受験勉強で疲れが溜まってきているのは知っていた。でもだからって独身の男が一人暮らししてる部屋でうっかりうたた寝はさすがにマズいんじゃないか。
「おい、紫穂……」
軽く肩を揺すってみても起きそうにない。ついさっきまで勉強を見てやっていて、ちょっとリフレッシュが必要だなと判断してキッチンにお茶の準備をしに行った一瞬の間に寝てしまったようだ。
「おーい、紫穂ちゃーん」
いつものミルクティにするかコーヒーにするか聞くために戻ってきたのに、お姫様はそれどころではないようで、疲労の色を色濃く滲ませながらスヤスヤと眠りに就いている。寝る間も惜しんで勉強しているからだろう。そんなに無我夢中になって勉強しなくても、彼女の成績であれば楽勝とはいかなくても問題無く受験には合格するだろう。でも、問題無く、程度では気が済まない。自分だって楽勝で突破したい、と一生懸命になって勉強しているのも知っている。半分紫穂ちゃんの私物状態になっている俺のニットカーディガンを持ってきて肩に掛けてやった。紫穂ちゃんの隣の椅子を引いて音を立てない様に腰掛けながらテーブルに肘を突く。それからそっと紫穂ちゃんの寝顔を覗き込んだ。
柔らかそうな丸い頬。触らなくてもわかるつやつやの肌。高校生になってから顔を覗かせているつるつるの額。スッと通った鼻筋に小さな鼻。触れればきっと夢中になる果実のような唇。寝息に合わせて揺れる長い睫毛。まだ触れてはいけないそれらをここぞとばかりに目に焼き付ける。
自分の後を追いかけて、なんて口が裂けても言ってはくれないけれど、医学の道、そして俺が途中で逃げ出した東都大を受験すると聞いたときはめちゃくちゃ驚いたし、オマケに何だか嬉しかった。俺も少しは彼女の人生に影響を与えられているのかな、なんて、俺も直接言うことはないけれど、心の中があたたかくなったのは事実。
皆本にも勉強は見てもらっているみたいだけど、どうしても薫ちゃんに付きっきりになりがちだから勉強が進まないと葵ちゃんから聞かされたときに、じゃあ俺が見てやろうか、と声を掛けた。
俺たちは多分、お互い惹かれ合っている。どこか本能的にそれを予感してはいるけれど、それをきちんと言葉にしたことはない。おそらく彼女から言ってくることもないと思う。時が来れば、俺から、とは思ってはいるけれど、その時を彼女は俺に与えてくれるだろうか。それだけが気掛かりだ。
葵ちゃんはきっとそのことに気付いていて、こうして紫穂を俺の元に送り出しては二人きりになる機会を作ってくれている。俺からは何もできない現状、有難いなと思いつつ、反発せずに彼女がここに来てくれる本意が読めない以上、気安く喜ぶこともできない。学生の本分である勉強の為だと言われても、俺を頼ってくれるのであれば嬉しいのは間違いないけれど。
そうして二人で過ごしてはいるが、俺は意図的に彼女に触れないようにしている。セクハラとかロリコンとか言われたら勝てないというのもあるけれど、触れてしまえば透視たくなるのがサイコメトラーの悲しい性、というか。僅かに触れた指先からでも本気を出せば俺たちは相手の考えていることがわかってしまうから、まだ時じゃないと思っている今は彼女に触れることはできない。知りたくなってしまうから。
彼女に触れたら世界が変わってしまう、なんて。どこか神秘的なモノを感じてしまう。
「……まるで天使だな」
ぽつり、と呟いた独り言は部屋の中に吸い込まれていった。フ、と口元だけで笑って席を立つ。今日はミルクティでもコーヒーでもない、甘いココアを丁寧に入れてあげよう。頑張っているんだから今日くらい甘やかしてあげてもいいだろう。キッチンに向かうその後ろで、彼女が頬を染め上げてこちらを見ていることに気付かないまま、俺はコメリカで覚えた賛美歌を口ずさんだ。
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