失ってから大切だったことに気付くなんてバカのやることだと思ってたんだけどな。
まさか自分がそんな愚か者に名乗りをあげるなんて考えてもみなかった。
「おい賢木……もうその辺にしとけって」
「んぁー、うん……もう一杯だけ……」
「やめとけよ、今日は帰った方がいい。迎え呼んできてやるから待ってろ」
「うぅー……」
スマホ片手に店の外へ向かった皆本の背中を呻き声と共に見送りつつ、グラスを磨いていたマスターを捕まえて酒の追加を頼んだ。苦笑いしつつ呑んでいたものより度数の低い酒に変えてくれた気遣いに、水も貰うよと泣き笑いを浮かべれば、きっとすぐに良いことがありますよ、と目尻に寄った皺を更に増やしてマスターが水のグラスも用意してくれる。それを受け取ってひと口含めば水の冷たさにくらりと眩暈がして熱くなった目頭を手で覆った。
呆気なかった。本当に呆気なかった。情けないことに自覚することなくスクスクと俺のなかで育っていた恋心は、自覚した途端終わりを宣告されていた。
紫穂ちゃんには好きな男がいて、今度告白するつもりらしい。
先刻、同僚たちが溢す色めいた噂をたまたま拾った耳のおかげで、何とか終業まではマトモに働けていたものの、終業と共に皆本のもとへ向かい、そのまま皆本を攫っていつものバーへと駆け込むしかなかった。
本当に呆気ない。
だってそうだろ?
紫穂ちゃんが告白して頷かない男なんていない。オマケに紫穂ちゃんを手放す男だっていないだろう。そもそもあの子が好きになる男だ、付き合ってみたら幻滅、なんてことも絶対ない。相手はめちゃくちゃイイオトコに決まっている。
カララン、とドアベルの音がしてこちらへ向かう足音が聞こえてくる。ほんの少し騒つく店内に明確な意思を持って向かってくるその足音に、はぁ、と溜め息を吐いた。
「なぁ皆本……俺、明日から割り切れる自信ねぇよ」
ぼそり、と呟いた声はもうほとんど泣き声に近い。浮かんだ涙を指先で拭ってカウンターに俯いた。
「今日紫穂ちゃんのコトが好きだって自覚して、もうその気持ちを忘れなきゃなんねぇなんてさ……ちょっと過酷すぎだと思わねぇ?」
俺バカみたいじゃん、と今日何度も繰り返したセリフを吐き出して胸を押さえる。
ずっと付かず離れずの存在だった紫穂ちゃんがちゃんとした自分の後輩になって、面倒見ているウチにいつの間にかそばにいるのが当たり前になって。そこで気付きゃあいいのに、ずっと、ずっと小さい頃から気にかけていたのと変わらないと思っていた俺は本当に馬鹿だ。
天敵だったあの子は成長して、立派な女性になっていた。
それに気付くのが遅れた俺は、取り残されていくしかない。
「馬鹿だよなぁ……何で自覚できなかったんだろう? なかったことにしなきゃ、忘れなきゃなんないなら、自覚なんてしなくてよかったのにさ」
「忘れる必要なんてないんじゃない?」
「ッ?!」
「だって私も先生のことが好きだもの」
ふわりと微笑んで皆本が座っていたスツールに腰掛けた紫穂ちゃんは、俺の目の前に置かれた酒のグラスを取り上げてマスターに返してしまう。その様子をポカンと見つめていた俺は、今まで皆本相手に呟いていたはずが、実は紫穂ちゃんに向かって聞かせていたのだとようやく理解して、混乱する頭を何とか落ち着かせながら隣に座る紫穂ちゃんと店のドアを見比べた。
「え、なんで……み、皆本は? なんで君が居るんだ?」
「皆本さんからのお願いで先生のコトお迎えに来たの。もう僕じゃ手に負えないから宜しく頼むって」
先生の大好きな皆本さんならもう帰っちゃったわよ、と紫穂ちゃんは拗ねたように唇を尖らせている。
「先生は皆本さんのことが大好きで、皆本さんが居ればそれでよくて、私が入る隙なんてないと思ってたから。ちゃんと告白して、せめて女として見てもらってから自分の気持ちに整理をつけようって思ってたのに。こんなことになるなんて」
ここ最近、すっごく悩んで苦しんだ時間を返してほしいわ、と笑う紫穂ちゃんは大人の女の顔をしてカウンターに肘を突いた。
「そんな……皆本とはそんなんじゃねぇよ」
「どうだか? 先生と皆本さんじゃなきゃ、今の私たちはいないわよ?」
わかってるクセに、と紫穂ちゃんはちょっとだけ悔しそうに眉を寄せて口許を緩めた。ホラお水飲んで、と俺にグラスを持たせる紫穂ちゃんはもういつもと変わらない。それが嬉しいようで悲しいようで、よくわからない気持ちを誤魔化すように水を飲み下した。
好きな男がいるんじゃなかったのか?
ソイツを放ってこんなとこ居ていいのか?
なんで皆本のお願いを聞いてくれたんだ?
それよりさっきの話は本当?
聞きたいことはどんどん出てくるのに、何一つ口にすることができない。ただじっと紫穂ちゃんのことを見つめていると、紫穂ちゃんは呆れたようにため息を吐いて俺をジト目で睨んだ。
「……それにしても……本当に先生って私の気持ちに気付いてなかったのね。そんなに私って女性らしくなかったかしら?」
これでも結構意識して身だしなみには気を遣ってたのよ、と不満そうに漏らす紫穂ちゃんの唇はこんな夜だというのに綺麗に色付いて艶っぽい。
どうしてこんなに魅力的だというのに、それに惑わされなかったんだろう。
簡単なことだ。
自分にとって紫穂ちゃんは、女だとか男だとか関係なく、一番近くて憎い、手の焼ける愛おしい存在だった。
「私……もうずっと先生に夢中だったのよ。それなのにこんな仕打ち……責任取ってくれなきゃ許さない」
気の強い口調とは裏腹に今にも泣きそうな声でそう告げた紫穂ちゃんは、俺がよく知っている気が強くて偉そうな後輩じゃなかった。
俺への気持ちを抱えて不安げに瞳を揺らす、ただの女の子にしか見えなくて、俺は思わず紫穂ちゃんの手を掴んだ。
「責任取る! 俺じゃ頼りないかもしれないけど、紫穂ちゃんの人生、俺に責任持たせて!」
手を掴むだけじゃ飽き足らず、もう片方の手で紫穂ちゃんの肩を掴んでしっかりと向き合う。ここが店の中だということも忘れて声を張ってしまったのは酒のせいとしてどうか許してほしい。でも今を逃したらもう絶対ダメな気がして、とにかく紫穂ちゃんを繋ぎ止めるのに必死だった。
紫穂ちゃんは一瞬だけポカンとした表情を浮かべたものの、みるみる顔を真っ赤にして唇をわなわなと震わせている。それから、いつも通りの女帝らしい目で思い切り俺を睨んだ。
「い、いきなりプロポーズみたいなこと言わないで! 私たちまだお付き合いだってしてないのよ!」
ふざけるのも大概にして、と付け加えられた台詞とともに震える眉尻が、紫穂ちゃんも不安に感じているんだということを俺に教えてくれる。はっきりと自覚した恋心を手のひらに乗せて伝えるように、紫穂ちゃんの両手をそっと掴み直した。
「君が好きだ。今日自覚したばっかりだけど、これまで以上に君のコト大事にする。だから俺の彼女になって」
かつてこんな大真面目に告白したことなんてあっただろうか。
もっとカッコいい告白だってあったと思う。
でも、着飾らない素のままの言葉が、今の俺たちにはお似合いかもしれなかった。
「……よろこんで」
嬉しそうにはにかむ紫穂ちゃんの目尻には涙が浮かんでいて、今まで見たことがないくらい可愛い女の子の顔をしていた。本当に、これまで無自覚だった自分はこの世の誰よりも愚か者だと罵りたい。紫穂ちゃんが俺を諦めて他へ目を向けてしまう前に自覚できて、本当によかった。
「嬉しい。紫穂ちゃん、俺、本当に嬉しい」
もう誰にも渡さない、とそのまま口付けようとすると、急に眉を顰めた紫穂ちゃんが俺の肩を押し返した。
「初めてのキスがお酒の味だなんて私は嫌よ」
「え」
「急ぐことないじゃない。だって私たち、まだまだこれからなんだから!」
キスの代わりに俺の首に抱き着いた紫穂ちゃんはよく知っている生意気な顔をしているのに、この世の愛くるしいもの全てを詰め込んだ無邪気な顔を俺に向けた。
コメントを残す