Failure is success in progress. - 4/4

モナコ公国から帰ってきた葵の様子がおかしいことに、薫と紫穂は当然気付いていた。話を聞いてみても、葵は何でもないと返すだけで、どうもいつもと違うようだった。どんなにやんわりとそれとなく探ってみても、ホンマ気にせんといて、と答えるばかり。いくらなんでもおかしい、と二人が考え始めた頃、賢木が薫と紫穂を呼び出した。
「……俺が、どうして君らを呼び出したのか、思い当たることはあるか?」
賢木はできるだけ冷静に、声が冷たくならないように努めた。紫穂と薫は顔を見合わせて、わからないといった様子でゆるゆると二人して首を振っている。
「……わからないのか」
はぁぁ、と賢木は深く溜め息を吐いて、額に手を遣った。賢木の座っている椅子がぎしりと音を立てる。賢木から少し離れたところで、二人は立ち尽くしていた。本当にわからない様子の二人に、もう一度溜め息を吐いて、賢木は重たい口を開く。
「……葵ちゃんを変に焚き付けたのは、君ら二人だな?」
賢木の鋭く細められた目が、紫穂と薫を射抜いた。その目の鋭さに、二人はびくりと身体を震わせる。
「葵ちゃんに、変な知識植え付けて煽ったのは、君たちだろ」
賢木は二人を睨みつけながら半ば断言するように言った。やっと何の話か頭が追いついた薫と紫穂は、普段にない賢木の様子に冷や汗が伝うのを感じた。しかし、薫は怯まなかった。
「へ、変な知識じゃないもん!ちゃんと勉強した知識だもん!」
「……じゃあ具体的に言ってみろ。葵ちゃんに教えたこと一から十まで全部!」
薫は賢木の強い口調に震えながらも何とか口を開いて答えた。
「女子大生モノのAVで見た、内容を、そのまま……」
何だか皆本に雷を落とされているような気分だと思いながら、薫は呟く。いつも怒るのは皆本の役割で、そのあとのフォローをするのが賢木だったからか、こんな様子の賢木を見るのは本当に初めてだ。そのせいか、最後の方はボソボソと尻すぼみになってしまったのは仕方ない。薫は賢木の視線から逃れるように目を逸らして、顔を俯かせた。賢木は何も言わず、黙って話を聞いている。
「……で?紫穂は?」
紫穂は自分に話を振られて、ぴくりと肩を震わせた。賢木の目は真っ直ぐに紫穂を見ている。
「わ、私は……男の人を誘惑するには、どうしたらいいか、とか、男の人は、どういうことが気持ちいいのか、とか、伝えただけ、よ」
紫穂は自分の声が少し震えていることに気付いたが、何とか最後まで言い切った。私たちは別に何も悪いことはしていないはずだ、と紫穂は考えていた。だからこそ、賢木の怒りの原因がわからない。震える手を叱咤しながら、紫穂は賢木の視線に応えていた。賢木は、一瞬苦しそうに眉を寄せて、ぎゅっと目を瞑ってから、はぁぁ、と深く溜め息を吐いた。
「……君らはさ、セックスをなんだと思ってるワケ?」
賢木はギッと椅子を鳴らしながら背もたれに身体を預けた。そしてそのまま、腕を組んで二人に向かって言葉を続ける。
「君らに一体セックスの何がわかんの?」
賢木の細められた目に、紫穂はまた肩を震わせた。そして、賢木の言葉にぴくりと眉が動く。賢木は自分たちをセックスを知らない子どもだと言いたいのだろうか。そんなことはないと言い返そうと思っても、何故かうまく言葉が出てこない。賢木の視線に負けないよう、キッと目に力を入れる。
「……薫ちゃんは知らねぇけど、紫穂はまだ経験ないはずだよな」
「……経験がないから、何だって言うの」
やっとの思いで出た紫穂の言葉に、賢木はぎゅっと眉を寄せて一息ついた。ゆるゆると頭を振って、賢木は子どもに言い聞かせるようにゆったりとした口調で告げる。
「AVとか……巷に溢れてるそういう類のモンは、快楽を享受するためのモンであって、セックスの教科書にはならねぇんだ」
賢木は、ゆっくりと、言葉ひとつひとつを丁寧に選ぶように続ける。
「……恋人同士がするセックスは、ただの快楽の共有じゃねぇんだよ」
賢木のまっすぐな視線が、二人を射抜く。賢木は自分の言葉ができるだけきちんと伝わるように、まっすぐに言葉をぶつけた。
「俺も、ああいうもんを見るなとは言わない。でも、それを、まだ何も知らない君たちが、セックスに活かそうとするのは、俺は、間違ってると思う」
普段とは違う、丁寧な言葉選びをする賢木に、薫と紫穂は、愕然とした。自分たちはただ、葵の初体験に協力しようと、自分たちの知っていることを授けただけだと思っていた。もし、それが間違いだったというのなら。帰国してから様子のおかしい葵に説明がつくし、自分たちはどうやらとんでもないことをしていたのではないか、という事実に行き当たる。
「君らは葵ちゃんの為にやったんだろうけど、君らがやったことは、何も知らない君たちが、何も知らない葵ちゃんに、間違った知識を与えて、葵ちゃんとバレットの初体験を潰したようなもんだ」
賢木の言葉は非常に柔らかいものだったが、告げられた内容があまりに衝撃的すぎて、二人はびくりと固まってしまった。自分たちは、親友の大切なハジメテを、潰してしまった。それは、二人にとって、抱えきれないほどの衝撃を与えていた。誰もが夢見る初体験を、しかも、親友のそれを、自分たちの手で、壊してしまった。やっと思考回路が追いついてきて、どちらともなく、カタカタと身体が震えてくるのを感じた。
「……ど、どうしよう、アタシ……」
ぽつり、と呟いた薫の声は、涙声で震えていた。わなわなと震える口を震える手で覆って、大きな目に涙を浮かばせている。紫穂も、大きく目を見開いて、手を震わせていた。
「とにかく、君らは人の大事な初体験を踏みにじったも同然なんだ。それをよーっく反省しろ」
賢木はきゅっと目を細めて、二人を見つめる。薫と紫穂は、自分たちの仕出かした事の重大さに震えながらも、何とか頷いた。
「……誠心誠意尽くして、葵ちゃんとバレットに謝れ。以上、解散」
賢木はそんな二人の様子に、ふぅ、と溜め息を吐きながら、できるだけ言葉がキツくならないように告げた。紫穂と薫は、賢木に向かって頭を下げて、すみませんでした、と呟いた。二人とも、頭を垂れてはいるが、自分のしたことをきちんと受け止めているようだった。恐らく、バレットと葵に心を込めて謝罪するだろう。ただ、と賢木は思った。この件に紫穂が加担していたという事実を、賢木は受け止めきれないでいた。
「……紫穂は残れ。話がある」
紫穂は賢木の声にびくりと身体を震わせた。他人が聞けばさっきまでの口調と変わらないように聞こえるかもしれない。でも、紫穂には伝わっていた。賢木の纏う空気が先程までとは違う。賢木はもうこちらを見てはいなかったが、紫穂は縋るように賢木を見つめた。
「……紫穂、先に行くね」
薫は二人の間に流れる空気に気付かず、落ち込んだ様子のまま、部屋を出て行ってしまった。賢木は一体何の話をするのだろう。部屋に残された紫穂は、不安に駆られながら、背中に冷や汗が伝うのを感じた。
「……紫穂」
賢木は自分の中にある何とも表現し難い気持ちを何とか抑えながら、紫穂の名を呼ぶ。紫穂は、その聞いたことがないほどのあまりに冷たい声の表情に身体の芯が震えるのを感じた。
「正直に言う。俺、めちゃめちゃ怒ってるよ」
賢木の声に、ぞわり、と背筋に嫌なものが走った。眉を寄せて、苦しそうに歪められた賢木の表情が、紫穂の心に刺さる。
「俺は、君のこと、すごく大事にしてきたつもりがあるんだけど」
伝わってなかった?と悲しげに笑う賢木は、ふ、と口元を歪めて紫穂を見つめる。
「俺の伝え方が足んなかったから、今回みてぇなこと、できたわけ?」
ふぅ、と溜め息をついて、賢木は前髪をくしゃりと掴んだ。
「俺が、君を大事にしてるその気持ちを、一ミリでも葵ちゃんに分けてあげられなかったわけ?」
あ、と小さく紫穂の声が漏れた。賢木の言葉がじわりじわりと紫穂の中に広がって、カタカタと身体が震えてくる。
「俺は……君を、大事にできていなかった?」
賢木は、苦しそうに顔を歪めている。紫穂は、大きく目を見開いて、震える口を何とか動かした。
「……そ、んなこと、ない、よ」
紫穂は賢木に縋ろうとのろのろと近付いた。だが、賢木はそれを悲しそうな笑顔で、やんわりと拒否した。
「ゴメン……ちょっと、距離、置こう。冷静になる、時間を、くれ」
淡々とした賢木の声に、紫穂の身体が硬直する。すっと背中を向けられて、賢木の明確な拒絶を感じ取った。
「ゴメン……出てって、くれないか」
賢木の平坦な声に、それ以上縋れず、紫穂は震えながらものろのろとドアを開けた。シュン、と扉が閉まる音がして、紫穂は自分が部屋の外へ出たことがわかった。ゆるゆると足を動かして待機室へと向かう。気がつけばもう、待機室の前に来ていた。紫穂は最小限の動作で扉を開けて、中に入った。
「おかえりー紫穂……って!顔真っ青だよ!大丈夫?!」
部屋に入るなり駆け寄ってきた薫に、紫穂はよろよろとすがった。
「……どうしよう」
「え?」
「……どうしよう、私……」
紫穂の目にぶわり、と涙が溢れてくる。
「取り返しのつかないこと、しちゃったんだわ」

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