だけ私に近付いたレオナ先輩がまるで重さなんて感じさせないように優しく花冠を私の頭に載せた。
レオナ先輩が元の位置へ戻ったことを確認してからゆっくりと姿勢を戻す。すると参列者のなかからパチパチとまばらな拍手が聞こえてきて、次第にそれは他の人たちにも共鳴し、あっという間に講堂全体を大きな拍手の音が包み込んだ。
王宮の正式な儀式。
本来であれば拍手喝采なんて起きないこの場所で、粛々と進むはずだった儀式が例外的な中断を余儀なくされている。
リハーサルでもこんな想定はされていなかった。
どう対処すればいいんだろう。
ぼーっと突っ立っているのはマズい気がする。
でもだからってこういうときどうすればいいかなんて台本はなかったし、こんな展開を乗り切るアドリブのレパートリーも持ち合わせていない。
ヒヤヒヤハラハラと事の成り行きを見守っていると、ピンと背筋を伸ばしたレオナ先輩が祭司様とアイコンタクトを交わして礼儀正しく参列者へ向き直った。
それからふわりと微笑んで片手を掲げると、一層拍手の音が大きくなる。そして、レオナ先輩が掲げた手を下ろした途端、拍手の音は一斉に鎮まり元の厳かな空間へと移り変わった。
あぁ、やっぱりこの人は王族の一員なんだな、と改めて思い知らされる。
再びシンとした講堂のなか、レオナ先輩は祭壇に向き直った。
それに合わせて私も祭壇に向かって姿勢を正すと、祭司様が両手を広げて祈りを捧げた。
「新たな夫婦の誕生に仕合わせ在れ。命の恵みがとこしえにふたりのもとへ降り注ぎますように」
祈りの言葉を授け終えた祭司様が祭壇から離れ、再び歌い始めるのを聞いて私たちはゆっくりと参列者に向き直った。
裾を乱さないよう注意しながら姿勢を正し、レオナ先輩と息を合わせてお辞儀をする。それからもう一度レオナ先輩にエスコートされながら赤い絨毯の上を歩いていった。
私たちの到着に合わせて開かれた大きな扉をくぐって、背筋を伸ばしながら参列者に振り返る。扉が閉まる前にレオナ先輩と最後のお辞儀をして、静かに大きな扉が閉まった。
パタン、と扉が閉まる音が聞こえてゆっくり五秒数えてから頭を上げる。
扉に向かってシャンと背を伸ばした途端、ドッといろんなものが押し寄せてきて、ふらりと身体のバランスが崩れた。
「ッ! おい、大丈夫か」
そのまま地べたにぺしゃりと崩れそうになるのをレオナ先輩が腰を抱いて支えてくれる。
急に来たイケメンのどアップにも心臓が爆発しそうで思わず小さく悲鳴を上げた。
「っ、だっ、だいじょうぶじゃない」
ひぇぇ、と目元を心許ない手のひらで覆い隠す。ふわふわと覚束ない身体はまだ芯を取り戻してくれなくて、レオナ先輩の腕から逃れることができなかった。
今にも落としてしまいそうになっていた私のブーケを取り上げたレオナ先輩は、すぐ側にいた従者にブーケを手渡して水を持ってくるように指示した。
「だから緊張しすぎるなっつっただろ……まだ式典は終わってねぇ。このあとすぐに民衆へのお披露目があるの忘れてんじゃねぇだろうな」
眉を寄せた険しい顔でそう言いながらも、レオナ先輩は私を落ち着かせるように呼吸に合わせてゆっくりと背中を撫でてくれる。
それに合わせて深呼吸を繰り返しながら、何とか自分の足でふらつく身体を支えた。
「わ、忘れてません忘れるわけないでしょ。今日一日、私とレオナ先輩はずっと主役って」
ダラスさんやマナーの先生に懇々と言われ続けたことを忘れるわけがない。
このあとはお披露目も兼ねて城下町でのパレード、それが終わってからは立食パーティ。
パーティの最後に私たちの結婚を祝う花火が打ち上げられて、やっと一日のスケジュールが終わる。
「ハッ。じゃあこの程度でへばってる場合じゃねぇことぐらいわかってんだろうが」
「だからってそれとこれとは別なんですよぉ!!!」
まだすぐそこに参列者の方々がいるということも忘れて、溢れそうな感情をそのままにワッと空に向かって叫ぶ。
「あんな……あんな、私あんなの聞いてない!!!」
「ハァ?」
「ああああんな、あんな、ぷろぽーず、みたいな……急に、あんなこと言われたって……誓いの言葉は『私と共に生きてくださいますか』って、そのあと『ハイ』って、何度も練習したのに! あんな、あんなっ!!!」
ついさっきの出来事を思い出してアワアワと赤くなる頬を押さえると、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたレオナ先輩がニタリと笑った。
「そりゃあ……言ってねぇからなァ?」
フン、と鼻を鳴らしながらそう告げたレオナ先輩は、どことなくよそよそしくて、あぁこれは照れているんだなと悟る。
こんなに堂々と胸を張って王族の役目を務めている人でも照れたりするんだと思えば、急にサプライズじみた悪戯が可愛いらしく感じて愛おしくなった。
「……みんなの前であんな素敵な誓いの言葉をくれるって、いつから決めてたんですか?」
「……そんなの教えるわけねぇだろ」
「じゃあ誰にも内緒でやったんですか?」
「いや……流石にダラスと祭司には伝えた。昨日」
「昨日って……びっくりされませんでした?」
「……別に。俺がやるって決めたんだからどうでもいいだろ」
「ふふ、横暴」
不貞腐れたように私から視線を外したレオナ先輩が愛おしくて、くふくふ笑いながらレオナ先輩に抱き付く。
ぎゅっと背中に腕を回して抱き締めれば、それに応えるようにそろりと抱き返してくれるのが嬉しくて、ますます腕の力を強くした。
「……レオナ先輩の隣で、ずっと一緒にいたいなって思ってるのは私だけだと思ってた」
こみ上げる愛おしさを隠すこともなくそう伝えると、レオナ先輩はぴるるっと耳だけ動かして何も答えずそろりと私から離れた。
「お前は……お前の存在が俺にとって都合が良かったから、お前との結婚を決めたと思ってんのか?」
「えっと……それは、その……だって、場の勢い、みたいな感じだったし」
実際、レオナ先輩の婚約破棄騒動のあと、あれよあれよと言う間に今日この日へ至ったのだし、私たちの間にはっきりプロポーズめいた何かがあったわけでもない。
だからと言って、差し出された手をがっちりと掴んだ私は、離すつもりも突っぱねるつもりもない。
寧ろレオナ先輩の気持ちが変わる前に手錠を掛けて離れないようにしておかなくちゃというくらいの魂胆でいる。
どこかの物語に登場する悲劇のヒロインのように『私は望まれて花嫁になったわけじゃない!』なんて泣き暮れるつもりは毛頭無い。
転がり込んできたぼた餅をみすみす他人に明け渡すくらいなら、とっとと腹の中に納めて捕まらないうちに逃亡する、くらいがこの世界ではちょうど良いと私は学園で学んだ。
何より、好きな人を自分のものにできる権利を目の前に差し出されて、可愛らしく『ご本人のお気持ち次第です』なんて涙を零す女の子に私はなれない――まぁ、ついこの前までレオナ先輩に本気でその気がないと思っていたから、王宮勤めを終えたら城下町へ降りてひっそりと一人で生きていく予定だったけれど。
卒業後はジャックと一緒に王宮の所属になるグリムとも別れて、正真正銘死ぬまで一人で暮らすための家を探さなきゃなー、と思っていたところに、最後の最後で私に手を差し出してくれたからその手を掴んだだけで。
チャンスは掴み損ねるな、形振り構わずとにかくしがみ付け、っておばあちゃんも言ってたし。
私は全てを捨ててレオナ先輩の手を掴んだけれど、この人には捨てられないものがたくさんあるのも知っているから、ただずっと側にいるにはどうしたらいいかって考えた結果の行動が今日なわけで。
レオナ先輩が実際にどうなのか、なんて私は知らない。
「……まぁ……ちゃんと話をする間もなく、バタバタでここまで来ちまったのは……悪いと、思ってる」
「いえ……それは別に……いろいろ、王族に対する評価が崩れかねない事態だったことは、私も理解してましたから」
婚約者、しかも国交を結ぶ為の政略結婚で、国中のみんなが喜んで受け入れていたお姫様が、実は心に決めた人が国にいるからこの話はなかったことに! なんて逃げ出すとは誰も想像していなかったと思う。
ただひとり、全ての顛末を見通し事を企てた東方の国の主である巫女様を除いて。
「私が巫女様から水の精霊の加護を受けていて、婚約者の成り代わりにちょうど良かったんだろうなって納得してますから。代替品だったとしても、好きな人と結婚できて私ハッピー、みたいな?」
この世界じゃこれくらい狡い生き方をしてないと生きていけないのは重々承知だ。
綺麗事で飾るくせ、いとも容易く手のひら返しして人を貶めるのが当たり前だった世界と決別した私には、それくらい不貞不貞しい生き方が似合っている。
その中でもこうして私にとっての幸せを掴むことができたんだからハッピーだ。
えへへ、と笑って首を傾げれば、レオナ先輩は目を見開いてから眉を顰めて深々と、本当に深々と思いっきり溜め息を吐いた。
「お前……俺の誓いの言葉を反故にする気か? 俺が外面だけであんなセリフをダラダラ口にすると?」
「え……いや……そんなことは……?」
「いいか、よく聞け。俺は世間に向けてあの言葉を言ったんじゃねぇ。ただお前に、お前にだけ伝わればいいと思って言ったんだ」
まっすぐに私を射抜くレオナ先輩の目は、あまりにも真剣だった。今にも吸い込まれそうな視線を見つめ返すと、苦しそうに眉を寄せたレオナ先輩が、静かに息を吐いて口を開いた。
「俺はお前のためにと思っていろいろやってきたが、そうじゃねぇって気付いた。だからこんなトコまで飛び込んできたお前を捕まえて、結婚するって決めたんだ。別にお前に水の精霊の加護がなくたって、俺にはお前だけだった」
そこまで言って、急に表情を固くしたレオナ先輩は、ほんの少しだけ俯いて、思い詰めたように続ける。
「お前だけは、お前の存在だけは奇跡なんてちゃちなモンで終わらせるつもりはねぇ。俺がお前に誓った言葉は、何一つ、着飾った嘘っぱちなんてねぇんだ」
緊張したように張り詰めた声。
式の間、ずっと緊張した素振りなんて見せなかったレオナ先輩が、僅かに掠れた声で喉から搾り出すように言った。
それから、緊張を誤魔化すように細く息を吐いて、口角を持ち上げながら私を見つめる。
「……で? それを聞いて返事はどうなんだ? ユウ」
やっぱり反故にするか? と皮肉を演じてレオナ先輩は笑った。
「別にいいんだぜ? 公にはされちゃいねぇが、俺は一度婚約者に逃げられてるからなァ。一回だろうが二回だろうが誤差の範囲だ。お前だって大事な大事な結婚を勢いで決められたとなりゃァ世間も同情してくれる。『あぁお労しやプリンセス。悲劇に見舞われてお可哀想に』って国民も泣いて受け入れてくれるだろうよ。元々俺の評判なんて地を這ってんだ。この程度のことで名誉に傷は付かねぇ。さっきのサインだって俺が砂にしちまえば片がつく」
さぁどうする、と私が何か口を挟む隙を与えないよう矢継ぎ早にレオナ先輩は告げる。
ニヤニヤと笑ってはいるけれど、本当は笑ってなんていない。取り繕うことばかり上手くなって、自分の本心を素直に打ち明けられない不器用な人。装うばかりで自分の気持ちを覆い隠している、本当は優しい人なんだと。
そんなレオナ先輩の人柄をもう充分に理解しているから、どうしてそんなに臆病なの、と泣きたくなるのを必死に堪えた。
どうして、と問わなくても、この人の身に降り注ぎ続けた因果を考えれば、私を突き放し続けた理由もわかるから、私は諦めずにこの手を離すことはないのだと伝え続けるしかなかった。
ふぅ、と呼吸を整えてレオナ先輩の目を見つめる。
伝えなくては。
私にはどんなことがあってもあなただけだし、逃げたりしないと伝えなくては。
ぐっと詰まる喉の痛みを堪えて口を開くと、一瞬だけ怯えた目がゆらりと揺れる。
あぁ、とその痛みを感じ取りながら、批難したい気持ちでいっぱいになった。
「……全部私から奪ったくせに……どうして最後まで奪ってくれないの」
ずっと追いかけて、それこそ国籍をくれたという繋がりだけを頼りにここまで追いかけてきたのに、今更私が逃げ出すとでも本当に思っているんだろうか。
逃げ道を指差して今なら見逃してやるなんて言うこの人がちょっぴり憎くて、批難めいた口調になってしまうのは許してほしい。
私だってレオナ先輩が大人に成りきれないように、どこまでも受け入れられる大人にはまだ成れない。
だけどきっと、私が全てを受け止めることができる大人だったら、私たちの関係は破綻していた。
欠けたところを埋め合うパズルのピースのような、それぞれ足りないものを持っている不恰好な私たちだから、突き放されても諦めずに付き纏って、今こうして隣に在る事が自然になるまで、関係を保てたんだと思う。
どちらかが癒やし満たす結びつきだとしたら、枯れ果てるまで奪い尽くして二人とも果ててしまう未来が待っていた。
だって人はとてつもなく強欲だ。
満たされない渇きは際限なんてない。
無償の愛は吸い尽くされて、意図も簡単に餓えて枯れ果ててしまう。
満たされない欲求は、自分で満たさなければどこまでも強欲で限度を知らない。
私の言葉を聞いて僅かに目を見開いたレオナ先輩は、キュッと唇を引き結んで表情を固くしてしまった。
私の差し出した手を突き放し続けるくせに、いつその手が翻されるのかと怯えているくせに。
精一杯強がって逃げるならアッチだぞと言わずにはいられないこの人が愛おしい。
それから、この歪な愛情表現が止められないこの人でしか、私の欠けたものは癒やせないと、いい加減わかってほしかった。
「レオナ先輩」
ぴくりと震える耳が愛おしい。
突き放すくせに拒むことはできない、どこまでも不器用なこの人が愛おしくて堪らない。
「奪ってくれないなら私から捧げるわ。全部、全部受け取ってくれなきゃ嫌よ。ずっと、ずーっと。私と一緒に生きて。私の手を離さないで」
絶対なんて一方的に縛りつけるのは難しい。
でも二人がそうありたいと望むことなら、この結びつきだって確かなものにできる気がした。
私がこの世界に呼ばれたみたいに、運命や奇跡なんてこの世界でもそうそう起きることじゃない。
でも自分たちが出会って関係を繋いできたことだって、ありふれた日々の些事として簡単に片付けることは難しかった。
たくさんの出会いがあったこの世界で、この人と出会って、ここまで歩んでこられた事実を信じて、これからもこの人の隣で笑っていたい。
あふれるような愛しさを胸に、そっとレオナ先輩に近付いて固く握り締められた手を両手で包み込む。強張った拳を優しく解すようにひと撫でしてから、ふわりと笑って嬉しさで溢れてしまう笑顔を隠さずに言った。
「私、レオナ先輩が好きです。大好きです」
もういらないと叫んでも、私に絶望を運んでくるしかしないあの世界から、自らの足で歩いていけるこの世界に来られただけじゃない。
私に大切な人を与えてくれたこの世界は、もう私の全てだ。
その世界が産み出した臆病なこの人が好き。
強くて、かっこよくて、気高くて、ちょっと我が儘で、意地悪なところもあって、でも懐に入れた人間には優しい、不器用で、私の前ではほんの少しかわいいレオナ先輩が、大好きなんだ。
「私ね、誰にも負けないくらいレオナ先輩のことが好きだから。五月蝿いって言われても、もう伝えるのを止めないわ」
覚悟しててね、と顔をクシャクシャにして笑ってみせる。するとレオナ先輩は一瞬だけ泣きそうな表情を浮かべて、何もかも吹っ切れたような清々しい悪い顔をして笑った。
「……熱烈すぎて、火傷しちまいそうだ」
それでも端々から垣間見える喜びの交じった笑顔に嬉しくなってレオナ先輩に抱き着くと、同じ力でぎゅっと抱き締め返してくれる。そんな恋人のようなやり取りが嬉しくて、思わず顔が綻んでしまう。
「ふふ、火傷はすぐに治療しなきゃ……重症度は?」
「Ⅲ度だな。致命傷だ。王族をキズモノにしたんだ、責任取ってもらわねぇとなァ?」
「んふふ……任せてください。一生掛けて償いますので」
「よろしく頼むぜ? 俺は繊細なんでなァ、毎日親身になって診てくれねぇとすぐ悪くなっちまう」
「それは大変。結婚しておいてちょうど良かったですねぇ」
「あぁ、我ながら審美眼の高さに涙が出そうだ」
くすくすと笑いあってお互いの顔を近付ける。こつりと額を合わせて甘えるようにうりうりすると、嬉しそうに目を細めたレオナ先輩が擽ったそうに鼻先をくっ付けた。
初めてにも等しい、まだ初々しさの残る触れ合い。
恋人同士がイチャイチャするってこういうことなのかな、とますますレオナ先輩の引き締まった身体に力を込めると、あの、と小さい声が私たちの間に飛び込んできた。
「あの……大変申し訳ございませんが……その、レオナ殿下……そろそろお時間が……」
びくりと肩を跳ねさせて目を見開いた私たちは、やっと自分たちが式典のまだまだ途中であることを思い出して、ケラケラと笑い出してしまう。
「お前があんまりにも情熱的だから新しいお妃様の御披露目を忘れるところだった」
ニヤニヤと揶揄うように笑うレオナ先輩に、惚けたフリをして私も笑う。
「えー、私のせいですか? いつもの横暴な先輩だったら空気を読めとかムードを考えろとか言いそうなのに」
それを聞いてそばに控えていた人たちがびくりと顔を強張らせた。
レオナ先輩はそんなことで従者の人たちに怒ったりはしないけど、普段からレオナ先輩に着いているわけじゃないこの人たちはそんなこと知らないし、まだまだ気難しい第二王子の印象のままなんだと思う。
いずれ少しずつ誤解が解けて、本当はかわいいところのある優しい人だとわかってくれる人が増えるといいな。
柔らかなその想いを胸に抱えて、大丈夫ですよ、とそばにいた人たちに目線で合図しながら笑顔を返す。
「俺は優しいからなァ? 些細なことで臣下に文句を言ったりはしねぇよ」
だろ? と目を細めて意地悪く笑うレオナ先輩は、悪びれた様子もなくフンと鼻を鳴らしている。ラギー先輩が聞いていたらそんなことないっス! と全力で抗議してきそうな言い方に、思わずアハハと声を上げてしまった。
その様子にオロオロしていた従者の人たちも、どうやら悪い空気ではないらしいと察して移動に向けて準備をし始めた。静かに、でも少し緊張感のある空気に変化して、ふぅ、とひと息吐いてからピンと背筋を伸ばした。
今日の式典はまだ始まったばかり。
残っている公務に向けて気持ちを切り替えようと一歩踏み出すと、先に歩き出していたレオナ先輩が足を止めて振り返った。
「あとな、ユウ」
振り返りざま、目を細めて笑ったレオナ先輩は、数歩先に進んでいた距離をわざわざ私の隣へ戻ってきて口を開いた。
「もうひとつ、お前に言いてぇことがある」
「……なんですか?」
「俺はもう先輩じゃねぇ。レオナだ」
さぁ行くぞ、と私をエスコートする先輩は、今まで見た表情のなかで一番嬉しそうだった。
* * *
「ユウ様チェック終わりました!」
「レオナ殿下も完了してます!」
「まっ、待って、お水、お水飲ませてください!」
「オイ誰か。ユウに水を持ってきてやってくれ。さっき飲み損ねた」
レオナ先輩の掛け声に従者の一人がパッと駆け出して何処かへ消えていく。
衣装を整えたり髪やメイクを直したりしているうちにカラカラに渇いた喉のことを思い出して、とてもじゃないけどこのまま日照りのなかを車でパレードするなんて耐えられそうになかった。
「お待たせ致しました! ユウ様、お水でございます」
ありがとう、とコップを受け取ってコクコクと喉を潤す。既に準備が整っているレオナ先輩は私の準備が整うのを待ってくれている。コップいっぱいの水をすっかり飲み干してからブーケを受け取って、レオナ先輩の隣に並んだ。
「お待たせしました! レオナ先輩」
「先輩じゃねぇ、レオナ」
「あっ、え、えっと……レオナ、さん」
「おう」
満足そうに笑ったレオナ先輩がそっと肘を差し出してくれる。まだドキドキする胸を何とか鎮めながらそっと手を添えた。すると準備が整ったことを確認した警備の人たちが王宮の外へ繋がる扉を開けて、城下町へ繋がる門に続く通路が目の前に広がった。
今日はいつもと違ってここにも赤い絨毯が引かれている。警備の人たちに導かれながら、まっすぐに伸びる絨毯の上を歩いて門の前まで二人で歩いていく。次第に大きくなる歓声に、門の向こうでたくさんの人々が集まっているのが窺えた。門を開放する前に二人揃って姿勢を正す。自分を落ち着かせるために深呼吸をすると、ここまでエスコートしてきてくれたレオナ先輩がチラリと私の様子を窺った。
「大丈夫か?」
小さく囁かれた問いかけは歓声に紛れていてもちゃんと耳に届く。もう一度深呼吸をしてから眉を下げて笑った。
「ちょっとびっくりするくらい自分でも緊張してます。何て言うか、普通こんなに注目を浴びることってないから」
国家レベルで執り行われる式典の主役が一般家庭の出身である自分だなんてそうそうあることじゃない。
自分の身に降りかかっている緊張を素直に吐露すると、レオナ先輩はふわりと笑って目を閉じた。
「大丈夫だ。みんなお前を歓迎してる。外で歓声上げてる民衆は、お前の姿をひと目見ようと集まったんだ。笑顔で手を振ってやればいい」
ニヤリと笑って、たくさん練習したんだろ? とレオナ先輩は続けた。
「胸を張って、自分を見てくれる国民へ応えるように笑顔で手を振る。ただそれだけだ。難しいことじゃねぇ」
「そう簡単に言いますけどね、私はそれがはじめてなんですよ!? 小さいときから慣れてらっしゃるであろうレオナ先輩と違って!」
「先輩じゃねぇ、レオナだ」
ツンとそっぽを向いてしまったレオナ先輩は子どもみたいなのに格好良くて様になるのが悔しい。
ぐぅぅ、と歯を噛み締めながら慣れない呼び方に何とか慣れるよう口を動かす。
「レ……レオナ、さん、は、子どもの頃からこういった機会はしょっちゅうだったのかもしれませんけど。私は一般庶民なので! こんなにたくさんの人のなかでにこにこ手を振るなんて有り得ないんですよ!」
「……そんなに言うならちょっと今やってみろよ。最後の練習だ」
ホラ、と言ってレオナ先輩はこちらに向き直る。さぁどうぞ、と腕を組んで威張っている様子は学園にいた頃の横柄な態度とちっとも変わっていなくて、思わず笑ってしまいそうになる。笑いを堪えるように呼吸を落ち着けてから、マナーの先生に教わったことをひとつひとつ思い出しつつ、レオナ先輩に向かって手を振った。
「……肩に力が入りすぎだ。もっと力を抜け。気負う必要はねぇんだよ」
「そうは言ってもですね……一気に現実が押し寄せてきてて全くついて行けないっていうか」
毎日が目まぐるしかったからこそ目を背けていられたけれど、ハイ今日からアナタ王族です! と言われて、わかりました! ってノリで応えられる人なんているんだろうか。普通に考えていないと思う。
ふむ、と何か考え込む様に顎に手を当てたレオナ先輩が、よしわかった、と頷いて背筋を正す。
「何がわかったんですか?」
「俺が手本を見せてやる」
「はぇぇっ!?」
「俺のロイヤルウェイビングは貴重だからなァ。一回しかやらねぇ。しっかり見ておけよ」
そう言ってふわりと微笑んだレオナ先輩は私としっかり目を合わせる。それから穏やかに手を振って柔和な微笑みのまま少しだけ首を傾げた。
「ヴッ……イケメンのシャワーで浄化されそう……」
「ハッ。そりゃどうも。これで緊張はどっかへすっ飛んだろ」
「……確かに……緊張はどこかへ行ってしまいましたね」
「よかったな。俺に感謝しろよ」
もうすっかりいつもの悪い笑顔を湛えて腕を組んでいる先輩は、さっきまでのロイヤル溢れる気高いオーラがすっかり消し飛んでしまっている。
「……勿体なくないですか。さっきのスペシャリティロイヤルな感じで民衆の方々にも手を振って差し上げればいいのに」
王子様という気質は生まれ持ってのものなのか、後から備わるものなのかはわからないけれど、折角たくさんの人たちが集まってくれているのだから、さっきのロイヤルスマイルでみんなに手を振ってあげればいいのに。
そう思って思わず呟くと苦虫を噛み潰したように眉を寄せたレオナ先輩が、ウンザリしたようにふるふると首を振った。
「みんなお前を見に来てる。俺が手を振ったって意味ねぇよ」
「そんなことないです! レオナ先輩のことを見るために来てる人だっているわ!」
「いねぇよ、そんな奴」
フン、と不貞腐れたように目を背けたレオナ先輩は、まるで事実を受け入れられないと言いたげな横顔で続ける。
「兄貴ならともかく、嫌われ者の第二王子に興味がある奴なんて」
「そのお耳は飾りなの!? 私よりよく聞こえるっていつも自慢するクセに!」
もう! とレオナ先輩の腕を引いて門の向こうを指差す。
「ほら、聞こえる! レオナ先輩を呼ぶ声が!」
ユウ様、と私を呼ぶ声や結婚万歳、という掛け声に紛れて届く、レオナ殿下おめでとうの声。私にだって聞こえているんだからレオナ先輩に聞こえていないわけがない。
「その可愛いお耳で聞き取れないなら私が代わりに言ってあげますね! レオナ先輩おめでとう、結婚おめでとう、これで夕焼けの草原は安泰、五穀豊穣、無病息災……えぇっと、それから」
「……わかった! わかったから!」
レオナ先輩の耳にも届くよう背伸びしていた私を引き剥がして、レオナ先輩は顔を顰めてぴるぴると耳を震わせている。
グッと険しい顔をしているけれど目元がほんの少し赤くて、怒っているんじゃないことがわかる。
かわいい、照れてる。
にこにこと綻んでしまう顔を何とか引き締めながら、レオナ先輩の腕に手を添えて門に向かって背筋を伸ばした。
コホン、と誤魔化すように咳払いをしたレオナ先輩は、姿勢を正してからぼそりと小さく呟く。
「……聞こえてる。ちゃんと」
遠くを見るような眼差しでピンと耳を立てたレオナ先輩は、そっと胸に手を当てて複雑な表情をして笑った。
「俺がこの国に帰ってきてからやってきたことが、ちょっとでも民のためになってるのかと思うと……感動で泣いちまいそうだ」
ハン、とふざけた口調で言っているけれど、少しだけ震えた声色がレオナ先輩が、本当に感動していることを教えてくれる。
私だけじゃない、レオナ先輩も歓迎する民の声に心打たれているのがわかって、ほんのちょっぴり泣きそうになった。
「それより。名前」
「え?」
「いい加減先輩はやめてくれ」
「あっ」
「いつまでも伴侶に先輩なんて呼び方されちゃ堪んねぇからなァ」
ニヤリと笑って私の顔を覗き込んだレオナ先輩は、清々しい顔をして前に向き直った。
「今日から俺の番なんだ。これからお前をお披露目するのに、『先輩』なんて他人行儀じゃァこれから先が思いやられる」
そう言いながらもこの状況を楽しんでいそうなレオナ先輩に、眉を下げてそっと歩み寄った。
「ごめんなさい。レオナさん、これからもよろしくお願いします」
「あぁ」
準備整いました! 開門します! の声とともに門扉が開かれる。ワァァ、と目に見えそうなほど大きな歓声が上がって、ポン、と弾ける音と一緒に花びらが空を舞った。一瞬だけ音に怯んで肩を竦めてしまうけれど、気遣うようにこちらを見たレオナさんに頷いてまっすぐ自分が歩いていく道へと視線を移した。
門扉のそばから街道までは従者の人たちや王宮に仕えている人たちが集まっていて、みんな思い思いの歓声を上げながら私たちに向かって花びらの雨をまき散らしている。パレード用の車へと続く絨毯がどんどん花びらで敷き詰められていくなかをレオナさんにエスコートされながら歩いた。
おめでとうございます! という声に笑顔を返していると、その中にターシャや王宮で一緒に働いていた人たちの姿を見つけてブーケを持った手を振る。するとみんな大きな声でおめでとうユウ! と返してくれて、公の場であることも忘れて嬉しさで思わず顔が綻んだ。
少し歩くとジャックに抱えられたグリムと、その隣にラギー先輩がいて、花びらを魔法で降り注がせながら二人ともおめでとう! と声を掛けてくれる。レオナさんと顔を見合わせながら微笑んで、そのまま街道まで歩いていく。
街道が近付くにつれて、王宮の関係者から民間の取材陣へと人だかりの中身が変わり、警備に誘導されながら今日のために王宮まで集まってくれた民衆のなかを抜けていく。
中には花束を持参してくれた人たちもいて、花束を受け取ろうと手を伸ばすと警備の人たちが慌てて止めようと一瞬騒動になりかけた。
それでもすぐにレオナさんが警備に指示を出して魔法での防犯チェックを済ませたあと、受け取ったたくさんの花束を私に手渡してくれる。
その中から私は白のガーベラを一本取り出した。レオナさんを手招きして、自分が着けている花冠と同じ位置が見えるよう屈んでもらう。自分の花冠と同じ花を、丁寧にレオナさんの髪の毛に飾り付ける。予期せぬお揃いを身に纏った私たちは、目を合わせて微笑み合った。
「王弟陛下ご夫婦がお車に乗り込まれます! 皆さま危険ですので少し離れてお待ちください!」
警備の掛け声に合わせて民衆が退いた瞬間を狙い、サッとオープンカーの後部座席に乗り込む。そのままシートに座るのではなく、パレード用にトランク部分を改造した座席へ座った。安全装置の固定魔法と防護魔法が施されたのを警備の人が確認してから、オープンカーを先導する警備車両に声を掛けた。
「車が発車いたします! 皆さま今一度、一歩退いてお待ちください!」
警備の合図で車と人だかりの間に腰の高さくらいの魔法障壁が起ち上がる。街道に沿って続くそれはガードレールの役割を果たして、集まっている人とパレードの車の間を隔ててくれた。
「王弟陛下ご夫婦が出発されます! 皆さまお二人に歓迎の拍手をよろしくお願いいたします!」
ワァァ! と一層増した歓声とともに弾けるような拍手が湧き起こって圧倒されそうだ。少し身を退いてしまったのをレオナさんが目敏く気付いて、そっと腰を抱き寄せてくれる。
「ありがとう、ごめんなさい」
「いや、いい。それより見ろ。みんなお前を見てる」
レオナさんは民衆からの拍手に応えながら笑顔で手を振っている。私も慌ててみんなに向かって手を振りながら、レオナさんにやんわりと身体を預けた。
「私だけじゃないわ。みんなレオナさんのこと見てる」
「お前だろ」
「そうかしら?」
くすくすと笑い合いながらその場にいる全員へ返すように手を振っていく。ゆっくりと走り始めたオープンカーは先導する警備車両と一定の距離を保ちながら街道を進んだ。
途切れることのない人だかり。上がる歓声と拍手に応えて手を振っていく。手を振る私に合わせるように手を振り返してくれる人もいて、その度に嬉しくてレオナさんへ笑顔を向ける。
レオナさんが私を支えるようにして腰を抱き寄せてくれているから、緊張なんてどこかへ飛んでいってしまった。
みんながレオナさんに手を振ってくれるのが嬉しくて、意識しなくても笑顔が保たれて手を振り返すことができる。どこまでも続いていく人だかりを走りながら、城下町から郊外へと抜けていく街道を進んでいった。
カラリと乾いた風が頬を撫でていくのを感じる。
今はそれさえも心地いい。
舗道が整備されていないスラムの手前まで来てゆっくりと車が折り返していく。
レオナさんが環境改善を進めたスラムは、以前ラギー先輩から聞いたものより幾分環境が整って見えた。
道路沿いに子どもたちが集まっていて、私たちに手を振ってくれている。それに応えるように手を振り返せば、レオナ王子ー! と子どもたちがぴょんぴょん跳ねながら元気よく両手を振りかざした。
「相変わらず元気のいい奴らだ」
何度か現地調査で会ったことのある子どもたちなのかもしれない。親しみを込めた笑顔で手を振っているレオナさんは私の腰を抱いたままそっと呟いた。
「私、この国に来てから城下町にもまだ行けてないから。スラムは初めて見ました」
「……こわい、と思うか?」
「いえ……こわくない、と言うと嘘になるかもしれませんけど。私の母国にも貧困地区はありましたから」
「……そうだったな」
過去に一度だけ、自分の生まれ故郷の貧困地区について話したことを思い出す。
格差改善のために政府がやったことはどんなことがあるのか、とレオナさんから問われて、朧気な歴史科目の記憶を辿りながら説明した。
そのときのレオナさんの表情は真剣そのもので、ただの興味本位で聞いているわけじゃないとわかったから、私も真剣に向き合った。
思えば、あの頃からレオナさんは国のためにできることを模索していたのかもしれない。
「誰もやらなかったことを、レオナさんがやろうとしてるんだから、きっとこの国はよくなりますよ」
パレードの折り返し地点で少し人が途切れたのをいいことにレオナさんに身体ごと向き合って話しかける。
するとレオナさんはほんの少しだけ目を見開いて、フンと笑いながら鼻を鳴らした。
「この程度で満足する俺じゃねぇ」
乾いた風を浴びながら、まっすぐそう答えたレオナさんに、恐る恐る問いかける。
「……まだ、玉座に就きたいですか?」
私の問い掛けにふるりと耳を震わせたレオナさんは、一瞬だけ顔を強張らせてから、そっと私を抱き寄せて言った。
「王になるだけがすべてじゃないと……お前が教えてくれたんだ」
そう言うレオナさんは、今にも泣きそうな、でも嬉しそうな顔をして、私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「今はもう……兄貴やチェカがいなくなれば、なんて、ほんの一欠片だって思いたくねぇんだよ」
あんなでも、俺の家族だ。
そう呟いたレオナ先輩は泣いているように見えた。
そろりと抱き締め返そうとする前にレオナさんは私から身体を離して、また聞こえてきた歓声に向かって清々しく笑って応えている。慣れたように手を振っているレオナさんに釣られて私も手を振ると、再びレオナさんは私の腰を抱いて身を寄せた。
触れ合う体温があたたかくて、優しくて、もう大丈夫なんだと目頭が熱くなった。
* * *
「ユウー! こっちなんだゾー!」
「グリム!」
呼ばれた方へ振り返ると元気よく飛び跳ねながらグリムがこちらに向かって手を振っていた。
その周りにはジャックやエース、デュースもいて、エペルやセベク、他にも先輩たちが集まっているようだった。
「レオナさん、行ってきてもいい?」
「そうだな。粗方挨拶しなきゃいけねぇ面々には挨拶したはずだ。アイツらんとこで飯でも食っとけ。水分も摂っとけよ」
「はーい」
レオナさんにエスコートされながら旧友たちが集まっているテーブルのそばまで歩く。
レオナさんはまだ王様のところで挨拶があるらしく、私を皆のところへ送り届けた後、すぐ賑やかな方へ戻っていってしまった。
「久し振り、みんな」
格式張らない立食パーティ。
私と繋がりのある人は王族や貴族とは無縁の人が多い。
それならば私のお披露目パーティはいろんな人が参加できる気軽なものがいいだろう。
そう配慮してくれたレオナさんや王様、ダラスさんには感謝しかない。
パーティが始まってから、たくさん初対面の人と挨拶をしてヘトヘトになっていた私は、肩肘張らずに付き合えるマブや学園での知り合いに囲まれて、ホッと胸を撫で下ろした。
「いやー、まさかユウの『レオナ先輩スキスキ!』がマジで結婚までしちゃうとは驚きだよねー」
マジびっくりだわーと言いながら、エースは自分のお皿に山盛り取ってきたチェリーパイをフォークで切り分けている。果肉たっぷりのチェリーパイを口に運んだエースは、それはそれは幸せそうに微笑んで、モグモグと味を楽しんでいる。その隣でデュースは名物の温泉たまごをモクモクとこれまた幸せそうに頬張っていて、大人になっても好物って変わらないんだなぁ、と妙に納得してしまった。
「おいエース! 子分はレオナと番になるためにめちゃくちゃ頑張ったんだゾ! レオナがよその……むぐぐっ」
「グリム! その話は内緒でしょ!」
慌ててグリムの口を押さえると、グリムはもごもごと口を動かしながらもコクコクと頷いて、そろりと私の手を離した。
「あー……そーだった。とにかく、レオナと子分はもう歴とした番だからな! お前の言う『いっぽーつーこー』とは違うんだゾ!」
えへん! とエースに向かって威張っているグリムに苦笑しつつ、自分も何か摘まもうとテーブルの周りを見回す。するとグリムのそばで食事を摂っていたジャックが小さなサンドイッチをお皿に並べて渡してくれる。有り難くそれを受け取ってグリムにも差し出した。
「グリム、お腹いっぱい食べた?」
「おう! 今日はたっくさんご馳走が出るってジャックから聞いてたからな! 子分が来る前にここにある料理全部取ってきて食べたんだゾ!」
それでも渡したサンドイッチをパクパクと食べ進めるグリムに笑みが溢れてしまう。
「オレ様、この国に来てからレディファーストも学んだからな。レディが料理を取ってたらちゃんとレディに譲ってから俺の分を取ったんだゾ!」
「ふふふ……えらいね、グリム」
「コイツ、本当に今も変わらずよく食べるから……料理載せた皿運ぶのが大変だったぞ」
「ありがとね、ジャック」
「お前も今しか食べるタイミングないんじゃないか? ちゃんと食って飲んどけよ」
「うん。ありがとう。さっきのサンドイッチ、もう一回貰ってもいい?」
「あぁ。向こうにたくさんあるから取ってきてやる。飲み物は何がいい?」
「水でいいかな。あればオレンジジュース」
「わかった。待ってろ」
料理が並ぶテーブルに向かったジャックの背中を見送りつつ、グリムから空いたお皿を受け取って配膳係に返した。
また新しい食べ物を欲しそうにしているグリムに、テーブルの上にあるものを説明していると、恐る恐るといった様子でエースが私たちに問い掛ける。
「ねぇねぇ……俺、ちょっと気になったんだけどさ。ユウとグリムって、今は一緒に暮らしてないの?」
二人の話してる雰囲気がそんな感じだったんだけど、というエースに、こくりと頷いて返事する。
「うん。グリムはジャックと一緒に魔法士専用の職員寮で暮らしてる」
今は一緒に住んでないの、と説明すると驚いたように目を見開いたエースが私とグリムを見比べながら言った。
「へぇ。なんかグリムとユウってずっと一緒だったから今も一緒なんだと思ってたわ」
「えっと……いろいろあって、私は住み処を点々としてたというか」
ふぅーんそーなんだ、と頷くエースはもう好奇心が満たされたのかそれ以上の追及はしてこない。そのことにホッとしながらテーブルにあったフルーツをグリムに渡すと、今まで私とグリムを見守っていたデュースがにこりと微笑んで口を開いた。
「でもよかったな。あんなに一心に追い掛けてたレオナ先輩と一緒になれるんだ。幸せになれよ」
デュースもエースも、私が四年の実習先を夕焼けの草原にした理由の半分は、レオナさんを追いかけたかったからだと知っている。だから二人とも、この結婚を感慨深く感じてくれているんだろう。
でも事実はちょっとだけ違う。だけど、それを正すのはいろいろ問題があって難しい。だから、私はひとつだけ訂正することに留めた。
「デュース。私もう幸せだよ」
これから幸せになるんじゃなくて、今もう充分幸せ。
そりゃもちろん、これからも幸せだし、ずっとずっと幸せだけれど。
多分この世界に生きると決めたあのときから。
レオナさんと結ばれることがなくたって、私はこの世界で幸せを手に入れた。
それに、幸せになるために結婚したんじゃなくて、ずっと隣にいるために結婚したんだから、デュースの『幸せになれよ』はちょっと違う。
これも深くは言えないけれど、ここだけはちゃんと訂正しておかないと、二人に悪い気がした。
「あーね。好きな人と結婚できて幸せー、ってヤツ?」
「ち、違うよそんなんじゃなくて」
「そうだよエース。結婚はスタートであってゴールじゃない。これは一般的にも広く言われていることだ」
「そーそー! まーでも、レオナくんがユウちゃんのこと蔑ろにするとは思えないけどねー」
「確かにな……どちらかと言うと愛妻家っぽいしな」
そう口々に言いながら懐かしいハーツラビュルのメンバーが私たちの輪に加わった。
「皆さんお久し振りです。お元気そうで何よりです」
学園にいた頃とは違う、社交界での挨拶で応えると、リドル先輩がにこりと微笑んで深く頷く。
「結婚おめでとう。すっかり見違えたね。君の努力の賜物だ」
「……ありがとうございます。嬉しいです」
「ホントホントー! 超見違えちゃった! やっぱり王宮に嫁ぐのって、大変なんじゃない?」
「う、えっと……まぁ、そうですね。毎日マナーの先生のご指導の下、練習に励みました」
ありゃりゃやっぱ大変なんだねー、とケイト先輩は眉を下げた。
「でもさー、ホント結婚おめでとうだよー! 影ながら応援してたお兄ちゃんとしては、やっとホッとできるってカンジ?」
「あはは……ご心配をお掛けしました。なんと無事キングスカラー家の嫁になれました」
「心配っていうより、身分の差とか、障害も苦労も多かっただろう? よく乗り越えて結婚を決意した、と感心してる部分もあるんだ」
困ったように笑いながらそう言うトレイ先輩に、思わずうるりと涙がこぼれそうになってきゅっと目頭に力を入れる。
「詳しいことを知っているわけじゃないが、本当に結婚おめでとう。これからも力になれることは何でも相談に乗るから遠慮なく言ってくれ」
「みんな……本当にありがとうございます。ちょっと感動で泣いちゃうかも」
「ユウさん、この度は結婚おめでとうございます。我々からも是非お祝いさせてください」
「俺も俺もー。小エビちゃん超キレイ。今日はおめでと」
「本当にお美しい。今日のお姿を拝見しますと、もうすっかりプリンセスと言っても過言ではありませんね。本日はご結婚おめでとうございます」
感動の涙が吹き飛ぶ勢いで登場したアズール先輩とフロイド先輩とジェイド先輩は、まるで最初からこの輪にいたかのようにニコニコと違和感なく輪に交じっている。でも、和やかな雰囲気が急にNRCらしい空気になったのだからこの三人の存在感はすごい。
「あ、ありがとうございます。アズール先輩、フロイド先輩、ジェイド先輩」
「それにしても……先程から、ユウさんはこの結婚について何か伏せていることがあるようだ。どうか我々に子細教えていただけませんか」
「はいストップ、ストーップ。これ以上ユウくんに近付いちゃダメっスよ」
「遅くなって悪い。アズール先輩、それ以上追及されるとなると俺たちも黙っちゃいませんよ」
そう言って私とアズール先輩たちの間に割って入ってきたラギー先輩とジャックが防壁になってくれて、ホッと肩の力を抜く。サッとジャックが手渡してくれた飲み物と食べ物を受け取りながら、ジャックの大きな背中の後ろに隠れた。
サバナクローとオクタヴィネルの面々がジリジリと緊迫した雰囲気で見つめ合っている。笑っているのに笑っていないそれぞれを、一歩離れたところでハーツラビュルの面々が見守っていた。
これは下手すると一大事だ、と、私は慌てて渇いた喉を潤すようにひとくちだけオレンジジュースを飲み干す。ふぅ、とひと息吐いてから、この場に流れるほんの少し不穏な空気を払拭するべくジャックの後ろから顔を覗かせた。
「いえ! 隠してることなんてありません! たとえ隠していたとしてもアズール先輩にだけは言えません!」
「おやおや、これはこれは……私は王弟妃様に嫌われているようだ。ボディガードにまで警戒されたとなっては迂闊に近付けませんね。寂しいです、かつては友人でしたのに」
あっコレうまく躱せてないパターンだ、と私は瞬時に判断する。助けを呼ぼうとしても今隣にレオナ先輩はいない。
上手い反論が出てこないと察したのか、アズール先輩は独特の微笑みを浮かべながら追撃してくる。
「それに……そこまでされると、何かあると自白しているようなものだ。ますます内容が知りたくなってしまう」
「それは野暮って言うんじゃないかな? アズール・アーシェングロットさん! 『夫婦には夫婦にしかわからないことがある』っていう言葉が世界にはあるんでしょう?」
「そうですぞ、アズール氏。夫婦の馴れ初めなんて聞かされても我々にとって起爆剤にしかならないのは自明の理。ましてやレオナ氏とユウ氏というNRCから生まれたとは思えないシンデレラ級のお二人のラブストーリーなんて聞かされたら拙者もう爆発するしかないでござる。っていうかユウ氏結婚おめでとう本当に結婚まで至るとはこちらも驚きっすわ。あとこれだけは言わせてくだされ。末永く爆発しろ」
「ありがとうございますイデア先輩。今日はタブレットじゃないんですね」
「いや、流石に王族様のパーティでタブレットは失礼がすぎるっていうのは拙者もわかるっていうかユウ氏の結婚パーティに招待されたんだからちゃんと正装してお祝いに駆けつけるのは当然でしょ」
目を逸らしながらもボソボソと喋り続けるイデア先輩の頬は照れのせいか少し赤い。流石兄さん! と明るいオルトくんの声に私も顔が綻ぶ。
「僕もユウに与えた祝福の因果のおかげでこうして式典に参加することができた。礼を言う。それからおめでとう、ユウ。これからのお前のために新たな祝福を授けよう」
「いいいいらない! これ以上祝福とか加護とかもういらないから! それに私たちそういうのなくてももう友達でしょ!?」
「何ッ?! ユウ! お前はマレウス様の祝福を拒否するというのか!!!」
「落ち着けセベク。声を慎め」
「そうじゃぞセベク。ここは祝いの場。もっと楽しく過ごさんと」
「なんだなんだ? 楽しそうだな! 宴が始まるのか? 俺も混ぜてくれ!」
「いやもう宴は始まってるだろ。これがパーティじゃなかったら何だって言うんだまったく……」
どんどん輪が大きくなってワイワイと盛り上がりはじめる。
これじゃあ結婚式のパーティというより同窓会みたいだ。
嬉しくなって皆の会話に耳を傾けていると、ラギー先輩とジャックがキョロキョロと周囲を警戒し始めた。
「どうしたんですか……?」
「別に、このメンバーが集まるなら足りない人間がいるなと思っただけだ」
「ユウくんは気にしなくていいっスよ。それよりちゃんと今のうちに食べて。俺たちはちょーっとだけ警戒しとくっスから」
「マーベラス! どんなときも警戒を怠らない。流石獅子の君(ロア・ドゥ・レオン)の守り人だ!」
「うおッ!」
「うわッ! だからなんで足音無しで俺たち獣人族の後ろに立てるんスか!」
「ハハ、気配を消すのは狩人として初歩中の初歩だよ。結婚おめでとう、トリックスター……いやプリンセス・ミニョンヌ」
「あ……ありがとうございます……し、心臓が飛び出ちゃうかと思った……」
「オーララ! 少し驚かせたかな? それにしても美しいね。実にトレビアンだ!」
「当たり前でしょ、ルーク。この子はアタシが育てたんだから。ユウ、本当に結婚おめでとう。ちゃんと様になってるわ」
「ヴィ、ヴィル先輩ぃ……私すっごく頑張りました、全然まだまだですけど、本当に頑張りました!」
「えぇ。式の様子も中継で見させてもらったわ。レオナのエスコートでもしっかりプリンセスだった。今日のアンタは何処に出しても恥ずかしくない王弟妃様よ」
「ユウサン、本当におめでとう。とっても綺麗だったよ。僕もヴィルサンたちと一緒に中継見てたんだ」
「エペルぅ、私もう泣いてもいいかな? すごく努力が報われて嬉しい……」
「ダメよ。我慢なさい! メイクが崩れちゃうわ」
あぁやっぱりヴィル先輩容赦ないと思いながらも、やっと全員揃ったことでいよいよパーティが同窓会の体を為し始める。
レオナさんがこの場にいられないのが寂しいな、と思いつつ、今日のパーティは私と違って公務的な意味合いも大きいから仕方がないと自分に言い聞かせる。
「それにしても、獅子の君(ロア・ドゥ・レオン)はこの集まりには来ないのかい? 僕たちはみんな旧知の仲だというのに」
「レオナさんはまだご挨拶が残ってるみたいで。私だけ先にこちらへお邪魔させていただいてます」
「そうなのか……残念だね。祝辞を届けたかったのに」
「あの男がユウをほったらかしになんてするわけないでしょ。そのうち来るわよ。それよりユウ、何も食べれてないんじゃないの? 今のうちに何か入れとかないと保たないわよ」
「そうですよね! みんなと喋っててそれどころじゃなかった! すみませんちょっといただきますね」
やっとジャックが持ってきてくれたフルーツの盛り合わせとサンドイッチに手を付ける。
ひとくちサイズにカットされたものばかりを選んできてくれたおかげで食べやすい。軽く食べてからほんの少し温くなったオレンジジュースで口を潤す。果汁の酸味が心地よくて、ここまでの疲れが吹き飛ぶようだ。
「ユウくん、足りてるっスか? 何か食べたいものある?」
「ありがとうございます、ラギー先輩。あんまり食べると苦しくなっちゃうからこのくらいで止めておきます。ただ喉が渇いてるのでお水が飲みたいかも……」
「わかった。水ね。ちょっと待ってて」
短いやり取りのあと、ジャックにこの場を離れることを伝えたラギー先輩は水を取りにドリンクサーバーが並ぶテーブルへと向かっていった。
ふぅ、と息を吐きながらも、じぃーっと隣から送られてくる視線が痛い。
サンドイッチを食べているときも、フルーツを味わっているときも感じていたその視線は未だ止むことが無く、一心に私に注がれている。居づらいな、とそれとなく顔を背けても刺すような眼差しが追いかけてきて、思わず口を開いた。
「あ、あの! ヴィル先輩! 何でしょうか!」
「アラ。ごめんなさいアタシったら。気になったことは追及しないといられない性分なのよ」
絶対嘘だ! と思いながら、何をダメ出しされるんだろうとヒヤヒヤしていると、私の前に立ったヴィル先輩が細くて綺麗な指先で私の顎をそっと持ち上げた。
「ヴィル先輩……?」
「ねぇ。仕上げのパウダー、何使ってるの? 王宮御用達?」
「オイ! 気安くユウに触るな」
パッと伸びてきた褐色の手がヴィル先輩の手首を掴んで私から引き離す。
突然のことにビックリした私たちは目をパチパチさせながら割り込んできた存在に目を移した。
「レ、レオナさん」
挨拶を終えたのか、水を取りに行ったラギー先輩と一緒に輪の中へ入ってきたレオナ先輩が不満そうな顔をして立っている。
「アラ。言うようになったじゃない。顔だけ男は卒業したってワケ?」
「ウルセェ。俺は俺だ」
「ヤダヤダ……俺様は嫌われるわよ? 王宮に戻ったからってユウにも王様ヅラしてるんじゃあ先が思い遣られるわ」
そう言ってレオナさんの手をスルリと払ったヴィル先輩は、ジト目で呆れたように首を振っている。
学生時代のレオナさんなら、すかさずグルルと喉を鳴らして威嚇していただろう。どうなることやら、とヒヤヒヤしていると、フンと鼻を鳴らして私の腰を抱いたレオナさんは、ニヤリと笑ってヴィル先輩を横目で流し見た。
「生涯の番に逃げられたなんて男が廃るからな。捨てられねぇよう精一杯努力してユウの気を惹き続けるのは当然だろ」
俺は当たり前のことをしているに過ぎねぇ、と続けたレオナさんに、輪になっていたメンバーが次々と思い思いの言葉を口にし始める。
「おやおや……僕にどんな花をプレゼントすればいいかご相談にいらっしゃったときと比べて随分成長なさったようです」
「プレゼント? そういやそんな相談されたこともあったな! 結局レオナはユウの気を引くために何を贈ったんだ?」
「プレゼントといえばバレンタインのときに自分だけまだ貰えてないー! ってレオナくん超拗ねてたよね!」
「いやー! ホント懐かしいっス! サバナのみんなで一生懸命考えたユウくんとの初デートプランをレオナさんにプレゼンしたのめちゃくちゃ楽しかったなー!」
「ユウからアタシの化粧品のニオイがするってキレ散らかしてた坊やとはホント大違い。ユウが育てたってヤツなのかしら?」
クスクスニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべながらそれぞれにレオナさんを煽っていく。いかにもNRCらしいみんなからの煽りに、レオナさんはウッと顰めっ面を浮かべている。私にとっても耳が痛くなる内容の煽りにぐぬぬと口を歪めていると、レオナさんがハァァ、と深く溜め息を吐いた。
これだからコイツらはと言いたげな顔でふるふると首を振ったレオナさんは、フッと口角を上げながら私の肩を抱き寄せて恭しくお辞儀をしてみせた。
「皆々様、その説はどうもお世話になりました。おかげで無事ユウを我が妻として王宮に迎えることができましたので、これからも皆々様には我々夫婦の成長を見守っていただきたく存じます」
わざとらしいくらいに演技がかった仕草と口調でそう告げたレオナさんは、だからお前らの心配はもう必要ねぇ、と言いたげで笑ってしまう。
思わず表情が崩れそうになるのを必死に堪えていると、腰を抱いていたはずの手が私の背中をほんの少しつねった。
「あ、イタイ。痛いですレオナさん」
笑ったり痛みに顔を歪めたりと忙しく表情を動かしていると、あー! とエースが取って付けたような大袈裟な態度で私たちを指差した。
「暴力反対ー! 奥さんを暴力で従わせようとするとかヤバいじゃん!」
「チッ……暴力じゃねぇよ」
「いや今絶対痛がってたじゃん! ユウもそんな男に大人しく従ってる必要ねぇから!」
「確かに、妹同然に可愛がってきた後輩がDVに遭っているとしたら……俺たちも黙ってられないな」
「そーそー。トド先輩、小エビちゃんがそういうプレイを望んだんならいーけどー。俺はそーは思えないんだよねー」
「今どき亭主関白なんて流行っとらんのはわしでもわかるぞ? 早めに態度を改めんと、そのうち三行半を突き付けられて終いじゃ」
「クソッ……テメェら……」
悪ノリしてレオナさんに釘を刺していく面々は、言い返せないレオナさんをニヤニヤ笑って冷やかしている。
「いや、あの! これはちょっとしたおふざけというか! 夫婦の戯れといいますか!」
あわあわしながらレオナさんの代わりに一生懸命言い返すと、じっと私たちの様子を窺っていたシルバーが重々しく口を開いた。
「ユウ、新婚生活はまだ始まったばかりだ。これから、今のように戯れで済ますことはできない辛いこともたくさんあるだろう。苦しいとき、君のそばに頼れる存在がいなければ、遠慮なく茨の谷を頼ってくれ。俺たちはいつでもお前を歓迎する」
「あ、えっと、うん」
シルバーが言うと何だかすごく重みのある言葉を、眉を下げつつ受け止める。
きっとそんなことは起きないと思うし、茨の谷を頼るときはもっと別の、例えば、レオナさんの魔法でもどうにもできないときとかであって、夫婦喧嘩の避難先に使うことはないと思う。
でもそれをシルバーにうまく伝えることができるだろうかと悩んでいるうちに、ニヤリと笑ったツノ太郎が長らしい堂々とした態度で首を傾げた。
「遠慮することはない。僕たちは友人なんだ。困ったときに助け合うのは当然のこと。それに、僕なら獅子の目を掻い潜ってユウを茨の谷に連れ出すのは造作もないからな。怒れる獅子を懲らしめるくらい目を瞑ってでもできる」
「……ンだとテメェ」
睨み合うレオナさんとツノ太郎の様子に、あーコレ学園でよく見たやつ! と一気に背筋が凍った。
同じ気配を察したジャックとラギー先輩も、ここでの大乱闘はどう考えてもマズい、と焦り始めたところで惚けた声が二人の間に割ってはいった。
「おやぁー? いいんですかこんなところで喧嘩して。何より私、こんなところで喧嘩をおっ始めるような男の下へ可愛い娘を嫁がせる悪いお父さんになりたくありません! 私、優しいので!」
「が、学園長!」
「結婚おめでとうございます流石私の娘世界で一番美しいのはユウさんアナタです間違いありません!!!」
いやホントにお美しい! と繰り返しながらニコニコと仮面越しに笑う学園長がこちらに歩いてくる。
その後ろにも懐かしい顔が勢揃いして私たちを取り囲んだ。
「学園長、ユウは貴方の娘ではないでしょう。貴方は名義を貸したまでの話だ」
「えぇっ! 名義を貸したんですから仮の親を名乗ってもいいじゃないですか! 私の名義はタダじゃないんですよ!」
「ですが我々は協議の上で学園長の名義が妥当であると判断しただけで、貴方が親になるという話を承諾したわけではなかったはずだ」
「そうですよ学園長。俺も愛弟子の為ならいくらでも名前は貸してやれるが格の意味で全員貴方一択に賛同したにすぎません」
「そうだよー。僕も可愛い可愛い小鬼ちゃんの為なら何だって用意してやれるけどね、世界に轟く名前だけは残念だけどOUTofStockなんだ」
「ウッ……みんな酷いです……いいじゃないですか、私憧れてたんです。お前に娘はやらん! って、ドラマで観るような修羅場。ね? キングスカラーくん、今からでも私に土下座してみません? 私、喜んで君のことを踏みつけにしますから! なに、君のお顔を傷付けるようなことはしませんよ、私、優しいので!」
先生たちの登場で、険悪だった空気が再び同窓会のような懐かしい雰囲気へと変化していく。
それでもヤイヤイと言い合っていた先生たちが学園長の言葉で一気に表情を変えてレオナさんに凄んだ。
「それを言うなら学園長、是非私もご一緒させていただきたい。ユウとの結婚についてキングスカラーに忠告したいことが山ほどある」
「公の祝いの場だからと鞭を置いてきたのが悔やまれるな……俺もお前を一から躾け直したいと思っていたところだ」
「愛弟子と結婚するんだから俺よりも逞しく強い男になると誓え!」
「小鬼ちゃんのために日々の小さな鬱憤を晴らす可愛い呪いのアイテムを沢山用意しておいたよ! いつでもサムの店においで」
先輩たちよりも遥か上回る怒涛の勢いで先生たちがジリジリとレオナさんに迫る。
さすがのレオナさんも先生たちの圧力に負けてほんのちょっぴり身体を退いている。そこはいつものふてぶてしさを発揮すればいいのに、と思うものの、どうも皆何かを勘違いしているような気がして首を傾げた。
やいのやいのと好き勝手言い出し始めそうな皆に向かって誤解を解こうと必死に叫んだ。
「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて!? 私とレオナさんは仲が悪いわけじゃ」
なんだか皆、私たちが夫婦としてうまくいかない前提で話しているようで心苦しい。
確かに、結婚に至るまでの道のりは平坦なものではなかったし、本当の本当にいろいろあった。
それに外側だけ見れば交際ゼロ日の電撃結婚でもあるから、普通に考えればそんなの絶対離婚するって心配されるのもわかる。
でも、私とレオナさんの四年間は、それこそ男女のお付き合いはしていなかったものの、他の人とは違う密な関係が存在していて、私の一方的な片思いだけじゃなかったはずだ。
世間一般と違うと言われても、そこはレオナさんは王族で、私は庶民だし仕方がないというか。
あれ、私、何だか言い訳してない?
一体誰に向けて言い訳してるんだろう、とぐるぐる頭のなかで考え始めると、ツンと鼻の奥が痛くなってくる。
そんなとき、レオナさんの深い深い溜め息が聞こえた。
「……お前ら……祝う気がねぇなら帰ってくれ」
怠そうな、不機嫌そうにも聞こえるレオナさんの低い声。
それはイライラを押し隠しているようにも聞こえて、私の心をザクリと抉った。
レオナさんの言葉に、ハタと気付かされて身を固くして俯く。
そうか。
私、みんなに祝ってほしかったんだ。
私にとっては望んだ結婚でも、レオナさんの周りの人にとってこれは望まれない結婚なのかもしれない、と考えなかったわけじゃない。
どんなにレオナさんのことが好きでも、最後の一歩がずっと踏み出せなかったのはそれが理由だと言っていい。
私の世界じゃ一般人がロイヤルファミリーに入ることはあっても、この世界は違うかもしれない。
それに、ずっとレオナさんを苦しめてきた王宮のしきたりや王宮そのものが、私なんかを受け入れてくれるかどうかなんて考えるまでもないことだと思っていた。
実際はあっさりと私は受け入れられて、こうして結婚式に至っているわけだけれど、それも、東方の国での加護があるからであって、私であるかどうかなんて王宮の人やこの国の人たちにはどうでもいいことなのかもしれない。
私が他の誰でもない私であることを知っているみんなは、きっと手放しで私とレオナさんを祝福してくれる、なんてどこか夢見がちな甘っちょろいことを期待していたんだなと気付いて、情けなさで笑いたくなった。
レオナさんと結婚できるからって浮かれすぎて忘れてた。
いくら私がこの世界で自分の居場所を手に入れたとしても私は所詮異分子。
もうあっちへ帰ることはできないとはいえ、元々この世界の人間じゃない。
これは私が望んだ結婚で、たまたまレオナさんが私を選んでくれたから成立しているだけで、みんなから祝福される結婚なんかじゃなかったんだ。
じわりと滲んでくる涙を誤魔化すようにぎゅっと目を瞑って唇を噛み締める。
それでも溢れそうになる涙を隠すように俯けた顔を上げられずにいると、異変に気付いたレオナさんがそっと私の腰を抱いて私の様子を窺った。
「ユウ、どうした? 疲れたのか?」
「ちが……ちが、います。だいじょうぶ」
揺れる声を誤魔化すように口元に手を当てたけれどもう駄目だった。ぽろぽろと溢れる涙が見つからないよう顔を背けても、その程度で隠し切れるわけもなくギョッと目を見開いたレオナさんが慌てたように私の背中を撫でた。
「オイ。なんで泣いて」
「あー! トド先輩泣かしたー!」
「ちょっとー! ユウを泣かすような男なんて俺は認めませんけどー!」
ブーブーと上がり始めるブーイングにふるふると首を振って震える喉を精一杯動かしながらレオナさんを庇う。
「ち、ちがうの。本当に違うの。ただ、みんながそうじゃなくても、私、本当にレオナさんの隣に立てて嬉しくて。ちょっとだけ、勘違いしてただけ。今、自分の立場を思い出して、みんながお祝いしてくれなくて当然だったな、って思い出してたところなの」
頬を伝っていく涙を拭うこともできず、何とか笑顔を浮かべてみんなに向き直った。
「あんまり嬉しくて忘れちゃってたよ。私、この世界の人間じゃないんだから、本当は、レオナ先輩と結婚なんてできる立場じゃないのにね。すごく、すごく嬉しかったから、忘れてたみたい」
本当にバカだよね、私、と力無く続ける。
本当に馬鹿だ。
自分とレオナ先輩を繋ぐものが、たとえ赤い糸で結ばれた運命だったとしても、それは他人に見えることはない。
私たちの間に起きたことの全ては私たちだけが知っていることで、私たち以外の人は誰も何も知らない。
知らない人からすれば、この結婚は奇妙に映っていても仕方がない。
そんな当たり前のことを、結婚に浮かれて忘れていた自分は、本当に馬鹿みたいだ。
驚いた顔で私の顔を見つめていたレオナさんが、ふと苦しそうに顔を歪める。そのまま私の涙を指で拭おうと手を伸ばしたところでヴィル先輩がそっとレオナさんの手を止めた。
「やめなさい、レオナ。メイクが崩れるわ」
そう言って私とレオナさんの間に入ったヴィル先輩は、自分のハンカチを内ポケットから取り出して、メイクの上からトントンと私の頬と目を優しく拭った。静かな表情で私の顔を整える作業を続けていたヴィル先輩は、丁寧に手を動かしながら困ったように笑って私の肩にそっと手を置いた。
「バカね。そんなことないわ。嬉しいに決まってるじゃない。アンタがずっとレオナのことを想ってたのはアタシもよく知ってるもの。でも、ちょっとイジメすぎちゃったわね。アンタがレオナと結婚できてよかったと思ってるのは本当なの」
涙を拭い終えたヴィル先輩が、そろりと私を抱き寄せて愛おしむように私の頭を撫でる。優しく労わるような慰めに、またほろりと涙がこぼれそうになる私を見て、ヴィル先輩はもう泣いちゃダメよと笑った。
「こんなに可愛い妹が、精魂込めて育て上げた本当に愛しい私の妹が、ずーっと一心に、この顔だけ男のことを想って一途に追っかけてたんだもの。アンタが幸せになれない未来なんて私が許さない。ただね、この男には数えきれないほど『ごちゃごちゃ考えてないでいい加減振り向いてやんなさいよ!』って思わされてきたワケ。だから今度はレオナがユウを追いかける番。レオナがこれ以上ないくらいもがき苦しんでいる様を私たちに見せつけてくれないと、とてもじゃないけどユウの隣にこの男が居るのを許せないってだけよ」
ヴィル先輩はニヤリと魔女のような笑みを浮かべてレオナさんに向き直る。
腰に左手を突いてフンと鼻を鳴らすヴィル先輩はそれはもう拝みたくなるくらい美しいモデルの立ち姿で、あまりの輝く美貌に、はわ、と変な声が出てしまった。
レオナさんの方がカッコイイはずなのにやっぱりこの人は世界的なモデルなんだなと感心しているとギロリとレオナさんに睨まれる。何も言ってないのに! と内心抗議しているとニヤニヤと意地悪な顔をしたヴィル先輩が私の肩を抱き寄せた。
「アラ……男の嫉妬は見苦しいんじゃない? 随分余裕がないのね?」
「……チッ」
ヴィル先輩の揶揄いにイラッとしたのか顔を顰めたレオナさんは、ハァァと深く溜め息を吐いてもう一度舌打ちする。
「余裕なんてあるわけねぇだろ。こっちはいろいろ必死なんだよ」
「フフ……いいじゃない。大きな猫ちゃんが猫被ってても可愛くないもの。精々振り回されて情けない姿を曝け出しなさい」
そうすればこの子も目が醒めるかもしれないわ、と腕を組んだヴィル先輩はとっても様になっている。
不快を隠すこともなく顕わにしているレオナさんは眉を寄せたまま黙り込んでいた。そんな二人のやり取りを見守りながら、恐る恐る手のひらを顔の横まで上げて口を開く。
「あの、ヴィル先輩」
突然二人の間に割って入ったからか、驚いたようにパッとこちらを見たヴィル先輩へしっかり目線を合わせて続ける。
「私、レオナさんのカッコ悪いところも全部含めてカッコイイと思ってます。レオナさんのどんな姿を見ても私の気持ちが変わることはないです」
ありのままの真実を真っ直ぐに伝える。それを聞いてパチパチと幾度か瞬きを繰り返したヴィル先輩は、ふっと微笑んで私の頭を優しく撫でてくれる。
「……ユウの方が一枚上手ね。妬けるを通り越して当てられちゃうわ」
「オイ……だから気安くユウに触るんじゃねぇ」
「可愛い妹を可愛がって何が悪いの? アタシがこの子を甘やかしたってアンタの元から離れるわけじゃないんだからいいじゃない。それとも、アンタは醜い独占欲に塗れてユウを閉じ込めてしまおうってワケ?」
ニヤニヤと笑うヴィル先輩をレオナさんは精一杯顔を顰めて睨み返している。一触即発の二人を何とか止めなくては、とぐるぐる回る頭を必死に動かしてバッと勢い良く挙手した。
「ああああの! レオナさんは私と結婚してくれましたけど、絶対私の方がレオナさんのこと好きなので! 私の方がレオナさんに手錠掛けてどこかに行っちゃわないようにするので必死なんです! だからレオナさんが嫉妬したりすることってないんじゃないでしょうか!!!」
そう。ぽっと出てきた何処かの国のお姫様にレオナさんを取られるなんて間抜けな失態をするつもりはない。
でも、遺跡に釣られてふらりと出掛けてしまうレオナさんや、新しい魔術書の解読に夢中になってしまうレオナさんの気を引き続けるために必死なのは私の方だ。
レオナさんが躍起になるなんてこの先きっと無いと思う。
「……えー……トド先輩、めっちゃ苦労するやつなんじゃないのコレェ……」
「僕も……今ちょっとだけレオナ先輩のことがかわいそうだなって思いました」
「暴力反対ー、とか言っちゃったけど、ユウがこの調子じゃあちょっとくらいユウのこと抓って気を引きたくなる気持ちもわかるわー……」
何故かヤレヤレといった様子でみんなが残念な目をして私を見つめている。そして憐れむような目をレオナさんに向けていた。
「みんなはまだ今日を垣間見ただけだからいいじゃないっスか……俺たちほぼ毎日この何故か上手くいかないキャッチボールを見続けてるんスよ……」
がっくりと肩を落としたラギー先輩に続いて、ジャックもわしわしと頭を掻きながら微妙な顔をして言った。
「まぁ……やっと素直になってくれただけ、きっとこれからは良い方向に転がっていくと俺は思います」
ほんの少し照れたように頬を染めたジャックに、みんなが訳知り顔をして私を見つめてくる。
その視線の刺さり方があまりにも居心地が悪くて、自分の衣装の乱れだとかメイクやヘアセットの崩れだとかを気にして身体中をペタペタと触ってみても違和感らしいものは見つけられない。
なんでみんなそんなにニヤニヤした顔で私を見るの?
そわそわと落ち着きなく目で見える範囲の確認をしていると、掌で顔を覆ったレオナさんが隣で大きく溜め息を吐いた。
「へ? や、あの? みんなどうしたの……?」
オロオロしながらみんなやレオナさんを見比べて視線を彷徨わせていると、ぶはっと笑い声を上げたエースが目尻に浮かぶ涙を指先で拭いながら答えた。
「ユウはレオナ先輩と結婚できてよかったね、ってコト! あとは……レオナ先輩ガンバレー、みたいな?」
「自業自得でしょ。ちゃんとユウと向き合って自分の気持ちを伝えてこなかったから悪いのよ」
「オレ様とにかく子分がレオナと番になって嬉しいんだゾ!」
「そうだそうだ! 今日は宴だー!」
「いやだからもう今パーティ始まってる」
やいのやいのと祝宴らしいムードを取り戻した輪の雰囲気に、ホッと胸を撫で下ろす。
「みんな……今日は来てくれてありがとうございます。祝ってもらえて、とても嬉しいです」
今更遅いかもしれないけれど精一杯淑女の仕草で礼儀正しくお辞儀をする。
すると誰からともなくパチパチと小さく拍手が広がって、おめでとうの言葉でその場が湧いた。みんなが笑顔で拍手を送ってくれるのが嬉しくて思わず顔を綻ばせる。
喜びを共有したくてレオナさんに顔を向けると、レオナさんも口元を綻ばせていた。私の視線に気付いたレオナさんは目を合わせてふわりと微笑んでから改めて私の腰を抱き寄せる。
そんな小さなやり取りが、本当にこの人と夫婦になれたんだと気付かせてくれる。
身を寄せ合って触れた体温が、じんわりと痺れるように胸の奥に染み渡った。
* * *
「おじさーん!」
城下町が見下ろせるルーフバルコニーへ続く扉の前。
薄暗闇のなかに元気いっぱいの明るい声が響いて振り向くと、チェカくんがこちらに向かってブンブンと手を振っていた。
「チェカ……時と場所を考えろ。今のお前の立場を忘れたのか?」
「……えへ。そうだった。レオナ王弟殿下、本日はご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます、チェカ王子。本日は私たち夫婦のためにこのような場を設けていただき恐縮でございます」
「だっておじさんの結婚式だもん。いっぱいお祝いしなくっちゃ」
「チェカ」
「あ、えっと」
「ハハ……レオナ、堅苦しいのはもういいんじゃないか。扉が開くまでは我々もプライベートだ」
「……兄貴」
「おめでとう、レオナ。ユウさん。今日は二人にとって素晴らしい一日になったかな」
ゆったりした口調でそう言った王様はにこりと微笑んでチェカくんの肩を撫でている。
私とレオナさんの結婚を快諾してくれたときと変わらない明るい雰囲気で頷きながら、王様は私を見つめて目尻に皺を寄せた。
「ユウさんは初めての公務だ。そろそろ疲れが出ていないかな? もう少しだけ、頑張ってくれ」
「はい」
「ユウさん、落ち着いたら私とお茶会しましょうね。お話したいことがいっぱいあるの」
「ありがとうございます。是非ご一緒させてください」
「……オイ、義姉さんに余計なこと言うんじゃねぇぞ」
「あら! いいじゃないいろいろ聞きたいもの!」
「余計な詮索は頼むからやめてくれ……他人が聞いて楽しい話なんてひとつもねぇぞ」
「そんなことないわよー。初めて会ったときの印象とか知りたいじゃない?」
「チッ……んなもん腹の足しにもなんねぇだろ」
そう言いながら顔を背けるレオナさんは、暗がりの中でもほんのり頬が赤らんでいるのがわかる。ピコピコと耳が忙しなく動いていている様は明らかに照れや羞恥を示していて、思わずくすりと微笑んだ。
「私は女子なのでお義姉さんとの女子会でお腹が膨れますよ?」
「……頼むから変なこと喋んなよ」
「わかってますよー」
「……全く信用できねぇ」
「えー、いいじゃないレオナ。私はユウさんとお喋りしてもっと仲良くなりたいわ」
「その笑顔が信用できねぇんだよ。俺はアンタのオモチャじゃねぇ」
「こらこらレオナ。いいじゃないか、女同士、積もる話もあるだろう……そろそろ時間だ。もうすぐ花火が始まる」
王様がそう言った途端、場の空気が和やかなものからスッと緊張感溢れるものに変化して、その場にいた全員が姿勢を正してドアに向き直った。私も慌てて姿勢を正すとレオナさんが肘を出してエスコートの姿勢を取ってくれる。微笑みながら肘に手を添えると、レオナさんもふわりと微笑み返してくれた。
がちゃり、と重たい扉が開かれるとワッと民衆の歓声が上がる。
まずは王様の家族が外に出て定位置まで歩いていく。上がる歓声にチェカくんや王妃様、王様がそれぞれ手を振って返事していった。少し歓声が落ち着いたところでアナウンスが入る。蕩々と読み上げられる祝辞を聞きながら私たちはゆっくりとバルコニーへと足を降ろす。同時にレオナさんと私の名前のアナウンスが響き渡って、再びワッと歓声が上がった。
先程までよりも遙かに大きな声の波を受け止めながらバルコニーの柵まで歩いていくと、歓声と共に大きな拍手が沸き起こった。もうすっかり夜だというのに日中の消耗を感じさせない勢いに一瞬呑まれそうになるけれど、にこりと微笑みながら民衆に向かって手を振った。
上がる歓声のなかに混じるレオナさんを讃える声に嬉しくなってレオナさんの腕を引くと、レオナさんはあくまで渋々だとでも言うように、ゆったり時間を掛けて面倒臭いという体を装って手を挙げる。
素直に喜びを表してもいいのに、と眉を下げつつも、更に沸き上がる歓声が嬉しくて綻ぶ顔をそのままにレオナさんへと身を寄せた。
「それでは王様より、本日の祝典へのお言葉を頂戴したいと思います」
止んでいたアナウンスが響いて、花火に向けての挨拶が始まる。
王様の祝辞を聞きながら、レオナさんの隣でほんの少し冷たい夜風を浴びた。僅かに触れ合うレオナさんの体温があたたかくてほっこりした気持ちになる。
身を寄せる私に気付いたのか、レオナさんは目立たないよう僅かに移動して、私に風が当たらないよう風除けになってくれた。
そんな気遣いも嬉しくて、綻ぶ顔をもう元には戻せそうになかった。
「今日誕生した新しい夫婦に盛大な拍手を!」
王様の拍手と共に、わぁー! と湧き起こる拍手は今日一番大きく感じる。
みんながレオナさんのことを祝福してくれていることがただただ嬉しい。
こんなにもたくさんの人たちがこの場に集まって、レオナさんに拍手と歓声を送ってくれている。もっとたくさんの人が本当のレオナさんを知ってくれれば、きっとこの国はもっと良くなるし明るい未来に近付くはず。
そう信じて、私もこれからは王族としてレオナさんの恥にならないよう気を付けなければ、と気を引き締めた。
拍手が少しずつ鎮まっていくなか、王様が従者の人たちに向けて合図をする。合図を受けた楽器隊が祝典のファンファーレを会場中に響かせると、空に向かって大きな花火が幾つも打ち上がった。
私の世界の花火とは違う、魔法で打ち上がる花火。
全て魔法で制御されたそれは事故の確率もグッと低く、オマケに色味も大きさも桁違いに派手で、学園で初めて見たときは感動のあまりしばらく何も言えなかった。
それが今、私とレオナさんのために打ち上げられている。
国の祝典のための打ち上げ花火だとしても、自分たちのために打ち上げられていると言ってもいいそれはどこまでも眩しくて、夜空に光るキラキラとした光の球から目を離すことができない。
チェカくんが私たちをイメージして選んだという緑と青の花火が次々に打ち上げられていって、みんな夢中になってそれを見つめていた。
「ユウ」
静かで落ち着いた響きの声が耳に届いてふと顔を上げると、真っ直ぐ花火を見つめていたレオナさんがゆっくりこちらに顔を向ける。
花火の光に照らされたレオナさんの表情はとても真剣で、美しさだけではない、ハッと息を呑むような気迫に包まれていた。
「……はい」
光が映り込んでチラチラと揺れる宝石のような目を見つめ返しながら小さく返事すると、レオナさんは一瞬だけ眉を寄せて深く息を吐いた。
閉じられた瞳がゆっくり開いて私を再び見つめる。息が止まってしまいそうになる張り詰めた雰囲気にゴクリと喉を鳴らしてしまう。
瞬く光を受け止めているレオナさんは、少しだけ緊張したように表情を強ばらせてから、思い詰めたようにゆっくりと口を開いた。
「もし……もしも、だ。これから先、お前が国へ帰る方法が見つかったとして……俺はもうお前を帰してやれない。狭量な男だと罵ってもいい。お前の四肢の自由を奪い逃げられねぇよう幽閉してでも、俺はお前をこの世界に繋ぎ止める。神に近い精霊の加護も、妖精族の長の祝福も持ってるお前のことだ。きっと何をしたって俺の元には留まってくれねぇんだろう。俺程度の存在が力に抗おうとしたって無駄なのは理解してる。それでも、それでもだ」
何かを決意したようにグッと唇を引き締めたレオナさんは、一旦自らを落ち着けるように深く息を吐いた。
そして覚悟を決めた目でじっと私を見つめた。
「この身が呪われたって、悪魔に魂を売ることになったって。俺はもう、お前を手離してやれない」
ゆらゆらと揺れる瞳は、まるで今にも泣き出しそうなくらい不安をたたえている。とても物騒なことを言っているようには思えないくらい怯えた目が私を見つめていて、目を離すことができなかった。
「昼間お前が言ったように、俺はお前から名前を奪い、明日を奪い、お前自身に残された祖国との繋がりも奪った。お前から奪うことしかできない俺は、いつか、お前の命すら、奪うかもしれねぇんだ」
苦しそうに告げられた言葉が痛くて、思わず眉をよせてしまう。それでも目を逸らしてはいけないと一生懸命その想いに応えるようにレオナさんを見つめ続けた。
そんなことない、と返すことも叶わないくらいきゅっと引き攣った喉は、どう頑張っても思うように動いてくれなくて、冷えてしまったレオナさんの手のひらをそっと両手で包み込むことしかできない。
あなたになら命だって捧げられる。
それでもいいと思えるくらい私にとってのレオナさんの存在は大きい。
名前を失ったのも、繋がりを失ったのも、この世界に生きるために全てを捨てることになったのも、全部レオナさんの手で下されたこと自体が幸せで、私はレオナさんに感謝したいくらいだった。
それがレオナさんにとって枷となってしまっていることもわかっていた。
それでも、その枷を利用してしまいたいと思うくらいには、私はこの世界に染まってしまっていて、私と深く繋がるその枷がこの美しい人を苦しめていることに悦びを覚えてしまうほど、私だって綺麗な物語の主人公からはかけ離れていた。
もっと私に囚われて、いっそ私を憎んでほしい。
こんなにも醜い執着をお互いに抱え続けられるなんて、幸せに暮らしましたとさで終わるお姫様の物語より、よほど幸せで残酷で美しくて、物語に終わりなんてないことを教えてくれる。
めでたしめでたしで終わる物語なんかより、死が二人を分かつまで共にあると大いに確信を持てる未来が待ってる。
目を閉じて、細く長く息を吐いたレオナさんは、吹っ切れたように真っ直ぐ私を見て言った。
「それでも……それでもお前は、俺のために生きてくれ」
視線と同じくらい、真っ直ぐに告げられたその言葉は、昼間に貰った言葉よりずっと純粋で、剥き出しの本心がそのまま込められていた。
打ち上げられた花火に照らされるレオナさんは今まで見たなかで一番キラキラ輝いていて、まるで魔法を使っている瞬間のように光を全身に纏っている。
運命の力に引き寄せられてこの世界に来た私なんかより、レオナさんの方がよっぽど魔法で作られた存在みたいだ。
手を伸ばして触れたら、泡になって消えてしまうんじゃないか。
そう思うくらい神秘的なレオナさんの姿に心を震わせる。
幻想ではない、そこに在る熱を確かめるために、そっと身を寄せて口を開いた。
「レオナさん、わたし」
震えて掠れた音が声になって小さく響く。
「この世界に来て、あなたに出会って、これまでのこと、後悔なんてひとつもない」
そろりと伸ばした指先でレオナさんの服の裾を掴む。
間違いなくお互いが生きて存在していることに私は歓喜するしかなかった。
「うれしい。すごく嬉しい。ずっと一緒なんだから」
ぽろりと一筋流れた涙は喜びの証。
私じゃ駄目なんだと諦めなくてよかった。
諦めそうになったときも支えてくれた皆に感謝したい。
そしてめげずに手を伸ばし続けた自分にも。
何があっても、これからだって大丈夫。
レオナさんが隣にいる。
それだけで充分だ。
「何度だって言うわ! 私、レオナさんのこと、ずっとずっと大好きよ!」
レオナさんと共にいられるなら、失った明日すら、新しく生まれ変わってこの世界で生きる糧になる。
私は明日を奪われたんじゃない。
新しい道を与えてもらった。
「……相変わらず、熱烈すぎて涙が出そうだ」
「あら……今なら泣いても誰も見てませんよ」
「お前が見てる」
「内緒にしてあげます」
「お心遣い痛み入るぜ」
「ふふ……良いお嫁さんでしょ?」
光を反射してきらりと光る涙を心に留めながら、まるで気にしていないとでもいうように胸を張る。
フハ、と耐えきれず笑い出したレオナさんは目元を覆って肩を僅かに揺らしていた。
最後に打ち上げられた大きな花火の音が広く響いて祝典の終わりを告げる。
「本当に、俺には勿体ないくらいだ」
音に紛れて呟かれたそれは、小さいけれど確かに私の耳にも届いた。
ふ、と柔らかく微笑んでレオナさんに体重を預ける。
「大事にしてくださいね」
「あぁ。もう俺のモンだからな。優しく丁寧に扱うさ」
そろりと抱き寄せられた身体は、思った以上にあたたかくて、愛おしさに満ちあふれていた。
コメントを残す